ダリアカフェ

無料コンテンツ

無料コンテンツ

伯爵様は不埒なキスがお好き♥著:高月まつり

 午前中に手のひらいっぱいのミミズを掴まえて、一旦休憩。
 町内会役員が持ってきた回覧用紙を、階段横の掲示板の目立つところに留めたところで簡単な昼食。
 コウモリは、ちゃぶ台の下にぺたりと転がったまま寝ているようだ。小さな体が呼吸で上下していた。
「やっぱり可愛い。……飼って大丈夫か? 懐けばいいんだけど」
 明は指を伸ばしてコウモリの背中に触れ、潰さないよう慎重に撫でる。
 時折ピクピク動くが、夢でも見ているのだろうか。
 だが明は、「そんなわけあるか」と、自分の考えに笑った。
「さて。さっさと廊下の掃除だ」
 彼は首にタオルを巻くと、コウモリを起こさないよう静かに部屋を出た。


「ただいま〜、比之坂さん」
「何やってんですか?」
 二〇三号室曽我部と二〇四号室伊勢崎が、ヘチマ棚の前でしゃがみ込んでいる明の背中に声をかける。
 彼らは桜荘で知り合って意気投合したらしく、いくつものバイトを掛け持ちして金を稼いでは、海外へ貧乏旅行に行っているのだ。
 年は明より三つ若い二十一歳。茶髪にピアス、ルーズな服装だが、礼儀は大変よい。
「おかえりなさいっ! ミミズを捕ってたんだ」
 明は立ち上がり、ボウルに山ほど入っているミミズを二人に見せる。
「うっ!」
「げっ!」
 夕暮れとはいえ、気温はまだ高い。そんな折り、快適な土の中から掘り起こされたミミズは、「勘弁してよね!」と抗議するように動いていた。
 二人は気持ち悪さに一歩退くと、揃って「釣りにでも行くんですか?」と訊ねる。
「いや、これはコウモリの餌。夕べ、窓にぶつかって大変だったから、保護したんだ」
 コウモリはミミズを食べるのだろうか?
 曽我部と伊勢崎はそう思ったが、明が楽しそうに「餌」を連呼するので、突っ込みは心の中で留めておいた。
「でもそれ、二〇一の安倍さんに見せたらびっくりして倒れるかも」
「うん。俺もそう思います。女の子は、こういうのに弱いから」
 男でも、ボウルいっぱいのミミズには驚きます、管理人さん。
 彼らは心の中でこっそり呟き、苦笑する。
「それは俺にも分かる。余ったら土に帰してやるよ」
 明はニッコリ笑ってそう言うと、鼻歌交じりに部屋に戻った。
「コウモリって、どんな種類のコウモリだと思う? 曽我部」
「……夕べ、だって? 夕べって言ったらさぁ」
 曽我部は神妙な顔で伊勢崎を見つめる。
「何か、物凄いことが起きそう」
「俺もそんな気がする」
「旅行行くの、もう少し先に延ばそ? な?」
「俺も今、そう言おうかと思ってた」
 二人は顔を見合わせて深く頷き、一階端にある管理人室に視線を移した。


「おい、コウモリ。メシだぞ、メシ」
 窓は半分ほど開けていたが、南向きのせいで部屋の中は大変蒸し暑かった。
「あつっ」
 明は玄関先にミミズ入りボウルを置いて灯りをつけると、すぐさま窓を閉めてエアコンをつける。
 そして、ちゃぶ台の下に隠れていたコウモリを片手で掴んだ。
「おい。コウモリ」
 だがコウモリは暑さのせいでぐったりしている。餌兼水分補給のスイカのかけらは、結構な大きさにもかかわらず、萎びていた。ヤバイ。これはヤバイ。
 飼った生き物を死なせたくない明は、急いで冷蔵庫の中から新しいスイカを取り出し、その上にコウモリを載せる。
「死ぬなよ、頼むから死ぬな? 俺は花壇に『コウモリの墓』なんて建てたくないぞ?」
 明は頬を引きつらせながら、コウモリの頭をちょんちょんとつついた。
 五分ほど経っただろうか。
 コウモリは、ピクリと羽を動かしたかと思うと、物凄い勢いでスイカに顔を埋める。
「よかった。……生きてた」
 明は旨そうにスイカの汁を吸っているコウモリを見つめ、安堵のため息をついた。
「待ってろ。今タンパク質を持ってきてやる」
 一心不乱にスイカにしがみついているコウモリをその場に置き、明は玄関先からミミズの入ったボウルを持ってくる。
「たくさん捕ってやったから、好きなだけ食え」
 さすがに、ミミズ入りのボウルはちゃぶ台の上に置けない。
 明は新聞紙を敷いた畳の上に、それを置いた。
 物凄い勢いで水分補給をしたコウモリは、「もう腹一杯」とばかりに、小さく羽を動かしてスイカから離れる。
「自分で食えないなら、食わせてやろうか?」
 明はコウモリの首根っこを優しく掴んだ。コウモリは滅茶苦茶にもがきながら、明から逃げようとする。
「お。随分元気がよくなったな。よーし。腹一杯食えよ?」
 彼は嬉しそうに微笑んで、コウモリをボウルの中に……。
「てめぇっ! やっていいことと悪いことの区別もつかねえのか────────っ?」
 入れようとして、物凄い剣幕で怒られた。
「え…?」
 今、怒鳴ったのは一体誰だろう。声は男。だがこの部屋には、自分以外は誰もいない。
 明はキョロキョロと周りを見回す。
「馬鹿野郎。今、怒鳴ったのは俺だ。俺様だっ!」
 ガラの悪い声は、コウモリを掴んだ明の右手から聞こえた。
「ま、まさか……コウモリが人間の言葉を話すはずは……」
 明は恐る恐る視線をコウモリに移す。
「だから、さっきから俺だと言ってんだろが! お前、鈍いなっ!」
 コウモリは、明を見上げながら悪態をついた。
 その瞬間、明は顔を強ばらせて、物凄い勢いでコウモリを部屋の隅に投げ飛ばす。
 哀れコウモリは、年季の入った砂壁に激突。
「コウモリが……しゃべった……」
 インコやオウム、九官鳥は人の言葉を覚えて喋るが、コウモリが人語を話すなど聞いたことはない。第一コウモリは鳥ではない。
「……ってぇっ!」
 コウモリは、モゾモゾとこっちに向かって這いながら文句を言った。
 幼い頃から、今は亡き祖父に体と精神を鍛えられた明だが、こんな得体の知れない物の前では冷静でいられない。
 とにかく逃げなければ。この化け物から逃げなければ。そう思えば思うほど足がもつれる。
「くそっ!」
 ちゃぶ台に片手を付いて立ち上がろうとした彼は、気ばかり焦ったせいで盛大に転んでしまった。
「あたっ!」
 ちゃぶ台の端に額を強く打ち付けたらしく、皮膚が切れて血が滲む。
 血の臭いは、エアコンの冷風に乗って部屋に充満した。
「勿体ねぇことすんな!」
 コウモリは大声を上げると、明の目の前で正体を現す。
 明は瞬きをする間もなかった。
 小さな黒い物体がいた場所に立っている、黒い正装姿の長身の男。
 絹のようなさらりとした黒髪に、深い海のような青色の瞳。日本人にしては彫りの深い顔立ちだが、バタ臭さは感じない。
 そして明には、分かったことが一つだけあった。
 綺麗な顔。
 ボキャブラリーの少ない彼はこういう風にしか思えないが、大学在学中に小説家になった友人なら、紙面が光って見えないくらい煌びやかな表現で、コウモリ男を賛美したことだろう。
 それくらい、明の目の前に立った男は美形だった。
 明は血の滲む額を片手で押さえ、逃げ出すことも忘れてポカンと口を開けた。
「いつまでそんな間抜け面してんだ? いい男が台無しだぞ? おい」

▲ページのTOPへ戻る