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engage1 君だけを愛す著:ふゆの仁子

 艶やかなまでの笑みを浮かべたまま、己の内に生まれる快感を貪る。
「拓朗……また、忙しくなるぞ」
 腰を大きく揺らし、絶え絶えの息の中で永見は呟く。
「あんたさえいてくれるなら、俺はなんだってやる」
 腰を激しく動かしながら頷く。
 自分が今あるのは、永見潔という男がいたから。見い出してくれたから。その存在に感謝するとともに、絶対的な運命を感じている。
 何もかもが空虚で生きる気力もなかった伊関に、永見は生きる術と目的、さらに意味を与えてくれた。その永見が望むなら、自分にできないことはない。
 世の中に人間は星の数ほど存在する。生まれて死ぬまでに、会うことのない人が多い中でも巡り合いというものは、当たり前のことではあるが、宝くじに当たるよりも数段確率が低いといえる。
 伊関拓朗と永見潔の出会いは、ある種、神の作為、もしくは運命的なものがあったのかもしれない。
 二人はまるで異なる環境に育ちながら、『何か』の物足りなさを感じ、心が渇いていた。
 それぞれ、本当の両親との間になんらかのズレが生じ、ともに自分の居場所を求め続けていたのである。
 そんな二人の千載一遇の一瞬は、目前に迫っていた。
 永見潔、三二歳、伊関拓朗、二二歳の四月。
 伊関は永見の身体の中に思いを吐き出し、一向におさまろうとしない熱をじっと感じながら、目を閉じた。


 ◇engageⅠ 邂逅


「このCMの制作に関するすべての権限は、情報宣伝営業部企画課課長である永見氏に一任したいと思います。万が一の賠償責任については五分五分ということで、いかがでしょうか?」
 家電メーカーの最大手である杉山電機の広報部部長である館野雄一は、株式会社電報堂のエリート集団と呼ばれる『情報宣伝営業部』の中の企画課の課長職に就いている、机を挟んでちょうど自分の真向かいに座る、フレームレスの眼鏡をかけた三〇代前半の男に目を向ける。
 細面の端整な、どこか人形めいた冷ややかな面差しながら、眼鏡の奥の瞳だけはギラギラさせている。彼は真剣なまなざしで自分を見つめている。
 四〇代になり部長に就任するまでの間に、様々な駆け引きや取り引きを行い、それらにすべて勝ち続けてきた。穏やかで優しげな雰囲気とは裏腹に、強気な戦略と状況判断の良さ、押すべきところと引くべきところを熟知したやり方に関しては、これまでの業績からかなりの自信を持っていた。最近ではどんな賭けに出ても、まるで負ける気がしなかった。
 だが、今回の件に関してはかなり勝手が違っている。
 技術の進歩はまさに日進月歩である。
 杉山電機が新製品を開発し販売することは、当然他の同業社も知っている。一年もしないうちに同じような商品が他のメーカーから販売されることは必至で、一気に熾烈な競争が始まるだろう。だからこそ他社の競争がないこの時期に、存分に広告を打ち、杉山電機の名を消費者に印象づけたかった。
 そこで名前が挙がったのが、今目の前に座る男、永見潔であった。
 永見が広告業界にセンセーショナルにデビューしたのは、すでに八年前のことになる。
 入社一年目に制作した自動車のCMは、その年の『視聴者の選ぶCM大賞』でダントツの一位に選ばれた。特に突飛なものではない。一台の車を一人の人間が壊すフィルムを逆再生して、造り上げる映像にした。
 音楽にジャズを選び、全体のトーンを青に統一したことが、視聴者の心に残ったのである。そして『貴方のために、心をこめて』というコピーとCMの内容があいまって、本来大量生産されている自動車が、まるで手作りの車であるような印象を与えた。
 このCMのヒットにより、その自動車の販売台数は前年に比べて大幅にアップし、同時にCM制作者の名が一躍有名になった。
 永見は自分が表に出るのを嫌い、一度しかインタビューに応じていないのだが、その稀少性とルックスの良さから、永見潔というCMディレクターの名前が有名になった。
 その後も永見は数々のヒットCMを作り出した。そして、永見が手がければその商品のヒットは間違いなしと言われるようになるまでには、たいした時間はかからなかった。
 社内における永見の立場は、初めのうち、かなり微妙だった。
 先輩を敬うという概念が、頭になかったのだ。
 広告業界は実力がものを言う世界ではあるが、まだその実力を発揮することができない段階では、傲岸不遜と取られる言動から上司・同僚を問わずかなり煙たがられていた。
 というのも、永見潔という男の家庭環境に由来する。
 永見の父親は財閥系都市銀行の頭取で母親は旧家の出身、かつ皇太子妃候補にも挙がったことのある美人だった。さらに父方の祖父は既に隠居生活に入っているものの、政財界に強い影響を及ぼす力を持つ。
 彼は三人兄弟の末っ子で、一〇歳と七歳違いの兄がいる。
 兄たちと年が離れていたことと母親譲りの端整な顔、さらには父親譲りの優秀さから、両親はもちろん両家の祖父母に溺愛された。おそらくこれが、永見という男の人格形成に大きく作用したのだろう。
 子どもの頃から周囲に大人が多かったせいか、冷めた物の見方をするようになっていた。
 幼稚舎から高校まで、お坊ちゃん学校で過ごし、在学中にはスポーツを始め様々なことに挑戦したが、どれもそれほどの努力をせずにそれなりの成果を得られてしまった。友人もいずれも劣らぬ家柄の坊ちゃんで、皆どこか浮世離れした性格をしていた。永見は誰とでもそつなくつき合ってはいたが、誰に対しても一歩引いて接するところがあった。
 親への些細な反抗心から、高校に入学してから喫茶店でアルバイトを始めた。正直、どこで働くのでもよかったのだが、家とも学校とも離れた住宅街にある昔ながらの面影を見せるそこは、不思議なほど落ち着ける雰囲気を醸し出していた。
 やがて学校だけでなく家の中でも同じようになっていく。家族に対しても距離を置きつつ、人の気持ちをまるで無視して話を進めようとする親の態度にはいささか腹を立てるようになった。
 帰りが遅くなることについては図書館に行っていると言うだけで済んだ。両親も兄もあまり家にいる方ではなく、過保護なわりには息子の実生活にまで干渉してこなかったのだ。それは永見にはありがたかった。
 このときに働いた喫茶店のマスターとは、珍しいことに気が合った。
 三〇代後半になるまでずっと独身でいる一風変わったこの男は、名前を伊藤秀明と言い、東京芸大で美術を学び、卒業後一〇年をフランスの片田舎で過ごしたという経歴の持ち主だった。
 初めのうちは「変な奴」という印象しかなかったが、次第に彼の人となりに興味を持つようになった。どこか人とは違うものの考え方、常に優しい物腰。どれを取っても今まで永見の周りにはいないタイプだった。いつしか永見は伊藤に心を許し、ストレートに上の大学へ行かず、国立の大学を受験するつもりだという話もした。
『自分の道は自分で選ぶのが一番だとは思うよ。ただ、ご両親の気持ちも考えてあげないとね』
 そう言う伊藤は、どこか寂しげだった。
 他校を受験するという話は、知ろうと思えば両親にはすぐにでもわかるはずだった。何しろ、担任が永見の成績を惜しんで、何度も家に確認のための電話を入れていたのだ。そのたびに不在で、連絡をくれという伝言を無視したのは彼らのほうだ。
 もし三年の春ぐらいの段階で両親からストップがかかっていたら、諦めていたかもしれない。
 というよりはむしろ、受験する機会を失っていただろう。彼らにかかれば、学校に手を回し必要書類を出せなくすることなどお手のものだからだ。学校にとって両親からの毎年の寄付金は欠かせないもので、下手をすれば理事長より力があった。だが、実際に話が漏れたのは、受験したあと、それも東京工業大学の合格発表当日だったのだ。
 当然、両親は激怒した。まったく父親の言葉を聞き入れない息子に切れ、勘当を言い渡した。母親は泣き、父に謝るように迫ってきた。
『一体、何が不満なの』
 母親に問われて初めて永見は考えた。
 だが考えてみても、なんの不満もなかった。強いて言えば、不満のないことが不満だった。永見はこれまでの人生において、何かひとつのことに夢中になった経験がなかったのだ。何もかもそつなくこなし、欲しいと思う物はすべて手に入った。周囲にいるのは全員イエスマンで、永見の強い興味を引く人間はそれこそ、伊藤ぐらいだったのである。
 その瞬間、永見は無性に伊藤に会いたくなった。受験前にバイトを辞めて以来、一度も会っていなかったその男に、どうして会いたくなったのか、そのときにはわかっていなかった。けれどバイト先で伊藤に会った瞬間、明確に心に芽生える感情があった。
 胸の奥に渦巻く不可思議な感覚を、このとき初めて永見は理解した。
 自分はこの男を好きなのだ、と。
 伊藤は唯一永見を、一人の人間として見ていた人物だった。次第にそんな伊藤に永見は心を許し、自然に振る舞えるようになった。
 だがその気持ちを自覚したと同時に、伊藤の結婚を知ったのである。

 伊藤とどうやって別れたか覚えていない。
 その後大学に入ったものの、物足りなさを感じてしまった。
 結果、学校にはほとんど通わず、バイトに精を出した。人の紹介から成り行きで始めたディスコの黒服は、無愛想で高飛車な態度が同僚には反感を買ったが、客には受けた。その結果留年が決まったことにより休学し、単身渡米した。
 ビザの必要がない期間をアメリカで過ごしたあと日本に帰国し、またあてもなく渡米する。言葉の苦労はまったくなかったものの、それまでにも家族で出かけたことはあったため、誰かと交友関係をもつこともなくたった一人で過ごした。アメリカでの足かけ一年の生活で、永見はこれまでの一八年より、たくさんのことを学んだ気がした。
 帰国後は大学院に進むことを教授に切望されながら四年のうちに就職が内定し卒業してしまった。おまけに入社したのが、強力な縁故を持っていても入ることが難しいと言われる、広告代理店で業績トップの『株式会社電報堂』であった。
 周りが遠巻きに眺めているのをよそに、永見は確実に自分の実力を発揮していった。『創造すること』の楽しみも理解した。
 どこか人形のような冷たさのある端整な顔に笑顔を浮かべながら、かなり痛烈な意見をずけずけ言う。実力ではあるが他人の仕事を横から奪うことに罪悪感はなく、社外だけでなく社内にも永見に仕事を取られた人間は何人もいた。
 面と向かって恨みを言う者も初めのうちはいた。だが、どんな罵詈雑言を浴びせようと顔色ひとつ変えない。相手が言いたいことを言ったあとで、帰ろうとする背中に、永見はもう二度と立ち上がれなくなるほど致命的な一言を返す。それゆえ、誰も何も言わなくなった。
「そんなに周りを排除していたら、いつか恨み殺されるぞ」
 同期のカメラマンである溝口義道はよく冗談交じりにそう言って笑った。
 アメリカで有名なカメラマンに弟子入りするため、単身で来ていた溝口が永見と出会ったのは、当時まだ最悪の治安だったハーレムだった。それは永見にとって、最悪極まりない思い出に他ならない。
 興味本位で訪れたハーレムで、永見は溝口の仲間であるアメリカ人に輪姦された。
 その現場に溝口はいなかったし、彼は仲間がレイプしようとする『ニホンジン』である永見という男のことも知らなかった。
 郷に入れば郷に従え、という言葉のとおり、ルール違反を犯したのは、その『ニホンジン』なのだ。
 それでも溝口は普段ならこんな気紛れは起こさないのだが、何気なく、仲間の餌食になって立つことすらできないほど男の精を受け入れさせられ、道端にボロ布のように捨てられていた永見を見に行った。
 血や精液で汚れながらも端整な造りとわかる顔が、ひどく艶っぽく思えた。唇の切れた口からは甘い匂いがした。レイプされる際、何かしらの薬を飲ませたのだろう。さらに袖を捲ってみれば、案の定、腕は無数の注射針の跡で青くなっていた。
 薬のせいで朦朧とした意識の中にありながら、永見は自分の身体を検分している溝口の顔に、そのきつい眼差しを向けてきた。この男は何も失っていない。それどころか見知らぬ溝口に対し、剥き出しの敵意を向けている。溝口はその目が妙に気に入った。
 だから行きつけのモグリの医者のもとに連れていき、薬物中毒が緩和するまで面倒をみた。最中にかがされた催淫剤の後遺症は、永見をしばらくの間悩ませ続けた。この症状がおさまるまでの面倒をみたのも、当然溝口であった。
 とりあえずの回復を見せた永見が最初にしたことは、自分を輪姦した人間の素性をすべて突き止め、余罪を告発したうえで警察に捕らえさせることだった。
 溝口の仲間であることは承知していたが、それとこれとは別だと言いきっての行動だ。これを機に溝口との縁が切れるかもしれないことを恐れながら、どうしても自分を汚した人間を許すことができなかった。
 ところが、溝口という男は永見の想像を遥かに超えた性格を持つ人物だった。絶縁を覚悟して永見がその事実を告げたとき、ただ一言「仕方ねえな」と笑っただけで、永見の行為を責めたりすることはしなかったのである。
 そんな態度を目にして、溝口にはかなわないと、永見は初めて思った。
 掴みどころのない、大陸気質の溝口は、どことなく伊藤と似ているような気がした。だが伊藤よりもずっと変人でずっと懐の大きな人間で、ずっと不可解な人間だった。
 復讐を終えたあとも、永見は溝口のアパートに居座り続けた。そのうちに、お互いがお互いのないところを吸収し刺激し合い、永見は同等の人間として溝口を受け入れることができた。
 溝口は溝口で、永見の永見たる部分を認識し、その尋常ならざる頭脳と考え方を愛した。
 上辺だけではない、かといってすべてを知っているわけでもない。けれど、これまで友人らしい友人のいなかった永見にとって溝口は初めての友人となり、溝口にとっても永見は、かけがえのない存在となった。
 だからといって決して慣れ合う関係にはならず、永見の帰国の際、溝口は引き止めず、永見もまた自分の所在を教えはしなかった。
 これで終わる関係だと思っていたわけではないが、もしそうなら致し方ないと永見は思っていた。しかし、数年後に帰国した溝口は、永見が電報堂に入社する事実を聞きつけると、直接電報堂に自らの腕を売り込んできた。当然、永見には内緒だ。
 入社式で知った顔を会場で見かけたときの永見の表情を、溝口は『今までに見た中で最高の顔だった』と言っている。それほどまでに、彼らしくなく戸惑った顔だったという。
 しかし、再会した永見は、アメリカで会ったとき以上に他人を寄せつけない性格になっていた。だから冗談まじりに永見に忠告したつもりでいた。いつか殺されるぞ、と。
 が、冗談では済まなかった。
 永見は、とある男に殺されかけたのである。
 たまたま溝口がその場にいたから良かったようなものの、下手をすれば永見はすでにこの世にいなかったのかもしれない。
 理由のひとつに、永見のその性格があった。
 永見の祖父の力で事件自体は永久に闇に葬られることになったが、この事件を通し、永見は完全な人間不信に陥った。
 これまで以上に仕事に手段を選ばなくなり、他人を拒絶するようになった。溝口はそんな永見をずっと危なっかしいと思っていた。ただ一人永見に認められ、彼の心の中にいることを許可された身の上ではあったが、だからこそどうにもならないこともあった。
 永見がどれだけ目に余ることをしでかしても、溝口には口を挟めない。

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