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「そんなに心配しなくてもシアンにはもう可愛い彼女がいますよ」
「……は?」
シアンはスクワルと同時に問い返した。
「なんの話ですか」
兵は気味が悪くなるほどにやけた笑みを浮かべている。
「今さら隠すなって。賢者の娘だか孫娘だかと、ふたりで王都を歩いてるところを見られてんだよ」
残りのふたりも同じように笑みを浮かべているところを見ると、彼らの間では以前からうわさになっていたのだろう。切り出す機会を狙っていたに違いなかった。兵のあいだで女の話は常に飛び交っていたが、矛先が自分に向くのは初めてで戸惑った。
「アルカディアのことでしたら、あの日は彼女の祖父も一緒でした」
「祖父? それじゃあもう、結婚前提ってことか!」
勢い込んだ質問を、「どうしてそうなるんです」と切り捨てる。
「賢者やアルカディアと個人的な話はしていません。政策にかかわる話をしていただけです」
「せいさくぅう? そんな話題で女が落ちるはずないだろ。しっかりしろよ、いつもの強気の参謀殿はどこへいったんだ!?」
気安く肩を叩かれ、ムッとして「彼女に興味はないです」と本音で答えてしまう。
アルカディアが同席することも、彼女に呼び止められて初めて知ったくらいだ。研究所の文献のことで、賢者に融通をきかせてもらっている手前、孫娘を無 下 に扱うこともできなかったが、だましうちのような会食に良い気分はしなかった。
「興味がないってことはないだろ、あんな可愛い子に対して。まさか女嫌いなのか?」
「嫌いというか……」
興味がないとしか、言いようがない。女性に対してどういう風に感じれば『好き』だと言えるのかもよくわからないが、素直に言うには情けない内容でくちごもった。
「こいつが女を抱いているところなど、想像がつかないな」
揶 揄 するように言われて、兵たちの視線が揃ってアージェントにたどり着いた。
「うわ……やっぱり副隊長とシアンって、そういう関」
「違います」
シアンは言葉を遮った。女嫌いはともかくおかしな邪推をされたくない。男同士以前に、アージェントが相手というのが耐えられなかった。
「勢い込んで否定すると、余計に怪しまれるぞ」
その当人に鼻で笑われて殺意がわく。
スクワルが見かねて、「その、アルカディアって子を好きじゃないだけで女嫌いと決めつけるのは極論すぎるだろ?」と助け船をだした。
「花街でも〈青の学士〉というだけで結構な人気があるらしいぞ。シアンはどういう子が好みなんだ?」
「花街にはどういう女性がいるんですか」
「そこに食いつくのか……意外だな」
スクワルは呆れたような顔をした。シアンは「スクワル団長が花街に出向かれることのほうが意外です。確か以前は、郷里の恋人に操立てして通っていないと言いはっていましたよね」と問い詰めた。
「おまえ、人が助けようとしてるのに……!」
「行ったんですか?」
「だからなんで詰め寄るんだよ!?」と悲鳴を上げた。
アージェントが馬鹿にしたように、「花街くらいで目くじら立てる女など面倒なだけだろう。一度、誰かに服従することを覚えると、負け犬根性が身に染みつくぞ」と言った。
あまりの言い草にスクワルは顔をしかめる。
「服従ってなぁ。ジェントこそ娼館通いばかりしていないで、ちゃんとした恋愛をしろよ」
「ちゃんとした恋愛?」
アージェントはまるでこの世にそんなものが存在しないかのように冷笑を浮かべた。
ルリの姿が頭をよぎる。付き合っているのではないかと言ってしまいそうになって、慌ててうつむいた。
兵がその場を取り繕うように「操立てって、どんだけ怖い彼女なんですか?」と、スクワルに話しかけた。
「待て待て、他の女じゃ勃たないくらい美人って可能性もあるだろ」
「団長は奥方を見た目で選ぶような俗物じゃないと信じていたのに、しょせんは綺麗な女に弱いんですねっ!」
なんでも軽口に変えてしまう男は自分の話題にめずらしく居住まいが悪そうにして、話が過ぎ去るのを待っていた。
そういえば、近衛にいた頃から恋人のことだけはあまり語ろうとしなかった。妄想の恋人じゃないのかとまでからかわれていたが、実際に彼女と会った兵の話では可愛らしい女性ということだった。
言うのを恥ずかしがるような相手ではないはずだ。
「もったいつけるから、余計にからかわれるんじゃないですか?」
シアンの言葉にスクワルは恨めし気になにか言いかけたが、反論はしなかった。
代わりに、アージェントがくちを開いた。
「察してやれ。好きな女が自分にしか見せない様子を話して、他の男にあれこれとネタにされるのが嫌なんだろう」
思わぬ助け船に、シアンだけではなくスクワルもぽかんとした。
「ジェント、おまえそれ……まるで、好きな女でもいたことがあるみたいだぞ?」
「そんなに意外か」
「おまえから、血の通った意見がきけるなんて。少しは人間らしい感情もあるんだな」
感心したようにうなずくスクワルを見て、アージェントは笑みを浮かべた。
「ああいう女と付き合えば、そんな気になるだろうと思っただけだ。化粧っ気もないのに、うわさどおりの美人だった。食堂の看板娘といったところか。彼女にならいくらでも求婚する男が現れるだろう。死んだあとのことは心配するな」
「……あ、あいつに会ったのか!?」
「郷里のそばに近衛の訓練所がある。離隊して一年も経っていないのに、もう忘れたのか」
スクワルは絶句した。
それをながめた悪魔は楽しげに、「どうりでシアンをかばうはずだ」と続けた。
「スクワル団長の恋人と、私になにか関係があるのですか?」
「店の酔っ払いには啖 呵 を切るくせに、口説かれても気づいた様子がなかった。強気で鈍感で、危なっかしい。おまえに似ている」
「待て、シアン! 悪魔の言葉に騙されるな!」
シアンは蔑んだまなざしをスクワルにむけて、「性的対象と同じように扱われるのは不快です」と言った。
「せい……!?」
「冗談です」
「おまえの冗談は笑いどころがわからないんだよ!」
焦った声で断言されて、シアンは黙った。
「副隊長こそ、ずいぶんシアンを気に入ってますよねぇ」
沈み込んだ空気がいたたまれなかったのか、それとも今度こそ窮地に陥ったスクワルを救おうと思ったのか、兵は命知らずの問いかけをした。
「俺が?」
「えっ、自覚がないんですか」
アージェントは青い目を細めて、シアンを頭のてっぺんから足の先までじろじろとながめた。なにをされるわけでもないのに舐めまわすような視線に身構えてしまう。
「いくら女に飢えても、シアンに手を出すほど狂っていない」
うんざりした口調だった。もしも恋人を作る時は、傲慢でも自分勝手でもなく厭 味 ったらしいことを絶対に言わない、金髪碧眼以外の女を探そう、と誓った。
近衛の幕舎に出向くと憶えのある匂いがした。
「良い香りですね。茶を淹れているのでしょうか」
供にしていた兵がのんびりと言った。彼の言うとおりだと思ったが、あるはずのない香りだったから天幕の布をつかんだ手が震えた。兵は立ち尽くしたシアンを不思議に思い、「どうしました?」と、肩に手を置いた。
反射的にその手を勢いよく振り払うと、はずみで垂らされていた幕が開いた。中ではやはり茶がふるまわれていて、その光景は久しぶりのものだった。
銅製の水差しを手にしているのは年輩の男だ。意志の強そうな太い眉や鼻筋の通った顔立ちに似たところはあったけれど、シアンが思い浮かべた男とは別人だった。当たり前だけれど、少し前に死んだはずのルクソールではなかった。
「参謀……?」
戸惑う兵を押しのけて幕舎から離れた。
急いで自分のテントに戻ると、胃の中のものを吐き出した。全部がなくなっても何かが込み上げてくるようだった。かつて、これでも飲んで落ち着いて、と差し出された茶を断ったことを思い出す。
死がひろがっている。シアンの立てた作戦の結果で、指揮するのはアージェントでも責められれば言い訳はできない。
前線に出るための心構えはしていた。兵が弓で射られて馬から転がり落ちる姿を見ても、心がゆらぐことはなかった。食事はのどを通るし、夜も眠れた。
仲間の死を割り切れない兵は大勢いて、表情を変えずに任務に就くシアンを奇妙なものでも見るように遠巻きにした。恨まれることも多かったし、当然のことと思っていた。
たぶんそれで良いのだ。理不尽に奪われる場所にいて、なにも恨まずにすませることはできない。敵であれ味方であれなにかを強く憎むことは、平静さを保つためのよりどころになるはずだった。
そうして、シアン自身は捌け口がなくても処理できているのだと思っていた。死体の散らばる砂地にも、哀しさや恐怖を感じることはなかった。苦手なのはそんなものではない。
くちをぬぐって立ち上がるとかすかに目まいがした。そのまま寝転んでしまいたかったが、天幕の外に人の気配がする。
戸口がわりの布をもちあげると、アージェントが待っていた。幕舎から逃げ出した時に中にいた男と目が合ったから、覚悟はしていた。
「なんの御用ですか、隊長」
「死人が生き返ったわけじゃない。ルクソールの父親だ。まあ、息子に同じ名をつけたからあの男もルクソールには違いないが。父親のほうとも参謀本部で何度も顔を合わせたことがあるだろう」
「知っています。前線にいらしたことが意外だっただけです」
「幕舎に戻れ。おまえに会いたいと言っていた」
「私に?」
「茶葉の入った缶を拾って家に届けただろう。戦場へ出る時に父親が渡したものらしい。茶を淹れるのは父親から教わった趣味だとルクソールに聞いていたが、腕前は息子のほうが良かったようだ。追 悼 のつもりだから、黙って飲んでやれ」
気を張らなくてはならない相手と、穏やかに話をしなくてはいけないと思うだけで苦痛だ。遺品がわりの缶など届けなければ良かった。
「わかりました」
横を通り過ぎようとすると、ひたいに手をあてられ強引に上向かせられる。間近にアージェントの顔があってぎょっとした。
「ひどい顔だな。あの父親を追い払って欲しいか?」
「……は?」
シアンはスクワルと同時に問い返した。
「なんの話ですか」
兵は気味が悪くなるほどにやけた笑みを浮かべている。
「今さら隠すなって。賢者の娘だか孫娘だかと、ふたりで王都を歩いてるところを見られてんだよ」
残りのふたりも同じように笑みを浮かべているところを見ると、彼らの間では以前からうわさになっていたのだろう。切り出す機会を狙っていたに違いなかった。兵のあいだで女の話は常に飛び交っていたが、矛先が自分に向くのは初めてで戸惑った。
「アルカディアのことでしたら、あの日は彼女の祖父も一緒でした」
「祖父? それじゃあもう、結婚前提ってことか!」
勢い込んだ質問を、「どうしてそうなるんです」と切り捨てる。
「賢者やアルカディアと個人的な話はしていません。政策にかかわる話をしていただけです」
「せいさくぅう? そんな話題で女が落ちるはずないだろ。しっかりしろよ、いつもの強気の参謀殿はどこへいったんだ!?」
気安く肩を叩かれ、ムッとして「彼女に興味はないです」と本音で答えてしまう。
アルカディアが同席することも、彼女に呼び止められて初めて知ったくらいだ。研究所の文献のことで、賢者に融通をきかせてもらっている手前、孫娘を
「興味がないってことはないだろ、あんな可愛い子に対して。まさか女嫌いなのか?」
「嫌いというか……」
興味がないとしか、言いようがない。女性に対してどういう風に感じれば『好き』だと言えるのかもよくわからないが、素直に言うには情けない内容でくちごもった。
「こいつが女を抱いているところなど、想像がつかないな」
「うわ……やっぱり副隊長とシアンって、そういう関」
「違います」
シアンは言葉を遮った。女嫌いはともかくおかしな邪推をされたくない。男同士以前に、アージェントが相手というのが耐えられなかった。
「勢い込んで否定すると、余計に怪しまれるぞ」
その当人に鼻で笑われて殺意がわく。
スクワルが見かねて、「その、アルカディアって子を好きじゃないだけで女嫌いと決めつけるのは極論すぎるだろ?」と助け船をだした。
「花街でも〈青の学士〉というだけで結構な人気があるらしいぞ。シアンはどういう子が好みなんだ?」
「花街にはどういう女性がいるんですか」
「そこに食いつくのか……意外だな」
スクワルは呆れたような顔をした。シアンは「スクワル団長が花街に出向かれることのほうが意外です。確か以前は、郷里の恋人に操立てして通っていないと言いはっていましたよね」と問い詰めた。
「おまえ、人が助けようとしてるのに……!」
「行ったんですか?」
「だからなんで詰め寄るんだよ!?」と悲鳴を上げた。
アージェントが馬鹿にしたように、「花街くらいで目くじら立てる女など面倒なだけだろう。一度、誰かに服従することを覚えると、負け犬根性が身に染みつくぞ」と言った。
あまりの言い草にスクワルは顔をしかめる。
「服従ってなぁ。ジェントこそ娼館通いばかりしていないで、ちゃんとした恋愛をしろよ」
「ちゃんとした恋愛?」
アージェントはまるでこの世にそんなものが存在しないかのように冷笑を浮かべた。
ルリの姿が頭をよぎる。付き合っているのではないかと言ってしまいそうになって、慌ててうつむいた。
兵がその場を取り繕うように「操立てって、どんだけ怖い彼女なんですか?」と、スクワルに話しかけた。
「待て待て、他の女じゃ勃たないくらい美人って可能性もあるだろ」
「団長は奥方を見た目で選ぶような俗物じゃないと信じていたのに、しょせんは綺麗な女に弱いんですねっ!」
なんでも軽口に変えてしまう男は自分の話題にめずらしく居住まいが悪そうにして、話が過ぎ去るのを待っていた。
そういえば、近衛にいた頃から恋人のことだけはあまり語ろうとしなかった。妄想の恋人じゃないのかとまでからかわれていたが、実際に彼女と会った兵の話では可愛らしい女性ということだった。
言うのを恥ずかしがるような相手ではないはずだ。
「もったいつけるから、余計にからかわれるんじゃないですか?」
シアンの言葉にスクワルは恨めし気になにか言いかけたが、反論はしなかった。
代わりに、アージェントがくちを開いた。
「察してやれ。好きな女が自分にしか見せない様子を話して、他の男にあれこれとネタにされるのが嫌なんだろう」
思わぬ助け船に、シアンだけではなくスクワルもぽかんとした。
「ジェント、おまえそれ……まるで、好きな女でもいたことがあるみたいだぞ?」
「そんなに意外か」
「おまえから、血の通った意見がきけるなんて。少しは人間らしい感情もあるんだな」
感心したようにうなずくスクワルを見て、アージェントは笑みを浮かべた。
「ああいう女と付き合えば、そんな気になるだろうと思っただけだ。化粧っ気もないのに、うわさどおりの美人だった。食堂の看板娘といったところか。彼女にならいくらでも求婚する男が現れるだろう。死んだあとのことは心配するな」
「……あ、あいつに会ったのか!?」
「郷里のそばに近衛の訓練所がある。離隊して一年も経っていないのに、もう忘れたのか」
スクワルは絶句した。
それをながめた悪魔は楽しげに、「どうりでシアンをかばうはずだ」と続けた。
「スクワル団長の恋人と、私になにか関係があるのですか?」
「店の酔っ払いには
「待て、シアン! 悪魔の言葉に騙されるな!」
シアンは蔑んだまなざしをスクワルにむけて、「性的対象と同じように扱われるのは不快です」と言った。
「せい……!?」
「冗談です」
「おまえの冗談は笑いどころがわからないんだよ!」
焦った声で断言されて、シアンは黙った。
「副隊長こそ、ずいぶんシアンを気に入ってますよねぇ」
沈み込んだ空気がいたたまれなかったのか、それとも今度こそ窮地に陥ったスクワルを救おうと思ったのか、兵は命知らずの問いかけをした。
「俺が?」
「えっ、自覚がないんですか」
アージェントは青い目を細めて、シアンを頭のてっぺんから足の先までじろじろとながめた。なにをされるわけでもないのに舐めまわすような視線に身構えてしまう。
「いくら女に飢えても、シアンに手を出すほど狂っていない」
うんざりした口調だった。もしも恋人を作る時は、傲慢でも自分勝手でもなく
近衛の幕舎に出向くと憶えのある匂いがした。
「良い香りですね。茶を淹れているのでしょうか」
供にしていた兵がのんびりと言った。彼の言うとおりだと思ったが、あるはずのない香りだったから天幕の布をつかんだ手が震えた。兵は立ち尽くしたシアンを不思議に思い、「どうしました?」と、肩に手を置いた。
反射的にその手を勢いよく振り払うと、はずみで垂らされていた幕が開いた。中ではやはり茶がふるまわれていて、その光景は久しぶりのものだった。
銅製の水差しを手にしているのは年輩の男だ。意志の強そうな太い眉や鼻筋の通った顔立ちに似たところはあったけれど、シアンが思い浮かべた男とは別人だった。当たり前だけれど、少し前に死んだはずのルクソールではなかった。
「参謀……?」
戸惑う兵を押しのけて幕舎から離れた。
急いで自分のテントに戻ると、胃の中のものを吐き出した。全部がなくなっても何かが込み上げてくるようだった。かつて、これでも飲んで落ち着いて、と差し出された茶を断ったことを思い出す。
死がひろがっている。シアンの立てた作戦の結果で、指揮するのはアージェントでも責められれば言い訳はできない。
前線に出るための心構えはしていた。兵が弓で射られて馬から転がり落ちる姿を見ても、心がゆらぐことはなかった。食事はのどを通るし、夜も眠れた。
仲間の死を割り切れない兵は大勢いて、表情を変えずに任務に就くシアンを奇妙なものでも見るように遠巻きにした。恨まれることも多かったし、当然のことと思っていた。
たぶんそれで良いのだ。理不尽に奪われる場所にいて、なにも恨まずにすませることはできない。敵であれ味方であれなにかを強く憎むことは、平静さを保つためのよりどころになるはずだった。
そうして、シアン自身は捌け口がなくても処理できているのだと思っていた。死体の散らばる砂地にも、哀しさや恐怖を感じることはなかった。苦手なのはそんなものではない。
くちをぬぐって立ち上がるとかすかに目まいがした。そのまま寝転んでしまいたかったが、天幕の外に人の気配がする。
戸口がわりの布をもちあげると、アージェントが待っていた。幕舎から逃げ出した時に中にいた男と目が合ったから、覚悟はしていた。
「なんの御用ですか、隊長」
「死人が生き返ったわけじゃない。ルクソールの父親だ。まあ、息子に同じ名をつけたからあの男もルクソールには違いないが。父親のほうとも参謀本部で何度も顔を合わせたことがあるだろう」
「知っています。前線にいらしたことが意外だっただけです」
「幕舎に戻れ。おまえに会いたいと言っていた」
「私に?」
「茶葉の入った缶を拾って家に届けただろう。戦場へ出る時に父親が渡したものらしい。茶を淹れるのは父親から教わった趣味だとルクソールに聞いていたが、腕前は息子のほうが良かったようだ。
気を張らなくてはならない相手と、穏やかに話をしなくてはいけないと思うだけで苦痛だ。遺品がわりの缶など届けなければ良かった。
「わかりました」
横を通り過ぎようとすると、ひたいに手をあてられ強引に上向かせられる。間近にアージェントの顔があってぎょっとした。
「ひどい顔だな。あの父親を追い払って欲しいか?」