「アーサー・ラザフォード氏の純真なる誓い」5月13日(月)発売予定!!

愛している。君は私のすべてだ――。

プレイボーイでエリートのアーサーと真面目で純朴な時広が
NYで同棲を始めて、2か月が過ぎた。
「両親に会ってほしい」というアーサーの言葉に、
将来のことを想像して喜ぶ時広。
そんな中、二人の仲を良く思わないアーサーの従弟・リチャードが現れる。
リチャードに歩み寄ろうとする時広だが、
その行動がかえってアーサーとの間に溝を生んでしまい――…。
大人気シリーズ第3弾!

マンガでわかる!「アーサー・ラザフォード氏」シリーズ
アーサー・ラザフォード氏シリーズ紹介

キャラクター紹介

書籍紹介

カバー画像

2019/5/13(月)発売予定

著者
:名倉和希
イラスト
:逆月酒乱
価格
:602円+税
判型
:文庫判
ISBN
:978-4-86657-248-2

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名倉和希「アーサー・ラザフォード」シリーズ新刊発売記念フェア

フェア参加書店にて以下の作品をご購入のお客様に、復刻ペーパープレゼント!

<対象商品>
・「アーサー・ラザフォード氏の遅すぎる初恋」
・「アーサー・ラザフォード氏の甘やかな新婚生活」
・「アーサー・ラザフォード氏の純真なる誓い」

<期間>
2019/5/13~ 特典がなくなり次第終了

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完結記念!複製原画展示&抽選プレゼント!

期間中「アーサー・ラザフォード氏の揺るぎない愛情」の美麗複製原画を展示!
こちらはフェア終了後、名倉和希先生&逆月酒乱先生のWサインを入りで抽選で5名様にプレゼント!
ぜひご応募ください!

開催場所:書泉グランデ2階(神保町)
開催期間:2019年5月9日(木)~6月10日(月)

詳細はこちらをチェック!
https://www.shosen.co.jp/fair/98423/

1巻試し読み

『アーサー・ラザフォード氏の遅すぎる初恋』
著:名倉和希
ill:逆月酒乱

差し出した「退職届」を一瞥して、校長はため息をついた。
 空調が効いているにもかかわらず、校長のふくよかな顔には汗が滲んでいる。窓の外では真夏の太陽が西に沈もうとしていて、あと数日で夏休みに突入する私立高校の洒落た校舎を茜色に染め上げていた。
「………仕方がないね」
 力のない呟きは、どういう心境で吐かれたものだったのだろうか。起こった問題に対して適切な対応ができなくて若い教員を退職に追いこんでしまった後悔なのか、それとも、これで一区切りついて、今後なにがあろうと自分に責任が降りかかることはないという安堵感からか。
 たぶん後者だろうが、もうどうでもいいという心境になっていた。
 坪内時広は、どっしりとした重厚なデスクを挟んで対峙)する校長を直視することなく、自分の足元に視線を落としている。これで無職になってしまううえに、直面している問題はなんら解決していない。これからどうするのか──考えていると視界が暗くなってきた。いや、これは絶望のせいではなくて、単に体調がよくないからかもしれない。
 ただでさえ小柄で痩せ気味なのに、このところ食が細くなって体重が落ちた。今なんキロあるのか、測っていないからわからない。栄養状態が悪いという自覚はあった。
「じゃあ、元気で。今までご苦労だったね」
 校長から贈られた言葉は、それだけだった。大学を卒業してから五年と四カ月。それなりに、この学園で頑張ってきた。英語教師として生徒たちに真摯に向き合い、信頼を寄せて懐いてくれた子にも、反抗してくる子にも、分け隔てなく接してきた。受験指導や、就職活動の手助けは大変だったが、やり甲斐があった。初めてクラス担任を受け持ったときは一人前の教師になれた気がして、誇らしかった。
 だがすべては、もう遠いものになってしまった。
「……失礼します」
 時広は俯いたまま校長室を出た。廊下はあまり空調が効いていなくて暑い。職員室までの距離が、いつもよりも長く感じた。西日が差しこむ窓の前で、あまりの眩しさに足を止める。太陽を避けたくて顔を背けたら、伸びっぱなしの髪が頬に掛かった。
 最近床屋に行く余裕がなくて髪が伸びた。実用重視の黒縁メガネは学生時代からずっと使っているもので流行とは無縁のものだ。服は量販店の安物で、いつも猫背で覇気なく歩いていれば、生徒たちに陰気だと馬鹿にされるのも当然だろう。
 とはいえ、以前はこんなことで馬鹿にされなかった。たとえ安物を着ていようと清潔感を保ち、きちんと授業をして胸を張っていれば、生徒たちはそう悪くは言わないものだ。
 俯いてばかりいるようになり、生徒たちには馬鹿にされ、同僚教師たちからは腫れものに触るように扱われるようになったのは、すべてひとつの事件からだった。
 時広の両手首には、包帯が巻かれている。もう包帯を巻く必要もないくらい治癒しているのだが、ケガの痕を見られるのが嫌で隠していた。擦過傷は切り傷よりも痕が残りやすいと医師に言われたとおり、うっすらと赤く傷痕が残っている。
 完全になくすにはタトゥーを消すような手術が必要だと説明されて、どうしようかと迷っていた。できれば完璧に消してしまいたい。包帯を外すと事件が思い出されて辛かった。冷たい金属の輪で拘束された経験は、時広の生活だけでなく、性格までをも変えてしまった。
 事件は四カ月前の三月、春休み中に起こった。
 私立高校なので年度末の異動はなく、教師たちは新年度の準備のために学校へ出勤する。その帰宅途中、時広は通りかかったホームセンターで筆記具を購入した後、同僚の柴田光雄に声をかけられた。
 柴田は四歳年上の三十二歳で、日本史の教師だった。学校経営者の血縁であることを隠さず、わりと躊躇なく居丈高に振る舞う男で、お世辞にも生徒に人気があるほうではなかった。
 教師としての給料だけではとうてい買えないようなスーツを着てきたり、休みには頻繁に海外旅行へ出かけたりしていることを言いふらしていた。当然、同僚たちからは好かれておらず、かといって邪険に扱うわけにもいかず、みんなあたりさわりのない付き合いをしていた。
 時広も似たような感じで、特に柴田と親しくしていたつもりはない。時広は英語教師だったので柴田とは接点がなく、年齢が近い割には話をしたこともなかった。頻繁に声をかけられるようになったのは、二年前だ。
 祖母が亡くなり意気消沈していたところを飲みに誘われて、ひとりで家にいたくなかった時広はついていった。ふたりで飲んだのは、それ一度きりだ。柴田は酔うと家柄と財産自慢がひどくなり、時広は辟易した。そして誘われても二度と応じなくなった。
「おまえ、ゲイだろ?」
 無視する時広を、柴田のその一言が振り向かせた。どうしてわかったのか、時広が茫然としている前で、柴田は笑った。
「やっぱりそうだったか。なあ、俺と付き合えよ。いい思いをさせてやるぞ」
 御免だった。同僚としても付き合えないような男と、どうして恋人になれるのか。
 きっぱりと断った。だが柴田は時広がゲイであることを後ろめたく思っているせいで自分の申し出に応じられないでいると解釈したのか、めげずに誘ってくる。そのうち柴田は、時広を盗み撮りした写真を大量に送ってくるようになった。学園内のものだけでなく、自宅の狭い庭で洗濯物を干しているプライベートな写真まであった。怖くなってきて、校長と教頭に相談した。
 状況を理解してもらうために意を決してカミングアウトもした。校長はため息をつき、教頭は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「そのうち飽きると思うから、スルーしておいてくれないか」
 そう言われて、味方になってくれないのだと愕然とした。事件後に知ったことだが、柴田は時広の前にも別の人間にストーカー行為をしていた。校長たちはそれを聞いていたらしい。
 他の教員に相談しても同じだろう。味方は誰もいない──。
 校長たちの予想に反して、柴田のストーカー行為はなかなかおさまらなかった。だが時広は仕事を辞めることは考えていなかった。自分が悪いとは思っていなかったし、担任するクラスを持っていた。生徒たちへの責任感と愛情が、柴田への嫌悪を上回っていた。
 そんな、ある意味膠着状態だった関係が、一気に悪いほうへと動いたのが三月末だった。
「やあ、君もここで買い物か?」
 柴田は偶然を装っていたが、学校から尾行していたに違いない。何度も同じようなことをされたからわかる。
「………買い物はもう終わりました。帰ります」
「食事に行かないか」
「行きません」
「どうせ家に帰っても、誰もいないんだろう? 寂しいひとり者のゲイ同士なんだ、仲良くしようよ」
 ホームセンターの駐車場にはほかに何人も客がいた。柴田のゲイ発言が耳に届いたのか、ぎょっとして振り返る人もいた。時広はいちいち訂正して回るつもりはなかったが、もううんざりしていた。
「いい加減にしてください。もう僕につきまとわないでください。あなたには、まったく興味がないんです!」
 苛立ちが最高潮に達していたのだと思う。きつい言い方をしてしまった。
 その直後、柴田が豹変した。無表情になると、いきなり時広を殴りつけてきた。暴力とは無縁の生活だった時広はまともに拳を受け、吹っ飛ばされた。周囲で悲鳴が沸いた。初めて殴られたショックと痛みで茫然としている時広に、柴田はコートのポケットから取り出した黒いものを近づけた、一見、それは電動ヒゲ剃り機のような形をしていて、なんなのかわからなかった。それをぐっと脇腹のあたりに押しつけられる。と同時に経験したことのない激痛が全身を駆け廻り、目の前が真っ暗になってなにもわからなくなった。
 それがスタンガンというもので、気を失った時広を柴田は自分の車に押し込んで連れ去ったのだと、後で警察から聞いた。
 居合わせた数人の客が警察に通報してくれた。運よく、柴田が近くの私立高校の教師だと知っている人がいた。車のナンバーから調べ、すぐに警察は柴田の自宅に急行してくれた。
 目が覚めたとき、時広は両手を手錠で拘束され、頭上でベッドに繋がれていた。口をガムテープで塞がれて、足も身動きができないようにされていた。すでに警察が自分を捜し始めていることなど知らない。薄暗い部屋の中、柴田がじっと見下ろしてきている。そこが柴田の自宅だと、助け出された後で知ることになる。
 絶望の中、時広は必死でもがいた。手錠が手首の皮膚を傷つけて血が滲んでも、恐怖に震えながら精一杯、暴れた。そんな時広を、柴田は暗い笑みを浮かべて静かに見下ろしていた。
「やっとふたりきりになれた。今日から君は、俺のものだ」
 柴田の目に、狂気を見た。口を塞がれていなかったら、恐ろしさのあまり絶叫していたかもしれない。
 柴田が時広のシャツに手を掛けたところで、部屋の外が騒がしくなった。怪訝そうに時広から離れ、柴田がドアから出ていく。直後に、怒鳴り声や複数の足音がそこかしこで響き、柴田が出ていったドアから入ってきた男たちに、時広は拘束を解かれた。
 ホームセンターの駐車場にはほかに何人も客がいた。柴田のゲイ発言が耳に届いたのか、ぎょっとして振り返る人もいた。時広はいちいち訂正して回るつもりはなかったが、もううんざりしていた。
「いい加減にしてください。もう僕につきまとわないでください。あなたには、まったく興味がないんです!」
 苛立ちが最高潮に達していたのだと思う。きつい言い方をしてしまった。
 その直後、柴田が豹変した。無表情になると、いきなり時広を殴りつけてきた。暴力とは無縁の生活だった時広はまともに拳を受け、吹っ飛ばされた。周囲で悲鳴が沸いた。初めて殴られたショックと痛みで茫然としている時広に、柴田はコートのポケットから取り出した黒いものを近づけた、一見、それは電動ヒゲ剃り機のような形をしていて、なんなのかわからなかった。それをぐっと脇腹のあたりに押しつけられる。と同時に経験したことのない激痛が全身を駆け廻り、目の前が真っ暗になってなにもわからなくなった。
 それがスタンガンというもので、気を失った時広を柴田は自分の車に押し込んで連れ去ったのだと、後で警察から聞いた。
 居合わせた数人の客が警察に通報してくれた。運よく、柴田が近くの私立高校の教師だと知っている人がいた。車のナンバーから調べ、すぐに警察は柴田の自宅に急行してくれた。
 目が覚めたとき、時広は両手を手錠で拘束され、頭上でベッドに繋がれていた。口をガムテープで塞がれて、足も身動きができないようにされていた。すでに警察が自分を捜し始めていることなど知らない。薄暗い部屋の中、柴田がじっと見下ろしてきている。そこが柴田の自宅だと、助け出された後で知ることになる。
 絶望の中、時広は必死でもがいた。手錠が手首の皮膚を傷つけて血が滲んでも、恐怖に震えながら精一杯、暴れた。そんな時広を、柴田は暗い笑みを浮かべて静かに見下ろしていた。
「やっとふたりきりになれた。今日から君は、俺のものだ」
 柴田の目に、狂気を見た。口を塞がれていなかったら、恐ろしさのあまり絶叫していたかもしれない。
 柴田が時広のシャツに手を掛けたところで、部屋の外が騒がしくなった。怪訝そうに時広から離れ、柴田がドアから出ていく。直後に、怒鳴り声や複数の足音がそこかしこで響き、柴田が出ていったドアから入ってきた男たちに、時広は拘束を解かれた。
 男たちが警察官だと気づいたのは、制服を着ている人が交ざっていたからだ。時広は外に待機していた救急車に乗せられた。病院に着いてからやっと、助かったのだと実感できた。
 この四カ月の間に、柴田の裁判は終わっている。執行猶予つきの実刑判決を受けた。
 できれば刑務所に入ってほしかった。執行猶予つきなんて──。どうして、あんなやつが大手を振って外を歩けるのだろうか……。本人が反省していることと、家族が今後の生活を監視するとともに矯正のためのカウンセリングを受けさせ、二度と時広に近づかせないと約束したことが考慮されたのだ。
 柴田は逮捕直後に教職を解かれた。あたりまえだ。私立高校としては、とんでもない醜聞だった。すみやかに騒動を終息させるために、学校側は時広にも辞めてもらいたかっただろう。
 だが時広は辞めなかった。
 柴田は郊外にある親戚宅に移り住み、約束どおりカウンセリングを受けながら親族の監視下に置かれたと聞いていた。本当に心の底から反省しているのか、二度と時広の前に姿を現さないのか、気にはなったが閉じこもっているわけにはいかない。自分の気持ちさえしっかりしていれば仕事を続けられると考えていた。
 だが、甘かった。同僚の教師たちだけならまだしも、生徒のほとんどが事件のことを知っていた。時広と柴田がゲイだということも、知れ渡っていた。面と向かって罵倒されることはなかったが、好奇の目が辛かった。同僚の教師たちは腫れものに触るように接してくる。事件以前のようには戻れなかった。
 時広が毅然とした態度を貫けなかったのは、自覚していた以上に、事件のせいで負った心の傷が深かったのも理由のひとつだったろう。背後から声をかけられると過剰反応してしまう、暗闇が怖い、不眠気味になっている、食欲がない──誰が見てもわかるほどに痩せてしまい、まともな生活が送れなくなっていた。
 時広は自分の精神状態を客観的に見て、一学期末で退職したいと校長に告げた。時広から申し出たことで、校長は安堵しているように見えた。
 そして今日限りで、時広は教職を退く。
 できれば仕事を続けたかった。柴田の卑劣さに負けたようで悔しい。時広はなにも悪いことをしていないのに、どうして社会から弾かれなければならないのか……。
 職員室の引き戸をがらりと開けると、同僚教師たちの視線が一斉に集まってきた。だがすぐに逸らされて、不自然なほどしんと静まりかえる。時広が来るまで、和やかに雑談をしていたはずなのに。
 こんな反応は今日に始まったことではないので、時広は気にせずに自分の机に向かった。持参してきた紙袋に、私物を入れ始める。机に残っている物は少ない。紙袋二つに納まった文房具と、替えの上履きや衣類を両手に持ち、時広は静かに職員室を出た。誰も声をかけてこなかった。
 職員用の玄関から外に出る。予想どおりに暑くて、体に残っているなけなしの体力が奪われていく。両手の荷物が、よりいっそうずしりと重く感じられた。駐車場に停めてある自分の軽自動車までの距離が辛い。

 アスファルトが敷かれた駐車場には、教職員の自家用車が何十台も停められている。白線の内側に、きれいに並んだ車という光景が、時広は怖かった。ごくりと生唾を飲み込み、できるだけ下だけを見ながら歩みを進めた。ここは事件が起こったホームセンターの駐車場ではない。彼はここにはいない。絶対にいない。
 自分に言い聞かせながら、なんとか車まで歩く。
 通りかかった体育館からはバスケ部の元気な声が聞こえていた。その向こうにあるグラウンドからは野球部の金属バットが硬球を叩く音が響いている──。
 時広が受け持った生徒の何人かが、その中にいるはずだった。
「ごめんね………」
 教師としての職務を全うできずに学年途中で去っていく自分を許してほしい。ダメな教師だった。仕事以外で神経をすり減らして、なけなしのプライドを踏みにじられて、大切な生徒たちに寄り添えなくなった。申し訳なくてたまらない。
 けれど、淡いブルーの車体が見えてきたら、ホッとしたのは事実だった。周囲に誰もいないことを確認してからロックを解除して後部座席に荷物を置き、エンジンをかける。窓を全開にして車内の熱気を追い払い、時広は自宅までの慣れた道のりをゆっくりと帰っていった。

 時広は幼いころに交通事故で両親を一度に亡くした。その後、父方の祖母に引き取られ、育てられた。祖母は時広をとても愛してくれて、躾もきちんとしてくれた。堅実に生きろと教えられたので、時広なりに考えて教師になった。その祖母は、二年前に亡くなった。今、祖母が遺してくれた小さな一軒家に、時広はひとりで暮らしている。
 木製の塀に囲まれた一軒家は、写真でしか顔を知らない祖父が建てたものだ。もうずいぶん古くて、あちらこちらを修理しながら住んでいる。ひとり暮らしには広い家だが、ここを離れる気はなかった。大切な、祖母との思い出が詰まっている。
 時広は軽自動車一台がやっと駐車できる程度のスペースに、慎重にバックで進入して停車した。門の横にあるこのスペースは、時広が大学四年生のときに祖母が塀と庭の一部を壊して造ってくれた。時広はアルバイトで自動車教習所の費用を稼ぎ、私立高校に就職が決まったときに中古の軽自動車を購入した。淡いブルーの車は、元のオーナーが女性だったらしく、綺麗で状態がよかった。祖母は喜んで、休日にはふたりでちょっと遠いスーパーまで買い物に行ったりした。この車も古くなったが、愛着があってなかなか手放せない。
 時広は車から降りると後部座席から荷物を取り、玄関の引き戸の前に立つ。背後が気になって、また周囲をよく見渡してから、鍵を開けた。玄関の中に入ってすぐ戸を閉め、鍵をかける。
 荷物を持ったまま、時広はしばらくその場にじっとしていた。家の中から物音は聞こえない。人気もない。誰もいない。
 そう、きっと、誰もいない。でも確認するまでは安心できない。
 時広は上がりかまちに荷物を置くと、そっと靴を脱いで廊下を進んだ。居間にも、台所にも、風呂場にも、二階の自分の部屋にも、誰もいない。やっと安堵して、時広は二階の廊下の端にへたりと座りこんだ。
 両手首の包帯を、胸に抱くようにしてうずくまる。
 怖い。もう二度と、あんなことはされたくない。未遂でよかったじゃないですか、と嘲笑うような表情で慰めてきた警察官の顔を思い出すと、いまだに悔し涙が滲む。彼は時広がゲイだと聞いて好奇心を隠さなかった。そんな警察官ばかりではなかったが、時広は傷ついた。
 ゲイとして生まれたのは時広のせいではない。ゲイの同僚教師に目をつけられて迫られて、無視していたらストーカーされて、拉致監禁されて両手を拘束されて、あやうくレイプされそうになったのも、絶対に時広のせいではない。
 事件の後に受診した精神科の医師は、仕事を休んでしばらく療養しろと言った。今となっては、そのとおりに休めばよかったと思う。あのとき時広は、頑なに教師としての仕事を全うしたいと主張した。冷静ではなかったのだろう。
 そんな時広を心配してくれたのは、学生時代からの友人たちだ。その中のひとり、角野大智はたびたびこの家に泊まってくれていた。時広がゲイであることも知っていて友人関係を続けてくれる、公平で優しくて頼もしい男なのだ。今朝もここから出勤していった。「またいつでも来てやるから、遠慮なく呼べよ」と言ってくれたが、この家からだと大智の通勤時間が倍になってしまうのがわかっているから、そうしょっちゅう呼べない。
 やはりひとりになると恐怖が込み上げてきて彼にSOSを発したくなるが、これ以上頼るのは申し訳なかった。
 大智は、柴田の動向を気にしている。時広は行っていないが、大智は裁判を傍聴した。
 柴田は一貫して殊勝な態度だったが、心から反省しているかどうかはわからない。目撃者さえいなければ通報されず目的を果たせた、ただ運が悪かっただけだと考えているかもしれない。もし、そうなら、ふたたび時広の前に現れるだろう。ひとり暮らしは危険だと言われた。引っ越しを勧められたが、時広は祖母と暮らしたこの家を失いたくない。
 かといって、柴田は怖い。時広のほうが大智のアパートに転がりこむという案もあるが、ワンルームなのでそう長居はできない。根本的な解決にはならないだろう。
 これからどうするか──と悩みながら腰を上げて階段を下りる。廊下の途中、上がりかまちに置いたままだった荷物の中で電子音が鳴っているのに気づいた。携帯端末の音だ。
 慌てて駆け寄って取り出すと、大智から電話がかかってきていた。
『時広、もう家に帰ったか?』
「ああ、たった今、帰ってきた」
 できるだけ快活に聞こえるように喋る。
『ひとりで大丈夫か?』
「………うん、大丈夫だ」
 返答までに少し間が開いてしまった。
『今日で退職なんだな?』
「あっさりとしたものだったよ。これで晴れて無職だ」
『そうか……』
 大智はまだ勤務中のはずなのに、時広のことを気にして電話をかけてきてくれたのだ。男の友情に、荒みかけていた心が少し潤っていく。
『明日からしばらくは休養するのか?』
「んー……ひとりでじっとしていても嫌なことばかりを思い出してしまいそうなんだ。とりあえず、アルバイトでも探して週の半分くらいは働こうかな……」
 大智を心配させたくなくて適当なことを口にしたが、それもいいなと思い始める。家の中で鬱々と過ごしているより、外に出たほうが気がまぎれるだろう。
『アルバイト、するつもりか?』
「えっ、しちゃダメか?」
『いや、俺は賛成だ。フルタイムで働くのはまだやめておいたほうがいいが、週の半分程度ならいいと思う』
 大智に賛成してもらえて、時広はちょっとやる気になってきた。
 いつまでも事件を引きずっていてはだめだ。急に元のようには戻れなくとも、少しずつ前へ進みたい。柴田のことや、この四カ月間のことを忘れるには時間がかかりそうだが、新しい人間関係を築きたいと思った。
『それで、時広に相談なんだが……』
「えっ、なに?」
 大智が自分に相談なんて、珍しい。
『外国人に日本語を教えてくれる人を探している。おまえ、やってみないか』
「えっ?」
 いきなりの話に、時広は驚いた。大智はその話をしたくて電話してきたのか?
『俺が外資系の会社にいることは知っているよな』
「もちろん」
 大智は外資系保険会社の日本支社に勤務している会社員だ。テレビで一日に何度もCMを流すような大手で、秘書課に所属している。
「教える相手は大智の会社の人?」
『そう。日本支社は本社があるアメリカから幹部が赴任してきて仕切るかたちなんだが、今来ている人が日本語に明るくなくて……』
 大智は言葉を選んで話しているようだ。それはそうだろう、自社の幹部の事情を、部外者にそうおいそれと話せるものではない。
『日本語の文法を事細かに教える必要はない。だがせめて日常会話くらいは習得してほしいというのが、本社の希望らしい』
「つまり、募集している日本語教師に必要なのは、日本語力よりも英語力ってこと?」
『そのとおり。コミュニケーションを取りながら、まずは簡単な挨拶と単語の学習から入って…ってこと。英語教師だったおまえにぴったりだと思うんだが、どうだ』
「突然すぎて、ちょっとびっくりしている……」
 今までずっと高校生に英語を教えてきたのだ。いきなり外国人に日本語を教えるなんて、どうやって授業を進めればいいのか見当がつかない。
『ああ、ひとつ言い忘れていた。そのアメリカ人はとりあえずホテル住まいをしている。秘書の話だと、可能なら日本語教師も同じホテル内に部屋を取り、ともに食事をしたり余暇を過ごしたりしながら言葉を教えてほしいそうだ。拘束時間は長くなるが、宿泊費と食費は経費として向こう持ちだ。契約期間がどのくらいかは試用期間を経てから決めるらしいが、とんでもないヘマをしない限り、一、二日でクビになることはないだろう』
「それは…………」
 なんて時広にとって都合のいい条件だろうか。ひとりで家にいたくないからビジネスホテルでも探そうとしていたところだったのだ。
『こんないい話はないぞ。どうする』
「やりたい」
 相手がどんな人かもわからないうちに、時広は返事をしていた。
 日本語教師なんて、できるかどうかわからないけど、たとえこれで失敗しても、時広には失うものがない。とにかく柴田の手が届かないところへ姿を隠したかった。
「大智、俺……やってみたい。話、通してくれるか?」
『わかった。必要になるかどうかわからないけど、履歴書だけ用意しておいてくれるか』
「うん。ありがとう……」
 心から、時広はお礼を言った。

   * * *

 アーサー・ラザフォードは不機嫌だった。
『暑い!』
 日本支社が置かれているオフィスビルを出て、車寄せで待機していた自分専用の送迎車に乗るまでの、ほんの数メートルが我慢できない。車内は冷房が効いていたが、外気に触れた数秒間でもう汗が噴き出していた。
 アーサーのすぐ後に乗りこんできた秘書のエミー・ガーネットがすかさずハンカチを差し出してくる。それを奪い取り、額に押しあてた。と同時にネクタイをむしり取る。
『どうして日本はこんなに暑いんだ? このクソ暑い中、どうしてみんなスーツにネクタイなんだ? 頭の中まで沸騰しそうだぞ』
 短く整えた栗毛と同じ色の眉を寄せて眉間に皺を作り、髪よりも少し明るい茶色の瞳に苛立ちをたたえて秘書に訴える。半袖ブラウスと膝丈のタイトスカートのみ、という涼しげなファッションのエミーを、恨めしげに睨んだ。
 百九十センチ近い長身でがっしりとした体格のアーサーがオーダーメイドのスーツで決めて眼光鋭く迫れば、たいていの人間は怖気づく。だが三十歳のアーサーより二つ年上で、秘書になってからすでに三年経つエミーには通用しなかった。プラチナ寄りのブロンドを長く伸ばし、ハリウッド女優並みにゴージャスに毛先を巻いた美女は、ひょいと肩を竦めただけだ。
『日本の七月下旬が暑くなければ、逆に異常気象です。このくらいの温度だったら平年並みなんじゃないですか? スーツにネクタイが嫌なら、今すぐ退職するか長期休暇の申請でもしてバカンスに出かけたらどうでしょう』
 退職かバカンスか──。どちらも選べないことを知っていて、エミーは意地悪を言う。秘書として、ボスのモチベーションを上げるために少しくらい慰めてくれてもいいのに。
『くそっ、どうして私が……!』
『あなたしか適任者がいなかったからです。さっさと諦めてください』
 アーサーはため息をついて東京のビジネス街を走る車の中で項垂れる。ちらりと外を見やれば、照りつける太陽を避けて街路樹の影で信号待ちをしている若者や、日傘を差して歩いている女性がいた。歩道に落ちた影は濃い。
 アーサーが日本に来ることが決まったのは、ほんの十日前のことだった。もともとの勤務は世界中に支店がある保険会社のアメリカ本社。ニューヨークで辣腕を揮っていた。転勤の予定はなかった。
 日本に支社ができたのは、もう三十年も前のことで、定期的に本社から支社長が赴任していた。それが来年の四月から日本支社を独立させてグループ企業のひとつにするという方針が固まり、その準備としてほかの人間がこの七月から日本入りするはずだった。ところが、その人物が急病で治療と療養を余儀なくされ、復帰するまでのピンチヒッターとしてアーサーが指名されてしまったのだ。
 アーサーは日本に興味がなかった。アニメと変態の国という印象しかなく、世界地図上で『ここが日本だろ』と指をさせる程度の知識しかない。日本の夏がとんでもなく蒸し暑く、ゲリラ豪雨が頻発するような住みにくい国だなんて、知らなかったのだ。
 対してエミーは親日家で、十代のころに一年間の留学も経験している。都内の公立高校に通ったらしい。素晴らしい経験だったと聞いたことがある。日本語が堪能で、今回の日本行きを一番喜んだのはエミーだった。おかげでかなり張り切っている。
『フランクの奴、いきなり入院なんかしやがって』
 つい批難めいた言葉が口から出てしまい、エミーに冷たい目を向けられた。病魔と闘っている最中の同僚を悪く言うなど、人としてやってはいけないことだ。アーサーはすぐに後悔して『すまない』とだけ謝罪した。
『とりあえず、ボスは最低三カ月は日本に滞在することになっています。場合によっては半年。その間、まったく日本語が話せなくとも問題はありませんが、私としては日本支社の社員たちとコミュニケーションを取ってもらいたいと思っています』
『私に日本語を習得しろと? 問題ないのなら必要ないだろう。面倒くさい』
 習得できない、とは言わないのがアーサーだ。語学能力には自信がある。英語は当然として、スペイン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語あたりなら日常会話に困らない。だが今さらアジアの言葉を覚えようとは思っていなかった。ビジネスの場には専門の通訳を連れていけばいいし、アーサーの今までの活躍の場はアメリカと欧州だったからだ。アジア圏を得意とする社員は多数いて、彼らがきっちりと役目をこなしている。
『ですが、日本人の社員たちと、挨拶とちょっとした雑談くらいはしたほうがいいと思います。挨拶もないと、日本人は自分たちが嫌われていると解釈しますよ』
『では彼らが英語を話せばいいじゃないか』
『もちろん話せる社員はたくさんいますが、あえて日本語を使うことによって、より友好が深まるというものです。そんなこと、今さら私に言われなくとも、ボスはご存じですよね』
『……………』
 返事をせずに窓の外へと視線を戻す。アメリカはさまざまな人種が暮らす国だ。幼いころから学校にはさまざまな人種の子供がいて、コミュニケーションには言葉が重要だということくらいよくわかっている。挨拶ひとつで空気が変わる──そんな場面を、今まで数えきれないくらい見てきた。
『なので、私の独断ですが、日本語教師を雇うことにしました』
『えっ?』
 驚いてエミーを振り返る。タイトスカートからすらりと伸びた脚をゆっくりと組み換え、エミーはふふんと笑った。白いブラウスの胸元は豊満なバストを誇示するようにボタンがはち切れそうになっているが、これはわざとだ。エミーは大人の色気で日本支社の社員たちの手綱を握ろうとしている。潔く、女であることを前面に打ち出して男に対抗しようとするのが、エミーという秘書だった。
 ただし、お色気攻撃はアーサーには通用しない。アーサーの睨みがエミーに効かないように、逆もしかり。理由は明確、アーサーがゲイだからだ。職場でカミングアウトしているため、エミーとの仲を勘繰る者はいない。エミーにとっても、非常にやりやすい職場だろう。おかげで、もう三年も秘書を続けている。
『日本語教師だと?』
『秘書課に相談したところ、適任者が見つかったようです』
『おい、なに勝手に決めているんだ』
『すでに本社には許可をもらっています。日本語教師の費用はすべて経費として認められることになりました』
 知らない間に手筈が整えられていたわけだ。アーサーはぐっと奥歯を噛みしめて車のシートに身を沈める。怒鳴りたいのをこらえながら、なんとか免れる方法はないかと頭をフル回転させた。
『ボス、日本語教師に会わない、追い返す、逃げ出す、そのどれを選択してもメリットはどこにもありませんよ。本社も承知のことですから、社命だと思ってください。従わなければなんらかのペナルティーが待っているだけです』
『………この私を脅迫するのか』
『まさか、事実を述べているだけです』
 エミーはしれっと答えて微笑む。胡散臭い笑顔から顔を背けて、アーサーはため息をついた。
『その日本語教師は、どんな人間なんだ』
『元高校教師の男性です』
 少し興味が湧いた。好みの男なら面倒臭さも半減するかもしれない。
『何歳?』
『二十八歳。純粋な日本人です』
『………なるほど』
 アーサーはティーンエイジャーのころにゲイだと自覚してから、さまざまな男と付き合ってきた。人種にこだわりはないが、美醜にはうるさいほうだという自覚はある。かつての恋人たちはみな容姿端麗で、頭脳だってなかなかのものだった。誰ひとりとして長続きせず、今もひとり身なのは、単に相性の問題だと思っている。断じて飽きっぽいせいではない。
『…………日本人とは、今まで付き合ったことがなかったな………』
 つい心の声が漏れてしまい、エミーに本気で睨まれた。
『ボス、彼には手を出さないでくださいよ。私が許しません』
『なんだ、友人なのか?』
『いえ、会ったことはありません。送られてきた写真でしか顔を知らない人です。ですが、それを見ただけでわかります。彼は繊細で、純粋で、ボスの遊びに付き合えるようなタイプではありません』
『遊びだなんて失礼な。俺はいつだって本気だ』
『ああ、そうですね。本気で遊んでいますからね』
 呆れたように言うエミーを無視して、日本語教師の姿を想像する。
 いったいどんな日本人だろうか。日本支社には、アーサーの審美眼に敵うレベルの男性社員が何人かいた。東洋人特有のすらりとした体に真珠色の肌、切れ長の目、抑制の効いた静かな所作はアーサーの狩猟本能に火をつけそうだったが、彼らの左手薬指には決まってリングがはまっていた。既婚者だったのだ。日本の女性は賢明だ。仕事ができそうで美しい男たちを、確実にモノにしている。残念だ。
 相手がノンケだろうと、アーサーは自分の魅力で落とす自信があった。だが妻帯者には手を出さない。トラブルは御免だし、なによりも最終的には妻と子供を選択して去っていく男の後ろ姿を見るのが嫌だからだ。かといって、妻子を捨てて同性の恋人を選ぶ男は嫌いだ。養育費と慰謝料を払えばいいというものではない。
 エミーは真剣に遊ぶと揶揄したが、アーサーなりに最低限のルールを作り、それを守っている。どれほど気に入っても既婚者ならば諦める。仕方がない。
『その人物は、既婚か?』
『いえ、未婚です。恋人の有無は確認していないのでわかりません。……ボス、繰り返しますが……彼が独身だからといって、手を出さないでくださいよ』
『私が狩りたくなるような男なのか?』
 エミーはちょっと視線を遠くした。その男の写真を思い出しているのだろう。
『ボスの好みはよく知っていますが──どうでしょう、彼は私の目から見て大変キュートです。ボスの好みかどうかは微妙ですね』
『キュート? 男なんだろう?』
 二十八歳の男にキュートという表現はおかしい。俄然、興味が湧いてきた。
『写真を見せろ』
『あいにくと写真は今手元にありません』
『じゃあ、後で見せろ』
『それは構いませんが、写真の前に本人に会うことになると思います』
『えっ?』
 さっきから驚かされてばかりだ。アーサーはしばし唖然とした後、『つまり……』とエミーに確かめる。
『その日本語教師は、もう来ているのか?』
『来ています。ホテルのロビーラウンジで待っているはずです』
『おい…………』
 うちの秘書はなんて仕事が早いんだ。ボスが駄々をこねるとわかっていて先手を打ってくる。ここまでされたらアーサーには逃げ場がない。だがエミーのこのやり方で、三年間、なんの問題もなく仕事に集中することができていたわけだ。
『逃げようなんてくだらない考えは捨ててください。大人なんですから』
『逃げるつもりはない。わかった、とりあえず会おう』
 そしてどんな日本人なのかじっくりと見させてもらう。アーサーの眼鏡に敵う容姿なら、おとなしく生徒になってやろう──。そんなふうに、アーサーが心の中で妥協案を出している間に、車は宿泊中の外資系ホテルに到着した。
 車を降りると予想どおりのサウナのような外気に辟易としたが、大股の早足でホテルの中に飛びこむ。すでに三泊しているホテルなので、エントランスやフロントの従業員はアーサーとエミーの顔を覚えていた。『おかえりなさいませ』と笑顔で迎えてくれるドアマンに軽く手を上げて応える。
 フロント近くのコンシェルジュカウンターにいた女性従業員が、アーサーたちを見つけて素早く歩み寄ってきた。
『ミスター、先ほどからお客様がお待ちです』
 鷹揚に頷き、コンシェルジュに促されるままラウンジへ向かう。三階分が吹き抜けになっているウランジは、緑の芝生が美しい庭を見渡せるようにガラス張りになっていて、ゆったりとしたサイズの布張りソファが絶妙な間隔で置かれていた。
 ぐるりと見渡したが、日本支社で見かけたようなすらりとしたスーツ姿の日本人はいない。宿泊客と思われる年配の夫婦と、メガネをかけた黒髪の子供がぽつんと座っているだけだ。その子供の親らしき人間は近くにはいない。
 トイレにでも行っているのかなと思ったときだ。アーサーの横をエミーがすっと通り抜けた。
「坪内さん、お待たせして申し訳ありません」
 日本語で声をかけた相手は、メガネをかけた黒髪の子供だった──。
 唖然としているアーサーの視線の先で、坪内と呼ばれた子供は立ち上がる。歩み寄ったエミーの口元くらいまでしか身長がない。エミーはたしか百七十五センチくらいだ。いくらハイヒールを履いているからといって、その身長差はないだろう。坪内はおそらく百六十五センチくらいしかない。しかも黒髪はぼさぼさで額と耳、うなじを覆っている。どれだけ放っておくとこんなヘアスタイルになるのか聞きたいくらいだ。
 かけている黒縁メガネは人相不詳にさせていて、着ている服ときたら縫製が縒れたいかにも安物の半袖コットンシャツと、黒っぽいパンツ。このパンツはサイズが合っていないらしく、ウエストをぎゅっとベルトで締めていないと落ちてしまいそうなほどぶかぶかだった。
 足元は履き古した黒い革靴だ。よく見ると、ソファの横に使い古した雑巾のようなボストンバッグが置かれていた。もしかしなくとも、あれはこの男の持ち物か? 半袖シャツから伸びた腕は肘の関節がはっきりわかるほどに細く、体毛はほとんど見受けられない。おそらくエミーの腕のほうが十倍は逞しいだろう。それに、なぜか両手首にベージュ色のテーピングテープが巻かれている。ケガでもしているのだろうか。
 理想としていた日本語教師像がガラガラと崩れていく。あまりにもかけ離れていてショックが大きい。好みの男だったら日本語の勉強を少しくらいはやってみようと思っていたのに、なんてことだ。
「ここまで迷わずに来られました?」
「あ、はい、言われたとおりに駅からタクシーを使いました。タクシーなんて贅沢なもの、ほとんど使ったことがないんですけど……」
 エミーと坪内は日本語で会話をしている。アーサーにはさっぱり意味がわからなかった。
 こんな貧相な男がエミーにはキュートに見えるのだ。エミーは笑顔になっていた。いったいどういう趣味をしているのか、理解に苦しむ。
「坪内さん、紹介します。私のボスです。今回、日本語を教えてほしいのは、この人です」
 エミーがアーサーを振り返ると、坪内が顔を上げて見上げてきた。メガネの奥の目がいっぱいに見開かれて、黒目が零れ落ちそうになる。なぜそんなに驚くのか、アーサーにはわからない。自分はそれほど特異な容姿をしているわけではないと思うが。
『はじめまして、アーサー・ラザフォードです』
 坪内がぽかんと口を開けたままなにも言わないので、仕方なくアーサーのほうから名乗って右手を差し出した。坪内はハッと我に返ったように瞬き、慌てて右手を出してくる。
『は、はじめまして、トキヒロ・ツボウチといいます』
 元高校の英語教師だったはずだが、挨拶の発音はとても褒められたものではなかった。だが初対面でそれを指摘するほどアーサーは、ものがわからない子供ではない。そろりとおっかなびっくり出された坪内の右手を、やや強引に握った。想像以上に小さくて頼りない手だった。力任せにぎゅっと握ると坪内は痛そうに顔をしかめたが、アーサーは気づかないふりをした。エミーが睨んできたが無視をする。

「……とりあえず、座りましょう」
 エミーの提案で三人はソファに腰を下ろした。外資系のホテルだからか置かれた家具はすべてサイズが大きい。アーサーとエミーにはぴったりなのだが、坪内には大きすぎるのだろう、深く座ると足が完全に浮いてしまい身動きがとれなくなるようだ。そういえば、さっきは浅く座っていた。
「あ、あっ………」
 じたばたとしているのを、アーサーは冷たい目で眺める。バカじゃないかとしか思えない。
 エミーが手を貸して、坪内は浅く座りなおした。
『……お見苦しいところを……すみません………』
 しょんぼりと項垂れるくらいなら気をつけて座ればいいのに。
『では、さっそく本題に入りましょうか』
 エミーがビジネスバッグからファイルを取り出した。契約書がいつの間にか用意されている。
 アーサーがとりあえず会うことしか了承していないというのに。
『こちらが日本語授業に関する書類です。英語ですけど、よろしいですか? そしてこちらが、このホテルに宿泊する際の……』
『エミー』
 当事者を置いてけぼりにして話を進めないでほしい。さくさくと進めようとする秘書を遮るように呼んだが、無視された。
『エミー・ガーネット』
『一日の拘束は最短三時間、最長で五時間程度と考えています。報酬は月三十万円。もちろんホテル宿泊費は経費としてこちらが持ちます』
『エミー、ちょっと待て。私はまだ納得していないぞ』
 スペイン語で抗議をしたら、エミーがやっと振り向いてくれた。坪内はきょとんとしている。スペイン語はわからないようだ。それは好都合。
『ボス、いきなりスペイン語で、どうしましたか』
『どうしたもこうしたもない。私は日本語教師に会ってみるとは言ったが、レッスンを受けることには同意していないぞ。そもそも、なんだこの男は。私は最初、子供かと思った。こんな貧相な日本人、私はそばに置きたくない!』
 どうせ坪内には理解できない言語だ。アーサーは遠慮せずに言ってやった。エミーがちらりと坪内を見やってから、ため息をつく。
『ボス、脳内でどんなイメージを膨らませていたかだいたい想像はつきますが、車の中で言いましたよね。ボスの趣味に合うかどうかは微妙ですと。私としては、ボスの好みのタイプでないほうが安心です。色恋にかまけずに、勉強に専念することができますから。彼は誠実そうですし、紹介者は真面目で責任感が強い人だと高く評価しています』
『たとえ真面目で責任感が強くても、私は気に入らない。積極的に日本語を習得しようとしているわけじゃないんだ。せめて目の保養になるくらいの男を連れてきてもらわないと、私はヤル気を出さないぞ』
『目の保養になる男性を連れてきたら、それこそ別のヤル気が出てしまうでしょうが』
『そんなことはない』
『いいえ、あります』
 エミーは一歩も引かない態度で、いったん息を継いだ。
『ボス、もうひとつ、私が彼を適任者だと思った理由があります』
『なんだ?』
『彼はつい先日まで高校教師でした。一般企業とは接点がなかった人間です。仕事を欲してはいますが、金銭には困っていません。借金もないようです。我々のビジネスとは無縁なんです』
『…………なるほど………』
 エミーが言いたいことを察して、アーサーは渋面を作りながらも矛先を引っこめた。
 一般企業とは接点がないうえに、借金がなく金銭には困っていない──つまり、企業スパイの可能性が極めて低い、ということだ。
 敵対する企業との情報戦に業種は関係ない。たとえ保険会社だとしても、幹部の動きから経営に関する重要機密を察知されて足元をすくわれた例はいくつもある。坪内にはその心配がないとしたら、確かに安心してそばに置けるだろう。
『試用期間を設けることは、最初に話した雇用条件に盛りこんであります。とりあえず一週間。それでどうしても彼が気に入らないなら、別の教師を探しましょう』
 一週間の試用期間──。それだけ我慢すれば、もうちょっと目の保養になる日本語教師が来るかもしれない。エミーのことだから期待しないほうがいいかもしれないが。
『……わかった』
『賢明な判断です、ボス』
『ただし、一週間後に後任を探すことになるだろう。それでもいいか』
『もちろんです。ただ、彼がキュートには見えないという、ボスの審美眼を私は疑います』
 君のほうがおかしい、と言いたかったが、口では女に勝てないものだ。百倍になって返ってきそうだったので、アーサーは文句を呑みこむことにした。

   * * *

 日本語を教えることになったアメリカ人に会い、時広はものすごく驚いた。
 日時を指定されてやってきたホテルの豪華なラウンジだけでもビビっていたのに、現れたのは俳優並みにスタイルのいいハンサムだったのだ。しかも若い。外資系保険会社日本支社の支社長として来日したと聞いていたから、もっと年配の男だと思っていた。彼は三十代前半くらいだろうか。
 栗色の短い髪、猛禽類のような鋭い目、彫りが深くて鼻が高くて唇はほどよく厚みがあり、顎はがっしりとしている。日本人にはあまり見かけないくらい胸板が厚く、時広はうっかり見惚れてしまった。とても背が高くて、真夏なのに高級そうなスーツを着こなしていて、格好よかった。
 もっといい服を着てくればよかった──と後悔してももう遅い。いつも職場で身につけているような、普段着で来てしまった。身なりに気を使うことができるほどに、時広に余裕がなかったといえる。
 退職した昨日のうちに数日分の着替えだけ持って自宅を出て、時広は初めてビジネスホテルに泊まった。ホテルに泊まること自体がめったにないことなので、一泊七千円のベッドとテレビしかない簡素なビジホですら贅沢に思えて緊張した。それなのに、こんなに大きくて豪華な高級ホテルに足を踏み入れてしまい、時広は半端なく硬くなっている。ホテル名を聞いたときにネットで検索し、どの程度のレベルなのか調べればよかった。数カ月におよぶ予定の日本滞在中、ずっとホテル暮らしかもしれないから日本語教師も一緒にホテルで連泊──と大智に聞いて、もっとリーズナブルな価格のところだと思いこんでいたのだ。
 まさかこんなところに何カ月も泊まる人間がいるなんて。料金はいったいいくらになるのか、ざっと計算するだけで怖い。
 もしかして、このアーサー・ラザフォードという人は、セレブなのか。
 秘書のエミー・ガーネットという女性も、ハリウッド女優並みの美しさだ。時広よりも年上だと思われるが、同僚だった女性教師と比べると輝きっぷりが尋常ではない。容姿に自信があり、美容にも手間暇かけているのだろう。
 エミーは最初からフレンドリーだった。日本語が堪能で、一見、高慢そうな容姿からは想像できないくらい優しい物腰で接してくれた。だがアーサーはにこりともせず、仏頂面で時広を見下ろしている。東洋人を軽んじるタイプの人なのかもしれない。それとも、日本語を学ぶつもりがないのか──。
 ふたりはいきなり英語以外の外国語で話し始めてしまった。
(何語だろう……?)
 時広は日本語と英語しかわからない。英語だって、外国暮らしの経験などないし、留学したこともないので、訛りが強くなったりスラングを連発されたりすると意味がわからなくなってしまう。
(ケンカ、しているっぽいけど、どうしたんだろう)
 アーサーがなにかを抗議し、エミーがそれを宥めている感じがする。
(もしかして、俺が気に入らないとか、そういう話なのかな)
 時広自身が場違いで居心地が悪いと感じているのだから、アーサーが自分に相応しい教師ではないと思ったとしても不思議ではない。だがエミーは時広を雇う気らしい。
(ラザフォード氏に嫌われたとしたら、悲しいけど……仕方がないかな)
 なにしろ時広はとんでも思考のゲイにストーカーされてレイプされそうになるほど情けない人間で、仕事を失くしたばかりだ。どうしても卑屈な思考になってしまう時広の暗い雰囲気を、聡明そうなアーサーが感じないはずがない。
(せめて、試用期間だけでも……)
 試用期間だけで終わってもその分の報酬は支払われるというし、ホテル住まいをさせてもらえる。しばらく身を隠すつもりだったから、泊めてもらえるのはありがたい。しかもこんな高級ホテル。連泊する機会なんて、きっと二度とないだろう。
(それに………)
 ちらっとアーサーを盗み見る。エミーと話し合う横顔は、ファッション雑誌のグラビアを飾れるほどに決まっていて、男性的な魅力に溢れている。たとえフレンドリーでなくとも、こんなに素敵な人とお近づきになれるなんて──と、ついぼうっと見惚れてしまい、ハッと我に返って視線を逸らした。
 いったい自分はなにを考えているのか。日本語教師としてここに呼ばれてきたのに。アーサーは目を奪われるほどの美丈夫で、こうしてそばにいるだけで胸がときめきそうになってしまうけれど、彼は時広の生徒になる人だ。浮かれている場合じゃないと反省する。
 ふいにふたりが黙り、そろって時広を振り返った。アーサーにまともに見つめられて、いったんは鼓動を落ち着けていた心臓がドクンと飛び跳ねる。暑くもないのにじわっと額に汗が滲んだ。頬が赤くならないように、必死で平常心を保つ努力をする。
「坪内さん、とりあえず試用期間はレッスンが始まった日から一週間とします」
「あ、はい、わかっています」
「引き受けてくださいますか?」
「はい、ぜひ、お願いします」
「では、こちらの書類にサインしてください」
 差し出された書類をきちんと読んで、時広はサインした。一週間、このホテルに宿泊して、料金はすべて会社が持つという書類にも名前を書く。
「あ、あの、本当にここに泊めてもらえるんですか。すごく高そうなんですけど」
「できればここがベストですね。ボスには日本語の日常会話を学んでもらいたいので、一日一時間程度の授業のほかに、ランチやディナー、ティータイムを一緒に楽しみながらの会話も有効だと思っています。同じホテルのほうが、移動に手間がかからなくていいでしょう。ああ、どこかお好きなホテルがありましたか?」
 もしあるなら考慮すると言われて、時広は慌てた。そんなこだわりはない。というか、ほかのホテルなんか知らない。
「いえ、その、ありがとうございます。こんなに素敵なホテルは初めてなので、ちょっと恐縮してしまって……」
 時広は正直に気後れしていると告げると、エミーはわずかに目を見開き、ふっと慈悲深い笑顔になった。
「謙虚なんですね。さすがですわ」
「は?」
 なにが「さすが」なんだろう。首を捻った時広に、エミーはうふふふと笑うばかりだ。
 アーサーは無言で時広を眺めている。視線が気になるが、ただ観察されているだけのようなので、かしこまって座っているしかない。「なにか?」と訊ねる度胸はなかった。
「使用するテキストに関しては坪内さんにお任せします。必要なものを購入した場合は領収書をもらっておいてくださいね」
「わかりました」
 とりあえずテキストを選ばなければならない。実際に生徒に会ってみて、日本語をどれくらいわかっているのか確認してからと考えていた。
 大智からこの仕事の話を聞いた後で、大学の先輩後輩同期の中に似たような仕事をしている人間がいないか調べてみた。教育学部英語教育学科というクラスだったため、やはり都内の外国人向け語学学校で日本語を教えている人間がいた。すぐに連絡をとって少し話を聞いた。在学中はとくに親しい間柄ではなかったが、時広が真剣だったからか親切に話をしてくれ、テキストをいくつか購入できないか頼んでおいた。
「あの、ミスターはどのくらい日本語を理解していますか?」
「ボスは日本語をまったく知りません。こんにちはとありがとう、くらいの言葉なら聞いたことがあるかもしれませんが」
「そうですか」
 海外の支社に赴任してきたにしては、現地の言葉の挨拶すらおぼつかないとは──と疑問に思っていると、エミーが教えてくれた。
「実は、今回の赴任はピンチヒッターなんです。本来、別の社員が来るはずだったんですが、急病のためボスが代わりに」
「ああ、そういう事情があったんですか。でもガーネットさんが日本語ぺらぺらなので、ミスターは心強いですね」
「坪内さん、私のことはエミーと呼んでください」
「あ、はい……」
 にっこりと微笑まれて、時広はたじろぎながらも了解した。
「えっ……と、では僕のことも名字ではなく名前で呼んでください」
 エミーのようにゴージャスな美女と名前で呼び合う関係になるなんて、人生というのはわからないものだ。時広がもしゲイではなかったら、有頂天になっていたかもしれない。
『おい、いい加減に私がわからない言葉で話すのをやめてくれないか』
 アーサーが不機嫌さを隠さない声音で割って入ってきた。彼の言い分は正しい。ひとりだけ会話に加われず、意味もわからないとなれば不愉快になって当然だ。時広は慌てた。
『すみません。気配りが足りませんでした。そうですよね、今から日本語はやめましょう』
『あら、それではボスがいつまでたっても日本語を覚えられませんわ』
『日本語を交えて会話するのは、レッスンを始めていくつか単語を覚えてからにしましょう。ゼロの状態では意味がありません。さっそくテキストを探してきます』
 すっくとソファから立ち上がった時広だが、気負い過ぎたのかエネルギー不足か、くらっと眩暈がした。
『おいっ』
 とっさに抱えてくれたのは逞しい腕。スーツに包まれた分厚い胸に抱きこまれ、時広は目を白黒させた。
『どうした、体調が悪いのか? 顔色がよくないとは思っていたが』
『いえ、あの、ただのちょっとした貧血だと思います。そういえば、昼食を食べ損ねていました……。食欲がなくて』
『確かに日本の夏は暑すぎるが、そういうときこそ食べなければバテるだろう』
 言いざま、アーサーはひょいと時広を抱え上げた。横抱き、つまりお姫様抱っこだ。迫力のあるアーサーの顔が至近距離に迫り、思わず息を呑む。ドキドキレベルではない。心臓が止まってしまいそうなほどの衝撃に、時広は茫然として口をぱくぱくさせるだけだ。言葉が出ない。
『エミー、ひとまず部屋に連れていって、こいつを休ませよう。契約に関する話は後回しだ』
『わかりました』
 アーサーは時広を抱っこしたまま、すたすたとエレベーターの方へ歩いていく。広げた書類を手早くかき集めたエミーも、すぐについてきた。
 ホテルの従業員が驚いて『どうかなさいましたか』と訊ねてくるのを、『貧血らしい。大丈夫だと思うが、後で私の部屋にドクターを寄こしてくれないか』と答えている。
「あ、俺のカバン……」
 着替えと筆記具が入ったボストンバッグをソファの足元に置いたままだ。コンシェルジュの女性がさっと踵を返し、取ってきてくれた。エミーが受け取っている。時広が「すみません」と情けない顔をすると、エミーは安心させるように微笑んでくれた。
『あの、ミスター……自分で歩けます。それに、ドクターなんて大袈裟な……』
『うるさい。じっとしていろ。私は雇い主だ。黙って従え』
『でも、は…恥ずかしいです……』
『恥ずかしい? なにが? あんなところで倒れるほうが恥ずかしくないのか?』
 すみません、と蚊の鳴くような声で謝罪する。
『あの、でも、重いでしょう?』
『はあ? おまえのどこが重いというんだ? 私の実家で飼っているゴールデンレトリバーよりも軽いぞ。子供か』
 犬より軽くて子供と言われたことが時広にはショックだった。ガーンとなってしょんぼり項垂れた状態で運ばれる。フロントから見えるエレベーターホールではなく、さらに奥へと進むアーサーに、時広は戸惑った。こっちに医務室でもあるのだろうか。でもさっき部屋に運ぶと言っていたような。
 アーサーが足を止めたところに、エレベーターが一機だけあった。エミーが壁に埋めこまれた機器にカードをかざすと扉がするりと開く。普通のエレベーターではないようだ。きょとんとしている時広の様子に気づいたエミーが、説明してくれた。
「ボスは最上階のプレジデンシャルスイートに宿泊しています。これは専用エレベーターで、ほかのエレベーターでは上がれません。今後、ボスの部屋でレッスンをすることになると思いますので、このカードキーを渡します」
 エミーはカードキーをひらりと回して時広に見せてくれた。
「あなたの部屋は、申し訳ありませんがもう少し低い階の部屋になります」
「じゅ、充分です」
 最上階のプレジデンシャルスイート──。どこまで別世界なんだと、時広は開いた口が塞がらなかった。
 エレベーターは三人を乗せてぐんぐんと上昇し、最上階で停止した。開いた扉の向こうは、静寂に包まれた宮殿のように見えた。煌びやかでありながらシックでもある。
 時広を抱っこしているせいで両手が塞がっているアーサーの代わりに、またエミーがドアのロックをカードキーと暗証番号で解除する。部屋の中に入って、時広は驚愕した。
 玄関がある。時広が知るホテルの部屋というのは、入ってすぐにベッドがあって数歩も進めば壁に突き当たり、開かずの窓があるだけ──というものだ。だがここは違う。まるで絢爛豪華な別世界に迷いこんでしまったかのようだ。ピカピカに磨かれた大理石模様の床の美しい玄関があり、その向こうにはさっきまでいたラウンジに似た雰囲気の部屋があった。
 数歩どころか十数歩は進まないと壁には突き当らない空間にはソファとローテーブルが配置され、あちこちに置かれた花瓶からは生の花が溢れんばかりに活けられている。
 そして驚愕すべきは大きな窓だ。いつの間にか日が暮れて西の空をかすかに青く残していたが、一面に夜景が広がっていた。見覚えのある都庁のシルエットと、数えきれないほどの高層ビルが一気に視界に入ってきて、時広はただ茫然とした。
『どうした? 気分が悪いか?』
 抱っこされたままだったことを一瞬忘れていた。時広はアーサーに問われて、つい顔を見てしまう。また心臓が止まりそうになって、焦って目を逸らした。
『いえ、素晴らしい夜景に驚いただけです』
『そうか?』
 アーサーは夜景には特に心を動かされてはいないようだ。この部屋にもう何泊もしているのなら、見慣れていて今さらなのかもしれない。
『とりあえずソファでいいか? なんならベッドでも……』
『ソファでいいです!』
 アーサーのベッドに寝かされたらたまらない。昼間のうちに清掃が入ってきれいにベッドメイクされているだろうが、一晩でもアーサーが眠ったベッドだと思うだけで──今度は息が止まりそうになる。アーサーにそっと降ろされて、時広はホッとしつつソファに座った。
 ぐるりと部屋を見渡すとベッドがない。実際にスイートルームに泊まったことはないから知識でしか知らないが、ベッドルームは別になっているのだろう。庶民中の庶民である自分が、まさかこんな高級ホテルの最上階に足を踏み入れることになるなんて、びっくりだ。
 エミーがどこからかミネラルウォーターのペットボトルを持ってきてくれた。受け取ると冷えている。もしかして冷蔵庫があるのは別の部屋なのか。いったい何部屋あるんだ。
『お水、いただきます』
『どうぞ』
 お礼を言ってから口をつけた。冷たい水が喉を流れ落ちていく心地よさに、時広はホッと息をつく。体力が落ちていたところにずいぶん緊張していたから、倒れそうになってしまったのだろう。
 柴田のことがあってから、なかなか寝つけない夜がある。浅い眠りが続くと嫌な夢を見た。眠らなければ疲れが溜まるばかりなのに、眠れば嫌な夢で疲弊する。そんな毎日で食欲はなく、ずいぶんと体重が落ちてしまった。体重計に乗っていないから正確な数字はわからないが、ベルトの穴が二つほど内側になっている。
 時広はソファの背凭れに体重を預けた。この部屋のソファはラウンジにあったものよりクッションとスプリングが硬く、小柄な時広が深く座っても沈むことはなかった。
 片手にペットボトルを持ったまま、ぼんやりとしていると、しだいに眠気が襲ってくる。
 昨夜はビジネスホテルに泊まったわけだが、よく眠れなかった。薄い壁の向こうに人の気配がして、気になってならなかったのだ。隣の部屋にいるのが知っている人なら、そんなに気にならなかっただろう。実際、大智が家に泊まってくれていた間、眠りは浅かったけれど信頼している友人の気配に安堵することのほうが多かった。
 アーサーとエミーがなにか話しているのが聞こえる。また英語以外の言語で会話をしているようだ。意味はわからない。けれど、同じ部屋に誰かがいる──しかも自分に害をなす人たちではない──という安心感からか、四肢から力が抜けていく。
 自覚している以上に疲れがたまっていたようだ。空腹なのに、それよりも睡魔が勝って、ついうとうとしてしまう。
『おい、なにか食べるか? ルームサービスでも頼もうか』
 低音の美声が時広を目覚めさせようとした。『おい、眠いのか?』と、今度はすごく近くで声がする。
『こんなところで寝るな。小柄だから足がはみ出なくて眠れるだろうが、ベッドのほうが体を休めるにはいいに決まっている』
『坪内の部屋はこのフロアより十階下です』
『面倒だな。私のベッドに寝かしておくか』
『ボス、変な悪戯はしないでくださいよ』
 悪戯ってなんだろう……? 半分眠りながら頭の隅っこで考える。
『おい、抱き上げるぞ。いいか?』
 肩に手が掛かり、ぐらりと揺すられて、時広はハッと目を覚ました。と同時にまたもや至近距離にあるアーサーの顔にびっくりする。ヒッと息を呑み硬直した時広から、アーサーが鼻白みながら体を離した。
『ずいぶん嫌われたものだな』
『いえ、違います。嫌うなんて、とんでもない。今のは、ちょっとびっくりしただけです』
 慌てて弁明したが、アーサーは明らさまに時広から距離を取った。さっき、仲良くなれなくても……と思ったが、やはりそんな態度をとられると悲しくなる。
『…………あの、俺の部屋はどこでしょうか。そっちで休みます』
 ここにいるとさらに迷惑をかけたり、誤解されたりしてしまう。これ以上、アーサーに嫌われたくない。
 エミーがカードキーと暗証番号をメモした紙片を渡してくれた。それを受け取って、ボストンバッグを手にする。
『ひとりで大丈夫ですか?』
『大丈夫です。申し訳ありませんが、今日はこれで失礼させてもらってもいいですか? 本当にすみません』
『できればディナーを一緒にと思っていたのですが、まずは体調を整えてもらったほうがいいですね。ルームサービスの料金は部屋代に加算されるので好きなものを頼んでもらっていいです。今夜はゆっくり休んでください。明日の朝、私たちは八時半にはここを出て会社へ向かう予定です。その前に一度顔を出してもらえませんか?』
『わかりました』
 時広は油断するとふらつきそうになる体に鞭打って、なんとかスイートルームを出た。エレベーターで一階まで下がり、一般客室用のエレベーターに乗り換えてからカードキーに明記されている部屋番号を頼りに上階へ上がり、自分に与えられた部屋を探した。
「あった……」
 カードキーと暗証番号でドアを開け、時広はまた硬直した。
「嘘………」
 スイートではなかったが、昨夜のビジネスホテルの部屋が軽く五室くらいは入ってしまいそうな広さだった。ダブルサイズのベッドがどんと置かれ、周囲のスペースは充分ゆとりがある。ひとり掛けのソファが二つ窓際にあり、やはり大きな窓からは夜景が見えた。
「こんな部屋に、泊まっていいのか? いったいいくらするんだ?」
 茫然としながらふらふらとベッドに腰掛け、夜景を眺める。しばらく茫然と動けないでいたが、手首がむず痒くなってきて我に返った。
 テーピングテープをゆっくりと剥がしていく。擦過傷の痕を隠すために、大袈裟で目立つ包帯以外になにがあるだろうかとドラッグストアをうろついて、このテープを購入した。貼ってみたらうまく隠すことができてよかったと思ったのだが──皮膚があまり強くないからか、剥がした痕がぐるりと赤くなっている。絆創膏でもメーカーによってはかぶれることがある時広にとって、このテープの粘着力は強かったようだ。
「明日、どうしよう……」
 傷を隠さない、という選択もある。ほとんど目立たなくなってきたから、なにもしなくてもアーサーは気づかないかもしれない。だが……時広自身が傷を見たくないのだ。
 これを目にすると、どうしても柴田を思い出す。あのときの恐怖と、屈辱と、絶望を。
「……一晩で、治らないかな……」
 赤くなってしまったところが治まってくれれば、またテープを巻けばいいのだが。
 時広は剥がしたテープを丸めると、ため息をつきながらゴミ箱に投げ入れた。

   * * *

 ふらふらと部屋を出ていった日本人の後ろ姿が、アーサーは気になって仕方がなかった。
『エミー、彼はいったいどういう人間なんだ?』
 アーサーは自分の頭脳に自信がある。度胸もそこそこあるし、損得を考えることもできるので、今まで要領よく生きてきた。生家はもともと地元の有力者で財産があり、子供時代にひもじい思いをしたことはない。勉強すればそれなりの成績を取ることができていたし、スポーツだってちょっと真剣にトレーニングすれば満足できる結果を出すことができた。容姿だって及第点だ。特別な美形というほどではないが、どこかに整形が必要だと思ったことはない。
 三十歳のこの年まで、アーサーは大きな挫折を経験したことがなかった。それにどこかで妥協点を探して諦めることが合理的ならそうしてきた。だが───。
『どう、とは? なにが聞きたいんですか』
 エミーに聞き返されたが、アーサーは自分の中で、もやもやしたものをうまく言葉にすることが難しかった。
『……坪内は本当に二十八歳なのか』
『戸籍を確認したわけではありませんが、虚偽ではないようです。二十二歳で大学を卒業後、私立高校に英語教師として就職。それから五年と四カ月、教鞭をとってきました。単純計算で二十八歳ですね』
 むむむむ、とアーサーが唸ったのを、エミーが愉快そうに見やってくる。
『信じられませんか? 東洋人は一般的に若く見えますからね』
『あれは若いというレベルではないだろう。小柄にもほどがある。持ち上げたときの軽さといったら、まるで羽が生えているのかと疑うほどだったぞ』
『羽? 天使の羽ですか? まさか……ボス、よこしまな意味で彼に興味を持ったわけではないですよね』
 ギラッと殺意すら感じられるように睨みつけられ、「どこが天使だ」と突っこもうとしたが、アーサーはもうこれ以上、坪内について言及するのはやめようと決めた。
 間近で見たときの肌のきめ細かさだとか、黒縁メガネに隠された大きな目の艶やかさとか、まつ毛の長さとか、アーサーと視線が合ったときの初心な戸惑いとか──そんなことを口にしたら小一時間はエミーの説教を聞かされそうだ。
 アーサーにとって、坪内はまったく好みのタイプではない。だが、今まで付き合ったことのないタイプであるのは確かで、少しばかり興味がそそられていた。エミーには言わないが。
 それに、ひとつ確信したことがある──。
(……坪内は、ゲイだな……)
 アーサーへの態度とエミーへの態度の違いを観察していて、そう思った。
 普通の男にとって、エミーは非常に魅力的なはずだ。だが坪内はエミーではなく、アーサーをかなり意識していた。抱き上げたときの動揺ぶりは決定的だった。本人は必死だったのかもしれないが、顔を赤くしてじたばたともがいていた様子は笑いを誘った。なんでもない表情を装うのが苦痛だったほどだ。
 あんなにも明らさまな反応をされたのは初めてかもしれない。もしかして、彼はチェリーボーイなのか。いや、まさか。二十八歳にもなって。でも。
(……あり得るような気がする……)
 なにせここは不思議の国ニッポンだ。二十八歳の元高校教師がチェリーボーイだからといって、驚愕には値しない──と思う。
 ちょっかいをかけたら、面白いかもしれない。
 坪内がいったいどんなリアクションをしてくれるのか、明日からが楽しみになってきたアーサーだった。

   * * *

 テープの下の皮膚がむず痒い。
 時広は両手首をしきりに気にしながら自分が泊まった部屋を出て、エレベーターに乗った。一階まで下りてわざわざエレベーターを乗り換えるのは面倒だが、最上階に行くためにはそれしか方法がないから仕方がない。
 八時半にはホテルを出るとエミーが言っていたので、時広は八時にアーサーの部屋を訪問した。
 ドアを開けてくれたのはエミーだ。昨日と似たような半袖ブラウスとタイトスートという、清楚でありながらもどこか女性らしさを印象づけるファッションで決めている。エミーは時広同様、このホテルのどこかに泊まっているらしい。
「おはようございます」
「時広、昨夜はよく眠れましたか? 少し顔色がよくなっているように見えます」
「はい、眠れました。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
 エミーがそう感じたとおり、時広は昨日よりかはいくぶんマシな体調になっていた。ぐっすり七時間睡眠とはいかなかったが、このホテルまで絶対に柴田は追ってこないという安心感は大きい。
 高級ホテルなので壁も分厚いのか、それとも防音がしっかりしているのか、隣の部屋の物音が気になることもなかった。明け方にまた嫌な夢でうなされて起きてしまったが、これはもうどうしようもないので諦めている。柴田に拉致監禁されたときの恐怖は、きっと時間が解決してくれるだろう。この先何カ月、何年かかるかはわからないけれど。
「いいタイミングです。さっきボスの朝食が終わりました」
 玄関を入ってすぐのソファセットが置かれた部屋には誰もいなかった。その隣には八人くらいが囲める大きなダイニングテーブルが置かれた部屋があり、アーサーはそこにいた。コーヒーを飲みながらタブレットでなにかを読んでいる。
 おそらくここはダイニングルームなのだろう。では隣はリビングルームなのか。ホテルの中なのに、スイートルームの面積はきっと一般的な家一軒よりも広い。
 窓から差しこむ朝の光を浴びながら、アーサーはその名のとおり王のように堂々として見えた。
 昨日とは違うスーツを着ている。薄いブルーグレーの生地は、夏らしく清々しい印象だ。若造が粋がって身に着けてみても、アーサーほどには着こなせないだろう。濃紺のネクタイが首にぶら下がったままで、ワイシャツの第一ボタンが外れている。リラックスした姿に男の色気を感じる。つい、見惚れてしまいそうになった。
『ボス、時広が来ました』
 エミーの声にアーサーが顔を上げた。硬質な視線をまともに受けてしまい、心の準備をしてきたにもかかわらず、時広は心臓を飛び上がらせてしまう。
 赤くなるな、と己の顔面細胞に命令するが、果たしてどれほどの効果があっただろうか。
 なんとか目を逸らして、『おはようございます』と朝の挨拶だけは噛まずに告げた。
『おはよう。昨日よりは元気そうだな。エミー、彼にコーヒーを』
『あ、えっ? 僕は……』
『時広、こちらにどうぞ』
 朝っぱらから座りこんでアーサーと差し向かいでコーヒーなんか──と固辞しようとしたが、エミーがにっこり笑顔で椅子を引くものだから、断れなくなってしまう。
 時広はおずおずと椅子に座った。アーサーの斜め前という場所だ。
『すぐに持ってきます』
 エミーが歩いていった方を何気なく見ると、なんとキッチンがあった。ホテルの客室内にキッチン? びっくりだ。
『坪内、私も君のことを時広と呼んでもいいかな?』
「えっ?」
 聞き間違いかと思って、時広はまじまじとアーサーを見つめてしまう。彼は口角を上げて目を細めた。ハンサムの流し目は破壊力がある。性懲りもなく時広は心臓を跳ねさせ、慌てて視線を逸らした。
『私も君を時広と呼びたい。これから私の教師になるのだから、距離を縮めていけたらいいと思うのだが』
『あ、は、はい、どうぞ……』
 昨日の態度から、アーサーには嫌われてしまったかもと落ちこんでいただけに、今朝の柔らかな雰囲気は素直に嬉しい。
『では、私のこともアーサーと呼んでくれ』
『ア、アーサー……ですか……。難しいですが、頑張ります』
『難しい? なにが難しいのかな』
 そっと盗み見るようにしてアーサーを窺うと、柔らかく笑っている。時広は深く俯いた。きっと頬が赤くなっている。耳も赤くなっているかもしれない。首まで赤くなっていないことを祈るしかない。
『時広は今日、私が仕事に行っている間、なにをするつもりなんだ?』
『えっ……と、アーサーのためのテキストを選びます。日本語教師をしている大学の同期に、相談に乗ってもらうことになっています。今日の午前中は授業がないというので、会ってきます』
『なるほど。では、そのテキスト選びが終われば、ほかには特に予定はない?』
『授業の進め方を予習しようと思っていますが、それ以外にはないですね』
『では、私のほうからひとつ……いや、ふたつ、注文がある』
『なんでしょう?』
 時広が訊ねるタイミングでエミーがコーヒーカップを運んできてくれた。時広の前に置いてくれる。
『今日の午後、君はヘアサロンに行け。髪を整えてもらってきてくれ。その後、ブティックへ行って、服を買う。OK?』
『……え……』
 時広は自分の体を見下ろした。ヘアサロンとブティック──ということは、身だしなみを整えろということか。そんなにひどい有様なんだろうか。救いを求めるようにエミーを見ると、彼女も目を丸くしていた。
『ボス、本気で命令していますか?』
『私が冗談を言っているように見えるなら、君は秘書としてまだまだだな』
 アーサーがふっと笑ってテーブルに肘をつく。そのポーズがまた計算され尽くしたように美しい。
『わかりました。では、私が時広に付き添います。ヘアサロンとブティックですね。サロンの予約は?』
『コンシェルジュに頼んだ。後で君の携帯端末に店のデータを送るように言っておこう』
『ブティックは私が選んでもよろしいですか?』
『君に任せる』
『楽しみです。時広とふたりでショッピングなんて』
 当事者抜きでどんどん話が進められていく。同意していないのに、これは雇用主の絶対命令というやつだろうか。
『あの、僕の外見が洗練されていないのはわかっています。ヘアスタイルとかファッションにはあまり興味がなくて……。でも、僕は今そんなに持ち合せがありません』
 一週間でここをクビになる可能性があるのだ。そうしたらまた無職になってしまい、仕事を探さなければならない。できるだけ切り詰めた生活をしたかった。
『清潔感には気をつけていますから、それで勘弁してもらえれば……』
『ダメだ。私はみすぼらしい人間を身近に置きたくない。中身はすぐにどうこうできないだろうから、せめて見た目だけは整えてもらいたい。費用は心配しなくていい。これも経費だ』
『えっ、これも経費ですか?』
 これも経費という言葉のインパクトに、その直前に吐かれた暴言をスルーしてしまった。エミーがアーサーを眇めた目で睨んだが、時広は気がつかなかった。
 そしてその日の午後、時広はエミーに連れられてヘアサロンに行った。こんなことでもない限り、絶対に時広が足を踏み入れない雰囲気のヘアサロンだった。芸能人も来るような有名店らしく、本来なら予約は二カ月待ちらしいが、運のいいことにキャンセルがあって時広を受け入れてくれたと聞いた。おしゃれな格好をした若い男性美容師に「どんなふうにカットしましょうか」と問われても、時広は答えられない。鏡越しにエミーに助けを求めると、彼女が美容師と話をしてくれた。それから一時間ほどでカットは終わった。
「かわいいです、時広」
 仕上げのブローをされて、改めて鏡を見ると、垢抜けた印象の若者が映っている。エミーは感激したように頬を紅潮させていた。今回、ヘアカラーはやっていない。カットしただけなのにずいぶんと雰囲気が変わったように見えて、当人の時広もしばし唖然とした。
 美容師は満足げに頷いている。
「すごく軽くなったでしょう。髪を洗った後は、こうして手櫛でサイドに流す感じで整えて」
 最後にオススメというヘアクリームを買わされて、ヘアサロンを後にした。
 次は服を買わなくてはならない。エミーが目をつけているというブランドの店にタクシーで連れていかれた。ちょっとした移動にタクシーを使うという発想がない時広には、どうしても贅沢に思ってしまう。だがエミーは慣れているのか、平然としていた。
「ところで、時広」
「なんですか」
「私とこんなふうに出歩いていて、恋人に浮気だと勘違いされませんか?」
 いきなりなんのことかと、時広はぽかんとした。ゲイなので、女性と並んで歩いていてもなにがどうなるとか、まったく考えていなかった。
「あの、その点については大丈夫です。僕に恋人はいません」
「あら、そうだったんですか。もったいない。時広は真面目だし誠実だし、美点がたくさんあるのに」
 時広はつい苦笑してしまった。
「こんなところでお世辞を言っても、なにも出ませんよ。僕はまったくモテないんですから。自分でよーくわかっています」
「時広がモテない? そんなことはないでしょう」
「いいえ、モテません」
 ただでさえゲイで出会いが少ないのに、外見が野暮ったくて性格が暗そうで話術も下手だったらモテるわけがない。
「では、今までの恋人とはどうやって付き合うようになったんですか?」
「今まで? それは……」
 時広は言葉に詰まって視線を泳がせた。いかにもモテそうなエミーは、二十代半ばを過ぎた男が一度も人と付き合ったことがなくて未経験などとは思ってもいないのだろう。
 適当に答えておけばよかったのだろうが、あいにくと時広は嘘がつけない性分だ。
「…………その………、僕は誰とも付き合ったことがないので………」
「……えっ?」
 エミーが本気で驚いた表情をした。ごくごく小さく「オーマイガー……」と呟いたのを、時広は聞いてしまって、とてもいたたまれない思いをしたのだった。

   * * *

『ミッション完了』
 そんなメールが届いたのは、仕事を終えてホテルに戻る途中の車の中だった。
 アーサーは写真がいっさい添付されていないことに首を傾げる。いつも完璧な秘書ぶりを見せつけてくるエミーにしては珍しい。ヘアカットをすませ、エミーの見立てで服を購入したのなら、時広の様子を写真に撮って送るべきだろうに。
『今から戻る。今夜は時広とふたりでディナーだ。時広にそう伝えておいてくれ』
 エミーにそうメールを送ると、すぐに『ボスと時広をふたりきりにはさせられません』と返ってきた。行儀悪くチッと舌打ちする。
『私を含め三人でのディナーにしましょう。いいですね?』
 いいもなにも、エミーはもう決めている。こっそりと時広を連れ出してもエミーは追いかけてくるだろう。いつでもどんなときでも有能さを発揮する女だ。仕方がない。
『わかった。店の選択は任せる』
『OK、ボス』
 携帯端末を操作しながら笑っているエミーが見えるようだ。まあ、いきなりふたりきりよりエミーがいたほうが、時広は硬くなりすぎることもなく食事ができるだろう。
『どんなふうに変わったのか、見たいな……』
 あの野暮ったい時広がどれほどの変身を遂げたのか、早く見たくてたまらない。エミーが写真を送ってこないのは、もしかして実物の時広を見たときのアーサーの反応に期待しているからかもしれない。
『まあ、多少小綺麗になったところで、元が元だからな』
 ふふんとアーサーは鼻で笑い、携帯端末をスーツのポケットに落とす。
 とりあえず試用期間の一週間は受け入れることにした。だったらせめて身なりを整えてほしいと思うのは、人として当然だろう。時広が汚らしいというわけではない。標準的な日本人らしく、たぶん毎晩風呂に入り衣服も毎日取り替えていると思われるが、いかんせん、美しくない。
 ヘアスタイルにもファッションにも興味がないという人間が、アーサーは好きではなかった。
 人は見た目が重要だ。社会人ならなおさらで、第一印象で仕事の成果が決まることもある。なにも美容に凝れとは言わない。最低限でいいから、自分の魅力を自分で探り、よりよく見せる努力をしてほしいと思うのだ。アメリカのビジネス界では常識だ。
 性格とか能力による魅力は、付き合っていくうちに次第にわかってくるもので、それ以前に外見でシャットアウトする人間だっているということを、時広はわかっていない。
 大学を出てすぐに教師として働きだしたせいかもしれない。私立学校という閉鎖的な環境で、限られた同僚と波風立てないように過ごし、行儀のいい十代の生徒たちを相手に淡々と授業をこなしていく仕事だ。外に出て営業する必要もなく、生徒たちに媚びることもなく、むしろ質素を好まれる職業を何年も続けていれば、時広のようになるのだろう。
『時広の後任は、女でもいいからもう少し目の保養になる人物がいいな……』
 つい願望が口からぽろりと零れる。だがエミーはアーサーのそんな願望を汲んでくれるとは思えない。いや、日本語を覚えてほしいのは本心だろうから、今度こそ見目麗しい人物を探してくるかもしれないが。
『それに期待しよう』
 やはりすっきりと目鼻立ちが整ったオリエンタルビューティーがいいな──と、そんなことばかりを考えているうちに、車がホテルに到着した。
「お帰りなさいませ」
 ドアマンが会釈で迎えてくれる。そういえば、このホテルの従業員はそこそこ容姿が整っている者が多い。よく訓練されているようで立ち居振る舞いもガサツなところがなく、優雅だ。
 いつもは冷房が効いた建物内に一秒でも早く入りたくて早足になるアーサーだが、意識的に速度を緩めた。通り過ぎざまにドアマンの顔をじっと見る。彼のほうも「おや?」という感じで見つめ返してきた。凛々しい眉とまっすぐに視線を向けてくる黒い瞳がいい。時広よりもよほどオリエンタルビューティーではないか。
 ふっと微笑み、「ただいま」と返した。ドアマンは余裕の態度で目礼してくる。
(ふむ………まんざらでもないという感じか……?)
 滞在しているホテルの従業員に手を出したらエミーに叱られそうだが、どうしようか。男娼を買ったほうが後腐れがなくていいのか。
 アーサーはまだ三十歳と若い。日本に来てから忙しかったせいもあるが、まったくそういった遊びをしていなかった。そろそろ発散したいと思う。自国に戻れば体の付き合いの男が何人かいるが、日本にはまだいない。明日も彼に会えたら、ちょっと誘ってみようかな──と笑みを浮かべながらよこしまなことを考える。
 専用エレベーターで最上階へ上がり、プレジデンシャルスイートに入った。そのタイミングで携帯端末にまたメールが届く。エミーからだった。
『館内の日本料理店で時広と一緒に待っています』
 あと二分早く知らせてくれれば最上階まで上がってこなかったのに、とぶつぶつ独り言を呟きながら、アーサーはエレベーターへと引き返した。
 館内にはさまざまなレストランが入っていて、日本料理店は二階にある。フレンチとイタリアンの店は利用したが、日本料理店はまだだった。今や日本食レストランは世界中にある。N.Y.にもたくさんあり、アーサーも付き合いで日本人シェフが腕を揮う本格的な店で食事をしたことがあった。なるほど、ものすごくヘルシーで美味かった。だが値段も高かった。日本以外で本物の日本食を楽しもうとすれば大枚をはたかないといけないのはわかる。二度と食べたくないとは思わなかったが、アーサーには少し軽かった。あの金額なら、別の国の料理を食べたほうが満腹になる。
 紺色の暖簾がかかった店に入ると、作務衣姿の若い女性が「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。連れが来ているはずだと告げると、すぐに奥の個室に案内される。畳の部屋だったら苦手だなと思っていたが、テーブル席だった。そこにいたのは──。
『時広か……?』
 エミーと歓談していた青年がアーサーの入室と同時に立ち上がった。
 さっぱりと髪を短くして野暮ったい黒縁ではなくメタルフレームのメガネに替えた時広は、一気に垢抜けて見えた。さらに夏らしいリネンのシャツとマリンブルーのスリムシルエットのパンツ、足元は白いスニーカー。マリンリゾートを楽しむ学生のように若々しく、けれど子供っぽくはなく、時広を魅力的に見せていた。
『これは驚いた。ずいぶんとすっきりしたじゃないか』
 アーサーは素直に賛辞を口にした。時広は照れたように俯いて、耳を赤くしている。
『どうです、ボス。なかなかいいでしょう。私が見立てたんですよ』
 エミーが得意げに胸を張ったが、今夜ばかりは許そうと思う。これならそばに置いても見苦しくない。アーサーは上機嫌で席に着いた。正方形のテーブルを三人で囲む。コース料理が注文してあるらしく、すぐに食前酒が運ばれてきた。
『生まれ変わった時広に乾杯』
 アーサーがちょっとおどけてそんなふうに言うと、時広はまたほのかに頬を染めて俯く。白い肌にサッと朱が刷かれる様はなかなかに美しい。今朝までの時広とはすごいギャップがあった。
 なるほどキュートだ。エミーが言うように、アーサーの審美眼は狂っているのかもしれない。多少狂っているとしても、まあいいかと思う。そばに置くなら、むさ苦しいものより美しいもののほうが気持ちいい。
『時広、という名前は少し呼びにくいな。トキと呼んでもいいか?』
 思いつきで口にしたことだが、エミーが手を叩いて賛成した。
『ボス、とてもいい案です。トキという鳥がいるのを知っていますか? トキは学名をニッポニア・ニッポンといって、純日本産は絶滅しています。以前はありふれた鳥だったそうですが、環境破壊と乱獲により激減して、今では大変に貴重で珍しい鳥です。白い羽を広げると内側が美しい朱鷺色なんだそうです。今のように頬が赤く染まった時広にぴったりですね』
『そうか』
 アーサーは自分の提案に賛同者がいて満足した。時広は戸惑ったようにアーサーとエミーを交互に見ている。目が合ったのでにっこりと優しく微笑んでやると、カーッと首まで朱色に染まった。面白い。

『トキ……。美しい響きです。希少価値が高いという点でも、鳥のトキと時広は同じですね』
 エミーは食前酒で酔ったのか、ふふふと笑いながら意味不明なことを言う。希少価値が高いとは、いったいどういうことなのか。目で問うと、エミーがスペイン語で説明してくれた。
『時広はこの年まで誰とも付き合ったことがないそうです。二十八歳ですよ。信じられますか?』
『………本当か』
 アーサーはスペイン語が理解できなくてきょとんとしている時広をまじまじと見つめた。
『もしかしたらまったく経験がないのかもしれません。さすが不思議の国ニッポンです』
『エミー、いったいどうやってそんな話を聞き出したんだ?』
『今、恋人がいるのかどうか聞いただけです。時広はいないと答えました。そして誰とも付き合ったことがないと』
 アーサーは思わず時広の全身を舐めるようにじっくりと眺めてしまった。この細い体は無垢なのか。誰の手垢もついていないというのか。二十八歳にもなって、童貞なのか。
 うっかり興奮しそうになって、アーサーは時広から視線を外した。些細な興味が、無意識のうちに膨れあがって大きな好奇心に変わりつつある。まずい傾向だ。ちょっとばかりつついて反応を楽しむだけのつもりだったのだが──。
『ボス、トキをハンティングの対象にしないでくださいよ』
『………私の好みではない』
『好みでなくとも手を出すことはできますから。今、ボスの目、獲物を狙う獣みたいになっています』
『見るな。気がついても黙っておけ』
『対象がトキでなければ私だって黙っていますよ』
 ぼそぼそとスペイン語でやり取りをしていたら、時広は不安そうな表情になっていた。理解できない言語で話されていては、そうなるのは当然だろう。
『トキ、すまない。ちょっと内密の話があったものだから、君にわからない言葉で話してしまった』
『いえ、いいです。僕が部外者なのは本当なので』
 寂しそうに微笑む時広から、嫌味で言っているのではないことがわかり、彼の控え目な性格がよく見てとれた。
 その後、食事は和やかなムードで進んだ。さすが本場の日本料理は絶品だった。品数も多く、充分胃を満たしてくれた。店を出るとき支払いを気にした時広に、エミーがルームサービスと同様に部屋の料金に加算されるので気にしないようにと告げたところ、また驚いていた。
『トキ、これから私の部屋で少し日本語のレッスンをしてくれないか』
『あ、はい。わかりました。では、僕は部屋に寄ってテキストを取ってきます』
『私も行こう。君がどんな部屋に泊まっているのか見てみたい』
「ええっ?」
 びっくりして拒もうとした時広に構わず、アーサーはエミーに目的階のボタンを押させる。シングルの部屋を用意していることは聞いていたが、部屋番号までは知らなかった。
 戸惑っている時広にやや強引に案内させて、部屋まで行く。ドアのロックを解除するときに時広は躊躇ったようだが、結局は開けてくれた。
「……どうぞ」
 アーサーは遠慮なく中に入った。プレジデンシャルスイートのベッドルームがそのままここに来たような感じだ。低層階だが窓からの眺めもそんなに悪くない。
 ワードローブがないのだろう、今日買わせた衣類が入っていると思われるファッションブランドの紙袋が部屋の隅にまとめて置かれている。ドアを入ってすぐの場所にクローゼットはあったので、そこに片付けるしかない。
『なにか不都合はあるか?』
『いえ、なにもありません。こんなに広くて綺麗な部屋に泊めてもらって、ありがたいと思っています』
『そうか』
 アーサーはぐるりと部屋を見渡し、デスクの上にテキストらしい冊子が数冊と、ベージュ色のテープとハサミがあるのに気づいた。ちらりと時広を見やると、両手首にそれが巻かれている。視線を感じているせいではなく、無意識のうちに時広は手首をもう片方の手で擦るようにしていた。
『トキ、ひとつ聞きたいんだが』
『はい、なんでしょう』
『その手首はどうしたんだ?』
 訊ねたとたんに、時広はすっと表情をなくした。両手を隠すように背中に回してしまう。
『………どうもしていません。気にしないでください』
『気になるから聞いている。ケガをしたのか? それにしては普通に両手を使っている。さっき食事をしているときも、まったく支障がなさそうだった。どうしてそんなテープを巻いているんだ』
 時広は口をぐっと引き結び、俯いた。のろのろとデスクに歩いていき、テキストを手に取る。
『………テキストはこれです。アーサーの部屋に行きましょうか』
『質問に答えてほしい』
『日本語の授業をするのに、僕の手首は関係ありません』
『いや、関係ある。私の気持ちが乱れるじゃないか。その手首はいったいどうしたんだろうと考えながらレッスンするのか?』
 時広が明確な答えを口にするまで、アーサーは引くつもりがなかった。なぜそんなに知りたいのかわからないが、とにかく気になる。
 時広はしきりに瞬きして、なんとか言い逃れる方法はないかと考えているのがわかった。
『教えてくれないなら、私は実力行使にでるかもしれない。それでもいいか?』
『実力行使って………』
 時広が愕然とした目で見つめてくる。子供のように無防備に心情を表す男だ。少しくらいは隠す術を持たないと、悪い人間に簡単に騙されてしまいそうだ。
『トキの両手を掴んでテープを剥がしてもいいか?』

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