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第一幕 歴代最高のアリーヤ
青の王がもったいぶった様子で「次の新月の夜、メイダーネ・シャーでシャトランジの大会が開かれるのだったな」と切り出した時、シアンは嫌な予感がした。
ちょうど二十二年前、当時の青の王からシャトランジ大会の話を切り出された時のことを思い出して、なおさら嫌な気持ちになった。あの時、まだ五歳だったシアンには王命が下された。緑の宮殿の主催するシャトランジ大会に出るように、そして大会で優勝してくるようにと。そう命じたのは、青の王であるシアンの父親だった。
表情には出さず、「先週から予選会を開いています。明日の夜、優勝者をきめる決勝戦を執 り行います」と静かに答えた。
「今年から青の宮殿の主催となるのだったな」
「以前に許可をいただいたとおりです。民だけではなくマギからも大会の復活を望む声がありましたので、青の宮殿の主催となることに問題はございません。少なくとも、かつてのように緑の宮殿が主催するのは財力的に難しいかと思います」
先代の緑の王が始めたシャトランジの大会は、王宮の前にある広場『メイダーネ・シャー』で年に一度、行われていた。緑の神獣であるオオカミが、月を飲み込む怪物であると伝えられていることから、大会の日取りは新月の夜が選ばれた。
シャトランジは六種類の駒を使い、六十四マスに区切られた盤上で最も重要な駒である〈シャー〉を奪い合う遊びだ。
〈シャー〉とは王を指す。王を奪い合う──つまりは国同士の戦いを模した遊びは、駆け引きにみちた知略戦で、盤と駒さえ揃 えばどこでも手軽に楽しめるため、大衆に広く受け入れられていた。そして、民は年に一度のその大会を目指し腕を磨いていたのである。
しかし西方でヴェア・アンプワントの生き残りによる反逆が起き、緑の宮殿の財政は悪化。いよいよ宮殿を手放すまでに至ると、大会を開く余裕がなくなり、恒例の行事は途絶えてしまった。
先代の悪名高かった緑の王よりも、あとを継いだ幼い緑の王は王都の民に嫌われていたが、その理由が、シャトランジ大会の見送りにあったというくらいなので、民の大会に寄せる期待は馬鹿にできない。
今年は数年ぶりに青の宮殿の主催でシャトランジの大会が開かれるとあって、王都はそのうわさでもちきりだった。青の宮殿への期待も高く、それを裏切らないようにとシアンも大会の準備に余念がなかった。
「アルカディアが予選を勝ち抜いているそうだな。民の関心は彼女に集まっている。これもおまえの采 配 か?」
「……これまでの大会で女性が決勝戦まで勝ち進んだ例はありません。それに彼女は賢者の孫娘です。話題作りにはうってつけでしょう」
青の王は執務用の椅子に座ったまま、底の見えない藍 色の目でシアンを見上げ、「なるほど、おまえはアルカディアが出場していることを知らなかったのか」と見透かすようなことを言い、まるでシアンがそれを事実だと認めたかのように鼻で笑った。
それが事実かどうかといえば。当たり前だ、事前に知っていたら賢者の孫娘の介入など許すはずがない。
大会の優勝者には『アリーヤ』という称号が与えられる。アリーヤは常に三人までしか存在できず、挑戦者に負ければその地位を譲り渡すことになる。
今行なっている予選会の優勝者が、挑戦者として決勝戦に進みアリーヤと戦うのだが、今度の大会には、現在のアリーヤが三名とも決勝戦に参加することになっていた。そのほうが盛り上がるだろうと、彼らに出場を促 したのはシアンだった。ただし、それは彼らが負けないとふんでのことだ。
もしもアルカディアがアリーヤの誰か一人にでも勝てば、次のアリーヤとなる。負けたアリーヤは話題作りのためにシアンに利用されたと思うだろう。間の悪いことに、三名のアリーヤはみな王宮に仕える重職者で、こんな馬鹿げたことで逆恨みされるのも面倒だ。
ただの女が優勝できるはずがないと侮 るのは簡単だが、結果を心配するほどにはアルカディアの知能は優れていた。
「アルカディアの目的を調べさせた」
青の王の声に引き戻される。
「彼女の望みは歴代最高のアリーヤとの対戦だ。それさえ叶 えられれば決勝戦は辞退すると言っているそうだ。三名のアリーヤの名誉も傷つかずに済む。悪くない取引だと思うだろう、シアン?」
「……つまり」
「歴代最高のアリーヤが予選会の終わりに出場し、彼女を負かせばいい」
シアンが言いたいのは別のことだ。
「つまり、アルカディアが出場することをみなが私に隠していたのは、シャーのご命令だったということですね」
語気の荒いシアンの言葉が聞こえなかったかのように、青の王は穏やかな笑みを浮かべた。
「初の女性アリーヤの誕生を差し置いても民が飛びつく余興だろう。なにしろ、歴代最高のアリーヤが公 で試合を行うのは十五年ぶりだ」
シアンがシャトランジの最高位である『アリーヤ』の座についたのは五つの時だ。
初めて大会に出場した年に決勝戦まで進んだ。アリーヤ全員と戦い、彼らを負かしたことで新しいアリーヤとなった。その後、誰かに地位を譲ることなく、数年後には終身称号を得て大会には出場禁止となった。
出場禁止となった理由ははっきりしていないが想像はつく。緑の宮殿の主催する大会で青の王の子どもが活躍するのを、ヴァート王が面白く思うわけがない。しかし、出場禁止となったことでかえって『歴代最高』という評価が広まってしまった。
つまり、青の王の言う『歴代最高のアリーヤ』とはシアンのことだ。だから、「お断りします」と即答した。余興のために民の前に出ろと言われてうなずけるはずがない。
「大会を盛り上げたいのだろう」
「私が出ずとも、アルカディアがアリーヤに負けるように仕向けることはできます」
「シアン、王命だ」
悪い予感は、やはり二十二年前と同じだった。王命と言われれば断ることはできない。
それを知っている相手に食い下がるのは無意味だ。無意味だとわかっていたが腹が立つのを止めるのは難しかったので、執務室を出る時に、「私が大会に出場するあいだに、王宮を抜け出そうとなさっているのではありませんよね」とくぎを刺した。
「王宮を抜け出し、メイダーネ・シャーへ行くと思っているのか? おまえが見世物になっているのを見物するほど悪趣味だと思われているのなら心外だ」
「それを聞いて安 堵 しました」
冷笑を浮かべる。
「もしもメイダーネ・シャーでお見かけするようなことがあれば、スクワルの首を飛ばさなくてはなりません。スクワルほど王に忠実な近衛隊長もおりません。失うことになればシャーもお困りになるでしょう」
青の王はわずかに不審がる表情を浮かべた。
シアンはそれを見逃さず、「スクワル以外の近衛隊長であれば、王の部屋に出入りする奴隷のような外見の少年がいればすぐに捕えてしまうでしょうから」と続けた。
執務室を後にする。くぎを刺したところで大人しくなる相手ではないとわかっている。むしろ火に油を注いだかもしれないと思ったが、シアンが後悔をしなくてはならないというのも理不尽だ。
まったく、王なんてろくなもんじゃない。腹の奥底から絞り出したような重いため息を吐くと、頭を切り替えた。
青の王が抜け出す気でいるのなら、メイダーネ・シャーに王を捕まえるための罠 を仕掛けるしかない。近衛を張り込ませればいいが、スクワルではだめだ。スクワルと、青の王の付き合いは長い。王を見つけたとしても、いいように丸め込まれるのがオチだ。
スクワルの代わりに、副隊長のブロイスィッシュブラウを呼びだした。
黒髪に黒目、整った顔立ちの男は、引き締まった身体の後ろで手を組み、直立不動の姿勢を崩さない。メイダーネ・シャーの警 邏 を命じると、「なぜ俺が?」と不服そうな表情を浮かべた。
王宮外での仕事が、近衛兵に与えられることはまずない。王や重職者の警護を任された時に、護衛として出向くことはあるが、青の王が宮殿を抜け出す前から、『シャーを捕まえるために広場を見張っていろ』とは言えない。
「シャトランジの大会は、多くの諸侯も観戦する予定だ。騒ぎでもあれば、主催した青の宮殿の責任となる。大事に至らないように警邏を怠 るな」
「そんなものは警備兵に任せればいいだろう」
ブロイスィッシュブラウはあからさまに嫌な顔をして、食い下がった。おそらく、シアンが大会に出場すると言えば重職者の警護ということで丸く収まるだろうが、誰にも教える気はなかった。
そして、宰相の地位にあるシアンは、近衛にとっては上官にあたる。部下の機嫌を伺う必要はなかった。
「聞こえたのなら下がれ」
命じると、ブロイスィッシュブラウは不服そうな表情を隠しもせず部屋を出て行った。
彼は近衛兵にはめずらしく、東方の諸侯の家に育った。根っからの坊ちゃん育ちゆえ、自尊心が高い。出会った当初は彼のほうが上官だったこともあり、扱いづらい部下だと思うこともある。
けれど、鈍 い男というわけではないので、メイダーネ・シャーで青の王を見つければ、王宮を抜け出したと察して連れ帰ってくれるだろう。
翌日、メイダーネ・シャーに到着すると、目を疑った。
広場を警護していたのはブロイスィッシュブラウではなく、スクワルの部下だった。あたりには、ブロイスィッシュブラウはおろか彼の部下の姿も見えない。なぜ自分の役目をスクワルに押し付けたのかは知らないが、勝手な真似をしたことには間違いない。
嫌な予感がした。
近衛から事情を聞くため、一歩、踏み出した瞬間、シアンの目の前をオオカミが横切った。それはもちろん野生の獣ではなく、オオカミの頭部を模した被 り物を被った人間である。犬のように鼻の高い顔は、尖 った牙を強調することでオオカミに似せている。
長身の男は、首が隠れるくらいまですっぽりと被っていた。肩に幼い子どもを乗せているところを見ると、父親なのだろう。肩車された少年は、後頭部で髪をひとつにまとめ、髪留めにオオカミの尻尾のようなふさふさした飾りがつけられていた。
あたりの露店には、似たものがいくつも売られている。かろうじてオオカミとわかる簡素なものから、演劇に携わる職人がいらぬ本気を出して作ったかのような凝 った被り物まで出来は様々だったが、飛ぶように売れているのを見れば、みなが祭りを楽しんでいるのがわかる。
今夜、メイダーネ・シャーは、オオカミの格好をした者であふれかえっていた。
陽が傾き、薄暗くなり始める。工 夫 が広場周辺の建物の屋根にのぼり、蜘 蛛 の巣のように屋根に渡されたひもに、ガラス製の火筒の取っ手を引っかけ滑らせた。いくつも吊 り下げられた火筒の明かりが、広場をオレンジ色の光で満たしている。
広場のまわりは露店がひしめき合い、店先には丸い机がいくつも置かれている。どの席も、露店で買い求めた食べものや、酒を楽しむ民でにぎわっていた。そして彼らは食事だけが目的ではなく、机の上に備え付けられているシャトランジの盤で、食事を楽しみながら、今夜に相応 しい遊びに興じていた。
「おい、もうすぐ決勝が始まるぞ!」
大きな声が響き、声に反応した者たちが次々と卓上の勝負を放り出し、広場の中心に設置された八角形の天井を持つテントへと駆けて行く。
テントのまわりには、一定間隔で旗が立てられていた。風にたなびく三角の旗には、馬の頭や塔など、シャトランジで使う駒の模様が縫い取られ、そこがシャトランジの大会の会場であることをわかりやすくしている。
客の出入口はひとつだけだ。舞台の緞 帳 のようにたわんだ布が垂れ下がっており、人であふれていた。警備の兵に次の試合が始まったら客を出入りさせないように指示を出し、関係者の出入口に回った。そこは舞台の裏側で、観客席や試合をしている壇上からは見えないようになっている。そこでは、試合の終わった棋 士 たちに諸侯たちが声をかけていた。金をかけてアリーヤを育てようとする者は意外と多く、自分の屋敷で宴をひらく時、お抱えの棋士に模擬試合をさせるのもよくある余興だった。
シアンも子どもの頃、同じように声をかけられた。返事もせずに無視していたら、「ろくにくちもきけないのか。さすがは阿 呆 といわれる白 銀 王 の子だけはあるな」と、言われたことがある。
そのとおりだと思った。当時のシアンは、『ヴァート王に恥をかかせてやったらいい』というろくでもない王命のために大会に送り込まれたのだ。シャトランジになんか、なんの興味もなかった。
そして、それは今でも変わらない。椅子に座り、盤を睨 みつけるだけの遊びには意味を見いだせない。退屈な遊びを喜んでする意味が、まったくわからなかった。
予選会が終わり、天幕の中が騒がしくなった。壇上で試合をしていた棋士が降りてくる。
涙ぐんでいるのは中年の男で、法において罪人を裁く機関『ファウンテン』に勤めているマギだ。壇上に残っている相手が、予選会の優勝者だろう。進行をつとめていた男が声をはりあげる。
「このような結果を誰が予想したでしょう。予選会を制したのは、まばゆいばかりに美しい女性です! アルカディア嬢に、どうぞみなさま盛大な拍手を!」
進行役が高らかに宣言すると、観客席からは大雨のような拍手がわきおこった。
応えるように上品に微 笑 んだのは、紹介されたとおり小 綺 麗 な女だ。肉感的な肢 体 と、毛先をくるりと巻いたつややかな髪が美しい。
アルカディアを見て、舌打ちしたくなる。彼女とは初対面ではない。十代の頃から何度となく顔を合わせてきた。あまり相性が良くなかったため、今でも顔を合わせると、なにかと好戦的なことを言われるので、恨まれている可能性すらある。
彼女は〈賢者〉の孫娘だ。賢者は表向きはどの宮殿にも属さず、しかし、政務に関わることが認められている。広い知識を有し、国益に貢献した学士から選ばれることが多く、任期は決まっていない。アルカディアの祖父は十四年もその地位に就いていた。
アルカディアは賢者の身内という立場を最大限に利用し、女性としては異例の扱いで、王宮内の『研究所』で学んだ経歴を持つ。たしかに才女ではあったが、シェブロンでは女性が王宮の重要な役職に就くことはなく、政略結婚の道具として扱われてきた。つまり、シアンにとって興味をひかれる相手ではないということだ。
「ここでひとつ、特別な方式を提案いたします」
進行役が話を続ける。
「大会史上、初の女性の挑戦者の誕生となりましたが、本来、女性は予選会に出場する資格がありません。彼女が本当に決勝戦に進むだけの才能を有しているのか、最後の試合でその実力を確かめてみましょう」
客席からは非難の声が上がった。初の女性アリーヤ誕生を阻止するような提案なのだから、仕方ない。進行役もそれがわかっているので、余裕をもって観客をなだめる。
「かつてこの大会は、緑の宮殿の主催で執り行われていました。数年のあいだ大会が行われず、多くの方が残念に思われていたことでしょう。かくいう私もそのひとりです。しかし今夜、青の宮殿主催の大会としてあらたに生まれ変わります。そして、この特別な夜にぴったりの演目を用意してくださったのは、なにを隠そう、アルカディア嬢なのです」
客のざわつきが収まるのを待ち、進行役はアルカディアにうなずいて見せた。彼女はよく通る声で観客席に呼びかけた。
「特別な夜には、特別な方を。青の宮殿主催の大会に出場されるのでしたら、これ以上の方はいらっしゃいません。みなさま、歴代最高のアリーヤの試合を間近でご覧になられたことがあって?」
彼女がゆるりと微笑む。それを合図にシアンが壇上に姿をあらわすと天幕は歓声に包まれた。
向かいあった椅子に案内され、シャトランジの盤が目の前のテーブルの中央に置かれると、客席は水を打ったように一気に静まり返った。
アルカディアは白い手を差し出した。
「対戦できて光栄です、〈青の学士〉」
シアンが握手に応じると、彼女は驚いた顔をしたが、それはすぐに不敵な笑みに変わった。シアンにだけ聞こえるくらいの小さな声で、「会場に誰が来ているのか、ご存じかしら?」とささやく。
「知っている」
シアンは客席を見下ろした。壇上と違い観客席は薄暗く、二百人ほどがひしめいているため顔の判別はつかない。けれど、どこにいるかは見当がつく。大人数が集まる密閉空間で、近衛出身である青の王が、出入口から離れた場所に居るはずがない。
彼女の手を離した。
青の王がもったいぶった様子で「次の新月の夜、メイダーネ・シャーでシャトランジの大会が開かれるのだったな」と切り出した時、シアンは嫌な予感がした。
ちょうど二十二年前、当時の青の王からシャトランジ大会の話を切り出された時のことを思い出して、なおさら嫌な気持ちになった。あの時、まだ五歳だったシアンには王命が下された。緑の宮殿の主催するシャトランジ大会に出るように、そして大会で優勝してくるようにと。そう命じたのは、青の王であるシアンの父親だった。
表情には出さず、「先週から予選会を開いています。明日の夜、優勝者をきめる決勝戦を
「今年から青の宮殿の主催となるのだったな」
「以前に許可をいただいたとおりです。民だけではなくマギからも大会の復活を望む声がありましたので、青の宮殿の主催となることに問題はございません。少なくとも、かつてのように緑の宮殿が主催するのは財力的に難しいかと思います」
先代の緑の王が始めたシャトランジの大会は、王宮の前にある広場『メイダーネ・シャー』で年に一度、行われていた。緑の神獣であるオオカミが、月を飲み込む怪物であると伝えられていることから、大会の日取りは新月の夜が選ばれた。
シャトランジは六種類の駒を使い、六十四マスに区切られた盤上で最も重要な駒である〈シャー〉を奪い合う遊びだ。
〈シャー〉とは王を指す。王を奪い合う──つまりは国同士の戦いを模した遊びは、駆け引きにみちた知略戦で、盤と駒さえ
しかし西方でヴェア・アンプワントの生き残りによる反逆が起き、緑の宮殿の財政は悪化。いよいよ宮殿を手放すまでに至ると、大会を開く余裕がなくなり、恒例の行事は途絶えてしまった。
先代の悪名高かった緑の王よりも、あとを継いだ幼い緑の王は王都の民に嫌われていたが、その理由が、シャトランジ大会の見送りにあったというくらいなので、民の大会に寄せる期待は馬鹿にできない。
今年は数年ぶりに青の宮殿の主催でシャトランジの大会が開かれるとあって、王都はそのうわさでもちきりだった。青の宮殿への期待も高く、それを裏切らないようにとシアンも大会の準備に余念がなかった。
「アルカディアが予選を勝ち抜いているそうだな。民の関心は彼女に集まっている。これもおまえの
「……これまでの大会で女性が決勝戦まで勝ち進んだ例はありません。それに彼女は賢者の孫娘です。話題作りにはうってつけでしょう」
青の王は執務用の椅子に座ったまま、底の見えない
それが事実かどうかといえば。当たり前だ、事前に知っていたら賢者の孫娘の介入など許すはずがない。
大会の優勝者には『アリーヤ』という称号が与えられる。アリーヤは常に三人までしか存在できず、挑戦者に負ければその地位を譲り渡すことになる。
今行なっている予選会の優勝者が、挑戦者として決勝戦に進みアリーヤと戦うのだが、今度の大会には、現在のアリーヤが三名とも決勝戦に参加することになっていた。そのほうが盛り上がるだろうと、彼らに出場を
もしもアルカディアがアリーヤの誰か一人にでも勝てば、次のアリーヤとなる。負けたアリーヤは話題作りのためにシアンに利用されたと思うだろう。間の悪いことに、三名のアリーヤはみな王宮に仕える重職者で、こんな馬鹿げたことで逆恨みされるのも面倒だ。
ただの女が優勝できるはずがないと
「アルカディアの目的を調べさせた」
青の王の声に引き戻される。
「彼女の望みは歴代最高のアリーヤとの対戦だ。それさえ
「……つまり」
「歴代最高のアリーヤが予選会の終わりに出場し、彼女を負かせばいい」
シアンが言いたいのは別のことだ。
「つまり、アルカディアが出場することをみなが私に隠していたのは、シャーのご命令だったということですね」
語気の荒いシアンの言葉が聞こえなかったかのように、青の王は穏やかな笑みを浮かべた。
「初の女性アリーヤの誕生を差し置いても民が飛びつく余興だろう。なにしろ、歴代最高のアリーヤが
シアンがシャトランジの最高位である『アリーヤ』の座についたのは五つの時だ。
初めて大会に出場した年に決勝戦まで進んだ。アリーヤ全員と戦い、彼らを負かしたことで新しいアリーヤとなった。その後、誰かに地位を譲ることなく、数年後には終身称号を得て大会には出場禁止となった。
出場禁止となった理由ははっきりしていないが想像はつく。緑の宮殿の主催する大会で青の王の子どもが活躍するのを、ヴァート王が面白く思うわけがない。しかし、出場禁止となったことでかえって『歴代最高』という評価が広まってしまった。
つまり、青の王の言う『歴代最高のアリーヤ』とはシアンのことだ。だから、「お断りします」と即答した。余興のために民の前に出ろと言われてうなずけるはずがない。
「大会を盛り上げたいのだろう」
「私が出ずとも、アルカディアがアリーヤに負けるように仕向けることはできます」
「シアン、王命だ」
悪い予感は、やはり二十二年前と同じだった。王命と言われれば断ることはできない。
それを知っている相手に食い下がるのは無意味だ。無意味だとわかっていたが腹が立つのを止めるのは難しかったので、執務室を出る時に、「私が大会に出場するあいだに、王宮を抜け出そうとなさっているのではありませんよね」とくぎを刺した。
「王宮を抜け出し、メイダーネ・シャーへ行くと思っているのか? おまえが見世物になっているのを見物するほど悪趣味だと思われているのなら心外だ」
「それを聞いて
冷笑を浮かべる。
「もしもメイダーネ・シャーでお見かけするようなことがあれば、スクワルの首を飛ばさなくてはなりません。スクワルほど王に忠実な近衛隊長もおりません。失うことになればシャーもお困りになるでしょう」
青の王はわずかに不審がる表情を浮かべた。
シアンはそれを見逃さず、「スクワル以外の近衛隊長であれば、王の部屋に出入りする奴隷のような外見の少年がいればすぐに捕えてしまうでしょうから」と続けた。
執務室を後にする。くぎを刺したところで大人しくなる相手ではないとわかっている。むしろ火に油を注いだかもしれないと思ったが、シアンが後悔をしなくてはならないというのも理不尽だ。
まったく、王なんてろくなもんじゃない。腹の奥底から絞り出したような重いため息を吐くと、頭を切り替えた。
青の王が抜け出す気でいるのなら、メイダーネ・シャーに王を捕まえるための
スクワルの代わりに、副隊長のブロイスィッシュブラウを呼びだした。
黒髪に黒目、整った顔立ちの男は、引き締まった身体の後ろで手を組み、直立不動の姿勢を崩さない。メイダーネ・シャーの
王宮外での仕事が、近衛兵に与えられることはまずない。王や重職者の警護を任された時に、護衛として出向くことはあるが、青の王が宮殿を抜け出す前から、『シャーを捕まえるために広場を見張っていろ』とは言えない。
「シャトランジの大会は、多くの諸侯も観戦する予定だ。騒ぎでもあれば、主催した青の宮殿の責任となる。大事に至らないように警邏を
「そんなものは警備兵に任せればいいだろう」
ブロイスィッシュブラウはあからさまに嫌な顔をして、食い下がった。おそらく、シアンが大会に出場すると言えば重職者の警護ということで丸く収まるだろうが、誰にも教える気はなかった。
そして、宰相の地位にあるシアンは、近衛にとっては上官にあたる。部下の機嫌を伺う必要はなかった。
「聞こえたのなら下がれ」
命じると、ブロイスィッシュブラウは不服そうな表情を隠しもせず部屋を出て行った。
彼は近衛兵にはめずらしく、東方の諸侯の家に育った。根っからの坊ちゃん育ちゆえ、自尊心が高い。出会った当初は彼のほうが上官だったこともあり、扱いづらい部下だと思うこともある。
けれど、
翌日、メイダーネ・シャーに到着すると、目を疑った。
広場を警護していたのはブロイスィッシュブラウではなく、スクワルの部下だった。あたりには、ブロイスィッシュブラウはおろか彼の部下の姿も見えない。なぜ自分の役目をスクワルに押し付けたのかは知らないが、勝手な真似をしたことには間違いない。
嫌な予感がした。
近衛から事情を聞くため、一歩、踏み出した瞬間、シアンの目の前をオオカミが横切った。それはもちろん野生の獣ではなく、オオカミの頭部を模した
長身の男は、首が隠れるくらいまですっぽりと被っていた。肩に幼い子どもを乗せているところを見ると、父親なのだろう。肩車された少年は、後頭部で髪をひとつにまとめ、髪留めにオオカミの尻尾のようなふさふさした飾りがつけられていた。
あたりの露店には、似たものがいくつも売られている。かろうじてオオカミとわかる簡素なものから、演劇に携わる職人がいらぬ本気を出して作ったかのような
今夜、メイダーネ・シャーは、オオカミの格好をした者であふれかえっていた。
陽が傾き、薄暗くなり始める。
広場のまわりは露店がひしめき合い、店先には丸い机がいくつも置かれている。どの席も、露店で買い求めた食べものや、酒を楽しむ民でにぎわっていた。そして彼らは食事だけが目的ではなく、机の上に備え付けられているシャトランジの盤で、食事を楽しみながら、今夜に
「おい、もうすぐ決勝が始まるぞ!」
大きな声が響き、声に反応した者たちが次々と卓上の勝負を放り出し、広場の中心に設置された八角形の天井を持つテントへと駆けて行く。
テントのまわりには、一定間隔で旗が立てられていた。風にたなびく三角の旗には、馬の頭や塔など、シャトランジで使う駒の模様が縫い取られ、そこがシャトランジの大会の会場であることをわかりやすくしている。
客の出入口はひとつだけだ。舞台の
シアンも子どもの頃、同じように声をかけられた。返事もせずに無視していたら、「ろくにくちもきけないのか。さすがは
そのとおりだと思った。当時のシアンは、『ヴァート王に恥をかかせてやったらいい』というろくでもない王命のために大会に送り込まれたのだ。シャトランジになんか、なんの興味もなかった。
そして、それは今でも変わらない。椅子に座り、盤を
予選会が終わり、天幕の中が騒がしくなった。壇上で試合をしていた棋士が降りてくる。
涙ぐんでいるのは中年の男で、法において罪人を裁く機関『ファウンテン』に勤めているマギだ。壇上に残っている相手が、予選会の優勝者だろう。進行をつとめていた男が声をはりあげる。
「このような結果を誰が予想したでしょう。予選会を制したのは、まばゆいばかりに美しい女性です! アルカディア嬢に、どうぞみなさま盛大な拍手を!」
進行役が高らかに宣言すると、観客席からは大雨のような拍手がわきおこった。
応えるように上品に
アルカディアを見て、舌打ちしたくなる。彼女とは初対面ではない。十代の頃から何度となく顔を合わせてきた。あまり相性が良くなかったため、今でも顔を合わせると、なにかと好戦的なことを言われるので、恨まれている可能性すらある。
彼女は〈賢者〉の孫娘だ。賢者は表向きはどの宮殿にも属さず、しかし、政務に関わることが認められている。広い知識を有し、国益に貢献した学士から選ばれることが多く、任期は決まっていない。アルカディアの祖父は十四年もその地位に就いていた。
アルカディアは賢者の身内という立場を最大限に利用し、女性としては異例の扱いで、王宮内の『研究所』で学んだ経歴を持つ。たしかに才女ではあったが、シェブロンでは女性が王宮の重要な役職に就くことはなく、政略結婚の道具として扱われてきた。つまり、シアンにとって興味をひかれる相手ではないということだ。
「ここでひとつ、特別な方式を提案いたします」
進行役が話を続ける。
「大会史上、初の女性の挑戦者の誕生となりましたが、本来、女性は予選会に出場する資格がありません。彼女が本当に決勝戦に進むだけの才能を有しているのか、最後の試合でその実力を確かめてみましょう」
客席からは非難の声が上がった。初の女性アリーヤ誕生を阻止するような提案なのだから、仕方ない。進行役もそれがわかっているので、余裕をもって観客をなだめる。
「かつてこの大会は、緑の宮殿の主催で執り行われていました。数年のあいだ大会が行われず、多くの方が残念に思われていたことでしょう。かくいう私もそのひとりです。しかし今夜、青の宮殿主催の大会としてあらたに生まれ変わります。そして、この特別な夜にぴったりの演目を用意してくださったのは、なにを隠そう、アルカディア嬢なのです」
客のざわつきが収まるのを待ち、進行役はアルカディアにうなずいて見せた。彼女はよく通る声で観客席に呼びかけた。
「特別な夜には、特別な方を。青の宮殿主催の大会に出場されるのでしたら、これ以上の方はいらっしゃいません。みなさま、歴代最高のアリーヤの試合を間近でご覧になられたことがあって?」
彼女がゆるりと微笑む。それを合図にシアンが壇上に姿をあらわすと天幕は歓声に包まれた。
向かいあった椅子に案内され、シャトランジの盤が目の前のテーブルの中央に置かれると、客席は水を打ったように一気に静まり返った。
アルカディアは白い手を差し出した。
「対戦できて光栄です、〈青の学士〉」
シアンが握手に応じると、彼女は驚いた顔をしたが、それはすぐに不敵な笑みに変わった。シアンにだけ聞こえるくらいの小さな声で、「会場に誰が来ているのか、ご存じかしら?」とささやく。
「知っている」
シアンは客席を見下ろした。壇上と違い観客席は薄暗く、二百人ほどがひしめいているため顔の判別はつかない。けれど、どこにいるかは見当がつく。大人数が集まる密閉空間で、近衛出身である青の王が、出入口から離れた場所に居るはずがない。
彼女の手を離した。