「――早瀬さん。老いってのはね、身体だけじゃなくて心からもすすんでいくんですよ」
今年の春から自分の下について働いてくれている新入社員の小鎌はなにかと厳しい。
「老いってひどいな……」
「本当のことです。ようやくスマホに変わったんだから気持ちも若々しくフレッシュにね!」
「はいはい」
「せっかくだから『アニパー』も登録しときましょ」
「『アニパー』?」
社員食堂で昼食をとりつつ、さっきから小鎌は俺のスマホを便利にしてくれている、らしい。
数ヶ月間ずっと『ガラケーはダサい』と責められ続けてきて、つい数時間前にとうとう機種変し、手もとにきたばかりのスマホなのだが、持ち主の俺はまだほとんど触れていなかった。
「『アニパー』ってなに? ゲームはたぶんやらないぞ」
「ゲームだけじゃないですよ、なんでもできるんです。情報収集も動画鑑賞もチャットも」
「へえ……」
「興味なさそうな返事するのやめてください」
ほら、と正面にいる小鎌が俺にスマホを傾けてくる。画面には『アニマルパーク』と大きなタイトルが表示されていて、下のほうにちょこまか動く動物たちもいた。
「この動物の絵柄可愛いでしょ?」
「ああ、まあ可愛い」
「このなかから好きな動物選んで、自分のアバターをつくっていろいろやるんですよ。俺も登録してるから一緒に遊びましょう」
「あばたー? 遊ぶのはいいけど、なんだかよくわからないな」
「アバターはユーザーの分身的なやつです。勉強がてら早瀬さんも自分でつくってみます?」
「小鎌やって」
「オッケーっす。早瀬さんってなんかあだ名ありますっけ?」
「あだ名? 大学のころはシンって呼ばれてたよ」
「んじゃそれで。えーとアバターはー……キツネでいいか。顔のパーツどうしよっかなー……いっそめちゃくちゃ格好よくしちゃいます?」
「普通でいいよ」
「いや、格好いいアバターつかってるいけ好かない野郎になりましょ」
「どういうことだよ……」
小鎌は食事しながら片手で悠々とスマホを操作し、クリーム色のキツネの顔をつくっていく。ちゃんとキツネらしいきりっとしたつり目と、ひかえめな口。瞳の色は茶色で、ほくろや傷や頬紅などの飾りはナシ。
「ま、こんなんでいっか」
小鎌センセイも満足したらしい。笑顔でスマホをさしだして「こうやるとキツネが動きますよ」とボタンを押しておじぎさせたり笑ったりさせて教えてくれる。可愛い。
「おじぎは大事なアクションです。もし万が一誰かに会ってチャットがうまくできなくても、これつかっておけばなんとかなりますから」
「チャット? うーん……まあわかったよ。困ったときはおじぎな」
「ええ。操作は自分で慣れるっきゃないんでたまに遊んでみてくださいね。早瀬さんも抵抗なく楽しめそうなら、そのうちテニスとかオセロとかして一緒に遊びましょ」
「オセロなら得意だよ」
「お、言いましたね。負けませんよ~?」
ふたりで笑いあってスマホを胸ポケットにしまい、食事を続けた。
つかいこなせそうにないスマホへ機種変させられたのは痛かったものの、言うなればこれも仕事の一環だ。歳の離れた新人と親睦を深めて、仕事を円滑にすすめていければいいなと思う。
小鎌もまだ教育は必要そうだが悪い奴じゃない。ほかの社員に迷惑をかけないよう注意しながら立派な社会人に育てていこう。
「まあ、じゃあ、スマホの勉強してみるよ」
「はい、ぜひぜひ」
しかし最近の若い子は本当に携帯電話の世界にとじこもるのが好きだなあ……。
「どうしてあなたはそんなに頑ななんですか、俺だってあなたに本気で惚れてるんですよっ。これから数年簡単に会えなくなるのに、冷たすぎませんか……?」
給湯室から洩れ聞こえてきた声に、囓っていたあんぱんをあぐっとつまらせてしまった。
時刻は夜九時。……残業で会社に残っているのは自分だけだと思っていたのに、どうやら深刻な場に遭遇してしまったっぽい。
「何度も言ってるじゃない。わたしは若くもないし独り身でもないの。あなたよりずっと歳上のおばさんで、バツイチで、おまけに中学生の子持ちなのよ、わかってる?」
「わかってくれないのは鈴恵さんでしょう? 鈴恵さんのことも、メイちゃんのことも、俺は愛してるんです。今後一切あなた以外の女性に惚れることはありません。本当はふたりに札幌まできてほしかった、一緒に」
「無理だって言ってるの。メイは学校があるんだってば」
近々異動する後輩の佐和と、経理課の田部さん、だよな。佐和が田部さんに惚れこんでいるのは知っていたが、なんというか……テレビドラマの世界だ。
「無理なのもわかってます。だから待っててほしいんです。俺が戻ってきたとき鈴恵さんに認めてもらえる男になっていたら結婚してください」
「まったく、こんなところで……」
「場所はまた改めますよっ、いまは俺の本気だけ受けとめてくださいって」
「充分よ」
他人のプロポーズを初めて聞いてしまった……と、ほうけていたら、給湯室のドアがあいた。
「あら、早瀬君いたの?」
「わ、早瀬さんっ」
ばれた。
「えっと……なんかごめん」
あんぱんを口からはずして謝罪したら、田部さんが苦笑した。
「謝る必要ないよ。ていうか知ってたでしょ、わたしたちのこと」
「ええ、一応……」
佐和本人から想いは聞かされていたので。
「早瀬君もこの子説得してよ。こんなおばさんとっとと諦めろって」
「鈴恵さんはおばさんなんかじゃありません、素敵な女性です」
「ほらもう、頭のおかしいことばっかり言うんだから、笑っちゃうでしょ?」
「おかしくありませんってばっ、俺の気持ちをばかにしないでください!」
イヌみたいに赤裸々に熱い愛をさらす佐和と、半分笑いながらいなす田部さんは、本当にテレビドラマの登場人物のごとく輝いて見えた。あと数話ぶんの時間を過ごせば、必ずハッピーでコミカルなエンディングに到達するような、そんな。
「なんていうか……ふたりの感じ、いいなあと思った」
俺の素直な感想は、間抜けな傍観者の呟きみたいに響いた。傍観者というか、ドラマの視聴者か。
「やめてよ」
田部さんがまた苦笑いして、佐和は満面の笑顔でガッツポーズをする。
「よっしゃ、早瀬さんも認めてくれましたよ。結婚式は早瀬さんに仲人お願いしましょうね」
「なに言ってんの」
「もっと若くて可愛い女の子探しなさい」と素っ気なく言い残し、田部さんが右手をひらひらふってオフィスのほうへ去っていく。佐和も「待ってくださいっ」と追いかけていった。
食べかけのあんぱん片手にひとりとり残されて佇む自分だけが、冴えない脇役じみていた。
かつて孤独な老人がそっと息をひきとった、といういわくつきの我が家へ、今夜もようやく帰宅した。スーツを脱ぎ捨ててシャワーを浴びると、買ってきたコンビニ弁当をあけて食べる。今日は夏らしくさっぱりしたとろろそば。味は申しぶんないが、夏場は体力が心配だから明日は小鎌を誘って栄養のつくものでも食べにいこうかな。
テレビをつけて、好みじゃないバラエティ番組にげんなりしつつチャンネルをかえた結果、いつもどおりニュースにあわせる。男性アナウンサーの低い声で暗い世界情勢を聞いていると、次第に気分まで沈んでいく。ここには明るいものがない。
そばをずるずるすすりながら、ふとスマホの存在を思い出した。そういえば数日前機種変して以降、電話とメールしかつかっていなかった。
小鎌が入れてくれたアプリも全然触ってないな、と鞄からひっぱりだしてきて眺めてみる。
ん? このやたらファンシーで可愛いアイコンは……ああ、『アニパー』だったっけ。
スマホの勉強するって約束したしなあ、と起動してぼんやり見ていたら、きりっと賢そうなクリーム色のキツネが現れた。アバターは分身だと小鎌が教えてくれたけれど、それにしては格好よすぎる。
オセロしたいな、となんとなしにメニュー画面や遊びかたを確認してみてもよくわからない。おまけに、小鎌に〝大事だ〟と躾けられていたおじぎのボタンがなくなっている。
んー……? と困ってヘルプを検索し、あちこち押していると、突然シンが歩きだして外の庭へいってしまった。そこでいきなり『あなたも自分の畑をつくりましょう!』と表示されて、〝ここをクリック〟という矢印のナビにあわあわ従っているうちに、庭に小さな野菜畑まで完成した。この野菜を素材にして毎日ジュースを作っていくと洋服がもらえる、とのこと。
えらい世界へ迷いこんでしまった。
ナビが〝作ったジュースを納品してこい〟というので、観念して続けて移動してみる。きりかわった画面には華やかな町の納品所が表示され、受付にウマがいた。シンを誘導すると、どうぞ、てなふうにジュースを渡す。で、ぽんぽんコインがあふれてきて報酬がもらえた。
……うん、まあ可愛いは可愛いけども、おじぎができないのは問題だ。どうしよう。
周囲にはさまざまな色と種類の動物たちが集まっていて、ちゃんとおじぎの動作をしている動物もいる。やっぱりシンになんらかのエラーがでているのか……?
スマホ画面の下方には文字入力欄があるから、たぶんここに言葉を入れて送信すれば話しかけられるんだろうが、どうする。解決策を訊いてみるか。それとも明日小鎌に頼んでなおしてもらうか。
つけっぱなしにしていたニュース番組は、明日の天気予報のコーナーにかわっていた。
窓の外にはセミだけが鳴いている虚しい夜がひろがっていて、街の灯も遠く薄暗い。
さっき会社で見た佐和と田部さんの姿が脳裏を掠めた。シンは俺に背中をむけて、人ごみのなかでうつむきがちにぽつんとつっ立っている。……おまえも俺と似てひとりぼっちなんだな。まわりのみんなはお洒落をしているのに見窄らしいTシャツと短パン姿で、なんだかごめんな。やけに淋しげで、裸足で放りだされた捨て子みたいで罪悪感まで湧いてくるよ。分身ってこういうことなのかな。
ふいに、麦わら帽子をかぶった白いネコが、ぱっと現れた。受付へとんとん歩いていって、ウマにジュースを渡している。桃色や黄緑の奇抜な色をしている動物たちと違い、ごく普通の白いネコは目にも心にもすんなりなじんだ。
――『こんばんは、すみません』
声をかけてみると、ふりむいた白ネコは黒いつぶらな愛らしい目をしていた。左目の下には泣きぼくろ。可愛いな、この子。
――『こんばんは、初めまして』
あ、こたえてくれた。心臓が波うって、ちょっと愉快な気分になった。
本名も実際の外見もなにも知らないが、これもある種の出会いなのかもしれない。
脇役の自分がいまさらドラマの主人公になれるとは思わない。でもひとつぐらい新しい扉をひらいてみてもいいだろうか。スマホ画面のなかの、こんな小さな世界の扉ぐらい。
――『初めまして。ぼく初心者なんですけど――』