5人の王(恵庭/ill.絵歩)公式サイト@ダリアカフェ

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 ギルは興味深げにそう言った。
 茶色の表紙の小さな本には、星にまつわる物語が描かれていた。シアンに借りた本より文字が少なく、ありていに言えば子ども向けの絵本だった。
 けれど、染色された本はめずらしかったし、紙をめくるのを止められなかった。
 ひとりの男が地面に倒れているところで、手が止まった。かたわらにもうひとり、男と同じ服をまとっていた男が立っている。
 次の場面は、雲のすき間から異形の者があらわれるところだった。
 倒れていた男は立ち上がり、もうひとりの男と手をつないだ。添えられた文には、ふたりは命をわけあったと書かれていた。双子座の話だ。
 俺は侍従に本をみせた。
「あの。俺、これを買いたいです。足りるでしょうか」
 腰にまきつけていた袋から、ルリにもらった黒の銀貨をとりだした。侍従は戸惑ってギルに目を配った。
「いつもの支払いとは別に、商人に渡してやってくれ」
「かしこまりました。こちらはお預かりします」
 侍従はしずしずと俺から銀貨を受け取った。
 しばらくして、黒の銀貨1枚は、緑の銀貨1枚と、赤の銀貨3枚になって戻ってきた。きゅっと握りしめて、侍従に礼を言う。
「にこにこして、そんなに欲しい本だったのか?」
「いえ、買い物をするのがはじめてなんです。おもしろいものですね」
 笑顔で答えてから、あ、俺はすねていたんだっけと思い出した。
 けれど、ギルがうれしそうな顔をしていたので、もうどうでも良かった。
 黄色の布に並べられた、赤い花に目がとまった。銀の髪飾りに、赤い石が花のように埋め込まれている。ルリに似合いそうだと思った。
「あの、青の侍従が赤い装身具を身につけるのは、まずいのでしょうか」
 そう尋ねると、ギルは息を止めて、目を大きく見開いた。
 薄茶の髪まで、ふわ、と逆立ったみたいだった。
「え?」
 俺が言葉を続けようとすると、ギルはくちもとをてのひらで押さえて、「待って」と言った。
「すまない、勘違いをした。それは、本を読み聞かせてもらっている侍女の話だよな」
「は? ええ、そうですけど。ルリ様に似合いそうだから、買ってあげようと思って……」
 言いかけて、ギルがどういう勘違いをしたのかがわかった。机に両手をついて席から立ち上がる。
「そういう意味じゃありません! 俺が赤いものを身につけたいとか、そういうつもりで聞いたんじゃなくて、ほんとにルリ様に」
「うわっ、言うな! 自分が一番バカみたいだと思ってるんだから、追い打ちをかけるな!」
 子どもみたいに赤くなって、耳をふさいだギルを見て、俺はふるえた。気恥ずかしさで、身体がふるえることがあるなんて思わなかった。
 だいたい、恥ずかしい勘違いをしたのはギルのほうだったのに、どうして俺まで恥ずかしくならなきゃいけないんだ。胸が熱くて、めまいがした。
「倒れそうです」
 素直に白状すれば、ギルも机につっぷして、「俺もだよ」と低い声で言った。
 それから布の上に手をのばして、小さな指輪をひとつ取った。赤い石のかけらが一粒だけ、控えめに埋め込まれた指輪だった。
「つけてほしいと言ったら、してくれるか?」
 ギルは机に両ひじをついて、大きな目で俺をじっと見つめた。
「赤の宮殿に住んで、食事の時だけじゃなくてそばにいてほしい。たぶん、ヒソクがそばにいたら、侍従としてじゃなくなると思う。男にこんなことを言われても困るか?」
 俺はぎゅっと、服を握りしめた。
 身を守るようなかっこうに、ギルは傷ついたように目を細めたけれど、俺のほうがずっと泣きだしそうだった。
 叫びだしたいくらいに、頭が混乱していた。
 ギルの言葉は、迷うことなく正確に俺に届いた。けれど、俺にはどうする道も残されていなかった。
 今すぐ無理だと言わなくてはいけないのに、ギルの顔が近づいて、くちびるがふれたら、耐えられなくて目を閉じてしまった。
「ヒソクが好きだ」
 全部が綺麗だと思った。
 わき出る水みたいに濁ったところなんかひとつもない、美しい声だと思った。
 また、服を握りしめた。その下の、青いティンクチャーがわずらわしかった。
 また、やわらかくくちづけられた。涙が出そうなほどのしあわせを感じて、俺は自分が、どす黒い悪魔だと知った。
「むりです」
 ギルの肩を押し返した。
「俺は、青の宮殿の従者なんです。赤の王のおそばに、置いてもらうことはできません。お許しください、俺は……」
 本当は侍従ではなく、側女なのだと。
 青の王の女だと、告白しようとして身体がこわばった。
 それだけは言いたくない。この綺麗な男に、汚いものを見るような目をされたら、俺はすべてを放り出して、この場で死んでしまうかもしれない。
 俺はこれからも、ヒソクのふりをすると誓った。
 ヒソクのためだ。自分に言い聞かせて、弱いところを吐き出すのを耐えた。
「申し訳ありません。許してください」
「すまないヒソク。俺が悪かったから、泣きやんでくれないか」
 ギルは弱り切った声で、そっと俺の髪をなでた。
 今朝、赤の宮殿を訪れた時は、こんなふうに終わってしまうなんて、少しも思っていなかった。最後だと思えば、ますます泣けてきた。
 俺がこの世に、ひとりきりだったら。
 もしもひとりきりだったら、ギルの誘いを受けられただろうか。
 好きだと告げることができたかもしれないと思ったら、ギルにもヒソクにもすまなくなって、涙があふれた。
 かつ、と靴を鳴らす音が聞こえた。
「シャー、セーブル様がお見えになりました。謁見の間へ向かうご用意をお願いします」
 バーガンディーは、部屋の中になにも見えていないかのような、落ちついた声でそう告げた。硬質な声に、俺は責められているのを感じとった。
「あの、俺、失礼します」
 あわててギルのそばから離れる。バーガンディーが、にらむように俺を見た。その横をすり抜けて、部屋の外に飛び出した。
 呼び止めるギルの声が聞こえたけれど、ふり返らずに廊下を走った。
 慣れた道が、ひどく長く感じられた。涙で目の前がくもっていて、横から突き飛ばされた時には、なにが起きたのかわからなかった。
「痛っ!」
 うつぶせに床に転がった。片腕を背中にねじり上げられて、首すじにひやりとしたものが押し付けられる。
 首に痛みがはしって、それが剣の刃先だとわかった。
「黒の王の御前だぞ。頭を下げろ」
 俺はハッとした。長い髪の男が、切れ長の瞳で、俺をじっと見下ろしていた。
 細い銀のリングを頭にはめ、黒いまっすぐな髪をたたえたその顔は、黒の銀貨にしるされた王の肖像と似通っていた。
 色が抜けたように白い顔だった。対照的に、瞳は深い闇色だった。背筋に言いようのない悪寒がはしった。
「ヒソク!」
 黒の王は、声のしたほうに視線をやった。
「これはこれは、赤の王。ひどい怪我をしたとうかがいましたが、お元気そうでなによりです」
 ギルは見たこともない険しい顔で、「その者を離してください」と言った。
「彼はこの宮殿で働く者です。無礼があったのなら、わたしからセーブル様にお詫びいたします。その者を離すよう、黒の兵に命じてください」
 セーブルは横目でちらりと俺を見てから、手を横に払った。
 それが合図となって、俺を押さえていた兵が立ち上がった。赤の侍従たちが駆け寄ってきて、俺を抱き起こしてくれた。彼らは俺を連れて庭に降りた。
 黒の王は芝居がかった仕草で、肩をすくめてみせた。
「あの少年を、赤の宮殿で働く者と言いましたか? ずいぶんと変わったことを言われる」
「おっしゃる意味がわかりかねます」
「貴方はこの者に、ヒソクと呼びかけられたでしょう。前にファウンテンで見かけたことがあるので、すぐに思い出しましたよ。浅黒い肌に、黒い髪と緑の瞳。このような姿の者が、王宮内にそうそういるわけもない」
 俺はぎくりとして、顔を上げた。
 赤の侍従があわてて俺の腕にとりすがったが、俺はセーブルから、目をそらせなくなった。おそろしい予感に、身体がふるえだした。
 セーブルは俺を見下ろして、楽しそうに目を細めた。爬虫類のような、なめらかな笑みだった。
「床に伏している間に、ずいぶんと鈍られたようだ。それとも、この幼い術師が、相当うまく立ち回ったのか。ぜひ、手並みを拝見したいものだ」
「術師、とは?」
 虚をつかれたギルを見て、セーブルは笑った。
「貴方が疑いもしなかったとは。さすがは、青の王の子飼いの術師だ」
「青の王?」
「貴方にはこう言ったほうがわかりやすいですか? この少年が、ヴァート王が滅した原因になった、青の星見だと。星見のヒソクの話は、貴方も聞いたでしょう」
 胸の内でヒソク、と呼んだ。助けをもとめた。
 のどが、カラカラに渇いていた。セーブルはくちに指をあて、なにかに気づいたように「ああ」と言った。
「そういえば、ヒソクの名は、青の王の裁判では出ませんでしたね。緑の王が色香に迷って手を出した、青の側女の名前は」
 セーブルはゆっくりとギルに近づいて、肩にそっと手をかけた。
「その場で斬首されるほどの原因を作りだした、青の女の名を知りませんでしたか。それならば、私に感謝したほうがいい。あの猛々しい青の王がこれを知る前で良かった。でなければ、きっと貴方も緑の王の二の舞だ」

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