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陽だまりに吹く風著:吉原理恵子

「だから、本番前の手馴らしっていうか、受験の雰囲気みたいなものを経験しておくだけでもいいじゃない」
「受験料がもったいない」
「あんたねぇ。ウチにだって、それくらいの余裕はあるわよ?」
 真剣に、彼女はそれを口にする。冗談で流す余裕がないところが、すでに、言わずもがな……ではあるが。
 彼女にとって、自分のことは二の次。まずは、彼のことが最優先。言葉の端々にも、それが窺える。
 素直に、ありがたいなと思える。
 反面、その事実がほんの少しだけ面映ゆい。変にベタベタとしたスキンシップなどは皆無だが、それでも、掛け値なしの情愛を注がれている自覚はあるので。
「ンじゃ、その分、俺の小遣いに上乗せしてくれてもいいけど?」
「それとこれとは、話が別」
 ピシャリと、予想通りの言葉が返ってきた。シビアな現実である。
「無駄に金捨てるくらいなら、俺に貢いだ方がよっぽどマシじゃねー?」
「そういうのは、屁理屈って言うのよ」
 ガキの屁理屈は、大人のやせ我慢と同じだ。シガラミが少ない分、屁理屈の方がマシのような気がするが。
 けれども。これ以上、下手に突っ込むと説教モードに突入してしまいそうな気がして、
「へいへい……」
 ――口を噤む。
 滑り止めで受験して、それで、もし合格したら、更に別の名目でまた金を支払うことになるのだ。それだけは間違いのないことで。しかも。それは、本命が合格したからって返金されるわけではない。
 受験料は、まぁ、しかたがないとして。掛け捨てでン万円は、痛い。
 いくら滑り止めの保険だからって、そりゃ、いくらなんでもボリすぎだろ……とか思うのだが。親心としては、それも必要経費でやむなし――なのかもしれない。
 そこに付け込む受験制度の姑息さを、未成年の子どもがアレコレ言っても始まらない。
 いや。世の中、そんなことまで考えている受験生の方が珍しいのかもしれないが。
「もしかして……。俺の実力、疑ってる?」
 茶化すようにそれを口にすると、
「違うわよ」
 彼女は小さくため息をついた。
「あんたの実力ならもっと上を狙えるんじゃないかって、思ってるだけ」
 確かに、模試判定では志望している公立校よりハイレベルな私立校も合格予想判定圏内には入っていたが。
 とにかく、公立も私立も第三志望までは書けと言われて。それなら、書くのはどうせタダだし……のノリで書いた名前だった。
 ――が、それはあくまで、なんのプレッシャーもない校内模試だったからだ。
(まさか、度胸試しのダメ元で聖明学園を受験してみろ――とか、言わないよな)
 普通、滑り止めは、万が一の絶対確実を期して本命よりもワンランク下を受験するのが鉄則なのだが……。なぜか、いやぁな汗が滲み出てくる。
「だったら、この際、チャレンジしてみるのもいいんじゃない?」
「変なプレッシャーかけるなよ」
 どんよりとため息を漏らして、彼は卵サンドにかぶりついた。
 よくよく考えてみたら、彼女がチャレンジ精神旺盛な、いや――ポジティブ思考の実践主義者であることを忘れていた。
 やってもみないうちから白旗を掲げるな。
 そのスローガンには何の異存もなかったが。それはまた別の機会に――と思わずにはいられない彼だった。

   ◆◇◆

 集中力。
 くつろぎ。
 動機付け。
 限られた時間内での受験勉強のやり方は、人それぞれだが。忍び寄るプレッシャーは否応なく視界を圧迫し、孤独感を掻き立てる。
 焦りと。
 苛立ちと。
 ――開き直り。
 日々は、秒刻みで過ぎていく。

   ◆◇◆

 リビングのドアをノックもせずに開けて入ってくるなり、
「学区内の公立高校を受験するそうだな」
 男は、どっかりとソファーに腰を下ろした。
 普通、約束の時間に遅れて一時間以上も人を待たせたなら。まずは『スマン』の一言くらいあって当然だと思うが、男に対して、彼はそんな常識も歩み寄りも期待してはいなかった。
 自分の主義主張を押し付けるのも。
 人の都合を顧みないのも。
 男にとって、そんなことは日常茶飯事――だった。
 だから。彼は、ただ黙して強すぎる視線を返しただけだった。
 ――とたん。
 男の目がわずかに細められた。
 それだけで、たいていの連中はビビッて腰が引けてしまうだろうが、彼にとってはすでに見慣れた日常でしかなかった。
 居直りではなく、ただの事実確認。何年経っても、何も変わらないということの。
「私は、桐生学院を受けろと言ったはずだが?」
 目で、口で、高飛車に威嚇する。
 それも今更なことなので、黙殺する。言葉の通じない相手には何を言っても無駄だと、知っていたからだ。
『言いたいことは、きちんと言葉にしなければ通じない』
『わかってもらいたいと思うなら、言葉を惜しむな』
『相手に自分を理解させたいなら、まず、自分が相手を理解する努力をすべきだ』
 それが世間様の常識でも、この家の規範は違う。
 男には、誰も逆らわない。
 ――逆らえない。
 それが、暗黙のルールだからだ。
 バカバカしいほどの時代錯誤。
 腹の中では、誰もがそう思っているはずなのに。皆、口には出さない。
 逆らって、バカを見るより。
 刃向かって、男の逆鱗に触れるより。
 おとなしく、言われるままに従っていた方が得だと思っているからだ。
 だから、彼は今、この家を出て祖父母の許にいる。男と一緒にいる限り、彼もそのルールに縛られるからだ。男にしてみれば、それも大いに気にくわない現実だろう。
 彼の強固な意志と祖父母の理解がなければ、それも叶わなかっただろうが。
「我が家では、男子は皆、桐生を出て系列の大学部に進学するのが決まりだ」
 耳タコどころか、すでに耳化石である。
 日常会話は日本語なのに、男とはまったく会話にならない。
 誤解でも曲解でもなく、言葉では意思の疎通が図れない。
 ――最悪である。
 親子代々、伝統はそうやって受け継いでいくものだと男は頑なに盲信している。自分がやってきたすべてのことは、当然、我が子に受け継がれていくべきだと。
 だから、言葉が通じないのだろう。
 それが、腹立たしくて。
 ただ……苛立たしくて。
 何をどうすれば、自分の話を聞いてもらえるのかわからなくて――身悶えする。
 けれども。身体中の血が逆流するような憤りも、吐息が灼けるようなジレンマも、そういうことすら男には理解できないのだと思い知らされたとき、彼は、言葉を捨てた。
 生まれ落ちた瞬間に、すでに目の前には『家訓』という名のレールが敷かれている。そこからハミ出すことは自由を勝ち取ることではなく、自己責任を放棄するただの負け犬なのだと、さんざん言われてきた。
 負け犬――という名の選択の自由があることなど、男は考えたこともないのだろう。
 だから。彼は、あえて地元の公立高校を受験することでその『負け犬』を選ぶことにしたのだ。言葉の通じない男の目にも、それとハッキリわかるように。
 男には、二度と自分の視界に入ってきて欲しくない。
 その決意を込めて、だ。男は、それをガキの戯言だと鼻先で嘲笑うかもしれないが、彼には自分を曲げて男に屈服する気など微塵もなかった。
 ブチまけて言ってしまえば。男の意に逆らって確信犯の恥曝しになるのであれば、桐生以外のどこでもよかった。
 だが、その高校を選んだのには理由があった。彼が唯一認める友人が、そこを受験すると言ったからだ。だったら、彼に否はない。
 自分の人生に自由意志以外のシガラミなど何ひとつとして必要とはしないが、同じ目線でタメを張れる友人の存在はまったく別モノだ。
 予想も期待もしていなかった、人生のターニング・ポイント。

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