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「よせシアン、なにをつっかかっている。昼の落雷で南方に被害が出たので赤の王自ら報告に来たのだ。そうだったな、赤の王? 南方への支援は約束した。もう話は済んだからお引き取り願えないか」
ギルはふたりの話のあいだ、じっと目をそらすことなく俺を見ていた。その瞳は暗がりで赤く見えた。
俺は他に知られないようにわずかに首を横にふって、早く去ってくれることだけを願った。俺のせいで、迷惑がかかってしまうことがおそろしかった。
けれど、ギルははっきりと青の王を見返した。
「アジュール様、もう一度申し上げます。ヒソク様から手を離してください」
静かな声が廊下に響いた。
「それはどういう意味だ。青の術師をどう扱おうと、他の王がくちだしするようなことではないだろう。それともお優しいギュールズ王ははじめて会う者にも情けをかけられるほど心が広いのか」
「はじめて会うのではありません」
すっと血の気が引いて、目まいがした。
青の王の服を握りしめた。すがりついているのか、押さえようとしているのかどちらなのかわからなかった。
「ヒソクとわたしは、調理場で何度も会っています。何度も会いに来て、ヒソクと話をするうちに、女性を想うように好きになりました。青の術師と知っても想いは変わりません。近いうちに青の王にお願いにあがるつもりでした。わたしはヒソクをそばに置きたいと思っています」
「青の女に手を出すと、自ら宣言するつもりか」
冷え切った王の言葉に、俺はふるえながら首を横にふった。
そんなことを望んでいたわけじゃなかった。
一緒にいたいとは思ったけれど、ギルを面倒な立場に追い込んでまで、しあわせになりたいわけではない。
おだやかで優しい者をおとしめてまで、そばにいることを望んでいなかった。
ギルには伝わってしまったのだろうか。宮殿はつらいかと、尋ねられた時の腕の中のあたたかさを思い出す。俺はきっと、また間違えてしまった。
「そう言っているぞ、ヒソク」
耳もとに顔を寄せた青の王が、密やかにささやく。
俺は動かなくなったヴァート王を思い出した。鋭い剣からしたたり落ちる、赤いねっとりとした血。
人の命を奪っても顔色ひとつかえない悪魔のような男と、俺はあのとき嘘でぬりかためられた取引をした。
「おまえ次第だ」
俺にだけわかる声で、青の王がうながし、俺の手を離した。よろけながら、自由になった身体を見下ろした。
俺にはあとなにが残っているだろう?
ヒソクのために、この命はまだ投げ出せない。けれど、ギルにどんな災難が降りかかるのかを思えば、俺はすべてを投げ出してでも、それを止めたかった。
青の王に手をのばした。寄せられた顔にくちづけた。そうすることで、ギルに背を向けたことだけが唯一の救いだった。
ぱちぱちと火がはぜる音が響く。
ふれるだけのそれでは満足してもらえないだろうと思い、くちをあけて自分から舌をからめて誘った。
両手を首にまわして抱きつくと、身体を片腕にかかえられて、足が床から浮いた。
ほおに手をあてられてまた深く舌をからめられて、鼻にかかった吐息がもれた。
ギルには見えていない側の目からこぼれた涙を、王はさりげなくくちびるでぬぐうとこめかみにもくちづけた。
「悪いな、赤の王。しつけのなっていない飼い犬のしでかしたことだ。非礼は私が詫びよう。今夜はもう遅い。シアン、青の宮殿を出るまで、案内してさしあげろ」
「かしこまりました。赤の王、こちらへどうぞ」
「待って。待ってください。ヒソク、それは本当の答えじゃないんだろう。君が泣いたのを、俺は知っている」
抱きあげられたままで、その声にふるえた。
ふり返ったらきっとあの眼に嘘を見透かされてしまう。俺は怖がりの子どものように青の王にいっそう強く抱きついた。
「赤の王、いらしてください。お気は済んだでしょう」と、シアンがうながした。
「だめだ。ヒソクと一緒でなければ帰らない。おいでヒソク」
「ギュールズ王、もう戻りましょう」
バーガンディーの声がした。
みんな早く消えてほしかった。
どうせなら俺が一番消えてなくなりたかった。
「シャー、こちらをどうぞ。ヒソク様から渡されたものです」
そう言って、シアンが差し出したものを、青の王は片手に受け取った。
俺はそれが何なのか見なくたってわかった。
「これは返したほうがいいか?」
青の王の言葉に、ギルの気配がざっと色めくのが背中越しにもわかった。身体から残りの力が抜ける。
「ヒソク、赤の王がお帰りだ。見送ってやりなさい」
そう言って、王は抱きついていた俺の顔を少しだけ離した。
腕に抱きあげられたままで、俺はギルを見下ろした。これが罰なら、やっぱりあの時にギルに殺してもらいたかったと思った。
うっすらとほほえんだ。そうするとギルがかなしげに顔をゆがめたので、俺はそれで合っていたのだとホッとする。
青の王は俺を抱き直して、悠然と廊下を歩き出した。
あとを追うようにヒソク、と呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、もうそれすら思い出したくなかった。
薪の明かりすら届かない庭園に足をふみいれると、青々しい草の匂いがした。
調理場からは明かりがもれていたけれど、中の声は聞こえてこなかった。
俺は身をふるわせると、青の王の肩でしくしくと泣きだした。
「こんな安物の指輪につられたか。それとも好きだと言われて、のぼせあがったか? 少しは頭が働くかと思ったが、見た目どおりの子どもだったな」
返して、と言った。
声にはならなかったけれど、俺が身体を起こしたので、王はさっとそれを手に届かないところに動かした。
もどかしい思いで、腕を伸ばして足をばたつかせる。たとえ地面に落とされたって、指輪が手に戻るならそれで良かった。
「返したところで、身につけることはないだろう。それは赤の王よりもおまえが一番よくわかっているんじゃないのか」
だけど、それくらいは返してほしかった。ひとつくらい、ギルの思い出がほしかった。
ぼろぼろと涙がこぼれて、指輪をうばいとることすらできないくらいに視界が濁る。
頭の後ろを抱えられて、強引に顔を引き寄せられた。
ぴったりとくちびるを押しあてられたことよりも、首の後ろに赤い石がふれていることに目まいがした。
ギルのことで頭がいっぱいになってしまう。青の王にくちづけられながら、ギルのことばかりを思い出した。何度でも、心の中でその名を呼ぶ。
俺を好きだと言ってくれた、優しい声しか考えたくなかった。
粘膜をふれあわせて深くくちづけあえば、ギルとしていると錯覚しそうだった。頭が熱くなる。また好きだと言ってほしかった。
「赤の王はなんと言った? ヒソクが好きだとでも? なにも知らない、幼い王がくちにしそうな言葉だ」
セージ、と夢の中のような声が俺を呼んだ。
「本当はあの男にもそう言われたかったんだろう。セージが好きだと。ヒソクではなく、そう呼ばれることを欲していたのか」
ひそやかにささやかれて鼻先をすりあわされる。
「セージを愛している」
心ない言葉と一緒に大きなてのひらでほおをなでられたら、甘い響きだけが毒のように身体に染みわたって背筋がしびれた。
唾液がふれるくちくちした音に追い立てられて、舌をからめることに夢中になる。
きっとわからないのだ。こうして好きだと言われることが、どれほど俺の心をゆさぶるのか。優しいささやきになぐさめられるのを、どれほど欲しているのか、こんな男にわかりはしない。
「なにを考えている。ゆうべと同じことか」
髪を引っぱられ、くちびるを離される。
「呼んでみろ」
うながされて、くちの動きだけでギルと呼んだ。声は少しもしなかったはずなのに、青の王は「バカが」と吐き捨てて、もう一度くちびるを重ねた。
そうして井戸に、指輪を投げ捨てた。
聞こえるはずのない音が、聞こえたような気がした。深く地中にうがたれた井戸の底に、小さな指輪が水音をたてるのを聞いた。
遠くで起きた波紋に身体中の水がゆさぶられて、俺は暗闇の中でようやく目を覚ます。
自分を抱き上げている男の顔をまじまじと見つめた。それが人なのかそれ以外のなにかおそろしいものなのか確かめようとした。
セーブルにもらった、絡み合う4頭の馬たちの細工を思い出した。人ではないなにかのような気がして、ぞっとした。
どさりと草の上に落とされた。痛みよりも、指輪のことしか考えられなくて、井戸に駆け寄った。
石造りの井戸の上に身を乗り出した。その下はぞっとするほどの闇が待ちかまえていた。青の王をふり向くと、気にせずどうぞと言わんばかりの顔で、俺が飛び降りようとするのを見ていた。
手足がしびれたようになった。
「おい」
場違いな声がした。
「あんたたち、そこで一体何をしているんだ。調理場で使う井戸だぞ」
白い服をまとったハクが暗がりからあらわれた。
「近づくな」
青の王の鋭い声が響いた。ハクは命令した男を見て、それから伸ばされた手にティンクチャーがしるされていることに驚いて、足を止めた。
「姫さん?」と、弱ったように視線をさまよわせた。
「おもしろい余興の最中だ。邪魔をするな」
青の王は、念を押した。強い夜風が吹いて俺の服をゆらした。
ぐらりと身体がかたむき、なにかにしがみつこうと、伸ばした手が宙をさまよった。
ギルはふたりの話のあいだ、じっと目をそらすことなく俺を見ていた。その瞳は暗がりで赤く見えた。
俺は他に知られないようにわずかに首を横にふって、早く去ってくれることだけを願った。俺のせいで、迷惑がかかってしまうことがおそろしかった。
けれど、ギルははっきりと青の王を見返した。
「アジュール様、もう一度申し上げます。ヒソク様から手を離してください」
静かな声が廊下に響いた。
「それはどういう意味だ。青の術師をどう扱おうと、他の王がくちだしするようなことではないだろう。それともお優しいギュールズ王ははじめて会う者にも情けをかけられるほど心が広いのか」
「はじめて会うのではありません」
すっと血の気が引いて、目まいがした。
青の王の服を握りしめた。すがりついているのか、押さえようとしているのかどちらなのかわからなかった。
「ヒソクとわたしは、調理場で何度も会っています。何度も会いに来て、ヒソクと話をするうちに、女性を想うように好きになりました。青の術師と知っても想いは変わりません。近いうちに青の王にお願いにあがるつもりでした。わたしはヒソクをそばに置きたいと思っています」
「青の女に手を出すと、自ら宣言するつもりか」
冷え切った王の言葉に、俺はふるえながら首を横にふった。
そんなことを望んでいたわけじゃなかった。
一緒にいたいとは思ったけれど、ギルを面倒な立場に追い込んでまで、しあわせになりたいわけではない。
おだやかで優しい者をおとしめてまで、そばにいることを望んでいなかった。
ギルには伝わってしまったのだろうか。宮殿はつらいかと、尋ねられた時の腕の中のあたたかさを思い出す。俺はきっと、また間違えてしまった。
「そう言っているぞ、ヒソク」
耳もとに顔を寄せた青の王が、密やかにささやく。
俺は動かなくなったヴァート王を思い出した。鋭い剣からしたたり落ちる、赤いねっとりとした血。
人の命を奪っても顔色ひとつかえない悪魔のような男と、俺はあのとき嘘でぬりかためられた取引をした。
「おまえ次第だ」
俺にだけわかる声で、青の王がうながし、俺の手を離した。よろけながら、自由になった身体を見下ろした。
俺にはあとなにが残っているだろう?
ヒソクのために、この命はまだ投げ出せない。けれど、ギルにどんな災難が降りかかるのかを思えば、俺はすべてを投げ出してでも、それを止めたかった。
青の王に手をのばした。寄せられた顔にくちづけた。そうすることで、ギルに背を向けたことだけが唯一の救いだった。
ぱちぱちと火がはぜる音が響く。
ふれるだけのそれでは満足してもらえないだろうと思い、くちをあけて自分から舌をからめて誘った。
両手を首にまわして抱きつくと、身体を片腕にかかえられて、足が床から浮いた。
ほおに手をあてられてまた深く舌をからめられて、鼻にかかった吐息がもれた。
ギルには見えていない側の目からこぼれた涙を、王はさりげなくくちびるでぬぐうとこめかみにもくちづけた。
「悪いな、赤の王。しつけのなっていない飼い犬のしでかしたことだ。非礼は私が詫びよう。今夜はもう遅い。シアン、青の宮殿を出るまで、案内してさしあげろ」
「かしこまりました。赤の王、こちらへどうぞ」
「待って。待ってください。ヒソク、それは本当の答えじゃないんだろう。君が泣いたのを、俺は知っている」
抱きあげられたままで、その声にふるえた。
ふり返ったらきっとあの眼に嘘を見透かされてしまう。俺は怖がりの子どものように青の王にいっそう強く抱きついた。
「赤の王、いらしてください。お気は済んだでしょう」と、シアンがうながした。
「だめだ。ヒソクと一緒でなければ帰らない。おいでヒソク」
「ギュールズ王、もう戻りましょう」
バーガンディーの声がした。
みんな早く消えてほしかった。
どうせなら俺が一番消えてなくなりたかった。
「シャー、こちらをどうぞ。ヒソク様から渡されたものです」
そう言って、シアンが差し出したものを、青の王は片手に受け取った。
俺はそれが何なのか見なくたってわかった。
「これは返したほうがいいか?」
青の王の言葉に、ギルの気配がざっと色めくのが背中越しにもわかった。身体から残りの力が抜ける。
「ヒソク、赤の王がお帰りだ。見送ってやりなさい」
そう言って、王は抱きついていた俺の顔を少しだけ離した。
腕に抱きあげられたままで、俺はギルを見下ろした。これが罰なら、やっぱりあの時にギルに殺してもらいたかったと思った。
うっすらとほほえんだ。そうするとギルがかなしげに顔をゆがめたので、俺はそれで合っていたのだとホッとする。
青の王は俺を抱き直して、悠然と廊下を歩き出した。
あとを追うようにヒソク、と呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、もうそれすら思い出したくなかった。
薪の明かりすら届かない庭園に足をふみいれると、青々しい草の匂いがした。
調理場からは明かりがもれていたけれど、中の声は聞こえてこなかった。
俺は身をふるわせると、青の王の肩でしくしくと泣きだした。
「こんな安物の指輪につられたか。それとも好きだと言われて、のぼせあがったか? 少しは頭が働くかと思ったが、見た目どおりの子どもだったな」
返して、と言った。
声にはならなかったけれど、俺が身体を起こしたので、王はさっとそれを手に届かないところに動かした。
もどかしい思いで、腕を伸ばして足をばたつかせる。たとえ地面に落とされたって、指輪が手に戻るならそれで良かった。
「返したところで、身につけることはないだろう。それは赤の王よりもおまえが一番よくわかっているんじゃないのか」
だけど、それくらいは返してほしかった。ひとつくらい、ギルの思い出がほしかった。
ぼろぼろと涙がこぼれて、指輪をうばいとることすらできないくらいに視界が濁る。
頭の後ろを抱えられて、強引に顔を引き寄せられた。
ぴったりとくちびるを押しあてられたことよりも、首の後ろに赤い石がふれていることに目まいがした。
ギルのことで頭がいっぱいになってしまう。青の王にくちづけられながら、ギルのことばかりを思い出した。何度でも、心の中でその名を呼ぶ。
俺を好きだと言ってくれた、優しい声しか考えたくなかった。
粘膜をふれあわせて深くくちづけあえば、ギルとしていると錯覚しそうだった。頭が熱くなる。また好きだと言ってほしかった。
「赤の王はなんと言った? ヒソクが好きだとでも? なにも知らない、幼い王がくちにしそうな言葉だ」
セージ、と夢の中のような声が俺を呼んだ。
「本当はあの男にもそう言われたかったんだろう。セージが好きだと。ヒソクではなく、そう呼ばれることを欲していたのか」
ひそやかにささやかれて鼻先をすりあわされる。
「セージを愛している」
心ない言葉と一緒に大きなてのひらでほおをなでられたら、甘い響きだけが毒のように身体に染みわたって背筋がしびれた。
唾液がふれるくちくちした音に追い立てられて、舌をからめることに夢中になる。
きっとわからないのだ。こうして好きだと言われることが、どれほど俺の心をゆさぶるのか。優しいささやきになぐさめられるのを、どれほど欲しているのか、こんな男にわかりはしない。
「なにを考えている。ゆうべと同じことか」
髪を引っぱられ、くちびるを離される。
「呼んでみろ」
うながされて、くちの動きだけでギルと呼んだ。声は少しもしなかったはずなのに、青の王は「バカが」と吐き捨てて、もう一度くちびるを重ねた。
そうして井戸に、指輪を投げ捨てた。
聞こえるはずのない音が、聞こえたような気がした。深く地中にうがたれた井戸の底に、小さな指輪が水音をたてるのを聞いた。
遠くで起きた波紋に身体中の水がゆさぶられて、俺は暗闇の中でようやく目を覚ます。
自分を抱き上げている男の顔をまじまじと見つめた。それが人なのかそれ以外のなにかおそろしいものなのか確かめようとした。
セーブルにもらった、絡み合う4頭の馬たちの細工を思い出した。人ではないなにかのような気がして、ぞっとした。
どさりと草の上に落とされた。痛みよりも、指輪のことしか考えられなくて、井戸に駆け寄った。
石造りの井戸の上に身を乗り出した。その下はぞっとするほどの闇が待ちかまえていた。青の王をふり向くと、気にせずどうぞと言わんばかりの顔で、俺が飛び降りようとするのを見ていた。
手足がしびれたようになった。
「おい」
場違いな声がした。
「あんたたち、そこで一体何をしているんだ。調理場で使う井戸だぞ」
白い服をまとったハクが暗がりからあらわれた。
「近づくな」
青の王の鋭い声が響いた。ハクは命令した男を見て、それから伸ばされた手にティンクチャーがしるされていることに驚いて、足を止めた。
「姫さん?」と、弱ったように視線をさまよわせた。
「おもしろい余興の最中だ。邪魔をするな」
青の王は、念を押した。強い夜風が吹いて俺の服をゆらした。
ぐらりと身体がかたむき、なにかにしがみつこうと、伸ばした手が宙をさまよった。