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◇2章 赤の王
青の王もシアンもいない宮殿は、どこか閑散として感じられた。王を守る近衛兵の姿もないため、ひっそりとしていた。
部屋に向かうと、ルリはすでに起きていた。
「ヒソク様、のどをどうなさったのです。赤くなっていらっしゃいます」
「ああ……首輪をつけていたので、こすれてしまったようです」
用意した言い訳をくちにしたが、ルリは眉をひそめた。
両手首のあとはもっとひどく、皮がめくれるほどだが、大きな腕輪をつけているおかげで、ルリには見つからずに済んだ。
「顔色も白いようですし、お加減が思わしくないのでは?」
「ルリ様は調子が良さそうですね。そろそろ、通常の食事を召し上がりますか? やわらかいものばかりで飽きられたでしょう」
「いいえ。ヒソク様の食事は、どれも美味しいですよ。ずっと病人食でも良いくらいです」
ルリはにこりとほほえんだ。それで俺も胸があたたかくなった。
「良かったら、今日は夕食と一緒に、アイスクリームを召し上がりますか?」
「本当に? うれしい。わたくし、あれが一番好きです。甘くて冷たくて、溶けてしまうのがもったいないくらい」
そう言われて、俺はにっこりした。
同じように、アイスクリームを好きだと言っていた人を思い出した。多めに作って、ハクに渡してみよう。
ルリの体調は本当に悪くないようで、ほおは淡く染まっていたし、金の髪にもつやが戻ってきていた。ゆるい三つ編みにした髪を肩にかけ、ほほえむ姿は、外からの光を浴びてきらきらとまぶしいほどだった。
けれど、首にはくっきりと傷が残っていた。
「ルリ様には、申し訳なく思っております。俺のせいで、こんなひどい怪我を負われて。俺にできることでしたら、なんでもおっしゃってください」
「なにを言われるのです」
ルリは、空色の目を丸くした。
「聞けば、ヒソク様は術師としてこの王宮に来られたとか。わたくしのほうこそ、側女のような扱いをして申し訳ありませんでした。どうぞ、わたくしのことはルリとお呼びください」
俺は首を横にふった。
そして、羽のティンクチャーを、きちんと隠せているか気になった。ルリが青の王と好きあっているのならば、気にするかもしれないと焦った。
今さらな心配だったが、抱かれたばかりで真っ青に浮かび上がったそれを、ルリに見せるのは気が引けた。
侍女の話によると、ルリは侍女長を務めていた。俺がやってきた時のように、ハリームに召し上げられた女たちを、王のもとへ連れて行く役目も担っている。
ルリにそんなことをさせている青の王が、憎らしくなった。
「ルリ様は、シャーとは昔からのお知り合いなのですか。シアン様とは子どもの頃からのお付き合いだとうかがいました」
「シャーから聞いたのですか?」
こくりとうなずくと、ルリは目を細めた。
「そう……ですね。シアン様もわたくしも、王宮で育ちました。アジュール様はわたくしたちよりも4つ年上で、東方のご出身でした。争いの絶えない土地で育たれ、子どもの頃に青の宮殿にいらしたのです」
「東方……」
ルリは本棚から地図を持ってきて、床に広げた。初めて見るシェブロンの全土は、こぼした水のようにいびつな形をしていた。
「戦によって領土を広げたため、このように四方に伸びた形になったのでしょう。ここは西方です。ヒソク様が暮らされていたところですね」と、地図の左下を指さした。
地図の中心は王都だった。ルリはひとさし指を、王都の右側に滑らせた。
「ここが東方です。アジュール様が暮らしていた頃、東方は青の王の領土でしたが、今は黒の方が治めておいでです」
「ええと、黒の王が東方で、緑の王が西方で、赤の王が南方を領土にしているから……シャーはいま北方を治めているのですか?」
ルリはくすりと笑った。
「いいえ、北方は紫の王の領土です。アジュール様は王都のある『中央』を治めるパーディシャーです」
「パーディシャー?」
俺は初めて聞く言葉に、首をかしげた。
「『中央』を治める王を、そう呼びます。パーディシャーは他の4人の王を従える権限も持っているので、『王の中の王』とも言われています。ヒソク様は、東方と隣り合っていた小国をなんというかご存じですか?」
「ええと……たしか、ヴェア・アンプワントです」
ルリに話してもらったばかりの、王宮の歴史を思い返して答えた。
「7年ほど前に東方の領土になったのですよね。資源が豊富な国で、それまで大国と領土を奪い合っていたとか。大国の名は、サルタイアーでしたでしょうか」
「ええ、そのとおりです。サルタイアーは東方から北方にまたがるほどの大きな国です」
斜め上に伸びた形の東方のまわりをぐるりと指さした。
「サルタイアーとの戦争に勝ち、ヴェア・アンプワントを手に入れた功績によって、現王になる少し前に、青の王が黒の王に代わり『中央』を治めることになったのですよ」
「あの、現王ってシャーのことですよね? シャーが王宮に来た時は、まだ青の王ではなかったということですか?」
「……え?」
ルリはふわりと首をかしげた。言い間違いだろうか?
困った表情を浮かべたルリを見て、余計なことを言ってしまったような気がして、あわてて話題を変えた。
「黒の王は、東方を治めることに納得しているのですか? 他の王よりも強い権限があるなら、パーディシャーでいたかったのではないですか」
「そうですね」と、ルリは本を手にとって、なかほどをひらいた。
「パーディシャーの地位をめぐってこれまでも、たびたび、王同士の争いがありました。この章に書かれています。まずご自分で読まれて、わからないところがあれば、わたくしがあとでお読みしますね」
「ルリ様は教えるのがお上手ですよね」
俺はくちをとがらせた。知らないことはすぐに聞きたくなるたちなのに、いつもさわりだけで、あとは、自分で読んでみるようにうながされる。
何も知らない状態から読み始めるよりはとっつきやすく、好奇心に負けやすい俺には巧いやり方だった。
「ヒソク様は、いい生徒ですよ。本当はわたくしよりシアン様に教わるほうがよろしいのですけど。あの方は博識ですから」
「シアン様は、昔から本がお好きだったのですか?」
「ええ、子どもの頃から、王宮一の学士になると言われていました。アジュール様は反対に勉強がお嫌いで、星を見るほうが楽しいとおっしゃっていましたよ」
意外な気がした。青の王は、シアンに無理やり、星の話を聞かされたと言っていたのにと、少しおかしくなった。
「仲が良ろしいんですね」
「いいえ、アジュール様が王宮に来るまで、わたくしとシアン様は、顔を合わせたこともありませんでした。わたくしは他の王の子どもだったから、住んでいる宮殿も違ったんです」
「どうやって、知り合ったんですか?」
「わたくしがこっそり青の宮殿に忍び込んだのです」
「──ええっ!? ルリ様が!?」
ルリは小さく、「ふふ」と笑った。
「内緒ですよ。おふたりに、青の宮殿で暮らしたいなら、青の侍女になればいいと言ってもらいました。昨日のことのようなのに、もう十年も経つのですね」
そう言って、ルリは部屋の外をながめた。慈しむようなまなざしで、誰もいない庭を見た。
「ヒソク様は、運命というものが、あると思われますか?」
「運命、ですか」
「学士になるはずだったシアン様が、近衛兵になったのも、他の宮殿で生まれたわたくしが青の侍女になったのも、シャーのお力です。他を狂わせてでも、自分の運命に沿わせる力が、シャーにはあるのです」
それは決して、恋人のことを話すくちぶりではなかった。ルリの透き通るような声音に酔った。頭がしびれたようになって声がふるえた。疑問がくちをつく。
「ルリ様は、どの宮殿で生まれたのですか」
彼女は悲しげに首をかしげただけで、答えをくちにしなかった。
「はあ……」
「なにを、ため息ついてるんです?」
「うわっ。ハクさんじゃないですか。びっくりした」
「それはあたしの台詞ですよ。声をかけても気づかないし、そんなに集中して考え事ですか」
ハクは水の入った壺を持ちあげながら、そう尋ねた。
「もしかして、昨夜遅くまでここにいたから、叱られたんですか? 今朝も調理場に来なかったから、心配していたんですよ」
「たいしたご用事ではなかったですよ。西方へ向かわれるので、そのお話でした」
「そうですか? ならいいんですが……」
まだ心配げな視線を投げかけてくる。俺は大丈夫だと言うかわりに、水の入った壺を持ちあげようとした。
「わ、重いですね」
「姫さんのような、華奢な方には無理ですよ。足がふらふらしているじゃないですか」
ハクは壺を2つかかえた。調理場に入ると、昨夜のことがあったおかげか、調理人たちが声をかけてくれる。
「遅かったじゃないか。寝坊かい、お姫さん」
「え、あはは。昨日は久しぶりに夜ふかししてしまったから、起きられなくて」
「情けないなあ、あの時間なら、まだ宵の口だろ」
「よく言うよ。おまえも野菜を切りながら、寝ていただろ。こんな小さい子と一緒ってのが情けないねえ」
調理人たちとわいわい騒ぐのは、素直にうれしかった。
もしかしたら、調理場にはあまり来られなくなるかもしれない。ルリが回復すれば、俺が出入りする理由はなくなってしまう。それが残念だった。
俺はハクにこっそりと耳打ちした。
「今日はアイスクリームを作るので、赤の方の分も一緒にお作りしますか?」
「あの冷たい菓子ですか。ギル様は喜ばれるでしょうが、侍従になんと言われるか」
青の王もシアンもいない宮殿は、どこか閑散として感じられた。王を守る近衛兵の姿もないため、ひっそりとしていた。
部屋に向かうと、ルリはすでに起きていた。
「ヒソク様、のどをどうなさったのです。赤くなっていらっしゃいます」
「ああ……首輪をつけていたので、こすれてしまったようです」
用意した言い訳をくちにしたが、ルリは眉をひそめた。
両手首のあとはもっとひどく、皮がめくれるほどだが、大きな腕輪をつけているおかげで、ルリには見つからずに済んだ。
「顔色も白いようですし、お加減が思わしくないのでは?」
「ルリ様は調子が良さそうですね。そろそろ、通常の食事を召し上がりますか? やわらかいものばかりで飽きられたでしょう」
「いいえ。ヒソク様の食事は、どれも美味しいですよ。ずっと病人食でも良いくらいです」
ルリはにこりとほほえんだ。それで俺も胸があたたかくなった。
「良かったら、今日は夕食と一緒に、アイスクリームを召し上がりますか?」
「本当に? うれしい。わたくし、あれが一番好きです。甘くて冷たくて、溶けてしまうのがもったいないくらい」
そう言われて、俺はにっこりした。
同じように、アイスクリームを好きだと言っていた人を思い出した。多めに作って、ハクに渡してみよう。
ルリの体調は本当に悪くないようで、ほおは淡く染まっていたし、金の髪にもつやが戻ってきていた。ゆるい三つ編みにした髪を肩にかけ、ほほえむ姿は、外からの光を浴びてきらきらとまぶしいほどだった。
けれど、首にはくっきりと傷が残っていた。
「ルリ様には、申し訳なく思っております。俺のせいで、こんなひどい怪我を負われて。俺にできることでしたら、なんでもおっしゃってください」
「なにを言われるのです」
ルリは、空色の目を丸くした。
「聞けば、ヒソク様は術師としてこの王宮に来られたとか。わたくしのほうこそ、側女のような扱いをして申し訳ありませんでした。どうぞ、わたくしのことはルリとお呼びください」
俺は首を横にふった。
そして、羽のティンクチャーを、きちんと隠せているか気になった。ルリが青の王と好きあっているのならば、気にするかもしれないと焦った。
今さらな心配だったが、抱かれたばかりで真っ青に浮かび上がったそれを、ルリに見せるのは気が引けた。
侍女の話によると、ルリは侍女長を務めていた。俺がやってきた時のように、ハリームに召し上げられた女たちを、王のもとへ連れて行く役目も担っている。
ルリにそんなことをさせている青の王が、憎らしくなった。
「ルリ様は、シャーとは昔からのお知り合いなのですか。シアン様とは子どもの頃からのお付き合いだとうかがいました」
「シャーから聞いたのですか?」
こくりとうなずくと、ルリは目を細めた。
「そう……ですね。シアン様もわたくしも、王宮で育ちました。アジュール様はわたくしたちよりも4つ年上で、東方のご出身でした。争いの絶えない土地で育たれ、子どもの頃に青の宮殿にいらしたのです」
「東方……」
ルリは本棚から地図を持ってきて、床に広げた。初めて見るシェブロンの全土は、こぼした水のようにいびつな形をしていた。
「戦によって領土を広げたため、このように四方に伸びた形になったのでしょう。ここは西方です。ヒソク様が暮らされていたところですね」と、地図の左下を指さした。
地図の中心は王都だった。ルリはひとさし指を、王都の右側に滑らせた。
「ここが東方です。アジュール様が暮らしていた頃、東方は青の王の領土でしたが、今は黒の方が治めておいでです」
「ええと、黒の王が東方で、緑の王が西方で、赤の王が南方を領土にしているから……シャーはいま北方を治めているのですか?」
ルリはくすりと笑った。
「いいえ、北方は紫の王の領土です。アジュール様は王都のある『中央』を治めるパーディシャーです」
「パーディシャー?」
俺は初めて聞く言葉に、首をかしげた。
「『中央』を治める王を、そう呼びます。パーディシャーは他の4人の王を従える権限も持っているので、『王の中の王』とも言われています。ヒソク様は、東方と隣り合っていた小国をなんというかご存じですか?」
「ええと……たしか、ヴェア・アンプワントです」
ルリに話してもらったばかりの、王宮の歴史を思い返して答えた。
「7年ほど前に東方の領土になったのですよね。資源が豊富な国で、それまで大国と領土を奪い合っていたとか。大国の名は、サルタイアーでしたでしょうか」
「ええ、そのとおりです。サルタイアーは東方から北方にまたがるほどの大きな国です」
斜め上に伸びた形の東方のまわりをぐるりと指さした。
「サルタイアーとの戦争に勝ち、ヴェア・アンプワントを手に入れた功績によって、現王になる少し前に、青の王が黒の王に代わり『中央』を治めることになったのですよ」
「あの、現王ってシャーのことですよね? シャーが王宮に来た時は、まだ青の王ではなかったということですか?」
「……え?」
ルリはふわりと首をかしげた。言い間違いだろうか?
困った表情を浮かべたルリを見て、余計なことを言ってしまったような気がして、あわてて話題を変えた。
「黒の王は、東方を治めることに納得しているのですか? 他の王よりも強い権限があるなら、パーディシャーでいたかったのではないですか」
「そうですね」と、ルリは本を手にとって、なかほどをひらいた。
「パーディシャーの地位をめぐってこれまでも、たびたび、王同士の争いがありました。この章に書かれています。まずご自分で読まれて、わからないところがあれば、わたくしがあとでお読みしますね」
「ルリ様は教えるのがお上手ですよね」
俺はくちをとがらせた。知らないことはすぐに聞きたくなるたちなのに、いつもさわりだけで、あとは、自分で読んでみるようにうながされる。
何も知らない状態から読み始めるよりはとっつきやすく、好奇心に負けやすい俺には巧いやり方だった。
「ヒソク様は、いい生徒ですよ。本当はわたくしよりシアン様に教わるほうがよろしいのですけど。あの方は博識ですから」
「シアン様は、昔から本がお好きだったのですか?」
「ええ、子どもの頃から、王宮一の学士になると言われていました。アジュール様は反対に勉強がお嫌いで、星を見るほうが楽しいとおっしゃっていましたよ」
意外な気がした。青の王は、シアンに無理やり、星の話を聞かされたと言っていたのにと、少しおかしくなった。
「仲が良ろしいんですね」
「いいえ、アジュール様が王宮に来るまで、わたくしとシアン様は、顔を合わせたこともありませんでした。わたくしは他の王の子どもだったから、住んでいる宮殿も違ったんです」
「どうやって、知り合ったんですか?」
「わたくしがこっそり青の宮殿に忍び込んだのです」
「──ええっ!? ルリ様が!?」
ルリは小さく、「ふふ」と笑った。
「内緒ですよ。おふたりに、青の宮殿で暮らしたいなら、青の侍女になればいいと言ってもらいました。昨日のことのようなのに、もう十年も経つのですね」
そう言って、ルリは部屋の外をながめた。慈しむようなまなざしで、誰もいない庭を見た。
「ヒソク様は、運命というものが、あると思われますか?」
「運命、ですか」
「学士になるはずだったシアン様が、近衛兵になったのも、他の宮殿で生まれたわたくしが青の侍女になったのも、シャーのお力です。他を狂わせてでも、自分の運命に沿わせる力が、シャーにはあるのです」
それは決して、恋人のことを話すくちぶりではなかった。ルリの透き通るような声音に酔った。頭がしびれたようになって声がふるえた。疑問がくちをつく。
「ルリ様は、どの宮殿で生まれたのですか」
彼女は悲しげに首をかしげただけで、答えをくちにしなかった。
「はあ……」
「なにを、ため息ついてるんです?」
「うわっ。ハクさんじゃないですか。びっくりした」
「それはあたしの台詞ですよ。声をかけても気づかないし、そんなに集中して考え事ですか」
ハクは水の入った壺を持ちあげながら、そう尋ねた。
「もしかして、昨夜遅くまでここにいたから、叱られたんですか? 今朝も調理場に来なかったから、心配していたんですよ」
「たいしたご用事ではなかったですよ。西方へ向かわれるので、そのお話でした」
「そうですか? ならいいんですが……」
まだ心配げな視線を投げかけてくる。俺は大丈夫だと言うかわりに、水の入った壺を持ちあげようとした。
「わ、重いですね」
「姫さんのような、華奢な方には無理ですよ。足がふらふらしているじゃないですか」
ハクは壺を2つかかえた。調理場に入ると、昨夜のことがあったおかげか、調理人たちが声をかけてくれる。
「遅かったじゃないか。寝坊かい、お姫さん」
「え、あはは。昨日は久しぶりに夜ふかししてしまったから、起きられなくて」
「情けないなあ、あの時間なら、まだ宵の口だろ」
「よく言うよ。おまえも野菜を切りながら、寝ていただろ。こんな小さい子と一緒ってのが情けないねえ」
調理人たちとわいわい騒ぐのは、素直にうれしかった。
もしかしたら、調理場にはあまり来られなくなるかもしれない。ルリが回復すれば、俺が出入りする理由はなくなってしまう。それが残念だった。
俺はハクにこっそりと耳打ちした。
「今日はアイスクリームを作るので、赤の方の分も一緒にお作りしますか?」
「あの冷たい菓子ですか。ギル様は喜ばれるでしょうが、侍従になんと言われるか」