序章


 藍沐恩(ラン・ムーウァン)は後になって、その瞬間の自分の反応をつくづく反省した。
 そういう状況をこれまで想像したことがなかったわけではない。ただし〝現場で〟などというシチュエーションでは絶対になかった。
 おかげで、上司に当たるレックス・ハイエルがいきなり飛び掛かってきた次の瞬間には、一欠片の心構えもないままに、冷たい大理石の床と彼の鍛えられた温かい身体との間に挟まれるという、なかなか予想だにしない状態に陥っていた。
 顔を心持ち横へとずらし、ハイエルの吐息が頬を撫でるのを避ける。互いの胸がぴったりと重なり合うせいで、呼吸すらままならなかった。
「鼓動が早いな。どうかしたのか?」
 少しかすれたハイエルの低い声が耳元に響く。
 やや冷たいその唇が耳を掠めた瞬間、危うく全身が震え上がりそうになったのを堪え、藍は深呼吸すると冷静な口調で言った。
「自分の上司にいきなり押し倒されたら、誰だってちょっとは緊張するだろ」
 ハイエルが少し顔を上げる。深みのあるブルーアイズが僅か数インチ先から藍を見つめ、ほとんど触れ合わんばかりの距離でその唇が動いた。
「お前が俺に注意を払う代わりに、自分の背後にちゃんと気をつけていれば、俺だってお前を押し倒さなくて済んだんじゃないのか?」
 ハイエルのこの台詞に他意があるかどうかなど考えることもできないまま、反射的に言い返す。
「……自分の背中にだけ気をつけていて、どうやってあんたを掩護しろって?」
 ハイエルの唇が僅かに吊り上がり、いつものあの薄笑いが浮かんだ。
「ならお前が負傷したら? この状況下で俺に次のガードを探せと?」
 こうなってしまえばこっちの負けだ。そもそも、ハイエルとこんな時にこんな論争をしていても意味はない。
「はいはい、俺が間違ってました。で? どうする?」
 また一発、銃声とともに飛んできた弾が二人の頭上を掠め、まだ藍に圧し掛かっていたハイエルが素早く頭を引っ込める。
 藍はやや狼狽えて顔を背け、それ以上の接触を避けた。
「あと何発残っている?」
 心持ち上半身を起こしたハイエルは身体の位置を下へとずらし、自分達の隠れているちっぽけな工作台越しに、遠く離れた二階にいる敵の形勢を窺おうとする。
 その瞬間、下半身が擦れ合い、藍は思わず声を上げそうになった。だが、こんな状況下では唇を噛んで罵声を押し殺すしかない。
 藍は時折感じていた。レックス・ハイエルはこの手の行為をわざとやっているのだと。
 とはいえ、忌々しいことに自分が同性愛者ではなく、なお且つこのくそったれ上司にひそかに恋心を抱いたりしていなかったなら、今だってここまで切羽詰まった感覚にはならなかったはずなのだ。
 こんな場所で、この状況下で、銃弾の襲来のみならずハイエルからの〝擬似〟セクシャルハラスメントまで受ける羽目になるとは。
 心の中で、母親には到底聞かせられないような類いの罵声を大量に彼に浴びせ掛けつつ、藍は片手で弾倉を開き、中をさっと確認した。
「俺の方は残り三発」
 ハイエルの弾倉にはまだ二発残っていたはずだが、バックアップを務める藍の残弾数も大して変わらない。
 しかも前方は暗がりで、ハイエルは相手の狙撃手の位置を確認できていないようだ。
「お前が左、俺が右か?」
 頭を低くしたハイエルが、不機嫌な顔の藍に目を向ける。
「ああ」
 軽く頷いて藍は応じた。さっさとハイエルと身体を離せればそれでいい。
 ハイエルが藍の身体の上から滑るように離れる。
 一瞬のアイコンタクト。次の瞬間には二人は左右に分かれて工作台の陰から飛び出していた。
 どっちを撃てばいいのかわからず、暗がりの狙撃手が一瞬躊躇ったのだろう。銃撃が途切れる。
 その隙に銃を構えた藍は、二階のさっき発砲時の閃光が見えた地点めがけて撃ち込み、内心でくそっと舌打ちした。射程距離が足りない。
 ─続けざまの三発の銃声。
 死角となる踊り場へと身を翻して飛び込み、僅かに頭を出してハイエルの方を確認する。
 すぐに二階へ視線を戻すと、見覚えのある背の高い人影がこっちに向けて軽く手を振っているのが見えた。
 狙撃手を制圧したらしい仲間の姿にほっとしてそこから出た藍は、ちょうど反対側から近付いてきたハイエルの無事を確認し、ようやく一息吐いた。
「あんた達、大丈夫?」
 突入班とともに外から駆け込んできたのは、ハイエル班唯一の女性捜査官であるアニタ・アイバーソンだった。小柄な美人だが、今はその手にライフルを持ち、防弾ベストを身に着けている。
 藍達の姿をざっと見て、誰も負傷していないのを確認するとアニタは笑みを浮かべた。
「今日の収穫はでかいわよ」
「そっちには何人いたんだ?」
 ハイエルが尋ねながら先に立って出ていく。
「上に一人、裏に三人、外に二人です」
 言いながらアニタは防弾ベストを脱いでぶらぶらと揺らした。
「更に、約五ポンドのヘロインの塊も」
 そもそものきっかけは、なんということもないただの垂れ込みだった。郊外の廃ビルで薬物取引がある、と。また数グラムのちゃちな取引だと思っていたのが、思いもかけぬ大手柄だ。
 ハイエルが遠ざかったのを見たアニタが、振り向いて首を傾げる。
「顔色良くないよ。どうかした?」
「……なんでもないよ。君の相棒は?」
 苦笑しながら藍は銃をホルダーに収め、アニタから防弾ベストを受け取った。
「裏にいる」
 話を逸らした藍に、わかったわかったというように微笑したアニタが軽く藍の肩を叩く。
 アニタとコンビを組んでいるダニー・ブラックは、ハイエル班の四人目だ。ハイエル達が裏に回るとちょうど彼が一九〇センチ近いその長身で以て、黒人系の男を威圧しているところだった。
 相手もかなり長身だが、地面に跪いているせいでせいぜいダニーの腰の位置に頭がくる程度だ。
「なあ、ブラック。これはマジに俺のじゃないんだって。俺はただの運び屋なんだよ。俺達ダチだろ……助けてくれってば……」
 煉瓦くらいの大きさに成型された白い粉の塊を机の上から取り、ダニーが手でざっとその重さを計る。そしてうんざりしたように首を横に振ると、傍にいた捜査官に向けて手を閃かせ犯人を連れていかせた。
「ボス」
 自分の方に歩いてくるハイエルにダニーが向き直る。
「これ全部、高級品っすよ。こんなの買う度胸もルートもあいつにはないっす」
 ハイエルは煙草に火を点けた。
「持ち主の名前は吐いたのか?」
 その問いには頭を振ってダニーが否定する。
「あいつは吐けませんよ。けど、あのブロックでヤクの供給元っていったらコリンズ家っしょ」
「この取引が掻っ攫われたのは予想外の事態だろうな。コリンズ家にきっと動きがあるはずだ」
 後ろに近付いてきていたアニタと藍にハイエルが目をやった。
「まずは撤収だ」
 アニタは素直に離れていったが、ダニーはやや逡巡してから再度その口を開いた。
「けど……さっきあいつが言ってたことなんすけど……」
 続けるよう、ハイエルが目で促す。
「なんかいいネタがあるって。近々、新型の武器のデカイ仕入れがあるはずだとかなんとか」
 ダニーの口振りには、それを信じていいのか迷っているような気配が滲んでいた。
「いつ? どこから?」
 藍は眉を顰めた。大量の武器の仕入れなどという情報は、下っ端の売人が簡単に耳にできるようなものではない。
「そこまでは知らないそうっす。奴が目にした見本てのは何挺かのサブマシンガンだったって言ってましたが」
 軽く肩を竦めたダニーの言葉に、藍とハイエルは目を見合わせた。ハイエルが軽く頷く。
「まずは情報の確認だ。もしそいつの話が本当なら、奴は恐らく生きて監獄に入れないぞ。気をつけてやれ」
「了解」
 頷いてダニーは離れていった。
 一瞬考えを巡らせた藍が口を開こうとした時、ハイエルが振り向いて藍を睨みながら先に釘を刺してくる。
「先月の心理評価書をまだ提出してないってのは覚えているだろうな?」
 ぎくりとし、藍は内心溜め息を漏らしながらも頷いた。
 しばらくこちらを睨んでから、ハイエルがまた口を開く。
「お前はそっちをきちんと済ませろ。カウンセラーのところで時間を無駄にするなよ」
「わかりました」
 そう藍は答え、ハイエルが遠ざかるのを待って息を吐き出した。月に一度の苦行がまた始まるのだ。