ダリアカフェ

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陽だまりに吹く風著:吉原理恵子

  ■□ プロローグ □■

 午後七時。
 華やかなイルミネーションに彩られた夜景を眼下に一望できるスカイラウンジがウリの、シティー・ホテル。
 最上階にあるフレンチ・レストランはドレス・コードありの、シックで落ち着いた雰囲気の高級店である。
 フロアを行き交うボーイの身だしなみも立ち振る舞いも洗練されており、厳選された食材と熟練した一流シェフの感性によってテーブルを飾る料理は、自ずと客を選ぶ。金銭面でも、マナーでも。さすがに、年齢制限だけは除外されているようだったが。
 それでも。この『エウローザ』は、ディナーの予約は最低でも一ヶ月待ちなど珍しくもないほどの人気店であった。
 そんな高級レストランで、月に一度、彼は女と二人でテーブルを囲む。
「ねぇ、ジュリアン。あなた、幾つになったのかしら?」
 普段は滅多に意識したことのないミドルネームで当て付けがましく彼を呼ぶのは、目の前の女だけだ。
 初めてその名前で呼ばれたとき、
『それって、いったい誰のこと?』
 一瞬、ポカンと目を瞠ったことを覚えている。
 戸籍上は、確かに、きちんと明記されているが。日常生活ではそんなものは必要ではなかったし、自分の持ち物にフルネームで書く名前はもちろん漢字だけで、誰も彼をそんな名前で呼んだことはない。
 そんな彼のリアクションがよほどおかしかったのか、それとも、笑いのツボにハマるほどお気に召したのか。女は、高らかに声を上げて笑った。
 後にも先にも、女がそんなふうに笑ったのを見たのはそのとき限りだ。
 だから、だろうか。出会ったときから、女はその名前でしか彼を呼ばない。
 違和感と。
 不快感と。
 ――忍耐力。
 最初は、どうにも顔が強ばったが。今では、その名前で呼ばれることの嫌悪感にも慣れた。
 慣れることへの抵抗感がなかったといえば嘘になるが、それ以外、彼の選択肢はなかった。女には、彼をそれ以外の名前で呼ぶ意志がなかったからだ。
 舐められている。
 オモチャにされている。
 その――不愉快さ。
 けれども、彼は、女の押し付けがましさに慣れるしかなかった。
「十五歳ですけど」
「あら。もう、そんな?」
 ワイングラスを優雅に傾け、
「月日が過ぎるのって、ほんとに早いわねぇ。歳を取るはずだわ」
 リップグロスのテカる肉厚の唇で大仰に驚いてみせる仕種はいかにも芝居じみていて――滑稽だ。
 むろん。顔には出さないだけで彼がそう思っていることなど、女にはお見通しだろう。
 なにしろ、人生の経験値が違う。
 女の年齢をハッキリと聞いたことはないが、単純計算しても、彼の三倍くらいにはなるだろう。そうは見えない張りのある若々しさと美貌にどれほどの金と時間を注ぎ込んでいるのか、それは彼の知るところではなかったが。
「だったら、高校受験ね」
「はい」
「志望校は決まっているの?」
「いろいろ考えています」
 彼の口調に淀みはない。
「そう……。高校はやはり、その先を見据えて慎重に選ばなくてはダメよ?」
「――はい」
「三年間なんて、アッという間ですもの。有意義に使わなくてはね。フラフラよそ見をしている暇はないわ」
 彼は返事をする代わりに小分けしたステーキを静かに頬ばり、そのレアな舌触りをゆっくりと味わう。
 物を食べているときだけは、無駄口を回避できるからだ。
 視線を合わせる必然性もない。
 無理に愛想笑いを浮かべなくても、料理が美味ければ自然と笑みがこぼれ落ちてくる。
 適度なおしゃべりと熟成したワインは料理の旨味を引き出すエッセンス――かもしれないが。彼にとっての一番は、程よい沈黙であった。そうすれば、純粋に食事だけを楽しむことができる。
 よけいな蘊蓄はいらない。
 ゆったり、と。
 しなやか、に。
 あくまでも品良く。
 ――堪能する。
 もしかしたら、彼の食事マナーは、束の間の沈黙によって磨かれているのかもしれない。だとしたら、皮肉という以外にないが。
 女は、話の腰を折られても眉ひとつひそめはしなかった。ただ、唇の端をほんのわずか吊り上げただけで。
 そうして。彼がミネラルウォーターのグラスに手を伸ばすのを待ち構えていたように、
「次に逢うときには、志望校くらいは聞かせてもらえるのかしら?」
 それを口にした。
「――たぶん」
 明言を避けて、彼はグラスを傾ける。
「……そう。楽しみね」
 白々しいほどニッコリと、女は極上の笑みを浮かべる。
 そういうとき、彼は、自分の視界が少しずつ狭まっていくような閉塞感を覚える。
 とりあえず会話はあるが、中身はない。
 こういうのを『茶番』というのではないのか?
 こんな息苦しくて寒々しいだけの会食に何の意味があるのか、彼は知らない。
 いや――知りたくもない。
 月イチの食事にあえて何かの意義を見いだそうとするなら、
『月替わりで高級フランス料理がタダで食べられる』
 それに尽きる。
 バカバカしいと思うようなことでも、慣れてしまえばずいぶんマシになる。
 とにもかくにも、未成年である彼には女の退屈しのぎに付き合う義務がある。それが、日々の平穏を掻き乱されないための唯一の条件だからだ。

   ◆◇◆

 弥生――三月。
 冬の寒さが綻びて、ようやく暖かな風が吹いても。冷たい大地の中から虫が這い出し、可憐な花芽が顔を覗かせても。まだ、ふとんの温もりが恋しい――春暁。
 かの清少納言は、
『春の夜明けは格別の情趣がある』
 そう、宣ったそうだが。十五歳の春は、謂わば人生最初にして最大のイベント――受験闘争の真っ只中。

   ◆◇◆

 コン、コン、コン。
 ドアは、律儀にノックされる。
 別に、慌てて隠さなければならないモノは何もないのだが。
 彼女には、そこは彼のテリトリーだという認識があるのだろう。それでも、返事を待たずにドアを開けて中に入ってくるのはいつものことだったが。
「……ねぇ」
 ココアを入れたマグカップと卵サンドをのせたトレイを机の端に置いて、彼女はおもむろに切り出す。
「――なに?」
「先生も言ってたけど、やっぱり、私立も受験してみたら?」
「いいよ。別に、公立一本で」
 先日の三者面談を終えてから、いずれ、彼女の口からその話が出るのも時間の問題だと思っていたので、彼は素っ気なく返事をする。
「でも……」
「行く気もないのに滑り止め目当てで受験したって、意味ねーよ」
 変に意固地になっているのではなく、彼的には本気でそう思っているのだが……。
 今どきの高校受験の常識は、きちんと滑り止めの保険をかけておくのが鉄則である。
 子どもを中学浪人にさせたくないのは親も教師も同じである。本音の部分では、その理由に大きなギャップがあるかもしれないが。
 どうしてもその高校でなければならない事情があれば、公立との併願ではなく私立一本に絞った専願受験という手もある。受かるかどうかは、別にして。
 ――が、それには様々な意味でたいそうな金がかかる。
 我が家の経済状態を思えば、高望みをせず……今は特別にやりたいことがあるわけではないので、とりあえずごく普通に公立一本でいいのではないかと思っている。

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