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engage1 君だけを愛す著:ふゆの仁子

 永見は冊子から目を離すと、突然思い立ったように、隣にいた業界関係らしい女性に声をかける。
 不意に見知らぬ男に声をかけられた四〇代後半ぐらいの女性は、訝しげな目つきを向けつつも、永見の顔を見た瞬間表情を変える。
「この劇団の公演を初めて観るのですが、主役の伊関拓朗という人はどういった役者ですか?」
「拓朗?」
 女性はその名前を聞いた瞬間、とても嬉しそうな顔をした。
「私はずっと前から彼がいいと思ってたの。だけどこれまではたいした役を貰えていなかったのよね。実は今回も役がなかったんだけど、数日前に主役が倒れて急遽代役に抜擢されたの」
「そうだったんですか」
「本当は一回きりだったらしいんだけど、その演技があまりに素晴らしかったんで、楽日までずっと拓朗が主役をつとめることになったわけ」
 女性は初対面である永見に対し、『拓朗』がどれだけ素晴らしいかを、まるで少女のような口調で延々と説明し始めた。
 ようやく口を閉ざしたのは、開幕のベルが鳴ってからだった。
「ただのミーハーファンか?」
 小声で言った溝口は、永見を肘で小突いてくる。それに対し永見は、薄笑いを浮かべて首を横に振った。
「劇団Aの演出家だ」
「ってことは、あのヒットメーカーの? 須永正代?」
 永見の言葉に、溝口は目を丸くした。
「声が大きい」
 永見は口の前に人差し指を立ててから、微笑んで頷いた。つまり、肯定だ。溝口は目を瞠り声を潜める。
「……どこで気づいた?」
『劇団A』は、現代日本の超人気劇団のひとつである。その『A』の演出家である須永正代は、手がけた作品のすべてをヒットさせ、自分が作り上げた観客動員の記録を自ら塗り替えるということで有名だった。しかし演出家は裏方であるべきという強い信念を持っているため、極度に自分が表に出ることを嫌い、写真は勿論、ラジオやテレビのトーク番組にも出ない。
 溝口ですら知らないその演出家当人だと、どうしてわかったのか。
「話し方で」
「どこかで聞いたことあるのか?」
「雑誌のインタビューを読めばわかるだろう?」
 あっさり言い放たれ、溝口は唖然とする。
 一体どこの誰が、初めて訪れた劇場で偶然隣に立った人間の話し方と、目にしただけのインタビュー記事で話し方が同じだとわかるのか。
 本当に恐ろしい奴だと、溝口は心の中で呟く。
 やがて、観客席側の照明が落とされる。僅かなざわめきののち、舞台がスポットライトで照らされる。そして一人の男が、闇の中に幻のように浮かび上がる。
 永見は眼鏡のブリッジを押し上げながら目を細める。
『俺は』
 心地好い、伸びはあるものの癖のあるテノールの声が、劇場内に響き渡る。
『俺は、なぜ生きているのか?』
 主役である伊関拓朗は、観客席にゆっくり強い瞳を向けてくる。
 背が高い。全体的にバランスのいい体格で、手足が長い。
 面長の顔を覆うように、肩口まで長さのある髪が、伊関が頭を振るたびに揺れる。
 流されていく視線と永見の視線が絡み合う。
 その瞬間、永見の全身に鳥肌が立った。
 心臓の鼓動が急速に高まり、息苦しくなってきた。喉が渇き、手が震え頬が紅潮する。
 ───見つけた!
 舞台の上で縦横無尽に振る舞う伊関の姿に、永見は確信した。
 それこそ伊関にだけスポットが当たったかのように、永見は彼の姿だけを追いかけてしまう。照明やメイクの関係で常人では認識できないだろう顔の造りも、ほんの小さな目の動きも、相手がすぐ近くにいるかのようにはっきりとわかる。
 舞台の間中、まさに息継ぎする間も惜しんで食い入るように伊関だけを見つめていた永見は、アンコールが終わり場内が明るくなった瞬間、はっとする。
「永見、どうだった?」
 溝口の顔を見上げた永見は、薄い唇をきゅっと噛み締める。
「楽屋口はどこにある」
 僅かの躊躇いののちに問う。
「確か、一度会場を出て裏に回った……」
「すみません、関係者以外の方は……」
 中に入ろうとすると、案の定、制止の声がかかる。永見はうるさそうに胸ポケットから名刺を取り出すと強引に手渡す。
「アポは今度取りつけるから、今は見逃してくれ」
「え……? ちょ、ちょっと待ってくださ……」
 慌てて永見を追いかけようとする男の手を、後ろから掴む者があった。振り返った男の目が、突然現れた、髭を蓄えた大男の出現で恐怖に震える。
「別に怪しいモンじゃねーんだ。ほら、俺の名刺もやるからさ、よく見てくれ」
 溝口から渡された名刺に目を向ける。
『株式会社電報堂 情報宣伝営業部カメラマン 溝口義道』
 恐怖の表情が驚きに変わる。
「電報堂さんみたいな広告代理店がうちみたいな弱小劇団になんの用が……?」
「すぐにわかるよ」
 溝口は笑顔で答える。
 永見が何をするつもりか、溝口は予想ができていた。

 永見は終演後の興奮冷めやらぬ舞台裏を大股で歩く。主役とはいえ小さな劇団のこと、控え室は男性用、女性用の二つだけだった。
 永見はそれらしい部屋を見つけると扉をノックする。
「開いてるよ」
 永見はひとつ深呼吸をする。指先の震えに気づいた永見は、自分が緊張していることを知る。そんな自分に苦笑してから扉を開ける。
「失礼します。伊関拓朗くんはいますか?」
 賑やかだった控え室の中が、見知らぬ来訪者の出現にしんと静まる。
 そして皆の目が、この場には不似合いなほど上等のスーツに身を包んだ男に向けられる。
「私は電報堂の永見と申しますが、伊関くんは……」
「なんの用?」
 部屋の奥でゆらりと人の影が動いた。黒のハイネックに黒のスリムのジーンズを穿いた男は、ドーランを落としている最中だったのか、長い前髪をピンで頭に上げていた。
 鋭い視線を目にした瞬間、永見の全身が粟立つ。舞台で目にしたのと同じ強い光を感じる。
 漲る生命力や強い生気は、近くにいるとよりはっきり感じられる。
 触れたら火傷しそうなほど、野生の匂いがする。
「できれば二人でお話ししたいのですが」
 永見の言葉で、周囲がざわついた。しかし男は気にすることなく、ピンを外してから永見の横を擦り抜ける。かなり永見よりも背が高く、がっしりとした身体つきをしている。
 伊関は控え室よりさらに奥に位置する非常口の階段脇に立つと、胸の前で腕を組む。
「それで、用って何?」
「うちと契約しませんか?」
 ぶっきらぼうに聞いてくる伊関に永見は名刺を差し出し、単刀直入に切りだした。
「契約?」
 伊関は眉を上げる。
「先ほども申し上げましたが、私は広告代理店の電報堂に勤めています。現在、新しい商品のイメージキャラクターを探しています」
「それが俺っていうわけ?」
 伊関は永見の言葉を途中で切った。
「俺のこと何も知らないくせに、よくも……」
「出身は静岡。君は確か、大学にストレートで合格したあと、二年で退学。今の劇団に入団して二年。七月生まれの二二歳でしたよね。違いますか?」
 ぐっと伊関は黙り込む。
 大学入学を機に東京に出るまでの十八年を、伊関は実家のある静岡で過ごした。
 両親と二歳年上の兄・拓磨、そして伊関の四人家族で、父はサラリーマン、母は主婦というごく普通の家庭に育った。
 典型的な優等生タイプの兄とは、常に比較され続けた。兄のことが嫌いではなかったし、兄も伊関を愛してくれていた。
 でもだからこそ、兄のようにはなれない自分に、伊関は常に苛立ちを覚え兄にも反発した。
 演劇に興味を持った最初のきっかけは、高校生のときだ。学園祭で劇を行うことになり、成り行きで伊関も舞台に立つことになった。
 中学生の時点で一八〇センチを超える長身の伊関の容姿は人目を集め、舞台は大成功を収めた。
 このとき、スポットライトを浴び喝采を向けられる快感を知った。
 そして家から逃れるように東京の私立大学に入学してすぐ、学内の演劇サークルに入った。
 学内では大分大きめで、かつ本格的に活動しているところだったが、入部三か月でやめた。
 それからはアルバイトに明け暮れながら、時間ができると様々な劇団の公演に足を運んだ。そして二年になる直前に自分でそれなりに納得のできる演出をする劇団に出会えた。それが安念昌知率いる、『新宿五番街』である。だが、団員の募集はしていなかったため、毎日練習所に通いつめた結果、安念その人に本気なのだと認められ入団したのである。
 そして夏を前に、役者の道に進む覚悟で大学を退めたのだ。
 黙って決めたことで父に勘当を言い渡されたものの、兄だけは違っていた。コンプレックスの元である兄との和解により、両親ともいつかわかり合えるだろうと、このときには思っていた。
「私は伊達や酔狂で仕事をしているわけではありません。ましてや冗談などでこんな話はできません」

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