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「僕の負けだね。じゃあ、シアンと一緒に娼館にでも行こうかな」
「……おまえは、あんな場所へ行かなくていい」
一言告げて立ち去るアージェントの後ろ姿を、シアンは呆然とながめた。
「シアン」
ハッとして、呼びかけに振り向いた。
「あの人、どこか怪我してるのかもしれない。いつもどおりなら、僕に剣を抜かれるなんてありえない。なにか聞いている?」
エールの声は硬く、兄を見送るまなざしは真剣だった。シアンは黙って、首を横にふった。
部屋に入る前にちらりとのぞくと、アージェントはシアンが来るのがわかっていたように、こちらを見ていた。
嫌味な笑みがないとひっそりとして見えて、居心地の悪さを感じた。
「シャーがあれほど体術に秀でていることを、初めて知りました。アージェント様が教え込まれたのですか」
男は少しだけ、うれしそうにした。
相手をけむにまくような、作り物の笑みを浮かべることは多かったが、それとはまったく別の種類の笑顔だ。弟を褒められた時だけは、そういう表情を見せた。
エールが浮かべるものと少しだけ似ていて、シアンは久しぶりに、この兄弟が似ていることに思い至った。
「ひざを痛められたのですか? 攻撃に対する反応が普段よりも遅いように思えました。私が蹴ったのは左ひざでした。シャーに引き抜かれた剣も左側にさげていましたよね。歩き方に不自然なところはないように見えましたが、怪我をされたのですか」
「そうだったら、どうする。喧嘩を売ってきた相手に『蹴ってすみません』とでも謝るつもりか? おまえらしくもなく、しょげているな。俺に一 矢 報いることができたら、もっとはしゃぐのかと思っていたぞ」
やっといつもの嫌味な表情が戻ったので、心のどこかでホッとした。
「怪我をされたのではないなら、ひざ下に死角があるようですね。以前はそんな癖はなかったはずです。そのうち、私以外にも気づく者が現れると思うので、早めに直されたほうがいいんじゃないですか?」
なるべく嫌味っぽく告げた。
いつもひどいことを言われているのだから、これくらいはいいだろう。
そう思ったが、アージェントの顔色はさっと変わった。ひりりとした気配が伝わってきて、シアンは笑みを消した。
身をひるがえそうとしたが、二の腕をつかまれて、壁に押し付けられる。
「ご忠告をどうも、未来の側近殿」
息がかかるほど近くでささやかれて、シアンは言葉を失った。
締め付けられた二の腕が、ぎりぎりときしんだ。
怒らせたのだろうか?
いつもの意地悪にしては、逃げ出す隙がなかった。
身をよじろうとすれば、両脚の間に太ももを押し込まれて、ざわっと嫌悪感がわいた。動きを封じられた恐怖よりも、密着した体温に目まいがした。
「どいてください!」
怒鳴ったつもりが、うわずった声しか出なかった。
アージェントがのどの奥で嗤 ったから、焼けつくような恥ずかしさが身を包んだ。
「シアン、娼館に行く連中をたしなめるのが、どれほどおそろしいことを招くのかわかっているのか? 女以上に美しい顔をして、飢えた男どもの中に放り込まれている。身を守るすべを覚えるまでは、そのことを自覚しろ」
ぎくりとした。
下 卑 たからかいを受けることはあったが、そんなことは気にしていなかった。
それを言うのなら、と思った。それを言うのなら、アージェントのそばにいる時のほうが、よほどおそろしい。
「俺の手つきになっておくか?」
「……は?」
「おたがいに娼館へ行く手間がはぶける」
頭がカッと熱くなった。
馬鹿げたことを、と怒鳴ってやるつもりだった。けれど、男がいつもの笑みを浮かべていなかったから、シアンは何も言えなくなった。
静かな面差しで見つめられて、首すじからじわじわと熱をもっていくのが、自分でもわかった。
息を吸う。アージェントの鼻先に、ひたいを打ち付けた。ごちん、と鈍い音がして、頭突きをしたところから骨の感触が伝わった。
「不 埒 なことを考える輩 がいれば、急所をへし折ってやります! そんなことまであなたにご心配いただく必要はありません!」
顔を押さえたアージェントの腕をかいくぐり、部屋を飛び出した。廊下を駆けながら、もっと冷静に言い返してやれたはずなのにと、悔しさが込み上げてきた。
視力の話をごまかされたと気づいたのは後のことだ。
アージェントの視力の悪化は進んでいて、この日にはもう、視界の左半分がほとんど見えなくなっていたのだが、そのことはその後しばらく隠されていた。
サルタイアーは近隣の国を吸収して大きくなった国だ。
同じく大国であるシェブロンとは交易を続けていたが、ヴェア・アンプワントで発見された資源を巡り、争いが始まった。
間もなくヴェア・アンプワントは戦場となった。サルタイアーの攻勢が強まり、隣接する東方の街へとシェブロンの軍は押し戻されていた。
「東方の兵役は十八から二十三歳までのたった五年です。兵役が終われば、軍を去る者が多いのが現状で、これはサルタイアーの脅威を感じ取ってのことです。兵力の減少により戦術は制限され、残る者の士気をも下げていく。今、取りかからなければ、軍は内部から崩れていきます」
シアンが言い終えると、側近たちの間には戸惑った空気が流れた。
「だがこの案は……乱暴すぎる」
「近衛隊長及び、軍の司令部にはすでに了解を得ています」
彼らの顔色を素早くうかがい、予算や訓練所の確保についての話を畳み掛ける。
にわかに現実味を帯びた話となっていき、締めくくりには議長をつとめていた青の宰相から、「シャーに進言しよう」という返事を引き出した。
結果に満足した。これでまたひとつ、軍事にかかわる政策にシアンの意見が通る。
つねにすべてを受け入れてもらえるわけではなかったが、少なくとも、大きな改革を打ち出しておけば、印象の弱い案は通りやすくなる。
頭の固い側近たちにひとつ譲ったふりをしながら、別の策を受け入れさせる。その繰り返しでやっていくしかない。
数日後、謁見室へむかった。
エールはあとから部屋にやってきた。
「宰相から話は聞いた。捕 虜 や奴隷民を兵として訓練するという案だけれど、具体的な構想があれば教えてほしい」
これまで軍では、制圧した土地の住民や捕虜となった兵は、その場で殺していた。捕えておくだけでも人手や予算を食いつぶすからだ。
新しい策は、彼らのような奴隷を兵力に加えるというものだった。
「兵に仕立てたとしても、彼らが戦う相手はかつての同胞だ。軍全体の士気が下がることにはならない?」
エールは尋ねた。
「訓練所で徹底した教育を行います。死の極限まで追い詰めながら、決して死なせはしません。兵としての適性に欠けるものは、他者への見せしめに他の仕事を与えます」
「他の仕事?」
「兵よりも酷な仕事です。奴隷であるということを思い知らせてから、戦場へ赴くしかないと吹き込みます」
非人道的な方法を断言するのはわずかにためらったが、具体的な案を述べた。
東方を守るために必要であることは間違いがなかった。難色を示した側近も、いずれはこの提案の重要性を理解して、受け入れることになるだろう。
エールは表情を変えずに話を聞いていた。
そのことに、シアンのほうが少しだけ焦った。
「シャー、奴隷を使わなければ、同胞から多くの犠牲者が出ることをご考慮ください」
「わかった。僕の権限でこの策はかならず実現させる。その時は、シアンにもまた手助けしてもらうことになる。よろしく頼むよ」
ふ、と胸が熱くなる。
エールの言葉以外でそんなふうになることは、まずなかった。
「ところで、ふたりきりなんだから、普通にしゃべらない?」
「……これは、臣下としてのけじめです。一介の兵が、王に対し気安く話しかけることはできません」
「うん、シアンは僕の立場を考えてくれてるんだよね。ただ、堅苦しい言葉で話しかけられると、遠くに行ってしまったみたいで、少し悲しいよ。こんなことなら、近衛に入る時にもっと反対すれば良かったな」
苦笑されて、シアンもつられて小さく笑みをこぼした。
うながされて、別の話にうつる。東方の街に在留している軍から、支援要請が出されている。数日後には増援とともに近衛兵の小隊を合流させることになっていた。
これまで近衛と軍のあいだには密接なかかわりがなく、協同し作戦をこなすのは初の試みといえる。軍を近衛の指揮下に置くべきだと考えていたが、結果によっては良い切っ掛けとなりそうだった。
「シアンも一緒に行くんだって? 大丈夫なの」
「私は参謀本部で軍の作戦指揮を補佐します。街に設置する幕舎から出ることはないので、怪我をするような事態にはなりません」
「そう……それならいいんだけど。気をつけて」
エールはふいに思いついたように、片手をこぶしのかたちに握って、前に突き出すようにした。シアンはわずかに戸惑ったが、同じようにしてこつりとふれあわせた。
予想外の事態が起きた。
前線に指示を送るはずの通信兵が捕えられ、先回りをされた。先陣を切っていた重装歩兵団の半数が死んだ。
明日には参謀本部を設置している街の建物を放棄して、戦線を後退させることになる。背後は森だ。防戦には適している場所だったが、今いる場所を明け渡すことになる。
張りつめた暗い雰囲気の中で、兵たちには食事がふるまわれた。
シアンは硬いパンのかたまりと、スープを受け取った。
「参謀本部にいた近衛だ」というつぶやきが耳を掠 める。気にせずに、空いている席に座った。
「あいつらの指示で、歩兵団のやつらは死んだんだ」
「よく食い物がのどを通るな」
「無能の集まりが」
「……おまえは、あんな場所へ行かなくていい」
一言告げて立ち去るアージェントの後ろ姿を、シアンは呆然とながめた。
「シアン」
ハッとして、呼びかけに振り向いた。
「あの人、どこか怪我してるのかもしれない。いつもどおりなら、僕に剣を抜かれるなんてありえない。なにか聞いている?」
エールの声は硬く、兄を見送るまなざしは真剣だった。シアンは黙って、首を横にふった。
部屋に入る前にちらりとのぞくと、アージェントはシアンが来るのがわかっていたように、こちらを見ていた。
嫌味な笑みがないとひっそりとして見えて、居心地の悪さを感じた。
「シャーがあれほど体術に秀でていることを、初めて知りました。アージェント様が教え込まれたのですか」
男は少しだけ、うれしそうにした。
相手をけむにまくような、作り物の笑みを浮かべることは多かったが、それとはまったく別の種類の笑顔だ。弟を褒められた時だけは、そういう表情を見せた。
エールが浮かべるものと少しだけ似ていて、シアンは久しぶりに、この兄弟が似ていることに思い至った。
「ひざを痛められたのですか? 攻撃に対する反応が普段よりも遅いように思えました。私が蹴ったのは左ひざでした。シャーに引き抜かれた剣も左側にさげていましたよね。歩き方に不自然なところはないように見えましたが、怪我をされたのですか」
「そうだったら、どうする。喧嘩を売ってきた相手に『蹴ってすみません』とでも謝るつもりか? おまえらしくもなく、しょげているな。俺に
やっといつもの嫌味な表情が戻ったので、心のどこかでホッとした。
「怪我をされたのではないなら、ひざ下に死角があるようですね。以前はそんな癖はなかったはずです。そのうち、私以外にも気づく者が現れると思うので、早めに直されたほうがいいんじゃないですか?」
なるべく嫌味っぽく告げた。
いつもひどいことを言われているのだから、これくらいはいいだろう。
そう思ったが、アージェントの顔色はさっと変わった。ひりりとした気配が伝わってきて、シアンは笑みを消した。
身をひるがえそうとしたが、二の腕をつかまれて、壁に押し付けられる。
「ご忠告をどうも、未来の側近殿」
息がかかるほど近くでささやかれて、シアンは言葉を失った。
締め付けられた二の腕が、ぎりぎりときしんだ。
怒らせたのだろうか?
いつもの意地悪にしては、逃げ出す隙がなかった。
身をよじろうとすれば、両脚の間に太ももを押し込まれて、ざわっと嫌悪感がわいた。動きを封じられた恐怖よりも、密着した体温に目まいがした。
「どいてください!」
怒鳴ったつもりが、うわずった声しか出なかった。
アージェントがのどの奥で
「シアン、娼館に行く連中をたしなめるのが、どれほどおそろしいことを招くのかわかっているのか? 女以上に美しい顔をして、飢えた男どもの中に放り込まれている。身を守るすべを覚えるまでは、そのことを自覚しろ」
ぎくりとした。
それを言うのなら、と思った。それを言うのなら、アージェントのそばにいる時のほうが、よほどおそろしい。
「俺の手つきになっておくか?」
「……は?」
「おたがいに娼館へ行く手間がはぶける」
頭がカッと熱くなった。
馬鹿げたことを、と怒鳴ってやるつもりだった。けれど、男がいつもの笑みを浮かべていなかったから、シアンは何も言えなくなった。
静かな面差しで見つめられて、首すじからじわじわと熱をもっていくのが、自分でもわかった。
息を吸う。アージェントの鼻先に、ひたいを打ち付けた。ごちん、と鈍い音がして、頭突きをしたところから骨の感触が伝わった。
「
顔を押さえたアージェントの腕をかいくぐり、部屋を飛び出した。廊下を駆けながら、もっと冷静に言い返してやれたはずなのにと、悔しさが込み上げてきた。
視力の話をごまかされたと気づいたのは後のことだ。
アージェントの視力の悪化は進んでいて、この日にはもう、視界の左半分がほとんど見えなくなっていたのだが、そのことはその後しばらく隠されていた。
サルタイアーは近隣の国を吸収して大きくなった国だ。
同じく大国であるシェブロンとは交易を続けていたが、ヴェア・アンプワントで発見された資源を巡り、争いが始まった。
間もなくヴェア・アンプワントは戦場となった。サルタイアーの攻勢が強まり、隣接する東方の街へとシェブロンの軍は押し戻されていた。
「東方の兵役は十八から二十三歳までのたった五年です。兵役が終われば、軍を去る者が多いのが現状で、これはサルタイアーの脅威を感じ取ってのことです。兵力の減少により戦術は制限され、残る者の士気をも下げていく。今、取りかからなければ、軍は内部から崩れていきます」
シアンが言い終えると、側近たちの間には戸惑った空気が流れた。
「だがこの案は……乱暴すぎる」
「近衛隊長及び、軍の司令部にはすでに了解を得ています」
彼らの顔色を素早くうかがい、予算や訓練所の確保についての話を畳み掛ける。
にわかに現実味を帯びた話となっていき、締めくくりには議長をつとめていた青の宰相から、「シャーに進言しよう」という返事を引き出した。
結果に満足した。これでまたひとつ、軍事にかかわる政策にシアンの意見が通る。
つねにすべてを受け入れてもらえるわけではなかったが、少なくとも、大きな改革を打ち出しておけば、印象の弱い案は通りやすくなる。
頭の固い側近たちにひとつ譲ったふりをしながら、別の策を受け入れさせる。その繰り返しでやっていくしかない。
数日後、謁見室へむかった。
エールはあとから部屋にやってきた。
「宰相から話は聞いた。
これまで軍では、制圧した土地の住民や捕虜となった兵は、その場で殺していた。捕えておくだけでも人手や予算を食いつぶすからだ。
新しい策は、彼らのような奴隷を兵力に加えるというものだった。
「兵に仕立てたとしても、彼らが戦う相手はかつての同胞だ。軍全体の士気が下がることにはならない?」
エールは尋ねた。
「訓練所で徹底した教育を行います。死の極限まで追い詰めながら、決して死なせはしません。兵としての適性に欠けるものは、他者への見せしめに他の仕事を与えます」
「他の仕事?」
「兵よりも酷な仕事です。奴隷であるということを思い知らせてから、戦場へ赴くしかないと吹き込みます」
非人道的な方法を断言するのはわずかにためらったが、具体的な案を述べた。
東方を守るために必要であることは間違いがなかった。難色を示した側近も、いずれはこの提案の重要性を理解して、受け入れることになるだろう。
エールは表情を変えずに話を聞いていた。
そのことに、シアンのほうが少しだけ焦った。
「シャー、奴隷を使わなければ、同胞から多くの犠牲者が出ることをご考慮ください」
「わかった。僕の権限でこの策はかならず実現させる。その時は、シアンにもまた手助けしてもらうことになる。よろしく頼むよ」
ふ、と胸が熱くなる。
エールの言葉以外でそんなふうになることは、まずなかった。
「ところで、ふたりきりなんだから、普通にしゃべらない?」
「……これは、臣下としてのけじめです。一介の兵が、王に対し気安く話しかけることはできません」
「うん、シアンは僕の立場を考えてくれてるんだよね。ただ、堅苦しい言葉で話しかけられると、遠くに行ってしまったみたいで、少し悲しいよ。こんなことなら、近衛に入る時にもっと反対すれば良かったな」
苦笑されて、シアンもつられて小さく笑みをこぼした。
うながされて、別の話にうつる。東方の街に在留している軍から、支援要請が出されている。数日後には増援とともに近衛兵の小隊を合流させることになっていた。
これまで近衛と軍のあいだには密接なかかわりがなく、協同し作戦をこなすのは初の試みといえる。軍を近衛の指揮下に置くべきだと考えていたが、結果によっては良い切っ掛けとなりそうだった。
「シアンも一緒に行くんだって? 大丈夫なの」
「私は参謀本部で軍の作戦指揮を補佐します。街に設置する幕舎から出ることはないので、怪我をするような事態にはなりません」
「そう……それならいいんだけど。気をつけて」
エールはふいに思いついたように、片手をこぶしのかたちに握って、前に突き出すようにした。シアンはわずかに戸惑ったが、同じようにしてこつりとふれあわせた。
予想外の事態が起きた。
前線に指示を送るはずの通信兵が捕えられ、先回りをされた。先陣を切っていた重装歩兵団の半数が死んだ。
明日には参謀本部を設置している街の建物を放棄して、戦線を後退させることになる。背後は森だ。防戦には適している場所だったが、今いる場所を明け渡すことになる。
張りつめた暗い雰囲気の中で、兵たちには食事がふるまわれた。
シアンは硬いパンのかたまりと、スープを受け取った。
「参謀本部にいた近衛だ」というつぶやきが耳を
「あいつらの指示で、歩兵団のやつらは死んだんだ」
「よく食い物がのどを通るな」
「無能の集まりが」