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エールは優しいけれど、守られるだけで満足するような性格ではない。自分だけが安全な場所に匿 われていることを喜びはしない。騎兵隊が全滅の危機にさらされたら、アージェントが言うように簡単に切り捨てることはできないだろう。
だからといって、助けに向かいたいと思っても王という立場では叶わない。そういう心配をしなくてはいけない場所へエールを連れ出すことが嫌だと思った。
「あれ、兄さんだ」
エールが立ち止まる。つられて視線を向けると宮殿の廊下にはアージェントがいた。
まわりに兵の姿はない。立ち話の相手はルリだ。彼女は背を向けるように立っていたのでどんな顔をしているのか見えなかったが、アージェントが小さく微笑んだので、彼女も笑ったのだろう。
アージェントはさっきまでの機嫌の悪さをかけらも見せず、穏やかな表情でルリの話に耳を傾けていた。
エールが小さな声で、「兄さんって、ルリを好きなのかな」とつぶやいた。同じことを考えていたのでぎくりとした。
「ですが、彼女が好きなのは……」
「僕はずいぶん前にふられたって前にも言っただろ？」
その話は聞いていたが、信じがたかった。色恋沙汰に縁のないシアンにはルリの気持ちに、なにがあったのか想像もつかない。
ただ、エールの想いを受け入れなかったことに、少しだけ失望していた。
もしも自分がルリの立場だったら告白を断るなんて考えられない。きっと喜んで受けるだろう。
「ルリも同じ気持ちなのかなって思うんだけどなあ……兄さんは僕がルリのことを好きだったのを知っているから言い出しづらいのかな」
「シャーがまだルリのことをお好きなら、彼女を青の姫として召し上げればいいのではないですか？ 副隊長と結婚しているわけではないですし、問題はありません。ルリにも嫌がられはしないと思います」
「怒るよ、シアン」
エールは言葉どおりに眉をひそめた。
「けれど、ハリームに青の姫を一人も召し上げられないのはルリがいるからなのでしょう。側近たちが、どのような女性を連れてきても良い返事がいただけないと困惑していました」
「血を残すことは王の責務だからね」
くすりと笑う声がめずらしく悲しそうな色を含んでいたので、シアンは焦った。
「あのね、シアン。ハリームに誰もいないのはルリがいるからじゃない。僕が好きなのはルリじゃなくて、パーピュア王なんだ」
「……え？」
「ごめん。兄さんには言わないで」
意味がわからなかった。パーピュア王という響きと意地悪く笑う女性王が結びついた時、背筋がぞっとした。アージェントがこのことを知ればひどいことになるだろうと、予測はついた。許すはずがない。
「王の禁 忌 が……」
「大丈夫、わかってる。彼女と深くふれあうことは一生出来ない。だけど、好きなんだ」
エールはとても真面目な顔をしていたが、事態を飲み込んでいるようには思えない。
王同士は抱き合うと死ぬ。それは太古から言い伝えられた呪いで、王に即位するとかならず教え込まれる。
死を招く禁忌だ。昔話のようなあやふやなものが急に身近に差し迫って、寒気がした。のどがからからで声がかすれた。
「ふれられない相手を想っても意味がありません」
「死ぬのが僕だけなら、とめられないかもしれないと思うこともあるよ。だけど、パーピュアだけが死んでしまうことを考えたら、僕は臆病だから手は出せない。それを、意味のないことだとは、僕は思わない。愛するひとがそばにいるだけで、しあわせなんだ。僕は恵まれている」
やさしい声だ。出会った頃から変わらない、シアンが一番落ち着くあたたかい声だったけれど、呪いを集めた歌のようだと身体じゅうが震えた。
パーピュアと抱き合うことは無理だとエールもわかっている。わかっていてあきらめているから、シアンはもうなにも言えなかった。
どうしてそんな相手を選ぶのだろう？
エールには誰よりもしあわせになってほしい。そのためにシアンはルリにそばにいてほしいと思っていた。相手がパーピュアではそれは得られない。
心臓がうるさく鳴る。この危険をアージェントに告げるべきなのだろうか。エールはアージェントの視力の悪化にまだ気づいていない。アージェントは、エールがパーピュアを愛していることを知らない。
どちらも死を引き寄せる秘密で、シアンは黙っているのが正しいことなのかわからなかった。
途方もない重荷を、背負わされた気持ちになった。
「シアン？」
エールは困ったように眉を下げて、「急にごめん。びっくりさせたね」と、シアンを気遣うようにほおにふれた。そのてのひらは、温かく、シアンにとって一番大切なものは、やはりエールだった。誰よりもしあわせになってほしいという気持ちは、少しもゆらがなかった。
その日、シアンは秘密を持った。
王宮の研究所には、カテドラルの書庫にも勝る数の蔵書が眠っていて、賢者だけが閲覧を許された書物もある。
その中にならば、王の禁忌について詳しく書かれた本があるかもしれない。呪いをとく手がかりが、どこかにあるかもしれなかった。それを、エールのために探しだそうと決めた。
シアンはぴくりともしない手から、銀製の指輪を引き抜いた。記録係として連れてきた兵に渡し、持ち主の名前を告げる。
「第二歩兵団の者までご存じなんて……もしかして、知り合いだったのですか？」
気遣うような口調に、シアンは視線だけをむけた。顔の下半分に巻きつけた布を、少しだけずらすと、むっとする匂いが立ち込めていた。
「言葉をかわしたことはないが、軍に所属する者はすべて記憶している」
「覚えていると言っても、こんな状態では……」
「腕の形に見覚えがある。もっと『残り』が少なければ、判別は難しかった。たとえばそこの脚は、骨格から考えてこの兵のものではないが、ひざ下だけでは誰のものか判断がつかない」
兵は気分を悪くしたように、しゃがみ込んでいるシアンから目をそむけた。別の兵に、肩から指先までのかたまりを運ぶように指示した。血の量から、ちぎれたのは死後のことだとわかったが、すでに動かない者にはなんの慰めにもならなかった。
「もしもわたしがあんなふうに一部だけになっても、参謀はおわかりになりますか」
記録係は小さな声でつぶやいた。
答えを望まない問いのように思えたが、シアンは彼に「わかる」と答えた。
「だが、私が先に死ぬ可能性もあるから、死ぬ時は腰の刺青を守れ。出身地と名が彫られているから、誰にでもわかる。一斉に殺される時は、所属しか記されていない胸章をあてにしても、役には立たないぞ」
「笑えませんよ」
冗談を言ったつもりはなかったので、シアンは少し考えた。兵の顔色は暗いままだ。
「彼らの家族から、いつも、遺体はどうしたと尋ねられます」
「王都までは運べない。だから、代わりに遺品を集めている」
こんなものが慰めになるのかはわからなかったが、死んだ兵の持ち物を渡されて、喜ぶ家族もいた。そうして、本当は遺体を持ち帰らない軍への不満をそらす目的で、続けられていた。
指輪に所属と名前を記して配給するのは、良い案かもしれないと思った。『なにか』を探すより、よほどらくだ。
東方の街の一角には広大な墓場ができていた。墓場といっても王都にあるようなものとは違い、深い穴を掘り、埋めるだけの場所だ。
死体を放置しておけば、獣に喰い荒らされたり、疫病の原因にもなる。敵味方の違いなく、早めに処理しなくてはならない。
死んだら自分も、あの暗い穴の中だ。遺品の心配をする家族もいないので、ためらいなく埋められるのだろう。
「この指輪、まだ新しそうですね。きっと新婚だ」
「どうして結婚していたことに繋がるんだ？」
シアンが尋ねると、「えっ、ご存じないんですか？」と、兵は目を丸くして言った。
「夫婦で揃いの装身具をつけるのが、近ごろの王都の流行りなんですよ。指輪が一番多いです」
初めて聞く話だ。シアンは街にできた新しい店や流行の情報には疎 かった。
「これを返されても、余計につらいだろうな……」
同情のにじむ声を聞きながら、頭の中で本をひらく。大勢の兵の名から、指輪の持ち主の項目を『使えない兵力』に書き換えて、残りの兵の人数を確認した。すぐに今後の作戦を立て直さなくてはならない。
足先が、金属製の小さな缶につまずいた。ふたが開いて、蟻 のように小さく固まっている黒っぽい葉が、砂地にこぼれた。
「なんですか、それ」と、尋ねられる。
シアンは茶葉をすくい取って、指先で握りつぶした。独特のかおりがした。缶を拾いあげ、地面に散らばった葉は靴底で砂にまぎれさせた。すぐに匂いは失われ、土に還るだろうと思った。
「俺は決めたぞ。この戦いが終わったら、故郷に帰ってあいつに求婚する！」
スクワルが真剣な声でそう告げると、兵のあいだからは「団長、やめてください！」と悲鳴が上がった。
「今それを言うのは洒 落 になりませんよ、生きて帰れない前ふりのようです！」
焦った様子の部下にも、スクワルは「どうして」と不思議そうだった。
「這ってでも会いたい女のことを考えたら、こんな無茶な作戦でも弱気になっていられないだろう？ おまえらみんな結婚式に呼ぶからそれまで死ぬなよ。あいつ、食堂で働いてるから料理の腕だけは確かなんだ。期待していいぞ」
「そうやって、ばんばん畳み掛けるのやめてもらえませんか!?」
緊張感のないかけあいだったが、木立に身をひそめて先遣隊から攻撃開始の合図を待っているところだった。
兵たちは片手で、地面にひざをついた馬の腹を押さえ神経を研ぎ澄ましていた。少し離れたところでは数人の兵たちが同じように待機している。軍の騎馬団と近衛の騎兵隊で混成された部隊で、すでに何度か作戦を共にしていたので統制に心配はない。
指揮しているのはアージェントだ。アージェントは腕組みして木立のむこうを見つめていたが、「無茶な作戦を立てた俺に対する嫌味か？」と、視線だけで振り向いた。
スクワルは顔をしかめて、「嫌味くらい言わせろよ、ジェント」と応じた。
「こんな少人数で突っ込むなんて、ジェントもシアンもどうかしている」
「副隊長と一緒にしないでください」
同類と思われたら心外だったので、シアンはすかさず答えた。アージェントは己の能力を過信しているふしがある。勘だの経験だのとあやふやなものに基づいて動く上、兵をあおることにだけは長けていた。作戦が成功したところで、兵力が大幅に減少するなら長期的な戦略としては最悪だ。
スクワルは心配性な母親のように息を吐いた。
「おまえら揃って向う見ずで生き急ぎすぎだ。戦場に〈特別〉はないんだぞ？ 誰だって、自分は死なないと信じているけどな、それは期待が生み出す幻想なんだ」
アージェントが「説教はやめろ、スクワル。兵の士気が下がる」と遮った。
「今さらだ。とにかく、おまえらふたりとも早く恋人を見つけろ。そうすれば、少しは長生きしたいと思う気持ちがわかるはずだ。ったく、これじゃ安心して軍を辞められない」
愚痴っぽくつぶやくので、シアンは「離隊するのですか？」と驚いた。
「そりゃ、結婚したら赤ん坊も生まれるだろうし、嫁さん残して死ぬわけにはいかないからな。田舎に帰って家業でも継ぐよ」
ちらりと、アージェントを見上げた。アージェントは、ほとんどの作戦で主力部隊として動いているこの部隊の指揮と、近衛副隊長の職務を兼任している。
近衛隊長の率いる本隊はアージェントのいない時は副隊長不在となってしまう。そのため二人目の副隊長として、スクワルを近衛に呼び戻すための根回しが進められていたが、この様子では本人には知らされていないようだ。
近衛に復帰すれば、自分から辞めることはおろか、まとまった休暇もとれないだろう。もちろん、遠方の郷里に帰って恋人に求婚することもできない。
アージェントはスクワルの一生を左右するかもしれない事実なのに、教えてやることもなく知らないふりを続けている。その様子から、きっと興味がないのだろうと察した。
班長を務める兵のひとりがにやにやしながら、「団長、知らないんですか？」と言った。
だからといって、助けに向かいたいと思っても王という立場では叶わない。そういう心配をしなくてはいけない場所へエールを連れ出すことが嫌だと思った。
「あれ、兄さんだ」
エールが立ち止まる。つられて視線を向けると宮殿の廊下にはアージェントがいた。
まわりに兵の姿はない。立ち話の相手はルリだ。彼女は背を向けるように立っていたのでどんな顔をしているのか見えなかったが、アージェントが小さく微笑んだので、彼女も笑ったのだろう。
アージェントはさっきまでの機嫌の悪さをかけらも見せず、穏やかな表情でルリの話に耳を傾けていた。
エールが小さな声で、「兄さんって、ルリを好きなのかな」とつぶやいた。同じことを考えていたのでぎくりとした。
「ですが、彼女が好きなのは……」
「僕はずいぶん前にふられたって前にも言っただろ？」
その話は聞いていたが、信じがたかった。色恋沙汰に縁のないシアンにはルリの気持ちに、なにがあったのか想像もつかない。
ただ、エールの想いを受け入れなかったことに、少しだけ失望していた。
もしも自分がルリの立場だったら告白を断るなんて考えられない。きっと喜んで受けるだろう。
「ルリも同じ気持ちなのかなって思うんだけどなあ……兄さんは僕がルリのことを好きだったのを知っているから言い出しづらいのかな」
「シャーがまだルリのことをお好きなら、彼女を青の姫として召し上げればいいのではないですか？ 副隊長と結婚しているわけではないですし、問題はありません。ルリにも嫌がられはしないと思います」
「怒るよ、シアン」
エールは言葉どおりに眉をひそめた。
「けれど、ハリームに青の姫を一人も召し上げられないのはルリがいるからなのでしょう。側近たちが、どのような女性を連れてきても良い返事がいただけないと困惑していました」
「血を残すことは王の責務だからね」
くすりと笑う声がめずらしく悲しそうな色を含んでいたので、シアンは焦った。
「あのね、シアン。ハリームに誰もいないのはルリがいるからじゃない。僕が好きなのはルリじゃなくて、パーピュア王なんだ」
「……え？」
「ごめん。兄さんには言わないで」
意味がわからなかった。パーピュア王という響きと意地悪く笑う女性王が結びついた時、背筋がぞっとした。アージェントがこのことを知ればひどいことになるだろうと、予測はついた。許すはずがない。
「王の
「大丈夫、わかってる。彼女と深くふれあうことは一生出来ない。だけど、好きなんだ」
エールはとても真面目な顔をしていたが、事態を飲み込んでいるようには思えない。
王同士は抱き合うと死ぬ。それは太古から言い伝えられた呪いで、王に即位するとかならず教え込まれる。
死を招く禁忌だ。昔話のようなあやふやなものが急に身近に差し迫って、寒気がした。のどがからからで声がかすれた。
「ふれられない相手を想っても意味がありません」
「死ぬのが僕だけなら、とめられないかもしれないと思うこともあるよ。だけど、パーピュアだけが死んでしまうことを考えたら、僕は臆病だから手は出せない。それを、意味のないことだとは、僕は思わない。愛するひとがそばにいるだけで、しあわせなんだ。僕は恵まれている」
やさしい声だ。出会った頃から変わらない、シアンが一番落ち着くあたたかい声だったけれど、呪いを集めた歌のようだと身体じゅうが震えた。
パーピュアと抱き合うことは無理だとエールもわかっている。わかっていてあきらめているから、シアンはもうなにも言えなかった。
どうしてそんな相手を選ぶのだろう？
エールには誰よりもしあわせになってほしい。そのためにシアンはルリにそばにいてほしいと思っていた。相手がパーピュアではそれは得られない。
心臓がうるさく鳴る。この危険をアージェントに告げるべきなのだろうか。エールはアージェントの視力の悪化にまだ気づいていない。アージェントは、エールがパーピュアを愛していることを知らない。
どちらも死を引き寄せる秘密で、シアンは黙っているのが正しいことなのかわからなかった。
途方もない重荷を、背負わされた気持ちになった。
「シアン？」
エールは困ったように眉を下げて、「急にごめん。びっくりさせたね」と、シアンを気遣うようにほおにふれた。そのてのひらは、温かく、シアンにとって一番大切なものは、やはりエールだった。誰よりもしあわせになってほしいという気持ちは、少しもゆらがなかった。
その日、シアンは秘密を持った。
王宮の研究所には、カテドラルの書庫にも勝る数の蔵書が眠っていて、賢者だけが閲覧を許された書物もある。
その中にならば、王の禁忌について詳しく書かれた本があるかもしれない。呪いをとく手がかりが、どこかにあるかもしれなかった。それを、エールのために探しだそうと決めた。
シアンはぴくりともしない手から、銀製の指輪を引き抜いた。記録係として連れてきた兵に渡し、持ち主の名前を告げる。
「第二歩兵団の者までご存じなんて……もしかして、知り合いだったのですか？」
気遣うような口調に、シアンは視線だけをむけた。顔の下半分に巻きつけた布を、少しだけずらすと、むっとする匂いが立ち込めていた。
「言葉をかわしたことはないが、軍に所属する者はすべて記憶している」
「覚えていると言っても、こんな状態では……」
「腕の形に見覚えがある。もっと『残り』が少なければ、判別は難しかった。たとえばそこの脚は、骨格から考えてこの兵のものではないが、ひざ下だけでは誰のものか判断がつかない」
兵は気分を悪くしたように、しゃがみ込んでいるシアンから目をそむけた。別の兵に、肩から指先までのかたまりを運ぶように指示した。血の量から、ちぎれたのは死後のことだとわかったが、すでに動かない者にはなんの慰めにもならなかった。
「もしもわたしがあんなふうに一部だけになっても、参謀はおわかりになりますか」
記録係は小さな声でつぶやいた。
答えを望まない問いのように思えたが、シアンは彼に「わかる」と答えた。
「だが、私が先に死ぬ可能性もあるから、死ぬ時は腰の刺青を守れ。出身地と名が彫られているから、誰にでもわかる。一斉に殺される時は、所属しか記されていない胸章をあてにしても、役には立たないぞ」
「笑えませんよ」
冗談を言ったつもりはなかったので、シアンは少し考えた。兵の顔色は暗いままだ。
「彼らの家族から、いつも、遺体はどうしたと尋ねられます」
「王都までは運べない。だから、代わりに遺品を集めている」
こんなものが慰めになるのかはわからなかったが、死んだ兵の持ち物を渡されて、喜ぶ家族もいた。そうして、本当は遺体を持ち帰らない軍への不満をそらす目的で、続けられていた。
指輪に所属と名前を記して配給するのは、良い案かもしれないと思った。『なにか』を探すより、よほどらくだ。
東方の街の一角には広大な墓場ができていた。墓場といっても王都にあるようなものとは違い、深い穴を掘り、埋めるだけの場所だ。
死体を放置しておけば、獣に喰い荒らされたり、疫病の原因にもなる。敵味方の違いなく、早めに処理しなくてはならない。
死んだら自分も、あの暗い穴の中だ。遺品の心配をする家族もいないので、ためらいなく埋められるのだろう。
「この指輪、まだ新しそうですね。きっと新婚だ」
「どうして結婚していたことに繋がるんだ？」
シアンが尋ねると、「えっ、ご存じないんですか？」と、兵は目を丸くして言った。
「夫婦で揃いの装身具をつけるのが、近ごろの王都の流行りなんですよ。指輪が一番多いです」
初めて聞く話だ。シアンは街にできた新しい店や流行の情報には
「これを返されても、余計につらいだろうな……」
同情のにじむ声を聞きながら、頭の中で本をひらく。大勢の兵の名から、指輪の持ち主の項目を『使えない兵力』に書き換えて、残りの兵の人数を確認した。すぐに今後の作戦を立て直さなくてはならない。
足先が、金属製の小さな缶につまずいた。ふたが開いて、
「なんですか、それ」と、尋ねられる。
シアンは茶葉をすくい取って、指先で握りつぶした。独特のかおりがした。缶を拾いあげ、地面に散らばった葉は靴底で砂にまぎれさせた。すぐに匂いは失われ、土に還るだろうと思った。
「俺は決めたぞ。この戦いが終わったら、故郷に帰ってあいつに求婚する！」
スクワルが真剣な声でそう告げると、兵のあいだからは「団長、やめてください！」と悲鳴が上がった。
「今それを言うのは
焦った様子の部下にも、スクワルは「どうして」と不思議そうだった。
「這ってでも会いたい女のことを考えたら、こんな無茶な作戦でも弱気になっていられないだろう？ おまえらみんな結婚式に呼ぶからそれまで死ぬなよ。あいつ、食堂で働いてるから料理の腕だけは確かなんだ。期待していいぞ」
「そうやって、ばんばん畳み掛けるのやめてもらえませんか!?」
緊張感のないかけあいだったが、木立に身をひそめて先遣隊から攻撃開始の合図を待っているところだった。
兵たちは片手で、地面にひざをついた馬の腹を押さえ神経を研ぎ澄ましていた。少し離れたところでは数人の兵たちが同じように待機している。軍の騎馬団と近衛の騎兵隊で混成された部隊で、すでに何度か作戦を共にしていたので統制に心配はない。
指揮しているのはアージェントだ。アージェントは腕組みして木立のむこうを見つめていたが、「無茶な作戦を立てた俺に対する嫌味か？」と、視線だけで振り向いた。
スクワルは顔をしかめて、「嫌味くらい言わせろよ、ジェント」と応じた。
「こんな少人数で突っ込むなんて、ジェントもシアンもどうかしている」
「副隊長と一緒にしないでください」
同類と思われたら心外だったので、シアンはすかさず答えた。アージェントは己の能力を過信しているふしがある。勘だの経験だのとあやふやなものに基づいて動く上、兵をあおることにだけは長けていた。作戦が成功したところで、兵力が大幅に減少するなら長期的な戦略としては最悪だ。
スクワルは心配性な母親のように息を吐いた。
「おまえら揃って向う見ずで生き急ぎすぎだ。戦場に〈特別〉はないんだぞ？ 誰だって、自分は死なないと信じているけどな、それは期待が生み出す幻想なんだ」
アージェントが「説教はやめろ、スクワル。兵の士気が下がる」と遮った。
「今さらだ。とにかく、おまえらふたりとも早く恋人を見つけろ。そうすれば、少しは長生きしたいと思う気持ちがわかるはずだ。ったく、これじゃ安心して軍を辞められない」
愚痴っぽくつぶやくので、シアンは「離隊するのですか？」と驚いた。
「そりゃ、結婚したら赤ん坊も生まれるだろうし、嫁さん残して死ぬわけにはいかないからな。田舎に帰って家業でも継ぐよ」
ちらりと、アージェントを見上げた。アージェントは、ほとんどの作戦で主力部隊として動いているこの部隊の指揮と、近衛副隊長の職務を兼任している。
近衛隊長の率いる本隊はアージェントのいない時は副隊長不在となってしまう。そのため二人目の副隊長として、スクワルを近衛に呼び戻すための根回しが進められていたが、この様子では本人には知らされていないようだ。
近衛に復帰すれば、自分から辞めることはおろか、まとまった休暇もとれないだろう。もちろん、遠方の郷里に帰って恋人に求婚することもできない。
アージェントはスクワルの一生を左右するかもしれない事実なのに、教えてやることもなく知らないふりを続けている。その様子から、きっと興味がないのだろうと察した。
班長を務める兵のひとりがにやにやしながら、「団長、知らないんですか？」と言った。