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いつの間にか近くにいたアージェントに頭を引き寄せられて、彼を見上げた。困惑したまま部屋から連れ去られる。廊下をしばらく歩くと、アージェントはめずらしく深いため息をついた。
「アルカディアを放っておいてもいいのですか?」
「仕方ない」
憎々しげで、ほんとうに残念そうだった。
「女の口説き方も知らないのか? その出来のいい頭を少しは使え」
「部屋に戻ってアルカディアに謝ればいいのですか」
「……おまえにはいずれ相応しい女が現れる。今さら頭を下げてあれで手を打つ必要はない」
「そういうおっしゃり方は女性に対して失礼です。アージェント隊長こそ、少しは女性に対する誠意を覚えたほうがいい」
「好きでもない女の肩を持つのか?」
先ほどまでの気分の悪さが消え、馬鹿なやりとりでさえ愉快だった。胸が痛くなるほどのむずがゆい喜びを、シアンはなんと呼ぶのか知らなかった。
落馬した時に見たのは、アージェントの顔だった。
確かに目が合ったが後ろ姿はすぐに見えなくなった。地面に叩きつけられた衝撃からすぐに立ち直ると、身体を起こして物陰に身をひそめた。
まだ陽が高いのに加え、見晴らしのいい場所であれば隠れるところもなかっただろうが、建物がひしめく街中だったことが幸いした。
ヴェア・アンプワントの住宅街は砂ぼこりにかすみ、そこかしこで火の手が上がっていた。
右わき腹を押さえていた手をゆっくりと外すと、隙間からぬるりとした血がもれでて、レンガを敷き詰めた地面に、黒い色がしたたり落ちた。
斬りつけられたところは腹なのに、全身がどくどくと波打っている。
待ち伏せが可能な地形だということはわかっていたが、残党の確認を徹底しなかった。先を急ぎすぎたのだ。
物陰から敵の兵が飛び出してきた時、シアンがアージェントの死角となる左側を走っていなかったら危なかった。ラズワルド騎兵隊隊長の死は作戦の失敗を意味する。それを防げたことだけが救いだ。
作戦はまだ序盤で、部隊は次の目的地まで走り続ける。自分はひとりこの地に取り残された。あたりの喧騒がおさまるのを待って、シアンはそっと立ち上がった。
ひざに力が入らなくて、壁伝いに歩きながら煙突のある建物を目指した。たどり着いた鍛冶場は普段シアンが目にする王都のものと比べて粗末な造りだ。住民が逃げ出したのは少し前のことのようで、火床にはまだ熱が残っていてあたたかかったが、期待した工具や金属類は根こそぎ持ち去られていた。
馬で駆けぬけた時にここから少し離れたところに診療所を見かけた。街の規模から考えてこの近くにもうひとつ診療所があるとは思えない。
シアンはあきらめて、炉に火かき棒を入れて熱した。焼いて血を止める。頭では理解していたが、皮ふの切り裂かれた腹の中をまさぐるのはぞっとするような行為だった。
傷が深い場合、やみくもに焼いて塞ぐのは、内臓が変に癒 着 したり塞いだ皮ふの下で出血がひろがることもあるので危険だ。
慎重にと胸の内で繰り返しながら熱したかたまりを腹に押し付けると、ゆらいでいた意識がはっきりした。
痛みよりもただ衝撃が強かった。深手を負うこと自体が初めてで、奥歯を噛みしめて手元が狂わないようにとだけ気をつけた。
壁にもたれかかって、血があふれ出てこないかを確かめた。
右耳の飾りを外す。剣先で銀色の輪を半分に切断した。装飾のほどこされた太い部分と細い部分のつなぎ目だったので、綺麗に半円にわかれた。
細い金属の片側から青い石を切り落としてから、軽く研いで針のように尖らせる。こうすれば、あの時も痛くなかったのにと、耳飾りを無理やりつけられた時を思い出しておかしくなった。
織布をゆるませて糸を取り出し、針代わりとなった耳飾りをひっかけて傷口を縫い合わせる。
いびつな針のせいか、それともただシアンが指先の仕事に向いていないせいか、縫いあとはゆがんだ波を描いている。王都に戻ったら医術の訓練を受けようと誓った。
傷の上からきつめに布を巻いて、上着を肩に羽織る。火床のおかげで室内は熱いくらいだが、体温は下がっていた。傷を塞いだら馬を探しに行くつもりだったが、すぐには立ち上がる気力がわかない。
鍛冶場には鉄を冷やすための水が引かれていたため、くちに含んでからすぐに吐き出した。濃い血の味がした。さっきまで大量にかいていた冷や汗もぴたりと治まっていて、もしかしたらこんなところでのたれ死ぬのだろうかと不安になった。
悲鳴が聞こえた。剣を手元に引き寄せると壁の小さな隙間をのぞいて、建物の外を見た。
そこにいたのは女と幼い子どもだった。逃げ遅れて家に隠れていたのだろう、顔を覆った男たちに家から引きずり出されていた。
戦場となった街には賊が多い。金品を盗られた後に母娘は殺される運命をたどる。
飛び出していったところでこの傷では一人を殺すくらいがせいぜいだろう。彼女たちを抱えて逃げ出すことなど無理だ。
わかっていた。けれど、返り討ちにあって死ぬことよりも、何もせずに彼女たちを見捨てることのほうが耐えがたかった。
『おまえは潔癖で、高慢で、自尊心のかたまりだ』
そのとおりだ。命よりも守りたいものがあって、目に見えないそれがこれまでシアンを芯から支えていた。常に自分の気持ちを優先して裏切ったことはなかった。
足元には青い石が転がっている。シアンが命を落とせばアージェントは『目』を失う。困るところを見たいと、今は思わなかった。
また悲鳴が聞こえた。剣を手放した。青いかけらを拾って握りしめる。生き残ろうとするのはエールのためだと何度言い聞かせても、王の顔を思い出せない。
シアンは〈特別〉を持つ者がうらやましかった。自分よりも他人を愛する気持ちがわからなくて〈特別〉をうらやましいと思った。そして、〈特別〉だと大事にされている者がもっとうらやましかった。
望む者から欲しがられる優越を、『目』であるあいだだけは手にすることができた。
泣き叫ぶ子どもの声から逃げ出したかった。シアンは耳を塞ぐこともできずに殺 戮 が終わるのを待った。
長い時間が過ぎたような気がした。外でなにも音がしなくなっても、しばらくのあいだじっとしていた。ようやく外をのぞくと、もう男たちは引き揚げた後だった。
土の上には真っ赤に染まったかたまりが転がっていたが心はゆらがなかった。自分が引き換えにしたものがなんだったのかを考えた。
この気持ちを説明する言葉をひとつしか知らなかったが、それは認めてはいけないもののような気がした。こんなところで死ぬわけにはいかないとだけ、強く思った。
鍛冶場の棚に残されていた壺を端から確認する。金属を加工する時に使う薬草や粉末にされた鉱石などが残されていた。天井から吊り下げられていた火筒を下ろして中身を床に捨てる。
ガラス製の筒に薬剤を詰めると炉に放り入れ、火を強くするために藁を押し込んだ。
鍛冶場の煙突からは青い色のけむりが立ち上っているはずだ。
色のついたけむりは軍の合図で、数種類の色と上げる順番を変えることでこまかな指示を伝えることができる。だが、ここにある材料では『合図になっていない色』を上げるくらいしかできなかった。
青いけむりは実用化されていないが、参謀本部の一握りの者だけは『最優先』の知らせとして考案された過去を知っていた。王の危険を意味する色はあってはならないとして封印されたのだ。
王であるエールは今、近衛本隊とともに参謀本部にいる。本部の者には別の意味があると気づいてもらえるだろう。
夜になればけむりは見えなくなる。間に合うだろうかと見張りの兵たちを思い浮かべた。けむりに気づかないようなら、本部に戻った後で訓練をやり直さなくてはいけないと、矛盾したことを考えた。
何かを飲まされ目が覚めた。苦味に顔をしかめると「薬だ。水も飲むか?」と尋ねられる。鋭いまなざしと頬骨の出た男らしい顔立ちを、ひたいにかかったゆるい茶色の巻き毛が少しだけ優しく見せていた。
「バルナス隊長……?」
シアンは上半身裸で包帯を巻かれ寝かされていた。起き上がって腹の傷を確かめようとしたが、手足がしびれて動けなかった。
「だいぶ無茶をしたな。傷は倦んでいないようだから、処置が良かったのだろう。四日も眠っていたんだ」
「四日……ラズワルド騎兵隊は?」
「心配するな。首都を制圧したという報告がきている」
「副隊長はご無事ですか」
「アージェント……? 怪我を負ったという話は聞いていないが。騎兵隊は二班を残して、今夜のうちに参謀本部へ戻ってくるはずだ」
予定したとおりだったので、シアンは安堵した。
天井が六角形になっている幕舎の中は、火筒がなくてもじゅうぶんに明るかった。
バルナスのための天幕かもしれないと思った。近衛隊長には、野営の際には広めのそれが与えられる。
「隊長が私の看病をしてくださったのですか?」
「ここを明け渡しただけで、あとは衛生兵にまかせっきりだ。目を覚ましたと聞いたから、様子を見に来ただけだ」
「申し訳ありません」
「いいから、もう少し眠れ」
冷たい指がひたいをなでた。バルナスは体温が低いのか、剣の手ほどきをしてくれる時も、いつも手は冷たかった。情のこもった声で「助かって良かった」とささやかれて、シアンは自然と微笑んだ。
幕舎を出ていくバルナスを見送ると、身体が小さく震えだした。今さらではあるが死のそばに迫ったことに対する恐怖だった。助かった、それがじわじわと身体に染みわたった。
再び泥のような眠気が襲ってきて、また眠りに落ちた。深い闇の中で、悲鳴が聞こえた気がした。女と子どもの声のようだ。耳にこびりついて離れないそれを、きっと忘れないだろうと思った。
次に目が覚めたら、闇の中にいた。
外はすっかり夜になっていて、テントの中では月の明かりも感じられない。
静かな足音がテントに近づいてきたが、衛生兵だろうと思い、うとうとしたままでいた。強い薬のせいで、まぶたをあけるのもつらかった。
外の風が吹き込み、乾いた砂の匂いがした。
のそりとした気配はかたわらに腰を下ろした。声をかけることもなく、しばらくそのままでいたが、シアンが寝ていると判断したのか、胸に掛けられた布を持ち上げた。
てのひらがふれた。
肌を確かめるしぐさは、動かずにいたら次第に大胆になり、腰までたどり着いた。気配が動き、男に覆いかぶさられた。
くちびるになまあたたかいものが押し当てられる。水気のあるそれは、舌だった。
予想もしていなかった事態に、全身が総毛立ってこれまでに感じたことのない怒りがわいた。
腰をひねると、相手の脇腹にひざを打ち込んだ。回転の勢いで起き上がったが、左足に激痛が走って、ぐらりと身体が傾いた。
骨が折れていたことを知ったのは、あとからだ。
肩をつかまれ、引き倒される。体重をかけてのしかかってくる大きな身体に抵抗すると、足首をつかまれ地面に打ち付けられた。
あまりの痛みに悲鳴すら、のどの奥に引っ込んだ。
抵抗できずにいると、あっという間に両手首を背中でまとめて縛られる。
髪をつかまれ上向かされると、再び口内になまあたたかい舌が入り込み、苦しくなるほど口内を舐められた。舌で唾液を流し込まれて、無理に嚥下させられ、あえいだ。
男は膨らんだ下腹を、シアンの同じ場所にこすりつけてきた。
悔しさよりも、おぞましさが勝った。そこまできて、怖いと初めて思った。
その時、ガシャン、とけたたましい音がした。
明かりが灯 る。オレンジ色の火は、シアンの上にいた男の背で、あっという間に燃えひろがった。
地面に転がりのたうちまわる男のかたわらでは、割れた火筒のガラスが散乱していた。幕舎に入ってきたアージェントは、別の火筒に明かりを灯した。
「騎兵隊が到着するまでにと焦ったのか? もっと早く行動に移していれば、こいつを自由にできたのに、つまらない懊 悩 などするから、機会を逃す羽目になるんだ。バルナス隊長」
「……上官にこのようなことをして、ただで済むと思うな」
背についた火をこそげ落として、バルナスはのそりと身体を起こした。
「ただで済まないのはおまえのほうだろう。青の学士は賢者の気に入りだといううわさを、聞いたことがないのか? 孫娘の婚約者におかしな真似を働く変態が、近衛を追放されるだけで済めばいいがな」
「アルカディアを放っておいてもいいのですか?」
「仕方ない」
憎々しげで、ほんとうに残念そうだった。
「女の口説き方も知らないのか? その出来のいい頭を少しは使え」
「部屋に戻ってアルカディアに謝ればいいのですか」
「……おまえにはいずれ相応しい女が現れる。今さら頭を下げてあれで手を打つ必要はない」
「そういうおっしゃり方は女性に対して失礼です。アージェント隊長こそ、少しは女性に対する誠意を覚えたほうがいい」
「好きでもない女の肩を持つのか?」
先ほどまでの気分の悪さが消え、馬鹿なやりとりでさえ愉快だった。胸が痛くなるほどのむずがゆい喜びを、シアンはなんと呼ぶのか知らなかった。
落馬した時に見たのは、アージェントの顔だった。
確かに目が合ったが後ろ姿はすぐに見えなくなった。地面に叩きつけられた衝撃からすぐに立ち直ると、身体を起こして物陰に身をひそめた。
まだ陽が高いのに加え、見晴らしのいい場所であれば隠れるところもなかっただろうが、建物がひしめく街中だったことが幸いした。
ヴェア・アンプワントの住宅街は砂ぼこりにかすみ、そこかしこで火の手が上がっていた。
右わき腹を押さえていた手をゆっくりと外すと、隙間からぬるりとした血がもれでて、レンガを敷き詰めた地面に、黒い色がしたたり落ちた。
斬りつけられたところは腹なのに、全身がどくどくと波打っている。
待ち伏せが可能な地形だということはわかっていたが、残党の確認を徹底しなかった。先を急ぎすぎたのだ。
物陰から敵の兵が飛び出してきた時、シアンがアージェントの死角となる左側を走っていなかったら危なかった。ラズワルド騎兵隊隊長の死は作戦の失敗を意味する。それを防げたことだけが救いだ。
作戦はまだ序盤で、部隊は次の目的地まで走り続ける。自分はひとりこの地に取り残された。あたりの喧騒がおさまるのを待って、シアンはそっと立ち上がった。
ひざに力が入らなくて、壁伝いに歩きながら煙突のある建物を目指した。たどり着いた鍛冶場は普段シアンが目にする王都のものと比べて粗末な造りだ。住民が逃げ出したのは少し前のことのようで、火床にはまだ熱が残っていてあたたかかったが、期待した工具や金属類は根こそぎ持ち去られていた。
馬で駆けぬけた時にここから少し離れたところに診療所を見かけた。街の規模から考えてこの近くにもうひとつ診療所があるとは思えない。
シアンはあきらめて、炉に火かき棒を入れて熱した。焼いて血を止める。頭では理解していたが、皮ふの切り裂かれた腹の中をまさぐるのはぞっとするような行為だった。
傷が深い場合、やみくもに焼いて塞ぐのは、内臓が変に
慎重にと胸の内で繰り返しながら熱したかたまりを腹に押し付けると、ゆらいでいた意識がはっきりした。
痛みよりもただ衝撃が強かった。深手を負うこと自体が初めてで、奥歯を噛みしめて手元が狂わないようにとだけ気をつけた。
壁にもたれかかって、血があふれ出てこないかを確かめた。
右耳の飾りを外す。剣先で銀色の輪を半分に切断した。装飾のほどこされた太い部分と細い部分のつなぎ目だったので、綺麗に半円にわかれた。
細い金属の片側から青い石を切り落としてから、軽く研いで針のように尖らせる。こうすれば、あの時も痛くなかったのにと、耳飾りを無理やりつけられた時を思い出しておかしくなった。
織布をゆるませて糸を取り出し、針代わりとなった耳飾りをひっかけて傷口を縫い合わせる。
いびつな針のせいか、それともただシアンが指先の仕事に向いていないせいか、縫いあとはゆがんだ波を描いている。王都に戻ったら医術の訓練を受けようと誓った。
傷の上からきつめに布を巻いて、上着を肩に羽織る。火床のおかげで室内は熱いくらいだが、体温は下がっていた。傷を塞いだら馬を探しに行くつもりだったが、すぐには立ち上がる気力がわかない。
鍛冶場には鉄を冷やすための水が引かれていたため、くちに含んでからすぐに吐き出した。濃い血の味がした。さっきまで大量にかいていた冷や汗もぴたりと治まっていて、もしかしたらこんなところでのたれ死ぬのだろうかと不安になった。
悲鳴が聞こえた。剣を手元に引き寄せると壁の小さな隙間をのぞいて、建物の外を見た。
そこにいたのは女と幼い子どもだった。逃げ遅れて家に隠れていたのだろう、顔を覆った男たちに家から引きずり出されていた。
戦場となった街には賊が多い。金品を盗られた後に母娘は殺される運命をたどる。
飛び出していったところでこの傷では一人を殺すくらいがせいぜいだろう。彼女たちを抱えて逃げ出すことなど無理だ。
わかっていた。けれど、返り討ちにあって死ぬことよりも、何もせずに彼女たちを見捨てることのほうが耐えがたかった。
『おまえは潔癖で、高慢で、自尊心のかたまりだ』
そのとおりだ。命よりも守りたいものがあって、目に見えないそれがこれまでシアンを芯から支えていた。常に自分の気持ちを優先して裏切ったことはなかった。
足元には青い石が転がっている。シアンが命を落とせばアージェントは『目』を失う。困るところを見たいと、今は思わなかった。
また悲鳴が聞こえた。剣を手放した。青いかけらを拾って握りしめる。生き残ろうとするのはエールのためだと何度言い聞かせても、王の顔を思い出せない。
シアンは〈特別〉を持つ者がうらやましかった。自分よりも他人を愛する気持ちがわからなくて〈特別〉をうらやましいと思った。そして、〈特別〉だと大事にされている者がもっとうらやましかった。
望む者から欲しがられる優越を、『目』であるあいだだけは手にすることができた。
泣き叫ぶ子どもの声から逃げ出したかった。シアンは耳を塞ぐこともできずに
長い時間が過ぎたような気がした。外でなにも音がしなくなっても、しばらくのあいだじっとしていた。ようやく外をのぞくと、もう男たちは引き揚げた後だった。
土の上には真っ赤に染まったかたまりが転がっていたが心はゆらがなかった。自分が引き換えにしたものがなんだったのかを考えた。
この気持ちを説明する言葉をひとつしか知らなかったが、それは認めてはいけないもののような気がした。こんなところで死ぬわけにはいかないとだけ、強く思った。
鍛冶場の棚に残されていた壺を端から確認する。金属を加工する時に使う薬草や粉末にされた鉱石などが残されていた。天井から吊り下げられていた火筒を下ろして中身を床に捨てる。
ガラス製の筒に薬剤を詰めると炉に放り入れ、火を強くするために藁を押し込んだ。
鍛冶場の煙突からは青い色のけむりが立ち上っているはずだ。
色のついたけむりは軍の合図で、数種類の色と上げる順番を変えることでこまかな指示を伝えることができる。だが、ここにある材料では『合図になっていない色』を上げるくらいしかできなかった。
青いけむりは実用化されていないが、参謀本部の一握りの者だけは『最優先』の知らせとして考案された過去を知っていた。王の危険を意味する色はあってはならないとして封印されたのだ。
王であるエールは今、近衛本隊とともに参謀本部にいる。本部の者には別の意味があると気づいてもらえるだろう。
夜になればけむりは見えなくなる。間に合うだろうかと見張りの兵たちを思い浮かべた。けむりに気づかないようなら、本部に戻った後で訓練をやり直さなくてはいけないと、矛盾したことを考えた。
何かを飲まされ目が覚めた。苦味に顔をしかめると「薬だ。水も飲むか?」と尋ねられる。鋭いまなざしと頬骨の出た男らしい顔立ちを、ひたいにかかったゆるい茶色の巻き毛が少しだけ優しく見せていた。
「バルナス隊長……?」
シアンは上半身裸で包帯を巻かれ寝かされていた。起き上がって腹の傷を確かめようとしたが、手足がしびれて動けなかった。
「だいぶ無茶をしたな。傷は倦んでいないようだから、処置が良かったのだろう。四日も眠っていたんだ」
「四日……ラズワルド騎兵隊は?」
「心配するな。首都を制圧したという報告がきている」
「副隊長はご無事ですか」
「アージェント……? 怪我を負ったという話は聞いていないが。騎兵隊は二班を残して、今夜のうちに参謀本部へ戻ってくるはずだ」
予定したとおりだったので、シアンは安堵した。
天井が六角形になっている幕舎の中は、火筒がなくてもじゅうぶんに明るかった。
バルナスのための天幕かもしれないと思った。近衛隊長には、野営の際には広めのそれが与えられる。
「隊長が私の看病をしてくださったのですか?」
「ここを明け渡しただけで、あとは衛生兵にまかせっきりだ。目を覚ましたと聞いたから、様子を見に来ただけだ」
「申し訳ありません」
「いいから、もう少し眠れ」
冷たい指がひたいをなでた。バルナスは体温が低いのか、剣の手ほどきをしてくれる時も、いつも手は冷たかった。情のこもった声で「助かって良かった」とささやかれて、シアンは自然と微笑んだ。
幕舎を出ていくバルナスを見送ると、身体が小さく震えだした。今さらではあるが死のそばに迫ったことに対する恐怖だった。助かった、それがじわじわと身体に染みわたった。
再び泥のような眠気が襲ってきて、また眠りに落ちた。深い闇の中で、悲鳴が聞こえた気がした。女と子どもの声のようだ。耳にこびりついて離れないそれを、きっと忘れないだろうと思った。
次に目が覚めたら、闇の中にいた。
外はすっかり夜になっていて、テントの中では月の明かりも感じられない。
静かな足音がテントに近づいてきたが、衛生兵だろうと思い、うとうとしたままでいた。強い薬のせいで、まぶたをあけるのもつらかった。
外の風が吹き込み、乾いた砂の匂いがした。
のそりとした気配はかたわらに腰を下ろした。声をかけることもなく、しばらくそのままでいたが、シアンが寝ていると判断したのか、胸に掛けられた布を持ち上げた。
てのひらがふれた。
肌を確かめるしぐさは、動かずにいたら次第に大胆になり、腰までたどり着いた。気配が動き、男に覆いかぶさられた。
くちびるになまあたたかいものが押し当てられる。水気のあるそれは、舌だった。
予想もしていなかった事態に、全身が総毛立ってこれまでに感じたことのない怒りがわいた。
腰をひねると、相手の脇腹にひざを打ち込んだ。回転の勢いで起き上がったが、左足に激痛が走って、ぐらりと身体が傾いた。
骨が折れていたことを知ったのは、あとからだ。
肩をつかまれ、引き倒される。体重をかけてのしかかってくる大きな身体に抵抗すると、足首をつかまれ地面に打ち付けられた。
あまりの痛みに悲鳴すら、のどの奥に引っ込んだ。
抵抗できずにいると、あっという間に両手首を背中でまとめて縛られる。
髪をつかまれ上向かされると、再び口内になまあたたかい舌が入り込み、苦しくなるほど口内を舐められた。舌で唾液を流し込まれて、無理に嚥下させられ、あえいだ。
男は膨らんだ下腹を、シアンの同じ場所にこすりつけてきた。
悔しさよりも、おぞましさが勝った。そこまできて、怖いと初めて思った。
その時、ガシャン、とけたたましい音がした。
明かりが
地面に転がりのたうちまわる男のかたわらでは、割れた火筒のガラスが散乱していた。幕舎に入ってきたアージェントは、別の火筒に明かりを灯した。
「騎兵隊が到着するまでにと焦ったのか? もっと早く行動に移していれば、こいつを自由にできたのに、つまらない
「……上官にこのようなことをして、ただで済むと思うな」
背についた火をこそげ落として、バルナスはのそりと身体を起こした。
「ただで済まないのはおまえのほうだろう。青の学士は賢者の気に入りだといううわさを、聞いたことがないのか? 孫娘の婚約者におかしな真似を働く変態が、近衛を追放されるだけで済めばいいがな」