第一章


〝そもそも藍沐恩は、目の前で起きた実母の自殺の影響から抜け出せていない〟
 藍自身がどう思っているかに関係なく、誰もが絶えずそう指摘してきた。
 例えば藍の幼い頃から大人になるまでを見てきたカウンセラー達だ。担当が変わろうと変わるまいと、結果的に藍にとってはどの相手も同じようなものだった。
「A……ability(才能)……B……brave(勇敢な)……C……care(介護)……」
 口を噤み、藍は自分の前に座ってこちらを観察している男を眺めた。
 男が笑って手を上げ、続けるよう促す。藍はそのまま、脳裏に浮かぶ言葉を羅列し続けるしかなかった。
 ソファの肘掛けを指先でそっと規則的に叩きながら、部屋の中のあちこちに視線を彷徨わせる。
 このカウンセリングルームは、主人が変わったからといって変化することはなかった。深いコーヒー色の木製の書棚も、同じ色の事務机も、その上の書類と本すらもまるで変わっていないかのようだ。
 変わったのは恐らく、部屋の主だけなのだ。
「D……determination(決定)……E……effort(努力)……まだ続ける? このゲーム、俺が八歳の時からやってるから、そろそろ使える言葉がなくなりそうなんだけど」
 藍はなるべく軽い口調で、目の前の常にのんびりした空気を纏っている男に言った。男の笑顔は崩れない。
「もううんざりだと君が思うんなら、やめてくれていいよ」
 別に我慢しきれないと思ったわけではない。この手の遣り取りはもう常態化しているので、藍は微笑するに留めた。
「じゃあ、続けようか? スターク先生」
「ラン、これまでみたいにイアンと呼んでくれって言っただろ」
 イアン・スタークは、いつも親しみやすい口調を用いて話す。
「俺は今はプライベートじゃなく、仕事の時間だと思ってたんだけどな」
 腕時計を見下ろした藍は、軽く笑みを浮かべてみせて座り直した。この男の前で気を緩め過ぎたくはない。
「そういうことなら、君はさっさと帰るわけにはいかないはずだよ」
 一旦言葉を切ったイアンが藍をまっすぐに見つめる。
「君は仕事にはとても熱心だものね」
 むっとして藍は彼を睨んだが、早々に諦めてソファに背を預けた。
「はいはい、じゃ、続けようか、イアン」
 イアンの顔にまた笑みが浮かぶ。
「じゃ、仕事について話してみて」
「いつもどおり。特別なことはないよ。事件の内容については君とは話せないし」
 手だけはオーバーに広げてみせながら淡々と藍は答えた。
「なら、君の上司のことを話すのはどう?」
 イアンの態度は、まるで藍の反応を観察しているかのように見える。
「……イアン、わざとやってる?」
 藍は彼にきつい眼差しを投げた。
「それはどこを指して言ってるのかな?」
「わかってて訊いてるんだろ。以前、君にハイエルのことを話したのは、君が俺の友達だからで、俺のカウンセラーだからじゃない。なのに、君はなんで今、カウンセラー面でそれを俺に訊こうとするんだ?」
 肩を竦めたイアンが無邪気な表情を浮かべてみせるのに、眉を顰めた藍は、不信感を顔に滲ませる。
「けど、僕はもう知ってるんだよ。しかも僕は君のカウンセラーだ。まさか知らない振りをさせようって言うのかい?」
 かすかに溜め息を吐いて答えるイアンに、彼への不満を隠さず藍は言い返した。
「ビジネスライクに済ませられないのか? 俺は〝カウンセラー〟に何か話したことなんてないんだから、それを持ち出して質問なんかするなよな」
「医者だからとか友達だからとか関係なしに、僕は君を助けたいんだよ。知らない振りなんかできない」
 我慢強く、イアンが柔らかな口調を保つ。
「イアン、君が俺のことを友達だと思ってるなら、ヒューズの後任なんか志願すべきじゃなかった」
 苛立ちも露わに立ち上がった藍に、さすがのイアンも軽く眉を顰めてこちらを睨んだ。
「おい、その言い方は僕に不公平だろ。ヒューズの地位は僕の目標だった。それは君も知ってるじゃないか。お互いの利益が衝突する可能性を冒しても、僕が君のケースに首を突っ込むのは、僕達が友達だからだ。他の馬鹿に君を担当させるつもりなんかない」
「俺はそもそも助けなんか必要としてない。ヒューズは死ぬまでずっと俺のことを手放さなかった。彼のおかげで俺は一生、メアリーを死ぬほど心配させるんだ。料理していてうっかり指を切っただけでもだぞ。俺達の付き合いは長いよな。俺が自殺するような奴だと思うのかよ?」
 自分の不信感を訴えずにいられない一心で、藍はこの友人を見つめた。
「ラン、何事にも絶対はないよ。ヒューズの説には、君は賛同できないかも知れない。けれど、彼には彼の考えがあり、僕には僕の考えがある。君が自殺するだなんて、友人としては思ってないさ。けど、カウンセラーの立場としての僕は、君には誰かの助けを必要とする部分があると言わざるを得ない」
 藍は何も言えず、手を上げて降参のポーズを取ってみせた。イアン・スタークがどう言葉を続けるのか知りたかった。
 イアンも諦めたように肩を竦める。
「はいはい。ランは僕にこう言って欲しいんだろ。君の精神面はぐっちゃぐちゃだ。君はゲイで、パパに会ったことがないからファザコンで、だけどいつも相手にアタックしようとはしない。君は君の母親みたいになりたくないんだ。けどね、君達母子はそっくりだ。大人しく我慢するってのが癖になって……」
「もうたくさんだ!」
 イアンの台詞を藍は遮った。
「俺の母親はメアリーで、父親はケヴィンだ。実の母も父も覚えちゃいないし気にもしちゃいない。八年なんてのは今の俺の人生の三分の一にも満たないんだぞ。あんた達カウンセラーはいつもその時間を拡大解釈して、この先の俺の人生をややこしいものにしようとするんだ。問題は〝その八年が俺にとって全く重要じゃない〟ってことだろ。俺が気にしてるのはこの先の人生で、ケヴィンとメアリーのことだ。俺自身とっくに忘れてる実の両親のことなんか持ち出して、俺を攻撃しようだなんて二度と思うなよな」
 イアンは藍をまっすぐに見据えた。
「ラン、君の問題は、君がそれを認めようとしないところにあるんだ……」
「もう充分だって言っただろ」
 声を上げ、イアンの言葉を再び断ち切る。もうこの話を続けたくはなかった。
 ヒューズ・レイクは、藍の養父であるケヴィン・エイムスの古い友人で、亡くなるまでずっと藍のカウンセラーを務めていた。
 藍がエイムス家に養子に入ってから始まったカウンセリングは週に一度行われ、そのうち月一回になった。あとは成人しさえすれば、ヒューズに会いに行くのも終わりになると思っていたのだが、藍が警官を志し、FBIに入ったことでそうもいかなくなった。ヒューズは当時、FBIの心理アドバイザーの一人だったのだ。
 心理評価書にヒューズがサインしてFBIの審査をパスさせてくれた代償が、月に一度のカウンセリングの継続だった。感謝すべきだとわかっていても、今だにこの無意味な時間が続いていることを思うと不満は残る。
 深く息を吐いて、藍は心を落ち着かせた。別に友人に腹を立てたいわけではない。
「イアン、友達なら一筆書いてくれよ。もうカウンセリングは必要ないって証明を」
 イアンは溜め息を吐いた。
 ヒューズ・レイクに師事して七年になる彼は、ヒューズの弟子となったことをきっかけに藍と知り合い、以来友人となっている。レイク医師が病気で退職し亡くなる前にイアンに要求したのは〝藍沐恩を観察し続けること〟だった。
 藍に関するファイルには目を通したし、藍の幼い日々の状況も知っている。友達として七年付き合い続ければ、恩師が藍に対し偏見を持っていたということは認めざるを得なかった。
 藍に自殺傾向があるとはイアンは思っていない。藍の友人としても、一人のカウンセラーとしてもだ。藍が生きているという事実、それ自体が恩師の予測を否定する最高の証拠だからだ。
 ただ、藍沐恩には他にも問題があった。
「ラン、僕は君の友達だ。友人の古傷を抉るのが僕の趣味だとか思ってるわけじゃないよね? 君には助けが必要だってのを認めろよ。君自身だってはっきりわかってるだろ……」
 イアンの言葉が終わらないうちに、不意に藍の身体からけたたましい音が流れ出す。
「おい! 僕のカウンセリングルーム内では携帯禁止って知ってるだろ」
 即不満の声を上げたイアンを一瞥し、藍はポケットから携帯電話を引っ張り出した。こっちだって困っているのだ。
「メールだけだって。携帯切っとくとハイエルがうるさいのは知ってるだろ」
 諦めたようにイアンは口を噤んだ。藍のあの凶悪な上司のことは彼も無論知っている。イアンの所見では、最もカウンセラーを必要としているのはあの上司、レックス・ハイエルのはずだ。
 メールに目を走らせながら藍は眉を顰め、イアンに向けて携帯の液晶を閃かせた。
「悪い、行かなきゃ。アンバーアラートだ」
 顔色を変えることなくイアンが机の上のスケジュール帳を手に取り、ページをめくり始める。
「いいよ。来週水曜がまだ空いてる」
 藍は彼を睨んだ。
「イアン……」
「喧嘩はなしだ。これが仕事だってわかってるだろ」
 ぱっと腕を広げながらイアンが答えてみせる。
「好きにしろよ。もう行かないと」
 他にどうしようもない。藍は手を振り、身を翻して部屋から出た。さっさとこの場を離れたい一心だった。
 そのまま足早にエレベーターへと向かう。
 ここの大理石の床はいつも鏡のように光っていた。小さい時、ドアの前に座ってヒューズを待つことになるたびに、こっそりこの床に水を零してはたくさんの足跡を付けて遊んだのを藍はまだ覚えている。ある日、藍が帰ろうとした時に、一人の老婦人が雑巾を持ち大儀そうに腰を屈めて藍の足跡が付いた床を拭いているのを見て以来、二度とそんな真似はしなかったが。
 到着音とともにエレベーターのドアが開き、藍の追想は断ち切られた。
 降りようとする女性を儀礼的な笑顔で優先し、彼女がケージから出るや否やさっさと乗り込む。狭い空間にかすかに漂う香水の香りに眉を顰め、クローズボタンを押した。
 ドアが閉じる直前、閉まりかけていたドアを押さえ、身体を斜めにしてイアンがエレベーターに滑り込んでくる。
 内心やれやれと思いつつも、藍はそれを顔には出さないよう努力した。
「送っていくよ。仕事の時間は終わりだ」
 笑いながらイアンがクローズボタンを押す。
 ちらっと彼を見たきり藍が無言でいると、少ししてイアンが切り出した。
「ねえ、いつまで怒っているつもりなのさ?」
 エレベーター上部で点滅している階数表示を見つめながら藍は、もっと早く動けばいいのにとだけ願っていた。
「怒ってないよ。アンバーアラート発令だって、さっき言っただろ?」
「僕が言ってるのは、僕がヒューズの後任になってからのことだよ」
 やるせなげにイアンが藍を見やる。
「この三ヶ月ってもの、君が僕に会いに来たのはほんとに月一回だけなんだぞ」
 エレベーターを満たした沈黙は、長くは続かなかった。藍は溜め息を吐き、率直に認めた。