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くちびるに蝶の骨~バタフライ・ルージュ~著:崎谷はるひ

「い、いやじゃ……」
「ないのか? じゃあ、好きなんだな、これが」
「んん!」
 ゆるゆると浅い部分を穿っていたそれを、一際強く打ちつけられる。強烈な刺激に眩暈がして、ひと突きごとに理性が打ち砕かれていく。
 いたぶるような抱きかたに、苦しさと哀しみがこみあげる。機嫌が悪くないと感じたのだが、違っていたのか――いや、それとも。
(もうお互い、相手の気持ちなんかわからないのかもな)
 自嘲混じりの笑いが、突きあげられ力なく揺れる顔に浮かぶ。
 それ以前に、将嗣の気持ちがわかったことなど、千晶にあっただろうか?
「千晶、ぼうっとすんなっつってんだろ」
「うぐっ……お、王将、もっとゆっくり」
 きつく責められ、哀願まじりに名前を呼ぶ。だが彼はますます機嫌を降下させ、呻いた。
「そっちで呼ぶな」
 彼は、千晶が源氏名で呼ぶとひどく不愉快そうに顔を歪める。人生のうち、もう半分近くをその名ですごし、いまでは本名のほうを知る人間のほうがすくないのに、そして彼自身、『柴主将嗣』であることに、なんのこだわりも持っていないはずであるのに、だ。
「……将嗣?」
 呼びかけると、ほんのすこしだけ彼は唇をゆるませた。広い肩を覆っていた威圧感がやわらぐのを知り、千晶は不思議になったが、その感情をまともに分析するより早く、きつい突きあげをくらい、悲鳴をあげる羽目になった。
「もう逃げようなんて思うな、千晶」
「んっ、ん……っ」
「別れるだのばか言ったら、またこの間みたいに犯すからな」
 言われて、びくっと身体が引きつった。無言で震わせた唇を、将嗣の指がたわめるように撫でていく。千晶は胸をあえがせ、必死に声を絞り出した。
「あ、あのとき、誰がいたんだ」
「いねえよ? 誰も見てねえし」
 嘘だ、という言葉は声にならなかった。追及したところではぐらかされるのがオチだし、そもそも彼が認めようと認めまいと、あのときの自分はたしかに誰かの気配と視線を感じた。
 いまさら取り返しのつかないことでなじっても、さらなる反撃が待っているだけだ。
「だいたい、見られたからなんだ? おまえだって、よがってただろうが」
「それはっ……」
 セックスに弱いのは、それがどんなにいたぶるような抱きかたであったとしても、そのときだけは求められていると実感できるせいでもあった。けれど、それを目のまえの男に言ったところで通じないし、千晶自身、そんな情けないみじめなことを口にしたくもない。
 複雑な内心を知ってか知らずか、将嗣は低く嗤う。
「どっちでもいいさ。同じことだ」
 誰かに見られても、見られていなくても。千晶が別れると言っても、言わなくても。
「――おまえは、俺のだ」
 薄暗い嗤い混じりのつぶやきのあと、唇が重なった。さきほどまでの快楽を煽り奪いとるためだけのそれではなく、なにか感情を含んだような口づけに、千晶は目を閉じた。
 以前の将嗣はもうすこし――ふたりきりのときやセックスの際に限って、だが――やさしいと感じられる態度もとった。けれど千晶が別れを口にするようになってからは、サディスティックな気配は回を追ってひどくなっている。
 どっちでもいい。つまりそれを執着ととるか、意に逆らう相手への不快感ととるかは千晶次第、ということだ。そして千晶は考えることに疲れていた。
(考えても、しょうがない)
 思考を放棄して、揺れる腰の奥に伝わる振動だけに神経を集中させる。こっけいに揺れる細い脚の内側、逞しい身体を挟んだ腿がこすれ、摩擦に熱くなった。
「いくか? ん?」
 低い声にそそのかされ、こくこくとうなずいて背中にしがみついた。たぶん、あと三度ほど突きいれられたら、射精するだろう。タイミングすら計れるほどなじんだセックス、けれど倦怠の近づく余地はない強烈な悦楽に、喉が震えた。
「あ……」
 肌を重ねるのも、習慣と淫楽のための行為でしかない。あるいははけ口、その程度の扱いを十二年も続けてきて、感情はすでにすり切れた。
 抱きしめられるだけで血がたぎるような興奮も、肌が切れるようなせつない痛さも寂しさも、すっかり薄らいで久しい。
 それでも、長いこと一緒にいた。そばにいすぎた。抱きあうたびにまじりあう身体はきっと、どこか一部が癒着してしまっていて、引き剥がせば血を流すに違いない。
 疲れた心と、同じように。

   * * *

 窓の外には、道行くひとびとが蠢いていた。
 この日、千晶が大学時代の先輩に呼び出されたのは、新宿ではなく渋谷のセンター街に近い店だった。地上からずいぶんな高さにあるビルの喫茶店は、そこそこにぎわっている。
 ガラス窓の向こう、眼下にあるのは都会の街。日曜だからか、とくに混み具合の激しいスクランブル交差点。せわしなく行き交う人間たちはアリの群れにも似て、不規則なようでいて、どこか法則的にも感じられる。
 それらを見おろす千晶の横顔には、表情がない。
 無心というよりうつろな目で、ぼんやりと外を眺めていた千晶に、ほがらかな声がかかった。
「柳島、ごめん、ごめん。待った?」
「いえ、大丈夫です」
 からりと笑って、長身の男が近づいてくる。ひさびさに顔をあわせた先輩、桧山春重は、相変わらずの飄々とした雰囲気を身に纏っていた。
「ごめんね、新店の打ち合わせのついでだったんだけど、長引いた。休みの日なのに、呼び出して悪いね」
「クライアントのご要望なら、文句は言いませんよ」
 スーツ姿にブリーフケースを手にした彼は、かなり急いでやってきたらしく、軽く息を弾ませながら向かいの席に座った。こちらは私服姿の千晶がやんわり微笑んで返すと、目のまえの男は聞いているのかいないのか。「その水ちょうだい」と言うなり、千晶のまえにあったコップを勝手に奪い、ぬるくなった中身を一気に飲み干した。
「……っぷあ、生き返った」
「お水、待てなかったんですか?」
 千晶がくすりと笑うと、春重は「うん」と子どものように笑った。
「朝からろくに水分補給してなくてね……あ、コーヒーひとつね……打ち合わせ、雰囲気悪くてさあ。お茶は出てるんだけど、茶ぁすする空気じゃなかった」
 通りかかった店員に手をあげて注文した春重は、長い脚を軽く組み、ネクタイをゆるめた。その姿にうっかり見惚れた店員が、あわててオーダー票を書く姿に千晶は苦笑する。
(どこまで計算なんだか)
 学生時代、雑誌モデルだった春重は、端整な顔に長身、やわらかくきれいな笑顔と、ルックスだけなら非の打ち所のない美形だが、発言や態度がコミカルで、それがひとをなごませる。
 笑顔は、彼の歳の離れた弟によく似ている。邪気がなく、人好きがするあまい顔だ。もっとも弟と違って、春重の表情はあくまで無邪気に『見える』だけのことだが。
「新店、大変なんですか」
「んー。コンセプトはプチホストクラブ、って感じのイケメン飲み屋なんだけどね。仕入れの業者さんとの価格設定が難航して。ま、最終的にはお互い条件飲んだけど」
 ごそごそと春重が取りだした企画書に、千晶はざっと目を通した。
 時間単位制でテーブルにキャストがつくことはできるが、指名はできない。そのためサービス料はなし。チャージ料はドリンクやフードに含まれるため、多少は一般の飲み屋より高くつくが、それでもかなりリーズナブルなボーイズバーのようだ。
「ずいぶん、ふつうの店ですね」
 新しい店はてっきりメンキャバ――要するに男のキャバクラだ――かと思っていたが、予想より健全な、あくまで『イケメン揃いのレストランバー』らしい。意外だと声に出すと、春重が補足だけど、と語り出した。
「いまの『バタフライ・キス』は完璧に定番のホストクラブだろ。それはそれで、うちのグループの中核になるものだし、優良店として売り上げも上々だし。けどね、風営法きっつくなったからさ、しょせん夜の店は夜の世界でしかまわらなくなってるわけ」
「夜の世界で、というと?」
「最近ますます法律厳しくなったの。一部営業だけでもすんげえ規定細かくなってるし。老舗のクラブにも、最近ガサいれ入ったらしい。つっても優良店だから問題なかったけど」
 テレビのコメンテーターにもなるようなホストクラブオーナーが、見せしめに引っぱられた件は千晶も知っていた。
 風営法と略される『風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律』により、キャッチ禁止、営業時間の限定など、法規制は年々きつくなっている。
「……そんなこんな、お達しが厳しいから、けっきょくお客さんは一般人の女性つうより、キャバ嬢とかのほうがメインなんだよ」
 深夜一時から夜明けまでの営業を禁止されているため、ホストクラブやキャバレー等では夕方から深夜までを一部、早朝五時ごろからの通称『日の出営業』を二部として営業する。必然的に、二部には仕事あがりのホステスらしか来店しないということになる。
「まあ、遊びかた間違えたお嬢ちゃんがヘタに借金作ったりするより、プロ同士じょうずに遊ぶほうが、それはそれでいいのかもしれないって俺は思うけどね」
 ひところのホストブームもおさまってきて、カネの流れがもとに戻っただけのことだ。
 語る春重は、どこかのんびりした語り口ながら、目は厳しいものをたたえていた。
「で、近年はメイド喫茶の男版みたいなコンセプトカフェも増えてるだろ。なら俺らのノウハウと人脈でシロウトさん向けの店作ろうとね」
「ははあ。そりゃガチですね」
 春重は役職の名称こそ『バタフライ・キス』のフロアマネージャーだが、実質は将嗣と共同で経営に携わっている。経営しているのは、ホストクラブ一店舗だけではない。グループ店となる居酒屋などの飲食店に、『王将』の名をうまく活かし、関連業種のプロデューサーとしても名を馳せ、たとえばラブホテルのプロデュースなどというものも手がけているそうだ。
 異色なところでは、自分でスカウトしたホストやモデルらを起用したファッション誌『メンズ・ショット』ほかも立ちあげた。メイン専属モデルは彼の弟でもある桧山一路だ。
 数年まえから、一部の若人のファッションリーダーとしてキャバ嬢やホストが注目されるようになり、ファッション誌もそれ専門のものがいくつかある。将嗣と春重が企画した『メンズ・ショット』はそのなかでもかなり人気があるものだ。
 まだ二十二歳の一路は二十歳になるなり『バタフライ・キス』のイメージモデル兼ホスト、『イチロ』として働いてきた。だが、もともと『メンズ・ショット』での彼の人気を利用した看板キャラクターでしかなく、ホストらしい接客はほとんどしていない。
「一路も、モデルのほうでけっこう人気出てきたからさ。あんま、裏のにおいがする仕事はさせたくないのね。だから、グループ全体の看板息子ってことにして、イメージキャラクター的に使ってくほうがいいかなと」
「ああ、でも一路なら、そっちのほうが向いてるかも」
 一路は兄の春重よりさらに背が高く、抜きんでてきらびやかなルックスながら、性格は穏やかで気のやさしい青年だ。春重は相当な兄ばかだと思うが、どことなく雰囲気がかわいらしいので、猫かわいがりしてしまう気持ちは千晶にもわかる。
「日の当たる仕事のほうが、たぶんあの子には向いてるでしょう」
 穏やかに千晶が告げると「そうだね」と兄の表情で春重は微笑んだ。
「ま、そんなわけでですね。またホームページ作成の依頼を、と思ってるんだけど」
 さらにごそごそと資料を取り出そうとする春重に、千晶は眉をひそめた。
「系列会社にデザイン事務所もあるんでしょう? そっちに頼めばいいんじゃないですか」
「あれは雑誌とフライヤー専門なの。……でも、いやなら無理しなくてもいいよ。どうしてもだめっていうなら、しかたない」
「いやならいいんだけどって、だったら言わなきゃいいじゃないですか」
 あざとい物言いだ、その言いかたはずるくないか。苦笑した千晶が指摘すると、春重は微笑んだ。
「日本人的な押しつけ方法だろ。下手に出つつ相手の良心につけこんで、やんわり通しちゃう」
「ネタばらししてどうすんですか」
 失笑すると「まあまあ、とりあえず聞くだけ聞いて」と春重は書類を取り出す。やわらかい押しの強さは学生時代からなにも変わらず、呆れながらもつい笑ってしまった。

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