ねこのて
「――……俺、ハナです。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんとかずとが飼ってくれていた、ハナ」
お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、かずと、と呼ぶ彼の声は、誤って砂糖を多めに入れてしまった甘い紅茶みたいにまろやかで優しかった。
「去年までここにいて、黒猫で、十八年生きてた。……恩返しにきたんだよ」
切れ切れに、いかにも説明めいた物言いでハナに関するキーワードを並べてから、すっとその大きな瞳をあげて俺を見つめてくる。
嘘を言うにしてはこの瞳の輝きは強すぎて、それに妙に堂々としている。
ハナの体毛に似た黒くて細い前髪が夜風にさらさらながされて浮いていた。
薄い眉毛と、長い睫毛。白くてつるりとした頬。
小さすぎて、こっちが見おろす格好になる身長もハナを想わせる。
紺色のダッフルコート、リュック、ぼろのスニーカー。
「……とりあえず入って」
玄関の鍵をあけてドアをひらき、彼を部屋のなかへうながした。
家の外でおかしな会話をしていてアパートのほかの住人に聞かれたら厄介だし、金曜の今夜は一週間の疲れもたまっている。
「はい」
靴を脱いでなかへ一歩入ると、彼は狭い廊下の左横へよけて俺が靴を脱ぐのを待った。うつむき加減に俺の足もとを見おろして、従順に突っ立っている。
ため息をこぼしてリビングへすすんでいくとうしろをついてきた。かまわず部屋の灯りをつけて、ソファに自分の鞄を置いてふりむく。
「……で、きみ年齢は?」
足をとめた彼が、また俺を見あげてくる。
「二十歳です」
十八年生きていたハナは去年亡くなった。野良猫だったハナの実際の年齢や誕生日は判然としないが、二十歳でも納得はいく。とはいえ猫の年齢で言えば立派な老人だった。
それに、この黒い髪をした頭のてっぺんからダッフルコートの細い胴のラインと小さな足……人間だとしても二十歳より幼く見える。
じいちゃんとばあちゃんの家の近所に、こんな子ども住んでいただろうか。
「……そのリュックの中身は?」
両手で握りしめているリュックを顎でしめすと、はたと我に返ったように持ちあげた。
「あっ、と、えっと……たいしたもの、入ってないよ」
「あけて見せて」
唇をひき結んで俺とリュックを交互に見つめ、リュックのチャックをひっぱる。
口を大きくひらくと、ずいとこっちへむけてきた。
「……ハンカチと、ガム?」
水色のタオルハンカチと眠気覚ましの刺激のあるミントガムが入っている。
大きなリュックにたったこれだけ。
……タオルはともかく、ハナがミントガム。
彼の目をじっと凝視すると、唇をさらに強く結んで顎にしわを寄せた。
けれど表情には一切動揺の色を覗かせず真剣に俺を捉えている。
「どこからきたの」
こく、と小さな喉仏を上下させて、瞳を凜々しくきらめかせた。
「天国」
きっぱりと淀みなく言う。
態度があまりに昂然としているものだから、腹の底にたしかに怒りや呆れもあるというのに湧きあがる前に意気を失ってしまう。
「恩返しってなに」
まっすぐ意志的な瞳に、さらに光を宿して彼は毅然と唇をひらく。
「かずとは俺を最期まで幸せにしてくれたから。ここに戻ってこられた俺がしたいのは、最期まで、俺もかずとを幸せにすること。それだけなんだよ」
……最期まで幸せにした。俺が。ハナを。
「幸せだったって言うのか。俺といて」
「幸せだった」
ぞっとするほどはっきり断言する声は、真新しい刃のように鋭利で激しかった。
――……ハナ、辛いか? おまえは本当はどう思ってる? ……この手で、消えたいって思ったりしているのか。こんな痛みが続くぐらいなら、生きているほうが辛いって……おまえは思うのかな。でもおまえに消えたいって言われても俺は……俺は、
両掌に、ハナの毛並みの感触が蘇ってきて目の奥が急激に痛んだ。
最期の一週間、ハナの身体を覆う黒い毛は艶を失って掌に掠れてひっかかった。それでもどうにか生気を戻してくれないかとくり返し撫でながら語りかけ続けた。
どうしたらいい、と。どうしてほしい、と。
だけど結局俺は、自分のために、おまえが一秒でも長く自分の傍にいて生きていてくれることを願い、実行してしまった。
強烈すぎる彼の瞳の輝きに耐えきれず、大きく息を吐きながら視線をはずした。
前髪を掻きあげて、掻きまわす。
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