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「そう、ぶすくれるなって。おまえでも怖いものはあるんだな」
両側から武骨な手で髪をかきまわされ、ウィロウは迷惑そうに顔をしかめた。シアンはため息をついて部屋から出て行こうとした。
「あ、待てよ!」
「……なんだ」
今度こそ苛立つ。不機嫌を極めたしかめっつらにびっくりしたのか、ウィロウは酔いの覚めたような顔をした。
「別になんでもないけど。あんた、めったに娯楽所には来ないんだろ。おれに会いにきたんじゃないの?」
見当違いな問いかけを無視して部屋を出ると、ちょうど娯楽所に入ってきたスクワルと鉢合わせた。
「うわー凶悪。人でも殺しそうな顔してますよ。まさかあいつらになんかされたんっすか?」
「どけ、邪魔だ」
スクワルは黙って両手をあげ、道を譲ろうとした。
「はは、ウィロウのやつ宰相殿にふられてやんの」と、背後から笑い声が聞こえる。
「いい気味だぜ。おまえだってこんな話きかれたら困るだろ。いっぺんに嫁さん四人も貰 うなんて、あの清 廉 潔 白 な御方に知られたら、お小言じゃすまないぞ」
聞き間違いを疑った。きびすを返して部屋へもどると、「おい、四人全員と結婚するつもりなのか?」と声をかけた。
「どうなんだ、ウィロウ」
ウィロウは気まずげな様子もなく、「結婚相手が四人だよ」と答えた。
「官職が重婚したらなんかまずいのか?」
シェブロンは一夫多妻もその逆も認められている。夫婦関係は法で定められているわけではなく事実婚でしかないため、経済力のある諸侯やマギなどは屋敷に多くの女をはべらせることが多い。他国のように妾 という扱いもないのですべてが『妻』となる。
「まずいということはないが……」
問題になることはないはずだったが、なんだか釈然としない。シアンが結婚話に切り込んだことで、兵たちは「シアン様、聞いてくださいよ!」と、にわかに盛り上がった。
「ウィロウのやつ、もともとは婚約者候補が二十人もいたんですよ。その中から四人に絞ったって、どう思います? さっさと水道長官の肩書き、はく奪してやってくださいよ。官職じゃなくなりゃ、女は逃げ出しますよ」
「確かになー、だってこいつ馬鹿だもん。俺が嫁ならぜったい騙 されたと思って出てくよ。つーか、すぐに出てくんじゃねえの? そしたら、アルカディアちゃんは俺の嫁!」
「おまえなんか見向きもされねーよ」
悪乗りしてゆく男たちに囲まれて、ウィロウは「うるせーアホども! 悔しかったらおまえらも結婚すればいいだろっ」と怒鳴った。
「馬鹿いうな! 宰相ですら妻帯されていないのに、俺たちが上官を差し置いて結婚などできるわけないだろ」
「待て。それではおまえたちが結婚できないのは私のせいか?」
思わず突っ込むと服を引っ張られた。振り向くとスクワルが呆れた顔で見下ろしていて、「あんた、なに混じってんですか」とため息をついた。
手を振り払い、「みなに言っておく」と言った。
「私が妻をめとるまで、結婚を先延ばしにしているのなら無意味だ。私は生涯、結婚はしない。現隊長のスクワルだって妻帯しているだろう。すでに近衛をひいた私に遠慮することはない」
スクワルが背後で、「あーあ、また」と苦々しい声で小さくつぶやいた。
兵の中からおずおずと手が上がる。
「シアン様は……その、なぜ結婚されないのですか」
「パーディシャーに仕えているからだ」
ぎゃ、という悲鳴が上がった。
「や、やっぱり! 恐れていた日がついに来た!」
「いや待て、あの方の言葉足らずに俺たちはどれだけ振り回されてきたと思っている!? 気をしっかり持て。今がはっきりさせる良い機会だと思え!」
ひそひそと耳打ちする声も丸ぎこえで、なんだか胸 糞 悪い雰囲気だ。
「シアン様はシャーをどう思われているんですか!? そ、側近というのは存じていますが、実際のところはどういったご関係で……」
「私は王の所有物だ」
静かすぎて時が止まったようだ。スクワルが神妙な顔をして「そりゃ微妙な言い回しじゃないっすか? こいつら全員、勘違いしますよ」と、くちを挟んだ。指さされた兵たちはコクコクとうなずき、助けを求めるようにスクワルを見上げている。
「青の領地に生きる者は、広義でいえばすべて王の所有物だ」
「はあ……そりゃ入隊した時に、近衛になると残りの人生をシャーに捧げると誓わされますから、そういう意味じゃ所有物なのかな、って、やっぱりおかしくないっすか?」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
スクワルは気でも紛らわせるように天井を見上げた。やりたくない仕事を与えられた時のように時間をかけて覚悟を決めると、シアンの目をまっすぐに見つめた。
「じゃあ言わせてもらいますけど、シャーとの関係がおかしな風 にうわさされるのって、あんたらのせいだと思いますよ。宰相も紛らわしいことばかり口走らないでください。叩く口実を探してる連中に棒を持たせるようなもんでしょ」
「どこが紛らわしいんだ。シャーに仕えている限り恋人など作れるはずがないだろう。あの人のことだけで手一杯で恋人を一番に想うなどできるはずがない。だから結婚もしないと決めている。それがなにかおかしいのか?」
あたりを見まわすと、誰も文句は言わなかったが全員が酔いでも覚めたように真っ青になっている。スクワルは片手で顔を覆 って、「だめだ、この人。頭の病気だ」と失礼なことをつぶやいた。
酒宴は異常な盛り上がりをみせている。異常だ。なぜ、自分はまだここにいるのだ、とシアンは酒の杯 に視線を落として、どこで間違えたのか思い出そうとした。
「じゃあ、次の告白いってみよう」と、語尾を上げた陽気な声が響いた。
「ほら、カリブ立て。入隊時から熱く語っていたあれを、宰相にお伝えしろよ」
「は、はいいぃ! じ、自分はオータムアジュール出身で、ラズワルド騎兵隊に憧れて入隊を希望しましたッ。血 反 吐 はきそうな訓練に耐えられたのは、いつかシアン隊長とともに出陣できることを夢見ていたからです!」
「……どうも」
他になにを言えと。シアンは脚を組み直して椅子の背にもたれると、うつろな目で部屋を見まわした。兵たちは床にじかにあぐらをかき、なぜか正座している者までいる。椅子に座っているのはシアンと、部屋の隅で監視役よろしく腕組みしているスクワルだけだ。
自然に彼らを見下ろす格好になって、はたから見たらまるで説教でもしているような、非常におかしな絵面だ。
カリブは仲間に背中を叩かれて、「おまえ、なに泣いてんだよ」とあたたかく慰められていた。
「あまり泣くと宰相がうんざりされてしまうぞ。あのお顔を見てみろ、虫ケラを見るような冷めた目をされていらっしゃる」
「す、すびばせん、でも久しぶりにシアン様にお声をかけていただいた感激で涙が止まらなくて」
鍛え上げた肉体をもった兵にうるんだ視線を投げかけられ、シアンは重いくちを開いた。
「カリブ、私は知ってのとおり、利 き腕に怪我をして近衛としては使いものにならない。私の代わりに近衛で活躍してくれることを祈る」
「あ、ああ、ありがとうございますっ。オレなんかにはもったいないお言葉です! シアン隊長に優しくしていただけるなんて、ああそんな、オレもう死んでもいいっ」
隆 々 とした筋肉の目立つ身体を両手で抱きしめ、カリブは身を震わせた。カリブの肩を優しく叩いた兵が声を上げる。
「聞いたかおまえたち、シアン様が優しいお言葉をかけてくださったぞ。今日をワズィール記念日と名付けよう!」
「はいはいはい、シアン隊長! つぎっ、次は俺が告白します」
「馬鹿、てめーなんかに抜け駆けさせるか。隊長っ、次は私の志望動機を聞いてください!」
シアンは場が盛り上がるのと反比例してうなだれた。もはや、『隊長』ではないと突っ込む力もわいてこない。
設備をととのえ、入隊試験を厳しくし、訓練を強化して近衛の育成に力を注いできた数年はいったいなんだったのか。逼 迫 していた予算を軍事中心にした。軍の人事も根回しして、近衛の地位を高めることに苦心し、規律の見直しには特に時間を割 いた。結果がこれか。
何度確かめても、アホな酔っ払いしか見当たらない。『王宮で最も優秀な近衛兵』は幻想にすぎなかったのかと頭を悩ませる。
「おいウィロウ、なに大人しくなってんだよ。せっかくシアン様がいらっしゃるんだから、おまえも〈青の学士〉への心酔ぶりを聞いていただいたらいいだろ」
黙って酒をすすってばかりいたウィロウは、「うっせーな」と顔を背 けた。兵はしつこくウィロウに絡 む。
「ふいうちとはいえシアン様にキスしたこともあるんだから、今さら遠慮なんてらしくないぞ! はは、懐 かしいよなあ。あれ何年前だ?」
兵の言葉にウィロウの手から器が滑り落ちて割れた。
それからの喧 騒 は本当にひどいものだった。事情を知らない兵がキスのその事実に憤り、もみくちゃにされたウィロウは耐えていたが、やがて抵抗して、しまいにはキレた。つかみかかってきた兵相手に挑むように立ち上がって、その胸をドンと押した。
「あんなもん、キスなんて呼ぶわけねーだろ! 男同士でなにがキスだ、気色悪いこと言うんじゃねーよ!」
「確かにあの程度をキスなどと呼ぶなら、近衛に入ったばかりの頃にシャーにされた時のほうがまだひどかったな」
しまった、魔が差した。ついくちを出してしまった。毒がじわりと効くように静けさが訪れて、スクワルのうめき声だけが響いた。
兵たちは顔色を変え、「さ、宰相殿がシャーと……近衛の頃から!?」とざわめいた。
「それじゃあ、青の女だといううわさは本当だったのかっ。では、あの天然か計算かわからん発言もすべて事実ということに!?」
「おい、おまえら、シアン様に失礼なことを言うと容赦しないぞ!」
好き勝手なことを口走り、つかみあった。今にも殴り合いを始めかねないなという心配もつかのま、殴り飛ばされた兵は別の兵にぶつかって、一緒に床を転がった。当然、下敷きになった兵も怒りに燃えて立ち上がる。
あとはもう場末の酒場のように、あちこちでケンカが始まった。スクワルが腕組みをといて立ち上がると、「宰相、今のうちに出ましょう」と、めずらしく暗い声で言った。
「私のせいか」
「まあ、平たく言えばあんたのせいですね。はあ……もう近衛の宴席に顔だすのはやめてくださいよ」
近衛にいた頃から、シアンは近衛の集まる酒宴に顔を出すことはほぼない。たまに誘われたところで、それまで盛り上がっていた部下たちが、恐縮したように黙りこみ視線をそらすことが多かった。近衛隊長という立場のせいなのか、シアン個人の何かがそうさせていたのかはわからないが、仏頂面だの感情がないだのうわさされていることは知っていた。自然と輪に加わる機会もなくなった。
だから、どうしようもない酔っ払いどもだとしても、手放しで歓迎され、「ここ、座ってください!」と椅子をすすめられるのは悪い気がしなかった。
「わかった、スクワル。二度とここへは来ない。だが、騒ぎが私のせいだというのなら責任をとって争いを止めてから帰ってやる」
「は?」
「おまえたち、キスの話を聞きたいのか?」
呼びかけると、おもしろいくらいぴたりと喧騒がやんだ。つかみ合っていた兵たちはいぶかしげに座っているシアンを見下ろして、あたりをきょろきょろしてから手を離した。行儀よくなったことに満足したがスクワルだけはひとり慌てていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。え? アレを話すんですか」
「くだらない誤解を解くなら、真相を話してやるのが一番だ。たいした話でもないから、もったいつけると余計におかしなうわさになる」
スクワルは鼻の上にしわを寄せると「いや、でも」と、本気で狼狽 えている。飄 々 とした男なので、その姿に少し気分が良くなった。
シアンは見たことや聞いたことはすべて、出来事を記した本を読むように思い出すことができる。天候、風の強さ、出会った人、声、読んだ書物の内容、嗅 いだにおい、手触りも記されている。それらの膨大な思い出は、もちろん一冊の本には収まりきらず、本棚に並べられていた。本棚だらけの広い部屋にシアンはいた。
どの本の何枚目に書かれているかはシアンだけが知っていて、必要な時に読み返すことができた。忌 々 しい思い出は忘れたいと願うこともあるが、今のところ、失くした本はひとつもない。失くしたと思った本も、今はもとの在 り処 に返ってきていた。
「あれは、私が近衛に入ったばかりの頃……」
話しはじめたところで、目の前に緑色の服を着た人影が立ちふさがった。てのひらを強引に、くちに押し当てられる。ウィロウだ。眉はつりあがり、赤味がかった薄茶色の髪は猫の毛のように逆立っていた。
「言うな! おれは青の学士のそんな話は聞きたくない! あんたがパーディシャーとキスした話なんか聞いたらここの連中が想像するだろ!? もうちょっと、自分がどういう目で見られているか意識しろよ、この鈍感っ」
暴言に唖然とする。つい先ほど「男同士でなにがキスだ」と怒鳴ったくせに、それを言うのか。赤くなった顔をまじまじと眺めてから、なんだ、とふに落ちた。
なんだ、この男は自分のことが好きなのだ。数年前から変わらず〈青の学士〉であるシアンのことを好きなのだ。めずらしいものを発見した気分になる。それは決して悪い気分ではなかった。
ウィロウの手からは墨 のにおいがした。短く切った爪はうっすらと黒ずんでいて、意外なほど大きなてのひらだった。シアンが指先にふれると、ウィロウは熱湯でもかけられたかのように手を引っ込めた。
両側から武骨な手で髪をかきまわされ、ウィロウは迷惑そうに顔をしかめた。シアンはため息をついて部屋から出て行こうとした。
「あ、待てよ!」
「……なんだ」
今度こそ苛立つ。不機嫌を極めたしかめっつらにびっくりしたのか、ウィロウは酔いの覚めたような顔をした。
「別になんでもないけど。あんた、めったに娯楽所には来ないんだろ。おれに会いにきたんじゃないの?」
見当違いな問いかけを無視して部屋を出ると、ちょうど娯楽所に入ってきたスクワルと鉢合わせた。
「うわー凶悪。人でも殺しそうな顔してますよ。まさかあいつらになんかされたんっすか?」
「どけ、邪魔だ」
スクワルは黙って両手をあげ、道を譲ろうとした。
「はは、ウィロウのやつ宰相殿にふられてやんの」と、背後から笑い声が聞こえる。
「いい気味だぜ。おまえだってこんな話きかれたら困るだろ。いっぺんに嫁さん四人も
聞き間違いを疑った。きびすを返して部屋へもどると、「おい、四人全員と結婚するつもりなのか?」と声をかけた。
「どうなんだ、ウィロウ」
ウィロウは気まずげな様子もなく、「結婚相手が四人だよ」と答えた。
「官職が重婚したらなんかまずいのか?」
シェブロンは一夫多妻もその逆も認められている。夫婦関係は法で定められているわけではなく事実婚でしかないため、経済力のある諸侯やマギなどは屋敷に多くの女をはべらせることが多い。他国のように
「まずいということはないが……」
問題になることはないはずだったが、なんだか釈然としない。シアンが結婚話に切り込んだことで、兵たちは「シアン様、聞いてくださいよ!」と、にわかに盛り上がった。
「ウィロウのやつ、もともとは婚約者候補が二十人もいたんですよ。その中から四人に絞ったって、どう思います? さっさと水道長官の肩書き、はく奪してやってくださいよ。官職じゃなくなりゃ、女は逃げ出しますよ」
「確かになー、だってこいつ馬鹿だもん。俺が嫁ならぜったい
「おまえなんか見向きもされねーよ」
悪乗りしてゆく男たちに囲まれて、ウィロウは「うるせーアホども! 悔しかったらおまえらも結婚すればいいだろっ」と怒鳴った。
「馬鹿いうな! 宰相ですら妻帯されていないのに、俺たちが上官を差し置いて結婚などできるわけないだろ」
「待て。それではおまえたちが結婚できないのは私のせいか?」
思わず突っ込むと服を引っ張られた。振り向くとスクワルが呆れた顔で見下ろしていて、「あんた、なに混じってんですか」とため息をついた。
手を振り払い、「みなに言っておく」と言った。
「私が妻をめとるまで、結婚を先延ばしにしているのなら無意味だ。私は生涯、結婚はしない。現隊長のスクワルだって妻帯しているだろう。すでに近衛をひいた私に遠慮することはない」
スクワルが背後で、「あーあ、また」と苦々しい声で小さくつぶやいた。
兵の中からおずおずと手が上がる。
「シアン様は……その、なぜ結婚されないのですか」
「パーディシャーに仕えているからだ」
ぎゃ、という悲鳴が上がった。
「や、やっぱり! 恐れていた日がついに来た!」
「いや待て、あの方の言葉足らずに俺たちはどれだけ振り回されてきたと思っている!? 気をしっかり持て。今がはっきりさせる良い機会だと思え!」
ひそひそと耳打ちする声も丸ぎこえで、なんだか
「シアン様はシャーをどう思われているんですか!? そ、側近というのは存じていますが、実際のところはどういったご関係で……」
「私は王の所有物だ」
静かすぎて時が止まったようだ。スクワルが神妙な顔をして「そりゃ微妙な言い回しじゃないっすか? こいつら全員、勘違いしますよ」と、くちを挟んだ。指さされた兵たちはコクコクとうなずき、助けを求めるようにスクワルを見上げている。
「青の領地に生きる者は、広義でいえばすべて王の所有物だ」
「はあ……そりゃ入隊した時に、近衛になると残りの人生をシャーに捧げると誓わされますから、そういう意味じゃ所有物なのかな、って、やっぱりおかしくないっすか?」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
スクワルは気でも紛らわせるように天井を見上げた。やりたくない仕事を与えられた時のように時間をかけて覚悟を決めると、シアンの目をまっすぐに見つめた。
「じゃあ言わせてもらいますけど、シャーとの関係がおかしな
「どこが紛らわしいんだ。シャーに仕えている限り恋人など作れるはずがないだろう。あの人のことだけで手一杯で恋人を一番に想うなどできるはずがない。だから結婚もしないと決めている。それがなにかおかしいのか?」
あたりを見まわすと、誰も文句は言わなかったが全員が酔いでも覚めたように真っ青になっている。スクワルは片手で顔を
酒宴は異常な盛り上がりをみせている。異常だ。なぜ、自分はまだここにいるのだ、とシアンは酒の
「じゃあ、次の告白いってみよう」と、語尾を上げた陽気な声が響いた。
「ほら、カリブ立て。入隊時から熱く語っていたあれを、宰相にお伝えしろよ」
「は、はいいぃ! じ、自分はオータムアジュール出身で、ラズワルド騎兵隊に憧れて入隊を希望しましたッ。
「……どうも」
他になにを言えと。シアンは脚を組み直して椅子の背にもたれると、うつろな目で部屋を見まわした。兵たちは床にじかにあぐらをかき、なぜか正座している者までいる。椅子に座っているのはシアンと、部屋の隅で監視役よろしく腕組みしているスクワルだけだ。
自然に彼らを見下ろす格好になって、はたから見たらまるで説教でもしているような、非常におかしな絵面だ。
カリブは仲間に背中を叩かれて、「おまえ、なに泣いてんだよ」とあたたかく慰められていた。
「あまり泣くと宰相がうんざりされてしまうぞ。あのお顔を見てみろ、虫ケラを見るような冷めた目をされていらっしゃる」
「す、すびばせん、でも久しぶりにシアン様にお声をかけていただいた感激で涙が止まらなくて」
鍛え上げた肉体をもった兵にうるんだ視線を投げかけられ、シアンは重いくちを開いた。
「カリブ、私は知ってのとおり、
「あ、ああ、ありがとうございますっ。オレなんかにはもったいないお言葉です! シアン隊長に優しくしていただけるなんて、ああそんな、オレもう死んでもいいっ」
「聞いたかおまえたち、シアン様が優しいお言葉をかけてくださったぞ。今日をワズィール記念日と名付けよう!」
「はいはいはい、シアン隊長! つぎっ、次は俺が告白します」
「馬鹿、てめーなんかに抜け駆けさせるか。隊長っ、次は私の志望動機を聞いてください!」
シアンは場が盛り上がるのと反比例してうなだれた。もはや、『隊長』ではないと突っ込む力もわいてこない。
設備をととのえ、入隊試験を厳しくし、訓練を強化して近衛の育成に力を注いできた数年はいったいなんだったのか。
何度確かめても、アホな酔っ払いしか見当たらない。『王宮で最も優秀な近衛兵』は幻想にすぎなかったのかと頭を悩ませる。
「おいウィロウ、なに大人しくなってんだよ。せっかくシアン様がいらっしゃるんだから、おまえも〈青の学士〉への心酔ぶりを聞いていただいたらいいだろ」
黙って酒をすすってばかりいたウィロウは、「うっせーな」と顔を
「ふいうちとはいえシアン様にキスしたこともあるんだから、今さら遠慮なんてらしくないぞ! はは、
兵の言葉にウィロウの手から器が滑り落ちて割れた。
それからの
「あんなもん、キスなんて呼ぶわけねーだろ! 男同士でなにがキスだ、気色悪いこと言うんじゃねーよ!」
「確かにあの程度をキスなどと呼ぶなら、近衛に入ったばかりの頃にシャーにされた時のほうがまだひどかったな」
しまった、魔が差した。ついくちを出してしまった。毒がじわりと効くように静けさが訪れて、スクワルのうめき声だけが響いた。
兵たちは顔色を変え、「さ、宰相殿がシャーと……近衛の頃から!?」とざわめいた。
「それじゃあ、青の女だといううわさは本当だったのかっ。では、あの天然か計算かわからん発言もすべて事実ということに!?」
「おい、おまえら、シアン様に失礼なことを言うと容赦しないぞ!」
好き勝手なことを口走り、つかみあった。今にも殴り合いを始めかねないなという心配もつかのま、殴り飛ばされた兵は別の兵にぶつかって、一緒に床を転がった。当然、下敷きになった兵も怒りに燃えて立ち上がる。
あとはもう場末の酒場のように、あちこちでケンカが始まった。スクワルが腕組みをといて立ち上がると、「宰相、今のうちに出ましょう」と、めずらしく暗い声で言った。
「私のせいか」
「まあ、平たく言えばあんたのせいですね。はあ……もう近衛の宴席に顔だすのはやめてくださいよ」
近衛にいた頃から、シアンは近衛の集まる酒宴に顔を出すことはほぼない。たまに誘われたところで、それまで盛り上がっていた部下たちが、恐縮したように黙りこみ視線をそらすことが多かった。近衛隊長という立場のせいなのか、シアン個人の何かがそうさせていたのかはわからないが、仏頂面だの感情がないだのうわさされていることは知っていた。自然と輪に加わる機会もなくなった。
だから、どうしようもない酔っ払いどもだとしても、手放しで歓迎され、「ここ、座ってください!」と椅子をすすめられるのは悪い気がしなかった。
「わかった、スクワル。二度とここへは来ない。だが、騒ぎが私のせいだというのなら責任をとって争いを止めてから帰ってやる」
「は?」
「おまえたち、キスの話を聞きたいのか?」
呼びかけると、おもしろいくらいぴたりと喧騒がやんだ。つかみ合っていた兵たちはいぶかしげに座っているシアンを見下ろして、あたりをきょろきょろしてから手を離した。行儀よくなったことに満足したがスクワルだけはひとり慌てていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。え? アレを話すんですか」
「くだらない誤解を解くなら、真相を話してやるのが一番だ。たいした話でもないから、もったいつけると余計におかしなうわさになる」
スクワルは鼻の上にしわを寄せると「いや、でも」と、本気で
シアンは見たことや聞いたことはすべて、出来事を記した本を読むように思い出すことができる。天候、風の強さ、出会った人、声、読んだ書物の内容、
どの本の何枚目に書かれているかはシアンだけが知っていて、必要な時に読み返すことができた。
「あれは、私が近衛に入ったばかりの頃……」
話しはじめたところで、目の前に緑色の服を着た人影が立ちふさがった。てのひらを強引に、くちに押し当てられる。ウィロウだ。眉はつりあがり、赤味がかった薄茶色の髪は猫の毛のように逆立っていた。
「言うな! おれは青の学士のそんな話は聞きたくない! あんたがパーディシャーとキスした話なんか聞いたらここの連中が想像するだろ!? もうちょっと、自分がどういう目で見られているか意識しろよ、この鈍感っ」
暴言に唖然とする。つい先ほど「男同士でなにがキスだ」と怒鳴ったくせに、それを言うのか。赤くなった顔をまじまじと眺めてから、なんだ、とふに落ちた。
なんだ、この男は自分のことが好きなのだ。数年前から変わらず〈青の学士〉であるシアンのことを好きなのだ。めずらしいものを発見した気分になる。それは決して悪い気分ではなかった。
ウィロウの手からは