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言いなり著:丸木文華

 シャワーを終えてスウェットの上下を着た状態で、髪をタオルで乾かしながら居間に戻ると、トランクス一枚になった剛が布団の上で携帯をいじっていた。髪は乾きかけてだんだんいつものような鳥の巣になってきている。
 六月に入って少し汗ばむ程度だったが、この狭い部屋に熱量の塊のようなでかい男がいると一気に温度が上がったように思えて、圭一はたまらずに今年初めてのクーラーをつけた。
「お前さ、その髪だけでも何とかしたら? ちょっと切りに行けばだいぶマシになると思うんだけど」
「そうかな。なんか、面倒でいつも自分で適当に切っちゃうけど」
「ほんと、もったいねえよ、お前」
 思わずぼやいたのは、初めて見る剛の肉体美に不覚にも見とれてしまったからだ。グラビアか何かで撮影された南米のサッカー選手が、丁度こんな体をしていたかもしれない。張り出した見事な胸筋、綺麗に割れた腹筋、太く逞しい腕は獰猛に見えて、なるほどこんな凶暴な筋肉をしていたら、ちょっと力を入れて掴めばヒビも入るだろうと思えた。
 太腿やふくらはぎも丸太のように太く、競輪かスピードスケートでもできそうだ。まるでアスリートのように鍛え抜かれた肉体をしている。
「ジムとか通ってんの?」
「いや、そんなことしてないけど。体は動かしてないと気持ち悪いから、家で軽くトレーニングはしてるかなあ。時々外走ったり、あと、週末は昔から行ってる道場で稽古したり」
「あー、そっか。空手とか習ってんだったか」
「うん、そう。俺、すぐ筋肉ついちゃう体質だから、ほどほどにしないとますます着られる服がなくなっちゃうから気をつけてるんだけどね。兄貴たちも親父も同じような感じだからさ、もう仕方ないんだけど」
 気のせいか、今日の剛はよく喋る。というか、こんな風に二人きりで喋ったことなど今までにないかもしれない。
 圭一はミネラルウォーターをグラスに注いで飲みながら、まだ少し酔いの残る頭で剛の家族のことを考えている。
「そういえば、お前って、母親いないとか言ってたっけ」
「うん。俺が小学三年のときに、病気でね。その後、父さんは再婚したんだけど、婿養子でさ。連れ子の俺たちはなんか肩身狭くて……まあ、その後また色々あって、離婚して」
「そっか。なんか、大変だったんだな」
 のほほんとした剛からは想像もつかない複雑な家庭環境に、少し同情する。圭一は引っ越しばかり繰り返してはいたが、家庭はいたって普通で平和だったし、家の中で不満を感じたことはほとんどない。思えば、反抗期などというものも兄妹揃って縁がなかった。
「親父は大変だったと思うな。俺、ちょっとグレちゃったときあったし」
「お前があ?」
 思わず笑った。「全然、想像つかねえ」
 剛も笑っている。
「ほんとだよね。あの頃はどうかしてた。やっぱり、不良ってやつなのかな。中学のときとかひどかったよ。毎日親父や兄貴たちと殴り合ってた」
「うひゃあ。お前みたいなのが何人も暴れたら、相当近所迷惑だろ」
 そうかもね、と剛は肩を竦める。
「ぶん殴られまくって、ようやく目が覚めたかな。お陰で、高校はマジメに通ってた」
「そうだよな。そうじゃなきゃ、うちの法学科なんて入れねえし」
 当たり前だが、剛にもここまで来る過程で色々なことがあったのだ。今は温和に見えるが、昔からそうだったわけでもないだろう。安堂の腕を掴んで怪我をさせたときの、あの不気味な迫力を思い出し、圭一は背筋を凍らせた。普段怒らない奴が怒ると異様な恐ろしさがあるが、今思えばあの剛の殺気は昔取った杵柄だったのだろうか。
「ケイ君ちは、どうなの? 何人兄弟?」
「妹がいるよ。十五歳。両親と広島にいる」
 急に剛は顔を輝かせ、身を乗り出す。
「ケイ君に似てる?」
「いや、全然。俺が母親似で妹は父親似だから」
 写真見るか? と聞くと頷くので、携帯の中にあった妹の桜の写真を見せてやる。
 すると、剛は露骨に落胆した表情を見せた。
「ほんとだ、全然似てないね。ケイ君と兄妹だなんて信じられない」
「まあ、よく言われるけど。お前、なにガッカリしてんだよ」
「ごめん。ケイ君くらい美人な子想像しちゃった」
 ムッとしたが、本人に自覚がないので怒っていいものかわからない。
「お前、もしかしてまだ酔ってる?」
「いや、大丈夫だと思うよ。水もいっぱい貰ったし」
「そっか」
 剛の顔を観察するが、居酒屋でテーブルに突っ伏していたときよりは、確かにマシになっている。まだ目はとろんと濁っているがだいぶ酔いは醒めたらしい。
「お前が潰れるのなんて初めて見たから、今日はちょっとビビった」
「俺も初めてだよ」
 剛は少し照れたように笑っている。
「でも、なんだか、今日はケイ君が優しくて嬉しいな。潰れてみるもんだね」
 どこまでも気楽な奴だ、と少し呆れる。
「俺はいつでも優しいだろ」
「嘘だあ。俺のこと、犬だと思ってるくせに」
 内心、ギョッとした。本当に、剛は突然心臓を鷲掴みにするような鋭い言葉を投げてくる。
 確かに皆犬だと言っていたし圭一自身も剛をそう形容していたけれど、まさか本人から直接突きつけられるとは思わなかった。
「俺さ、今日だって、安藤先輩がトイレから戻ってきたらケイ君にまた飲ませようとか言ってたから、俺が代わりに飲むって言って、それで潰されたんだよ。ケイ君の代わりに飲んだんだ」
「そりゃ……悪かったな」
「別に頼んでない、とか思ってるでしょ。そうだよ、俺が勝手にやったんだよ。俺、ケイ君に言われなくたってケイ君を守りたいんだ。何だってするよ。犬って言われてんのだって知ってるし、笑われてんのも知ってる。でも、ケイ君の側にいられるなら構わない。ケイ君の役に立ちたいから」
 剛はねつい調子で言い募る。腹を空かせた犬が媚びるような目で見上げてくるように、圭一を一心に見つめている。
 思わず、唾を飲んだ。剛にこんな風に迫られたことなどなかった。
 パシリにされても、公開オナニーさせられても、何食わぬ顔で圭一の側で尻尾を振っている犬だったのに、突然人間になって自己主張を始められて、不意打ちをかけられたようにまごついた。
 もしも笑われているのも馬鹿にされているのも、何もかもわかった上で、圭一の側にいたいからという理由だけでサークルに残っていたのなら、剛はただの鈍感な人間ではなく、凄まじい執念を持っていたということになる。
 その情念の、執着の深さに、圭一は怯えた。なぜそんなにも圭一にこだわるのか。そのことがわからないから、恐ろしい。
「なんだよ、今更ンなこと言って。ご褒美でも欲しいのかよ」
 ご褒美、と剛は繰り返す。
 すぐに、今のは失言だったと悟るが、もう遅い。
「そりゃ、欲しいよ。くれるなら、ちょうだい」
 今すぐちょうだい、と迫られて、圭一は後に引けなくなる。
「何が欲しいんだよ」
「わかってるくせに」
 粘ついた視線に絡めとられる。血が逆流したように一気に頬が熱くなり、動けなくなる。バスルームで感じた緊張感が再び全身にまとわりつく。
 これは、『そういう』雰囲気だ。
「こんだけしてるんだもん。普通、わかるよね。俺、ケイ君ばっかり追いかけてるし」
「お前、マジで、俺のこと、好きなのか」
「そうだよ。初めて見たときから好きだった。一目惚れだよ」
 はっきりと口にされて、凍りつく。
 こんな風にきっぱりと告白されるとは、思わなかった。出会ってから二ヶ月。剛からの好意は嫌というほど感じてきたし、周りもあいつはお前が好きなんだと言っていたけれど、本人が何も言わないのをいいことに圭一は素知らぬ振りで過ごしてきた。
 けれど、もうそれも叶わない。いよいよ逃げ場がなくなってしまう。
「お、お前って、ホモ、なの」
「わかんないけど、男はケイ君しか好きじゃない」
「俺のことが好きならホモだろ。女じゃねえんだから」
「じゃあ、そうかもね。別になんでもいいけど」
 剛は布団の上に手をついて、にじり寄ってくる。つられて、思わず後退る。けれどすぐに背中が壁に当たって、追い詰められる。こんな狭い部屋の中じゃどこにも逃がれようがない。
「ケイ君が俺のこと何とも思ってないのなんて、知ってるよ。犬としか思ってないもんね。だから、付き合ってもらおうだとか、好きになってもらおうだとか、別に考えてない。『ご褒美』で十分」
「それ……人として間違ってねえか」
「ケイ君は、本気で誰かのこと好きになったことないから、わかんないんだよ。俺はこれでいい。だって、元々望みなんかないもん。ケイ君は女の子と遊んでばっかりだし、俺のことは犬扱いするし。だから、犬のいちばんの幸福が貰えればいい。それで上出来だよ」
 究極のポジティブ思考だ。人のプライドを捨ててでも犬のご褒美が欲しいだなんて、確かにそこまでの情熱を圭一は感じたことがない。
 気づけば、圭一に迫る剛の股間は膨らみ、トランクスを大きく押し上げている。それに気づいた瞬間ギョッとして、悲鳴を上げそうになる。
「お、お前、おっ勃ててんじゃねえよ、馬鹿!」
「だって大好きでたまらない人がご褒美くれるって言ってるんだよ? 興奮するに決まってるじゃん」
「お前は羞恥心とか持てよ。何でそんな堂々としてんだよ。マジで犬だよ」
「ケイ君が犬扱いするから、本当に犬になっちゃったのかもね」
 勃起していることを指摘されても、剛はまるで恥じる様子がない。(こいつ、本当に犬だ。人間捨てやがった)と呆れている間に、腕の中に閉じ込められる。
「お、おいっ。待て。犬なら『待て』できんだろ!」
「待てたらどんなのエサくれるの」
 噎せ返るほどの欲情した男の体臭に包まれて、パニックになりかける。剛の肌は、乾いていて熱い。まるでタイヤのような質感だ。なめし革のような分厚い皮膚はちょっとやそっとじゃ傷もつきそうにない。
 ふと、過去の嫌な記憶が頭をよぎる。けれど、あのときはこんなにも圧倒的な体格差や力の差はなかった。まだ男になりたてのような体同士で、遊びの延長のようなセックスをしていただけだ。
 今のこの状況は、獰猛な肉食獣に食われる寸前かという危機感を覚えるほど、緊迫した空気がある。
(こんなでかい男に犯されたら、死んじまう)
 股間の昂りを押し付けられて、泣きそうになる。公開オナニーのときに剛が晒したあの巨根を思い出す。女でもどうかと思うものを本来その器官でない場所に受け入れたらどうなってしまうのか。つぶさに考えそうになって、かぶりを振る。想像したくもない。絶対に無理だ。
 剛は圭一の言葉を律儀に待っているのだ。けれど、こんな興奮状態では、それもいつまで保つかわからない。圭一は精一杯の譲歩を提示する。
「わ、わかった。き、キスくらいなら」
「キスがご褒美?」
 あからさまに不満な顔をされる。

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