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陽だまりに吹く風著:吉原理恵子

 そんなものが、現実にあるとは思わなかった。
 ある日、突然、それが目の前に落ちてきたときの……衝撃。
 語るべき言葉を見つけたときの、興奮。
 そして。理解されることの――喜び。
 中学時代の三年間で、彼は、その稀少な存在を手放せなくなってしまった。
「――わかったな」
 恫喝のこもった低い声で一言漏らすと、男は、それで用が済んだとばかりにソファーから立ち上がった。
「いいかげん、目を覚ませ。くだらんダダをこね回すな。見苦しい」
 それだけ言い捨てると、男はさっさと部屋を出て行った。
 男が彼の視界から消え失せてしまうと、それだけで室内の空気がずいぶんと軽くなったような気がした。それがただの錯覚ではないことを、彼は否応なく実感する。
 そうして。その体感温度の差が、取りも直さず自分と男の埋めがたい亀裂であることを再確認して、彼はほんの少しだけ唇を噛んだ。

   ◆◇◆

 桜は見事に咲くのか。
 無惨に散る……のか。
 岐路に立つ選択肢は様々あるが、同じ条件での勝敗は白か黒かの二者択一である。笑う者がいれば、その裏で泣く者がいる。
 予定された『シナリオ』も決まりきった『セオリー』もないのが人生の醍醐味であり王道である。そこに『絶対』の確約はない。

   ◆◇◆

 最後の最後まで、彼は高校受験の本命をどこにするか……迷っていた。
 二人の親友は、迷う素振りも見せずにさっさと志望校を決めてしまったようだが。彼は、今ひとつ本命を絞り込めずにいた。
 なにしろ。中三の一学期が終わるまでめいっぱい部活をやって、夏休みになってようやく本格的な受験勉強モードに入ったのだ。
 そこで、いきなり、
『さぁ、どこだ?』
 ――とか言われても、なかなかスイッチが入らない。
 ONとOFF。
 集中力とリラックス。
 気持ちの切り替えが早いのが彼の身上であったはずなのに、ずっと打ち込んできた部活もついに終わってしまったと思ったら、なんだかやる気も一緒に削がれてしまった。
『燃え尽きるには早すぎるだろ、自分ッ!』
 わかっているのに……。
『これからが本番だぞッ!』
 スタートラインでの仕切り直しで躓いている。
 マズイ。
 ヤバイ。
 ――どうしよう。
 気ばかり焦って、空回りをしている気分。
 だいたい、今、自分がどの程度の学力レベルにいるのかも……わからない。そのせいか、
「部活も終わったんだから、夏休みは塾の夏期講習に行って受験勉強に集中しなさい」
 学期末の成績表を見た親は、やたら口うるさい。
 それを愚痴ると、友人たちは、
「家で、ダラダラしてるよりもいいんじゃねー?」
「まぁ、メリハリはつくかもな」
「自分でシコシコやるより、おまえは目の前にライバルっていう仮想敵があった方が燃えるんじゃねーか?」
「……かもな。とりあえず、自分より上の席次の奴を蹴り落としていくっていうゲームだと思えばいいし」
「ありがたく、夏期講習に行かせてもらえ」
「選択の余地があるほど余裕ねーだろ、おまえ」
 言いたい放題吐きまくってくれた。
 夏期講習に行けと人の尻をバシバシ叩きまくる二人が塾通いをしているかというとまったくそうではないから、よけいにムカツク。余裕のないのが自分だけのような気がして。実際、そうなのかもしれないが……。
「おまえら、なんでそんなにあっさり決めちまえるわけ?」
 ついには、本音が飛び出す。
「まぁ、しいて挙げれば消去法?」
「はぁ?」
「選択肢でダメそうなトコから潰していって、残った中から最良の一番を取っただけ」
 しごくあっさりとそれを口にする友人は、母子家庭だ。
 こいつがなんでもないことのようにそれを言うと、自分がいかに恵まれているか――今更のように痛感せずにはいられない。
 しかし。
「俺は、今になってもまだフラフラしてるおまえの優柔不断に呆れ返る」
 もう一人の片割れにそれを言われると、妙に腹が立つのは……なぜだろう。
 本当のことしか言わないからか?
 それとも。自分が思っていることを、見透かされているような気分になるからか?
「俺たちよりもおまえの方が、行きたい方向性がバッチリ決まってると思ってたんだけど?」
「ぶっちゃけ、部活絡みで本命とか……ないわけ?」
「推薦もらえるほどの実績、残してないからなぁ」
 いいとこ、地区大会三位止まりの現実は厳しい。中体連の県代表とかになれば、それこそあいつのように引く手あまたかもしれないが。
「けど、行きたいところはあるんだろ?」
「んー……たぶん、無理」
「なんで?」
「実力が違いすぎる」
「頭の偏差値が? それとも、部活のレベルが?」
 遠慮もなくズバズバと切り込んでくるそいつがまともに高校受験をする気になったというだけで、周囲はブッたまげ――だった。
 行ける高校、あるのかよ?
 内申書、最悪だろ?
 それって……どこだよ?
 だが。彼に言わせれば、そいつの中で何かのケジメが付いてようやく本気モードになっただけ――だろう。
 それで、そいつの志望校がもう一人の奴と同じだと知り、
(……やっぱりなぁ)
 しごくすんなりと納得できてしまった。
 二人が行くなら、自分も同じところを受けてみようか?
 そういう安易な決め方は、やっぱりマズイだろうか?
 ふと、それを思わないでもなかったが。
「ンじゃ、とりあえずは、九月の学校見学の枠をめいっぱい使って絞り込んでみたらどうだ? 」
 自分たちの中では一番の常識人(……たぶん)がそう言うので、
「おぅ。百聞は一見にしかず――とか言うもんな」
 つい、その気になる彼だった。

   ◆◇◆

 天災も人災も、忘れた頃にやってくる。
 どれだけ頑張っても、アクシデントはある。
 神頼みで、そうそう『ラッキー』は舞い降りてはこないが。それでも。『運』の善し悪しが実力を左右することもある。
 春疾風。
 春眠あかつきを覚えず――どころか。満開の春には、まだまだ遠い。


 そして。
 ――本番。


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