新さんと一緒に夕飯を作っていたら、ピンポンとチャイムが鳴った。
「ごめん日向、でてくれる?」
「うん、大丈夫だよ」
野菜炒めを皿に盛ってくれている新さんに笑顔を返して、そばのインターフォンにでた。
「はい、どちらさまですか?」
てか、こんな時間に来客ってなんだろう。
『俺』
インターフォンの画面に見知った顔がうつる。にやっとカメラ目線で笑っている。
「新さん、〝俺〟って人がきた」
「あー……しょうがないからあげていいよ」
俺も、ん~と唸って、新さんの言葉どおり「しょうがないからどうぞ」とエントランスのロックをあけた。
『しょうがないってなんだよ』
文句を洩らした彼は、画面から消えるとやがてエレベーターをあがって部屋の前まできた。もう一度チャイムが鳴って、今度は新さんが「俺がいくよ」と言うから背後についていく。
「よう、こんばんは。きてやったぞ」
会社帰りらしく、スーツ姿でやってきたのはタナこと棚橋さんだ。妙に態度がでかい。
「なんだよ〝きてやった〟って」
新さんも呆れながら招き入れる。
「引越祝い持ってきたんだよ。みんなでワイン呑もうぜ」
「日向はまだ未成年だよ」
「いいだろ一年ごまかすぐらい」
「駄目。日向にはそういうことさせません」
「セックスはしてるくせに」
「おまえさ……」
うしろからついてくる棚橋さんを、俺も新さんと一緒に睨んだら、にやけた顔をした彼に「ほれ」と尻をぺろっと撫でられた。
「わあっ」
「棚橋」
足をとめた新さんが棚橋さんの左肩を押さえてむかいあい、じっと見つめて時間をとめる。
「――やめろ」
そして十秒ぐらいたっぷり威圧したあとに、ひとことだけ言った。
「へいへい」
ぱ、と手を離した新さんが、今度は俺の腰を抱いてしっかり守ってくれつつ部屋へむかう。
しかし新さんに本気で怒られたところで棚橋さんはてんで反省しないし、このふたりのバランスって相変わらず不思議だ。
「俺たちいまから夕飯だったんだよ」
「俺も食う」
「わかってる。でもふたりぶんしか作ってないからおまえは俺のつまめ」
「うい。ほんじゃ俺はこっち用意しとくわ」
棚橋さんがリビングのソファでワインをあけてチーズをならべているあいだに、俺と新さんは料理とグラスをテーブルに運んだ。それで全部そろうと、棚橋さんのむかいに新さんと俺が座って三人でささやかな引っ越しパーティが始まった。
棚橋さんと新さんは合図もなしに、息ぴったりにグラスをかつんと鳴らしてワインを呑む。
「本当は引っ越したあとすぐきてやるつもりだったんだけどな」
棚橋さんが言う。
「一生こなくてもよかったんだぞ」
しれっと拒絶した新さんに棚橋さんが「おい」とつっこむと、俺は笑ってしまった。
新さんと同棲を始めてもうすぐ一ヶ月経つ。棚橋さんと会うのは今日で二度目だ。一度目は新さんのお店で偶然鉢あわせした日。新さんは俺と棚橋さんを会わせないよう注意をはらってくれていた反面、どうせいずれ会うだろうと予想してもいたようで、あのとき『……はやかったな』と不満げに洩らしていた。
新さんが危機感を抱くとおり、棚橋さんは俺を子ども扱いしてものすごくからかってくる。
最初に会った日も『可愛いなあ日向ちゃん、本当にちんちんついてるのか?』『俺もまじで男前だろ、一晩ぐらい相手してやってもいいんだぜ』とむっちゃセクハラされて不愉快だった。
『お調子者なんだよ』と新さんも口では穏やかになだめてくれるものの、セクハラ行為に関しては内心ぶちギレている気がする。
「この夕飯、新が作ったのか?」
「いまは日向とふたりで料理してるよ」
「おまえが料理とか……恋は人を変えるんですかね~?」
「そうだね」
「フツーに認めるんじゃねえ、こっちが恥ずかしいわ」
俺が味つけして、新さんが炒めてくれた野菜炒め。それを俺も頬張っていたら、棚橋さんが「こいつ昔は料理なんてしなかったんだぞ」と目配せしてきた。
「ひとり暮らしする前は新も寮にいて、毎っ晩一緒に呑んでたんだ。当時はクソみたいな上司ばっかりだったけど仕事ももっと楽しかったなあ……」
棚橋さんが幸せそうにしみじみ微笑む。あれ、この人こんな無防備な顔もするんだ。
「毎晩お酒?」
訊きながらふたりを見やると、新さんも苦笑した。
「うん。外食する日もあったけどね。だいたい弁当とつまみ買って帰って、部屋でふたりで呑みながら愚痴と夢語って青春してたんだよ」
「社会人でも青春?」
新さんが「そう」とうなずくと、棚橋さんも「俺は学生時代より楽しかった」と言い切った。
「社会人になると自分で金稼げるから、成果がかたちで返ってきてやりがいがある」
「棚橋は特別商才があるんだよ。給料があがらないまま働き続けてる社員のほうが多いんだから」
「違う、いつも言ってるだろ? そいつらは無能なんだよ。会社は能力のある人間をちゃんと評価する。だから佐和だって札幌にいったし、おまえもいま店のこと好きにやらせてもらってるんじゃないか。カフェの計画も順調にすすんでるって聞いてるぞ」
「まあな」
「やる気のない奴は安月給のまま死ぬまで下でくすぶってる。当然の結果だ」
「怖いな」
「すましてんじゃねえ、おまえも選ばれた人間だろうが」
棚橋さんの物言いは厳しいものの、新さんも笑顔で話を聞いて相づちを打っている。ワインを揺らして笑いあうふたりの大人はなんだかとても格好よかった。
「……会社の仕事の大変さとか楽しさとか俺にはまだ難しいけど、棚橋さんいきいきしてるね。新さんの『商才がある』って言葉うなずける。勉強でも楽しんでる奴ってやっぱ強いし」
「ひなちゃんは勉強楽しくないのか?」
「楽しいのと楽しくないのがあるよ」
「ははー、おまえが楽しいのは保健体育だな?」
またセクハラ! と憤慨したら、俺が反論するより先に新さんがなだめるみたいなしぐさで俺の後頭部の髪を撫でてくれた。
「それは俺とふたりだけの大事な授業だよね」
微笑みかけられて、心臓が砕ける。……うん、もう、うん……はい……。
「いちゃつくんじゃねえ」
棚橋さんがワインのコルクを投げてきた。いて。
「やめろ棚橋。同棲カップルの家に押しかけてきたのはおまえなんだから辛抱しろ」
「甘ったるいおまえ見てるとうげーってなんだよ」
「我慢できないならこないこと。ここは男子寮じゃなくて俺と日向の家だからね」
「……けっ、虫ずが走るわ」
棚橋さんがワインを呑み干す。と、笑った新さんがボトルをとって注ぎ足してあげる。棚橋さんもグラスを傾けて普通に受け容れる。そのふたりの鮮やかなリズムに一瞬ほうけた。
なんだろう。これって大人になるとあたりまえに身につく所作なのかな? うーん……でもなんか、そうじゃないふたりだけのリズムみたいに感じられる。仲が悪いんだかいいんだか。
「おまえ今夜はここで寝ろよ、毛布貸してやるから」
新さんが囁くような声で続けて、棚橋さんも「ああ」とこたえた。
「え、棚橋さん泊まるの?」
びっくりした。そんな話、一度もでてなかったから。
「ずいぶん嫌そうに言ってくれるなあ、ひなちゃんよ」
「嫌じゃないよ、驚いただけ。棚橋さんがくるとそれって泊まるって意味なの?」
「ううん、今日は泊まるんだよ」と、新さんがこれまた当然のことのように言う。
「え、メールで〝泊まるよ〟って先に連絡もらってたとか?」
「いや、ないけど」
「えぇっ?」
どのタイミングで新さんが〝棚橋はうちに泊まる〟って察したのかまったくわからない。
リビングの窓辺にあるソファの、この夜空のすぐそばで、ふたりはまたワインを呑んでくすくす笑っている。俺はやっぱりふたりのバランスや関係に、形容しがたい絆みたいなものを感じずにはいられない……。
俺だけ最後まで野菜ジュースを飲んでパーティが終わった。
棚橋さんが酔っ払ってリビングのソファで眠ってしまうと、新さんに誘われて一緒に風呂へ入ってから、俺たちもベッドで横になった。
「……今日会社でね、棚橋は苛々することがあったんだよ」
むかいあっておたがいの腰に腕をまわし、俺の額にキスをしたあと、新さんがやっと教えてくれた。
「苛々?」
「そう。そういうとき昔から〝助けて〟って感じで、あいつ、俺のうちにくるんだ。それで酒呑んで泊まっていくの」
もちろんあいつは助けてなんて口じゃ言わないけどね、と新さんがやわらかく苦笑する。
「それ、ふたりして黙っててもわかるんだ」
「長いつきあいってやつかな」
「そっか……」
新さんの左手が、俺の前髪を撫で梳いてくれる。
「ひなと恋人になってから自覚し始めたんだけど、たぶん棚橋は誰かと恋愛をしたとしても、精神的な面で俺に抱かれてないと生きていけない一部分があるんだよ」
灯りを消したベッドのなかで新さんの瞳は綺麗で、髪はシャンプーのいい香りがして、絡みあう腕と脚は風呂あがりで温かい。両腕を新さんの背中までまわして彼の胸に顔を押しつけ、俺はさらに強く抱きついた。
「……そんなの、嫉妬するっ」
インターフォン越しの『俺』っていう不躾なひとことでやってきた瞬間から、新さんは相手が棚橋さんだってわかってしまっていた。対応したのは俺で、画面の顔も見ていなかったのに。
会社でなにがあったのかはわからない。ていうか新さんは会社じゃなくて一日中お店にいるはずで、どうやって棚橋さんの〝苛々すること〟を知ったのかだって謎すぎる。いっそテレパシーで繋がっているんだって言われても納得してしまいそうな勢いだった。そんな信頼、狡すぎる。
「嫉妬してくれるの?」
新さんが俺の額のあたりで笑っている。
「嬉しいけど、俺が愛してるのは日向なのにな」
甘い言葉もさらっとくれる。
「……うん、俺も新さんのこと愛してる、けど狡い」
ぼそぼそ不満を洩らしたら、新さんに腕を掴まれて強引に体勢をかえられ、組み敷かれた。自分の上にきた彼に目を覗かれて、顔を隠せなくなる。
「愛を語りたいなら〝けど〟は言っちゃ駄目だよ」
優しい笑顔で叱られた。格好よくて、どきどきさせられっぱなしで、本当にとっても狡い。
「……新さんのこと、愛してる」
「うん、いい子」
ご褒美は頬と口へのキス。上唇を食んで吸ったあと、下唇もおなじようにふんわり吸われた。ひとまとめに唇を食べられた次には、どんどん深くなって奥まで支配されていく。
「ひなも忍君と言葉のいらない関係なんじゃないの?」
「ぇ……や、俺らはそんなことないよ。高校がべつの学校になるってときもあっさり別れたし、忍には忍の友だち関係があって、俺もそうで、そのなかにおたがいがいるって感じだもん」
「ほら、それが信頼じゃない?」
「え。んー……新さんと棚橋さんみたいのじゃなくて、単純に冷めてるんだよ。だいたい忍は直央のことっきゃ見てないし」
「そうかねえ」
「そ」
「もしひなに心で繋がってる男がいたら俺は全力で嫉妬するから、ひとまず安心しとこうか」
笑いながら左目の泣きぼくろを甘噛みされた。全力の嫉妬……。
「ありがとう新さん、大好き」
「俺も大好きだよひな」
「でも俺いま棚橋さんに全力嫉妬してるからね」
「あら」
「精神的に抱いてるって、そんなのひきはがせないじゃんっ」
ははっ、と心底おかしそうに笑われた。
「単なる比喩表現だよ」
「えーもう、それむっちゃ悔しいよ、比喩でももっとべつのにしてほしかったっ……」
本気で嘆いているのに、新さんは笑い続けながら俺の額を右手で撫でて、キスをして、口の端や頬まで舐めたり吸ったりしてじゃれている。喜んでくれているってわかるけどもやもやする。
「精神で抱くって最強すぎてかなわない……」
「そう? ……俺はこうやって心でも掌でも抱いてるほうが最強だと思うけどな」
耳もとで小さく笑った新さんが、俺の首筋を強く吸って赤い痕をつける。
俺の全部を抱いてくれているのは日向だけなんだよ、と、小さく告白もくれた。
しょうがないな……、と息をついて新さんの身体をきちんと抱きしめる。明日起きたら棚橋さんに苦いコーヒーをいれてやろう。それでパンを焼いて三人で朝ご飯を食べる。想像する情景はふたりのときよりもっとにぎやかな食卓で、ちょっと悔しくて、でも楽しみにも思えた。