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第二幕 青の学士
青の学士と呼ばれていたことがある。まだ近衛になる前のことだ。子どもの頃からまわりには大人ばかりがいた。彼らがするように本を読み始めたら、大人たちにちやほやされるようになり、神さまに愛された子どもだと言われた。
賢者に連れられて訪れた研究所の学術棟では、天文学を専門とするマギたちが天体の動きから一年の正確な長さを図ろうとしていた。新しい暦法を作るためだ。聞けば、誤差を小さくするための計算方法を数十年も研究しているという。シアンは資料を一瞥して計算方法を伝えた。マギは子どものたわごとだと取り合わなかったが、賢者はシアンに「誤差は?」と尋ねた。
「五千年に一日」
まもなく暦法が改正され、それは賢者の功績となったが、シアンはそれから『賢者のたまご』と呼ばれるようになった。
どうして、瞬時に計算ができるのかと尋ねられたところで、わかるものはわかってしまうだけで説明のしようもない。頭の出来が違うんじゃないですかと思ったとおりに答えたら、子どものくせに高慢な学士だとうわさされることになった。
世の中はとてもうるさくてわずらわしい。
シアンの足音に振り向いたエールは悪 戯 っぽく笑った。
「あれ、もう懲罰室から出してもらえたんだ?」
青い瞳はふちがつり上がっていて一見するときつい顔立ちなのに、笑みはいつものように優しい。シアンは王の自室に入るとすすめられて敷布に腰を下ろした。エールは椅子に腰かけているので、見上げる格好になる。本を読んでいる途中だったようで石造りの机の上の本は開かれていた。
「近衛に聞いたよ。またマギにくちごたえしたんだって?」
「くちごたえなんかしていない。尋ねられたから答えただけだよ」
王宮の研究所のマギとは相性が良くない。シアンが大人しく話を聞いているうちは、お仕着せがましくあれこれ教えようとするのに、求められた答え以上に『薬の効能は説明されなくても知っています。しかし、サルタイアーの書物には副作用について書かれていました。頻 脈 は副作用の予兆です。症状が出はじめているのになぜ別の薬に変えないのですか』と尋ねたら、とたんに顔が引きつった。
「今度は薬理学長を敵に回したんだね。シアンは機嫌が悪いのが顔に出ちゃうからなあ」
エールは侍女の淹 れた茶をひとくち啜 ると、ぱたんと本を閉じた。
「懲罰室に入れられる時間も長くなったし、これじゃそのうち研究所も出入り禁止にされちゃうんじゃない?」
「別にかまわない。正直に言って、あの人に合わせるのも疲れてきた。若いならともかく、知識は偏っているし応用もきかない年寄りだ。あれでよく薬理専門のマギを名乗れるものだ」
「そういえば、新しく賢者に就任された方も薬理出身じゃなかったっけ。ほら、シアンを目のかたきにしてた……」
「あの方は話にならない。今だって規則を無視して研究所に身内を入れようとしている。孫だか何だか知らないが、まだ十一でしかも女だといううわさだ。思慮が浅いとしか言いようがない」
「そういうことを本人にも言うから目のかたきにされるんだよ」
エールは面白がってくすくすと笑った。
「若いならって言うけど、きっとこれから何年もシアンより若い学士なんて現れないよ。学士の試験に合格した時、最年少記録を十歳も塗り替えちゃったんだからさ」
「学士はただの資格に過ぎない。なんの権限もないし、せめてマギにはならなきゃ国政には関われない」
学士の資格を取ったのは早かったが、マギの登用試験は十七歳になるまで受けられない。シアンはまだ十三歳で試験まであと四年もあるのが口惜しい。
「そうかな。学士になれるだけでもすごいと思うよ。僕はシアンと友達だってことが自慢だよ」
てらいなく褒められシアンは気恥ずかしい思いをかみしめた。懲罰室の前で待ち構えていた学士たちに、「特別扱いされてるからって調子にのるなよ。頭でっかちの小僧が」と悪態をつかれた苛立ちが薄らいでいく。
「四年のうちに〈青の学士〉として功績をあげれば、マギになってすぐに王の側近になることができる。側近になればもう誰にも文句は言わせない。アジュール王の役に立てるはずだ」
エールはうれしそうに、にこりとした。
「頼りにしてる。シアンがいると心強いよ」
でも、といつものように少し困った表情を浮かべた。
「シアンは好きなことをしていいんだよ。僕も好きなようにするからシアンは自分がやりたい仕事を選んでくれればいい。出会ったばかりの時は、マギになって研究職につきたいって言ってただろ? こうして僕のそばにいてくれるなら、側近として仕えてくれなくても良いんだ」
「そばにいるなら側近が一番いいに決まっている」
シアンはエールの言葉を不思議に思いながら、当たり前の答えをくちにした。
「他の宮殿にも影響力をもつためにマギの頂点に立つつもりだ。〈賢者〉になれば黒の宮殿の宰相にだって意見できる。青の宮殿の地位も高めて、アジュール王をないがしろにした連中をひれ伏せさせてやるんだ」
「うーん……そうだね」
エールはくるりと視線を動かしてから、「きっとシアンならすぐに賢者になれるだろうね」と言った。
「僕もシアンに恥ずかしくない青の王になるよ」
腕を伸ばして、こつんとこぶしを合わせる。東方の傭 兵 たちが仲間内でする仕草だとエールから聞いていた。仲間、という響きがいつも胸をくすぐる。王と臣下でしかないのにエールは心を通わせた友人のように接してくれる。
エールと出会ったのは二年前だ。新しい青の王として王宮に連れてこられた時、彼は迷子のように頼りなげで泣きはらした目をしていた。同じ年頃のシアンを見て安心したのか、ぱっと顔を輝かせたのが印象的だった。あの時と変わらない笑顔を毎日むけられているのに、いまだ見飽きることがない。
すとんと肩の力が抜けて、イライラしていたのが嘘みたいに消えてなくなる。不思議なくらい安心する笑顔だ。
「ねえ、このあと近衛の訓練所で任命式があるんだ。シアンも一緒に見に行かない?」
「任命式? じゃあまた兵がいなくなったんだ。近衛が頻 繁 に代わるのは、良くないと思うな」
「うーん、でも、給金が低いのも離隊の原因だろうから、引き留めることもできないんだ。それにあそこはわりと癖のある人が多いし、新任の兵は長続きしないことが多いんだよね……みんな良い人たちなんだけどなあ」
エールが残念そうにため息をつく。ごめん、エール。それについては辞める人間に同感だ。
王宮の隅には、近衛兵の住居がある。広いことだけが取り柄の古い建物だ。あそこは人間のすみかではない。凶暴で下品な動物がたむろしている、むさむさした巣穴だ。
エールが治めている東方はシェブロンで唯一、男子に兵役が課された土地だ。それは外部からの攻撃が多い土地という意味で、必然的に軍の力も強くなるはずなのだが、ここ数年は目に余るほどの弱体化が進んでいる。
度重なるサルタイアーの侵攻を防ぐため軍事には予算を割いているはずだが、青の宮殿の財政を逼迫させるばかりで、東方の治安は一向に改善していない。
しわ寄せはエールが言うように近衛の給金にあらわれている。
それを知ってか近頃では入隊試験に集まる者にろくな者がいないようだ。己の力を過信した尊大な荒くれ者が多く礼儀もなっていない。隊列を乱してでも手柄を求め、褒賞が少なければ「傭兵のほうが稼げる」と辞めてしまう。
小難しいことを並べ立てる文官にも飽き飽きしているが、脳みそまで筋肉のような連中よりは会話が成り立つだけましかもしれない。正直言って関わりたくない。
しかし、エールは期待に満ちあふれた瞳でシアンを見ていた。ため息をつく。
「……行ってもいいよ。何時に行く?」
「やった! 午後からなんだ。訓練所に行く前にさ、一緒にご飯を食べようよ」
うれしそうに言ってそばに控えていた侍従を呼び寄せた。どうせ、またがっかりするだけだろう。そう思ったけれどくちには出さなかった。
近衛は新しく任命されると、謁見室に参じて王にあいさつすることになる。エールはそれが待ちきれないのだ。いつか必ず、近衛として兄が現れると信じている。
もう何度も何度も聞かされた。厳しいけれど優しく、強い兄の自慢話を。エールはいつか兄がそばにきてくれると、その約束だけを心の支えにしていた。手紙を書いても返事もくれない、薄情な兄のことなど早く忘れたらいいのにと、シアンは顔も知らない男のことを何度も憎らしく思った。
澄んだ色の空を見あげて、これは雷がくるなと思った。
雲の流れや風の匂いが、勝手に一番似ている記憶を呼び起こす。季節やここ数ヶ月の天候も考慮すれば、さらに精度はあがる。
ようは情報量と確率論で、天候をどうやって予知するのかなどと尋ねられても困る。
空を見ればわかる。そう答えればまるで、未来を見通す術師のように疑われてしまい、違うと説明したところで理解してくれる者は少なかった。
大抵の人の記憶力では、すべてを詳 細 には覚えていられないらしい。
マギたちからはオーアの加護だともてはやされたが、シアンが思ったことは、不便だな、ということだけだった。
たくさんの記憶は、今までにない新しいものを生み出す時に邪魔になる。どうしても過去のことが頭に浮かんでしまって、決まりきった発想になりやすいから、むしろ邪魔なものだと答えれば、高齢のマギたちは子どもを前に黙ってしまった。
思ったことをくちにすると、まわりの者を苛立たせるのだと知って、シアンは心を許した相手以外と話すことが嫌いになった。
食事を終えると、弱い雨が降り始めた。正装に着替えたエールは天気を気にした様子もなく、楽しそうに訓練所へ向かった。シアンは侍従とともに、エールについて歩いた。
廊下は柱で支えられた屋根はあるが、壁がないので床が雨で濡 れていた。エールの足元まで届くマントのすそが、歩くたびにひらひらと跳ねている。侍従のひとりが気づいて、汚れないようにと藍色の布を両手に持った。
訓練所は宮殿と渡り廊下で繋 がっている。廊下の右手に訓練のための演習場が広がっているのだが、木と漆 喰 で造られた壁に囲まれ中は見えない。
「ぎゃあっ」
とんでもない叫び声のあと、けたたましい音がした。
演習場の壁が大破し、中からなにかが飛び出してきた。そのかたまりは宙を飛び、渡り廊下の天井部分にぶつかった。
シアンはとっさに落下地点にいた侍従に体当たりした。抱きつく格好になり、自分まで床に転がる。かたまりは予想通り、シアンの足元すれすれのところに落ちてきた。
大男が手足を投げ出した格好でのびている。
人? 人のように見えるけれど、空を飛ぶ人など見たことがない。シアンは侍従と顔を見合わせて無言でそれを確認した。
横たわっている男が、人間であることは疑いようがない。けれど、人が空を飛ぶなど下手な笑い話のようで、誰もくちを開かなかった。
エールが男に走り寄り、脈を確かめると「気絶してる。誰か医師を呼んで!」と鋭く声をかける。侍従が弾かれたように命令に従った。
エールの側近が裏返った声で訓練所に向かって叫んだ。
「スクワル、これはどういうことだっ!?」
視線を向けると壊れた壁からひとりの兵が出てくるところだった。男は渡り廊下の前までやってきた。スクワルは近衛兵でシアンもよく知っていた。体格が良く背が高い。髪も瞳も鳶 色で、今は雨に濡れてさらに濃い茶色に染まっていた。
「申し訳ありません」と、王の前である礼儀として地面に片ひざをついた。廊下は地面と段差があるので、そうするとシアンの位置からは姿が見えなくなる。スクワルはエールに声をかけた。
「シャー、その男から御手をお離しください。汚れてしまいます」
エールは首を横に振った。
「私はかまわない。スクワルがこの者を痛めつけたのか? 胸章をつけていないということは、新しく近衛になる者のはずだ。何があったのか話してくれないか」
「お叱 りはあとで受けます。雨で身体が冷えてしまいますので宮殿へお戻りください。任命式は延期いたします」
エールは立ち上がると、スクワルを見下ろした。素直で優しい横顔がにわかに険しくなっている。
「スクワルが答えてくれないのなら、他の者に尋ねよう」
一歩踏み出すと、地面にむけて跳んだ。青いマントがひらりとはためくのは鳥の羽を思わせる。身のこなしが美しいのは出会った時からで、シアンはエールが飛び降りる姿に見 惚 れた。足元は浅い水たまりができはじめていたのに、しぶきどころか音もたてず着地した。
エールはまっすぐ訓練所に向かって歩いた。側近たちが「シャー! お待ちください」と慌てふためいた声で呼び止めた。シアンもためらいがちに名前を呼んだ。
壁のむこうからのぞいていた兵たちは、王の姿を見て次々とひざまずいた。
しかし、その中のひとりだけは違った。ゆく手を阻むように、エールの前に立ちふさがった。青の瞳はふちがつり上がっていて、長い金髪はひとつに束ねている。その場にいたどの兵よりも若く見えたが、妙に落ち着き払っていた。
「あの豚を投げとばしたのは、俺だ」
エールは立ち止まり、目を大きく見開いた。雨が強く降りはじめ、ふたりを濡らした。
男はちらりと雨を気にすると、エールに近づいて、慣れた仕草で腕に抱き上げた。たとえ近衛であっても、平時に王にふれることは許されていない。スクワルが、「わきまえろ、アージェント」と鋭く注意したが、男は顔色を変えなかった。
雨の当たらない廊下までエールを運ぶと、その場に立たせた。藍色のマントのすそをすくいとって、自らのひたいにあてる。
「約束を果たしに来た。これより、シェブロンと青の王にお仕えします」
とたんにエールの目から涙があふれた。側近も侍従も慌ててエールのもとに駆け寄ったが、当の本人は彼らの腕を振り切って、「兄さん」と目の前の男に飛びついた。
青の学士と呼ばれていたことがある。まだ近衛になる前のことだ。子どもの頃からまわりには大人ばかりがいた。彼らがするように本を読み始めたら、大人たちにちやほやされるようになり、神さまに愛された子どもだと言われた。
賢者に連れられて訪れた研究所の学術棟では、天文学を専門とするマギたちが天体の動きから一年の正確な長さを図ろうとしていた。新しい暦法を作るためだ。聞けば、誤差を小さくするための計算方法を数十年も研究しているという。シアンは資料を一瞥して計算方法を伝えた。マギは子どものたわごとだと取り合わなかったが、賢者はシアンに「誤差は?」と尋ねた。
「五千年に一日」
まもなく暦法が改正され、それは賢者の功績となったが、シアンはそれから『賢者のたまご』と呼ばれるようになった。
どうして、瞬時に計算ができるのかと尋ねられたところで、わかるものはわかってしまうだけで説明のしようもない。頭の出来が違うんじゃないですかと思ったとおりに答えたら、子どものくせに高慢な学士だとうわさされることになった。
世の中はとてもうるさくてわずらわしい。
シアンの足音に振り向いたエールは
「あれ、もう懲罰室から出してもらえたんだ?」
青い瞳はふちがつり上がっていて一見するときつい顔立ちなのに、笑みはいつものように優しい。シアンは王の自室に入るとすすめられて敷布に腰を下ろした。エールは椅子に腰かけているので、見上げる格好になる。本を読んでいる途中だったようで石造りの机の上の本は開かれていた。
「近衛に聞いたよ。またマギにくちごたえしたんだって?」
「くちごたえなんかしていない。尋ねられたから答えただけだよ」
王宮の研究所のマギとは相性が良くない。シアンが大人しく話を聞いているうちは、お仕着せがましくあれこれ教えようとするのに、求められた答え以上に『薬の効能は説明されなくても知っています。しかし、サルタイアーの書物には副作用について書かれていました。
「今度は薬理学長を敵に回したんだね。シアンは機嫌が悪いのが顔に出ちゃうからなあ」
エールは侍女の
「懲罰室に入れられる時間も長くなったし、これじゃそのうち研究所も出入り禁止にされちゃうんじゃない?」
「別にかまわない。正直に言って、あの人に合わせるのも疲れてきた。若いならともかく、知識は偏っているし応用もきかない年寄りだ。あれでよく薬理専門のマギを名乗れるものだ」
「そういえば、新しく賢者に就任された方も薬理出身じゃなかったっけ。ほら、シアンを目のかたきにしてた……」
「あの方は話にならない。今だって規則を無視して研究所に身内を入れようとしている。孫だか何だか知らないが、まだ十一でしかも女だといううわさだ。思慮が浅いとしか言いようがない」
「そういうことを本人にも言うから目のかたきにされるんだよ」
エールは面白がってくすくすと笑った。
「若いならって言うけど、きっとこれから何年もシアンより若い学士なんて現れないよ。学士の試験に合格した時、最年少記録を十歳も塗り替えちゃったんだからさ」
「学士はただの資格に過ぎない。なんの権限もないし、せめてマギにはならなきゃ国政には関われない」
学士の資格を取ったのは早かったが、マギの登用試験は十七歳になるまで受けられない。シアンはまだ十三歳で試験まであと四年もあるのが口惜しい。
「そうかな。学士になれるだけでもすごいと思うよ。僕はシアンと友達だってことが自慢だよ」
てらいなく褒められシアンは気恥ずかしい思いをかみしめた。懲罰室の前で待ち構えていた学士たちに、「特別扱いされてるからって調子にのるなよ。頭でっかちの小僧が」と悪態をつかれた苛立ちが薄らいでいく。
「四年のうちに〈青の学士〉として功績をあげれば、マギになってすぐに王の側近になることができる。側近になればもう誰にも文句は言わせない。アジュール王の役に立てるはずだ」
エールはうれしそうに、にこりとした。
「頼りにしてる。シアンがいると心強いよ」
でも、といつものように少し困った表情を浮かべた。
「シアンは好きなことをしていいんだよ。僕も好きなようにするからシアンは自分がやりたい仕事を選んでくれればいい。出会ったばかりの時は、マギになって研究職につきたいって言ってただろ? こうして僕のそばにいてくれるなら、側近として仕えてくれなくても良いんだ」
「そばにいるなら側近が一番いいに決まっている」
シアンはエールの言葉を不思議に思いながら、当たり前の答えをくちにした。
「他の宮殿にも影響力をもつためにマギの頂点に立つつもりだ。〈賢者〉になれば黒の宮殿の宰相にだって意見できる。青の宮殿の地位も高めて、アジュール王をないがしろにした連中をひれ伏せさせてやるんだ」
「うーん……そうだね」
エールはくるりと視線を動かしてから、「きっとシアンならすぐに賢者になれるだろうね」と言った。
「僕もシアンに恥ずかしくない青の王になるよ」
腕を伸ばして、こつんとこぶしを合わせる。東方の
エールと出会ったのは二年前だ。新しい青の王として王宮に連れてこられた時、彼は迷子のように頼りなげで泣きはらした目をしていた。同じ年頃のシアンを見て安心したのか、ぱっと顔を輝かせたのが印象的だった。あの時と変わらない笑顔を毎日むけられているのに、いまだ見飽きることがない。
すとんと肩の力が抜けて、イライラしていたのが嘘みたいに消えてなくなる。不思議なくらい安心する笑顔だ。
「ねえ、このあと近衛の訓練所で任命式があるんだ。シアンも一緒に見に行かない?」
「任命式? じゃあまた兵がいなくなったんだ。近衛が
「うーん、でも、給金が低いのも離隊の原因だろうから、引き留めることもできないんだ。それにあそこはわりと癖のある人が多いし、新任の兵は長続きしないことが多いんだよね……みんな良い人たちなんだけどなあ」
エールが残念そうにため息をつく。ごめん、エール。それについては辞める人間に同感だ。
王宮の隅には、近衛兵の住居がある。広いことだけが取り柄の古い建物だ。あそこは人間のすみかではない。凶暴で下品な動物がたむろしている、むさむさした巣穴だ。
エールが治めている東方はシェブロンで唯一、男子に兵役が課された土地だ。それは外部からの攻撃が多い土地という意味で、必然的に軍の力も強くなるはずなのだが、ここ数年は目に余るほどの弱体化が進んでいる。
度重なるサルタイアーの侵攻を防ぐため軍事には予算を割いているはずだが、青の宮殿の財政を逼迫させるばかりで、東方の治安は一向に改善していない。
しわ寄せはエールが言うように近衛の給金にあらわれている。
それを知ってか近頃では入隊試験に集まる者にろくな者がいないようだ。己の力を過信した尊大な荒くれ者が多く礼儀もなっていない。隊列を乱してでも手柄を求め、褒賞が少なければ「傭兵のほうが稼げる」と辞めてしまう。
小難しいことを並べ立てる文官にも飽き飽きしているが、脳みそまで筋肉のような連中よりは会話が成り立つだけましかもしれない。正直言って関わりたくない。
しかし、エールは期待に満ちあふれた瞳でシアンを見ていた。ため息をつく。
「……行ってもいいよ。何時に行く?」
「やった! 午後からなんだ。訓練所に行く前にさ、一緒にご飯を食べようよ」
うれしそうに言ってそばに控えていた侍従を呼び寄せた。どうせ、またがっかりするだけだろう。そう思ったけれどくちには出さなかった。
近衛は新しく任命されると、謁見室に参じて王にあいさつすることになる。エールはそれが待ちきれないのだ。いつか必ず、近衛として兄が現れると信じている。
もう何度も何度も聞かされた。厳しいけれど優しく、強い兄の自慢話を。エールはいつか兄がそばにきてくれると、その約束だけを心の支えにしていた。手紙を書いても返事もくれない、薄情な兄のことなど早く忘れたらいいのにと、シアンは顔も知らない男のことを何度も憎らしく思った。
澄んだ色の空を見あげて、これは雷がくるなと思った。
雲の流れや風の匂いが、勝手に一番似ている記憶を呼び起こす。季節やここ数ヶ月の天候も考慮すれば、さらに精度はあがる。
ようは情報量と確率論で、天候をどうやって予知するのかなどと尋ねられても困る。
空を見ればわかる。そう答えればまるで、未来を見通す術師のように疑われてしまい、違うと説明したところで理解してくれる者は少なかった。
大抵の人の記憶力では、すべてを
マギたちからはオーアの加護だともてはやされたが、シアンが思ったことは、不便だな、ということだけだった。
たくさんの記憶は、今までにない新しいものを生み出す時に邪魔になる。どうしても過去のことが頭に浮かんでしまって、決まりきった発想になりやすいから、むしろ邪魔なものだと答えれば、高齢のマギたちは子どもを前に黙ってしまった。
思ったことをくちにすると、まわりの者を苛立たせるのだと知って、シアンは心を許した相手以外と話すことが嫌いになった。
食事を終えると、弱い雨が降り始めた。正装に着替えたエールは天気を気にした様子もなく、楽しそうに訓練所へ向かった。シアンは侍従とともに、エールについて歩いた。
廊下は柱で支えられた屋根はあるが、壁がないので床が雨で
訓練所は宮殿と渡り廊下で
「ぎゃあっ」
とんでもない叫び声のあと、けたたましい音がした。
演習場の壁が大破し、中からなにかが飛び出してきた。そのかたまりは宙を飛び、渡り廊下の天井部分にぶつかった。
シアンはとっさに落下地点にいた侍従に体当たりした。抱きつく格好になり、自分まで床に転がる。かたまりは予想通り、シアンの足元すれすれのところに落ちてきた。
大男が手足を投げ出した格好でのびている。
人? 人のように見えるけれど、空を飛ぶ人など見たことがない。シアンは侍従と顔を見合わせて無言でそれを確認した。
横たわっている男が、人間であることは疑いようがない。けれど、人が空を飛ぶなど下手な笑い話のようで、誰もくちを開かなかった。
エールが男に走り寄り、脈を確かめると「気絶してる。誰か医師を呼んで!」と鋭く声をかける。侍従が弾かれたように命令に従った。
エールの側近が裏返った声で訓練所に向かって叫んだ。
「スクワル、これはどういうことだっ!?」
視線を向けると壊れた壁からひとりの兵が出てくるところだった。男は渡り廊下の前までやってきた。スクワルは近衛兵でシアンもよく知っていた。体格が良く背が高い。髪も瞳も
「申し訳ありません」と、王の前である礼儀として地面に片ひざをついた。廊下は地面と段差があるので、そうするとシアンの位置からは姿が見えなくなる。スクワルはエールに声をかけた。
「シャー、その男から御手をお離しください。汚れてしまいます」
エールは首を横に振った。
「私はかまわない。スクワルがこの者を痛めつけたのか? 胸章をつけていないということは、新しく近衛になる者のはずだ。何があったのか話してくれないか」
「お
エールは立ち上がると、スクワルを見下ろした。素直で優しい横顔がにわかに険しくなっている。
「スクワルが答えてくれないのなら、他の者に尋ねよう」
一歩踏み出すと、地面にむけて跳んだ。青いマントがひらりとはためくのは鳥の羽を思わせる。身のこなしが美しいのは出会った時からで、シアンはエールが飛び降りる姿に
エールはまっすぐ訓練所に向かって歩いた。側近たちが「シャー! お待ちください」と慌てふためいた声で呼び止めた。シアンもためらいがちに名前を呼んだ。
壁のむこうからのぞいていた兵たちは、王の姿を見て次々とひざまずいた。
しかし、その中のひとりだけは違った。ゆく手を阻むように、エールの前に立ちふさがった。青の瞳はふちがつり上がっていて、長い金髪はひとつに束ねている。その場にいたどの兵よりも若く見えたが、妙に落ち着き払っていた。
「あの豚を投げとばしたのは、俺だ」
エールは立ち止まり、目を大きく見開いた。雨が強く降りはじめ、ふたりを濡らした。
男はちらりと雨を気にすると、エールに近づいて、慣れた仕草で腕に抱き上げた。たとえ近衛であっても、平時に王にふれることは許されていない。スクワルが、「わきまえろ、アージェント」と鋭く注意したが、男は顔色を変えなかった。
雨の当たらない廊下までエールを運ぶと、その場に立たせた。藍色のマントのすそをすくいとって、自らのひたいにあてる。
「約束を果たしに来た。これより、シェブロンと青の王にお仕えします」
とたんにエールの目から涙があふれた。側近も侍従も慌ててエールのもとに駆け寄ったが、当の本人は彼らの腕を振り切って、「兄さん」と目の前の男に飛びついた。