そのアパートは「桜荘」といった。
齢数百年を数える桜の大木を、見上げるように建てられている二階建てのアパート。
その地域一帯を檀家として抱える道恵寺の敷地内にあり、年季の入った外見から、近所の子供達からは「お化け荘」と呼ばれていた。
小さくて黒い物体が、ほのかな月明かりを浴びて低空飛行している。
まるで何かを探しているかのように、あっちフラフラ。こっちヨロヨロ。
どうにか「お目当てのもの」を探し当てたのか、それは一目散に桜荘の一階管理人室を目指した。
桜荘のオーナー兼管理人の比之坂明は「ごちそうさま」と呟いて、ちゃぶ台に箸を置いて、質素な夕食を終えた。
その時。
何かがいきなり窓ガラスにぶち当たった。
今夜は涼しいからと、エアコンをつけずに窓を開けていたから、光に誘われて虫でもぶつかったのだろうと、明は立ち上がって窓の外を確認する。
窓の外には桜の大木があり、そこをねぐらにしている小鳥達もいるはずだ。
もし怪我をしていたら保護してやりたい。そう思って、明は窓の下を懐中電灯で照らした。
「何か……動いてるな」
そう。黒い何かは、モゾモゾと哀れっぽく動いていた。
「鳥か? いや、鳥にしては形が変だ……」
彼は黒い何かをじっくりと観察した。
ピンと立った小さな耳に、短い毛の生えた胴体。大きさはハムスターぐらいだろうか。
だが、背中にはビラビラとした羽が生えている。
明は右手を伸ばして羽を摘んで持ち上げると、左右に広げた。
「コウモリじゃないか。うわぁ、こんな近くで見るのは初めてだな」
明は感激の声を上げるが、コウモリは嫌そうに僅かな足をワキワキと動かす。
「なんか、可愛い」
コウモリが必死に足を動かせば動かすほど踊っているように見え、明は「ぷっ」と噴き出した。
「コウモリは洞窟の中で群れになってるもんじゃないのか? どうした? 迷子にでもなったのか?」
返事がないのを分かっていても、あまりに可愛らしい仕草を見せられてはつい問いかけてしまう。
「待ってろ。今、猫に食われないように隠してやるからな」
明は一旦コウモリを地面に下ろし、玄関へ回って外に出た。
桜の木に猫達は登らない。ここならば安全だろうと、明は、葉が茂っている枝にそっと乗せてやる。
「もう間違えて突っ込んでくるなよ?」
そう言ったのに。
なのにコウモリは再び飛び立ち、明の部屋の窓に激突する。せめて部屋の中に転がり込んでくれれば、窓が割れる心配もいらないのに。
「なんだってんだ? お前はー」
明は苦笑しながら、落ちたコウモリをそっと拾い上げた。そして桜の枝に置いてやる。
なのにコウモリは三度、明の部屋の窓に激突した。
それを一体何度繰り返しただろう。
「コウモリってのは、こんなにバカな生き物なのか?」
明はコウモリを手のひらに載せて呆れた声を出した。
「…それとも、どこか怪我をしてるのか? 腹が減って巣に帰る力がないのか?」
そう言って、明は人差し指でコウモリの頭をそっと撫でてやる。
コウモリはそれが気持ちいいのか、目を瞑って大人しくなった。
「仕方ない。俺の部屋に入れてやる。一晩だけだからな? ちゃんと回復させて自分の巣に戻れよ?」
明がそう言った途端、コウモリは目を開いて何度も頷いた。いや、動物に人間の言葉が分かるはずないから、多分、目の錯覚だ。
コウモリを持って部屋に戻り、慎重にちゃぶ台の上に載せる。
「ところで………何を食うんだろう」
キャベツか? レタスか? …いや、こいつは鳥じゃないからなぁ…。
明は首を捻る。が、何かを思い出したのか、ポンと手を打った。
「そういえばテレビの旅行番組で、果物しか食べないっていうコウモリのスープを飲んでたレポーターがいたな…」
それはそれで特殊なコウモリなのだが、何を食べるのか今ひとつ思い浮かばない明は、冷蔵庫からスイカを一切れ持ってくると、コウモリの前に置く。
だがコウモリは、食べようとしない。こころなしか、そっぽを向いたように見える。
人が見ていたり、明るい場所では食べないのかもしれない。
そう思った明は、部屋の隅に転がっていたティッシュケースを掴み、中身を半分ほど抜いて、その中にコウモリとスイカを入れた。
その上から、ハンカチを被せてやる。
「これでよし、と」
明は、コウモリ入りのティッシュケースをちゃぶ台の下に置き、満足げに微笑んだ。
翌朝。
目覚ましと共に起きた明は、布団を畳んで押し入れにしまった後、ちゃぶ台の下のティッシュケースを引っ張り出した。
「生きてるか? おい、コウモリ」
話しかけながら、そっとハンカチを取る。
コウモリはティッシュの布団の上で、スイカまみれになっていた。
「お前、凄い姿になってるぞ?」
笑いながら人差し指で触ってやると、コウモリはモゾモゾと動き出す。
「このままだと臭くなるから、拭いてやる」
明はそう言って、コウモリをティッシュケースから引っ張り出した。
濡れタオルで体を拭いてもらったコウモリは、大人しくちゃぶ台の上に乗っている。
「はー、さっぱりした」
朝風呂と身支度を済ませた明は、コウモリの顔を覗き込んで呟いた。
「お前、今夜こそ自分の巣に帰れよ? ここは人間の住む場所なんだからな」
コウモリは、「ここにいたいんだけど」と言うようにモゾモゾと動き、彼に尻を見せる。
可愛い。凄く可愛い。
図体が大きなわりに小さなものが好きな明は、手のひらサイズのコウモリを見つめ、楽しそうにニコニコと微笑んだ。
真夏の太陽は、ここが稼ぎ時と言わんばかりに燦々と大地を照りつける。
桜の巨木が作る日陰の下、明はタンクトップにジーンズという恰好で、庭いじりに精を出していた。
スコップを使った豪快な作業は、ガーデニングというより造園だ。
祖父が生前遺した花壇に水をやり、雑草や小石を取り除く。
地味な作業だが、土に触れることが好きな彼にとって、「庭いじり」は既に趣味となっている。
花壇の横には、ヘチマと朝顔が同じ棚に蔓を絡ませ、仲良く同居していた。
南国ではヘチマを食べる習慣があるそうだが、どう料理していいか分からない明はヘチマ水を取ろうと思っていた。食べる代わりに肌に塗るのだが、肌がスベスベになるより腹一杯になる方が、男として嬉しい。
だから、「来年はナスとトマトとキュウリを植えよう」と心に決めた。
幸い土は、祖父の手入れのお陰で肥えている。
さぞかし立派な野菜ができるだろう。
明はゆっくり立ち上がると、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
桜に止まった蝉が、境内から聞こえてくる蝉時雨に応えるように、盛大に鳴き始める。
「新盆、なんだよな…」
寂しそうに呟いた彼の足元に、何か肌色の生き物が動いていた。
「土が肥えていると、ミミズも肥えてるなぁ」
彼は自分で言った台詞に、「あ!」と閃き、土で汚れた手をポンと叩く。
一人暮らしの部屋に迷い込んできた、小さな同居人。
明は、彼のためにミミズを何匹も掴まえた。