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俺はあわてて首を横にふった。
ハクは俺の首の切り傷に目をとめ、「それ……」と手を伸ばした。
その手を侍女が強く叩いた。
「星見のヒソク様の前ですよ。頭を下げて礼をつくしなさい」
侍女の凛とした声に、ハクは呆然とした。
「星見……?」
ハクはまじまじと、俺を見つめた。そして、ぎこちなく頭を下げると、ゆっくり調理場へ向かって歩きだした。その背中は、かなしんでいるようにも見えた。
俺はひきとめる言葉を持っていなかった。ハクをだましたのも心配させたのも、すべて俺のせいだった。くちびるを噛んで、言い訳したい気持ちをふり払った。
胸に黒いティンクチャーをしるされた、双子の少女を思い出す。
ヒソクを同じ目に遭わせることはできなかった。そのためには、黒の宮殿に入り込むしかない。
セーブルから渡された、銀の細工を取り出した。4頭の馬が絡み合う飾りに、禍々しいものを感じた。セーブルは人を喰う馬だと言っていた。
飾りを見せれば、黒の宮殿にはいつでも入れる。俺は袋にしまって、見つからないように棚の奥に隠した。
同じ場所に隠しておいた、革の袋を取り出す。指輪をはめた。赤い石は、暗がりでもキラキラと輝く。飛び上がりたいほど、うれしい気持ちでいっぱいになる。
この指輪をつけて、赤の宮殿へ行くことはきっとない。けれど、ギルがこれを俺にくれたことがうれしかった。
また会いにくると言った。優しい声を噛みしめれば、その時だけはすべて忘れてしあわせになれた。
寝台に寝転がって、左手を天井にかざす。
もしも俺が青の宮殿ではなく赤の宮殿に連れてこられていたら、どうなっていただろう。
俺がヒソクではないと知っても、ギルなら助けてくれたのではないか。
そうしたら今頃は、ヒソクとふたりで赤の宮殿に置いてもらえたのではないか。
俺は毎日彼のために料理をつくって、あの部屋でヒソクと子猫と一緒にシャトランジを楽しんで、そうして夜はあの静かな庭園で、ふたりで星をながめたかもしれない。
ヒソクが好きだ、と。
ささやかれたあの続きは、まったく別のものに変えられたのかもしれなかった。
あんなふうに好きだと言われることは生まれてはじめてで、それがどれほど自分を熱くするのか俺は知った。
好きだと答えることになんのためらいもない立場なら良かった。
赤のティンクチャーをつけてギルのそばにいたかった。
ギルは俺を偽物のヒソクとしてではなく、セージとして見てくれるだろう。
それは夢のような話で、かなしいくらいにしあわせな想像は俺の心を少しだけなぐさめた。
袋に戻そうとしてそっと指輪を外す。
「なにをしているのです」
突然の声にびくりとして、俺は指輪を取り落とした。
カツンと冷たい音を立てて床に落ち、部屋に入ってきたシアンの足元に転がった。
俺があわてて寝台に身体を起こすのと、彼がさっと指輪を拾い上げるのは同時だった。
いぶかしげにそれを明かりに照らして、そこに赤い石が嵌められていることに気づいて、無表情な男は顔色を変えた。
「赤の装身具ではないか。これはどういうことだ」
俺は声が出ないことを恨んだ。
寝台から飛び降りて、返してもらおうとシアンの腕に飛びついた。それをかわして彼は逆に俺の腕をつかむと、後ろ手にひねった。
床にひざをつくと、シアンは俺に指輪を見せて問いかけた。
「これはなんだ。自分で買い求めたものか? 私物はすべて王宮に入る時に取り上げられたはずだ。一体、どこから盗んだ」
俺はぶるぶるふるえて、彼の手にある指輪を目で追った。
ただそれを取り上げられるのが怖かった。
「この宮殿で、赤の装身具は扱われない。まさか赤の宮殿へ行ったのか」
それはもう質問ではなく断定で、俺は血の気が引くのを感じた。
足音がして、シアンは入口に視線をやった。
部屋に入ってきたルリがシアンに気づき足を止め、それから背後から組み伏せられた俺に気づいて盆を取り落とした。
食器は割れはしなかったが、ひどい音をたてた。
「シアン様、なにをなさっているのです!」
ルリは駆け寄ってくると、俺の腕を押さえつけていたシアンの前にひざまずいた。
守るように俺の肩に手をふれる。
「どうしてこんなことをされるのです。ヒソク様は昨夜まで寝つかれていて、起き上がられたばかりなのですよ。声も失われているのになんてひどいことを」
「病み上がりの者がどうして正装してカテドラルにいたのだ」
「え?」
戸惑ったルリの声に俺は身をふるわせた。
「ルリ、おまえも術師にたぶらかされているのではないか。この者は知らぬ間に赤の宮殿に入り込み、このようなものを掠めているのだ」
赤い石の埋め込まれた指輪を見せられて、ルリは息をのんだ。しかし、すぐに気を張り直して、シアンを見た。
「わたくしが、ヒソク様に銀貨をさしあげました。お好きなものを買ってくださいと申し上げたのもわたくしです。自分のお金でなにを買い求めようとも、ヒソク様の自由ではございませんか」
「赤の王に通ずる色を身につけることは、シャーを裏切ることになる」
「お待ちください。シアン様ともあろう博識のお方が、そのようなことをおっしゃらないでください。シャーへの忠誠から、青色を身にまとうことが常識とされていますが、処罰を受けるほど厳しい規定はありません」
シアンはちらりと俺を見下ろした。
心臓がうるさいくらいに鳴っていて、ふたりの声が頭の中で反響した。
「宮殿では常識だ。この者は青の術師なのだぞ」
「わたくしは、ヒソク様が赤い指輪を身につけているのを、見たことはございません。気にいって買い求められても、わきまえて、人前でつけるのをよされているのです」
ルリは説得したが、シアンはそれでも疑わしげだった。見せつけるように、俺の目の前に指輪をさし出した。
俺は食い入るように、指輪を見つめた。
「では、赤の王とはなんの関係もなく、赤の指輪を買い求めたというのか」
俺は首を縦にふるだけのこともできず、固まった。
必死に俺をかばっていたルリが、不思議そうに「ヒソク様」とささやいて青い瞳をまたたかせた。
シアンのこれ見よがしなため息が聞こえた。
急に腕を解放されて、乱暴に床に叩きつけられた。とっさのことで身を守ることもできず、頭を床に強くぶつけた。
「嫌疑が晴れるまで、これは預からせてもらう」
そう言い残して、シアンが去る。
ルリは俺を抱き起こすと、床にぶつけた頭をさすってくれて、「大丈夫ですか」と心配そうに声をかけた。
けれど俺は、彼女にはかまわず立ち上がった。頭の痛みによろめきながら部屋を飛び出て、シアンが歩いて行った方向へと走り出す。
「ヒソク様!」
ルリの悲鳴を無視して走った。
暗い廊下は薪の明かりしかなくて、姿を見失いそうになったけれど、必死にあとを追う。
指輪のことしか考えられない。あれは替えのきかない大切なものだ。捨てられたら耐えられない。俺以外の誰にも、さわられたくなかった。
庭園にさしかかると、俺はシアンがどこへ向かっているのかがわかって、いっそう気持ちが焦った。
この先には、青の王の部屋がある。
シアンを呼び止めたかった。のどからは、ひゅうひゅうという、荒い息しか出なかった。シアンは青の王の部屋の前で足を止め、見張りの兵になにか話しかけた。
あと少しで追いつくところで、俺は声をかけられた。
「ヒソク?」
ふり向くと、青の王が立っていた。
「こんなところでなにをしている」
怒気をはらむ低い声に身がすくんだが、それよりも隣に立つギルに気づいて呆然とした。
薪の光がギルの薄い色の髪をちらちらと赤く照らしていた。
彼もまた驚いたように目を丸くして俺を見ている。
青の王が近づいてきて腕をつかもうとしたので、とっさにそれをふり払った。ギルの見ている前でふれてほしくなかった。
けれどその程度の抵抗では男の前ではないに等しくて、シアンがやったように肩をきめられて、王の身体に引き寄せられる。
「アジュール様、乱暴はやめてください」
ギルの焦った声がした。その声は取り乱したものではなかったが、隠しきれない怒りを含んでいて、俺はつかまれた腕にじわりと汗をかいた。
おそるおそる青の王を見上げれば、ひたりとギルに焦点をあわせて、刺すようにその顔を見ていた。
「どうされた、赤の王」
声から楽しそうな空気を感じ取って、その瞬間、俺はだめだと思った。罠にかかる猫を見ているような、残酷な響きだった。
ギルはこんなところにいてはいけない。早く青の王のもとから逃げてほしかった。
ぱくぱくとくちを動かしたけれど、ギルに届く言葉は出てこなかった。もどかしくて肩が折れそうなほど痛いのも忘れて暴れる。
「シャー、このようなところでどうされたのです」
シアンの声がして、俺は指輪のことを思い出した。
彼は俺と青の王を見て、それから立ちつくしているギルを認めると慇懃に頭を下げた。
それから悠然と顔を上げて彼に話しかけた。
「これは赤の方。このような遅くにお約束もなく王を訪れるとは、なにか急ぎの御用でしょうか。王とはいえ謁見される場合は、側近に話を通してからいらしていただかないと困ります」
ハクは俺の首の切り傷に目をとめ、「それ……」と手を伸ばした。
その手を侍女が強く叩いた。
「星見のヒソク様の前ですよ。頭を下げて礼をつくしなさい」
侍女の凛とした声に、ハクは呆然とした。
「星見……?」
ハクはまじまじと、俺を見つめた。そして、ぎこちなく頭を下げると、ゆっくり調理場へ向かって歩きだした。その背中は、かなしんでいるようにも見えた。
俺はひきとめる言葉を持っていなかった。ハクをだましたのも心配させたのも、すべて俺のせいだった。くちびるを噛んで、言い訳したい気持ちをふり払った。
胸に黒いティンクチャーをしるされた、双子の少女を思い出す。
ヒソクを同じ目に遭わせることはできなかった。そのためには、黒の宮殿に入り込むしかない。
セーブルから渡された、銀の細工を取り出した。4頭の馬が絡み合う飾りに、禍々しいものを感じた。セーブルは人を喰う馬だと言っていた。
飾りを見せれば、黒の宮殿にはいつでも入れる。俺は袋にしまって、見つからないように棚の奥に隠した。
同じ場所に隠しておいた、革の袋を取り出す。指輪をはめた。赤い石は、暗がりでもキラキラと輝く。飛び上がりたいほど、うれしい気持ちでいっぱいになる。
この指輪をつけて、赤の宮殿へ行くことはきっとない。けれど、ギルがこれを俺にくれたことがうれしかった。
また会いにくると言った。優しい声を噛みしめれば、その時だけはすべて忘れてしあわせになれた。
寝台に寝転がって、左手を天井にかざす。
もしも俺が青の宮殿ではなく赤の宮殿に連れてこられていたら、どうなっていただろう。
俺がヒソクではないと知っても、ギルなら助けてくれたのではないか。
そうしたら今頃は、ヒソクとふたりで赤の宮殿に置いてもらえたのではないか。
俺は毎日彼のために料理をつくって、あの部屋でヒソクと子猫と一緒にシャトランジを楽しんで、そうして夜はあの静かな庭園で、ふたりで星をながめたかもしれない。
ヒソクが好きだ、と。
ささやかれたあの続きは、まったく別のものに変えられたのかもしれなかった。
あんなふうに好きだと言われることは生まれてはじめてで、それがどれほど自分を熱くするのか俺は知った。
好きだと答えることになんのためらいもない立場なら良かった。
赤のティンクチャーをつけてギルのそばにいたかった。
ギルは俺を偽物のヒソクとしてではなく、セージとして見てくれるだろう。
それは夢のような話で、かなしいくらいにしあわせな想像は俺の心を少しだけなぐさめた。
袋に戻そうとしてそっと指輪を外す。
「なにをしているのです」
突然の声にびくりとして、俺は指輪を取り落とした。
カツンと冷たい音を立てて床に落ち、部屋に入ってきたシアンの足元に転がった。
俺があわてて寝台に身体を起こすのと、彼がさっと指輪を拾い上げるのは同時だった。
いぶかしげにそれを明かりに照らして、そこに赤い石が嵌められていることに気づいて、無表情な男は顔色を変えた。
「赤の装身具ではないか。これはどういうことだ」
俺は声が出ないことを恨んだ。
寝台から飛び降りて、返してもらおうとシアンの腕に飛びついた。それをかわして彼は逆に俺の腕をつかむと、後ろ手にひねった。
床にひざをつくと、シアンは俺に指輪を見せて問いかけた。
「これはなんだ。自分で買い求めたものか? 私物はすべて王宮に入る時に取り上げられたはずだ。一体、どこから盗んだ」
俺はぶるぶるふるえて、彼の手にある指輪を目で追った。
ただそれを取り上げられるのが怖かった。
「この宮殿で、赤の装身具は扱われない。まさか赤の宮殿へ行ったのか」
それはもう質問ではなく断定で、俺は血の気が引くのを感じた。
足音がして、シアンは入口に視線をやった。
部屋に入ってきたルリがシアンに気づき足を止め、それから背後から組み伏せられた俺に気づいて盆を取り落とした。
食器は割れはしなかったが、ひどい音をたてた。
「シアン様、なにをなさっているのです!」
ルリは駆け寄ってくると、俺の腕を押さえつけていたシアンの前にひざまずいた。
守るように俺の肩に手をふれる。
「どうしてこんなことをされるのです。ヒソク様は昨夜まで寝つかれていて、起き上がられたばかりなのですよ。声も失われているのになんてひどいことを」
「病み上がりの者がどうして正装してカテドラルにいたのだ」
「え?」
戸惑ったルリの声に俺は身をふるわせた。
「ルリ、おまえも術師にたぶらかされているのではないか。この者は知らぬ間に赤の宮殿に入り込み、このようなものを掠めているのだ」
赤い石の埋め込まれた指輪を見せられて、ルリは息をのんだ。しかし、すぐに気を張り直して、シアンを見た。
「わたくしが、ヒソク様に銀貨をさしあげました。お好きなものを買ってくださいと申し上げたのもわたくしです。自分のお金でなにを買い求めようとも、ヒソク様の自由ではございませんか」
「赤の王に通ずる色を身につけることは、シャーを裏切ることになる」
「お待ちください。シアン様ともあろう博識のお方が、そのようなことをおっしゃらないでください。シャーへの忠誠から、青色を身にまとうことが常識とされていますが、処罰を受けるほど厳しい規定はありません」
シアンはちらりと俺を見下ろした。
心臓がうるさいくらいに鳴っていて、ふたりの声が頭の中で反響した。
「宮殿では常識だ。この者は青の術師なのだぞ」
「わたくしは、ヒソク様が赤い指輪を身につけているのを、見たことはございません。気にいって買い求められても、わきまえて、人前でつけるのをよされているのです」
ルリは説得したが、シアンはそれでも疑わしげだった。見せつけるように、俺の目の前に指輪をさし出した。
俺は食い入るように、指輪を見つめた。
「では、赤の王とはなんの関係もなく、赤の指輪を買い求めたというのか」
俺は首を縦にふるだけのこともできず、固まった。
必死に俺をかばっていたルリが、不思議そうに「ヒソク様」とささやいて青い瞳をまたたかせた。
シアンのこれ見よがしなため息が聞こえた。
急に腕を解放されて、乱暴に床に叩きつけられた。とっさのことで身を守ることもできず、頭を床に強くぶつけた。
「嫌疑が晴れるまで、これは預からせてもらう」
そう言い残して、シアンが去る。
ルリは俺を抱き起こすと、床にぶつけた頭をさすってくれて、「大丈夫ですか」と心配そうに声をかけた。
けれど俺は、彼女にはかまわず立ち上がった。頭の痛みによろめきながら部屋を飛び出て、シアンが歩いて行った方向へと走り出す。
「ヒソク様!」
ルリの悲鳴を無視して走った。
暗い廊下は薪の明かりしかなくて、姿を見失いそうになったけれど、必死にあとを追う。
指輪のことしか考えられない。あれは替えのきかない大切なものだ。捨てられたら耐えられない。俺以外の誰にも、さわられたくなかった。
庭園にさしかかると、俺はシアンがどこへ向かっているのかがわかって、いっそう気持ちが焦った。
この先には、青の王の部屋がある。
シアンを呼び止めたかった。のどからは、ひゅうひゅうという、荒い息しか出なかった。シアンは青の王の部屋の前で足を止め、見張りの兵になにか話しかけた。
あと少しで追いつくところで、俺は声をかけられた。
「ヒソク?」
ふり向くと、青の王が立っていた。
「こんなところでなにをしている」
怒気をはらむ低い声に身がすくんだが、それよりも隣に立つギルに気づいて呆然とした。
薪の光がギルの薄い色の髪をちらちらと赤く照らしていた。
彼もまた驚いたように目を丸くして俺を見ている。
青の王が近づいてきて腕をつかもうとしたので、とっさにそれをふり払った。ギルの見ている前でふれてほしくなかった。
けれどその程度の抵抗では男の前ではないに等しくて、シアンがやったように肩をきめられて、王の身体に引き寄せられる。
「アジュール様、乱暴はやめてください」
ギルの焦った声がした。その声は取り乱したものではなかったが、隠しきれない怒りを含んでいて、俺はつかまれた腕にじわりと汗をかいた。
おそるおそる青の王を見上げれば、ひたりとギルに焦点をあわせて、刺すようにその顔を見ていた。
「どうされた、赤の王」
声から楽しそうな空気を感じ取って、その瞬間、俺はだめだと思った。罠にかかる猫を見ているような、残酷な響きだった。
ギルはこんなところにいてはいけない。早く青の王のもとから逃げてほしかった。
ぱくぱくとくちを動かしたけれど、ギルに届く言葉は出てこなかった。もどかしくて肩が折れそうなほど痛いのも忘れて暴れる。
「シャー、このようなところでどうされたのです」
シアンの声がして、俺は指輪のことを思い出した。
彼は俺と青の王を見て、それから立ちつくしているギルを認めると慇懃に頭を下げた。
それから悠然と顔を上げて彼に話しかけた。
「これは赤の方。このような遅くにお約束もなく王を訪れるとは、なにか急ぎの御用でしょうか。王とはいえ謁見される場合は、側近に話を通してからいらしていただかないと困ります」