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engage1 君だけを愛す著:ふゆの仁子

 永見を戒めることは容易だ。同時に永見が自分を弾き出すこともたやすい。だが、今この状態で永見が自分までも遠ざけてしまったらあの男がどうなってしまうか、考えることすら恐ろしい。
 永見が何もかも捨てて自分に頼ってくることは絶対ない。妥協を許さない性格とエベレストよりも遥かに高いであろうプライドが絶対にそれを許さない。溝口という男は、永見がすべてを委ねるには、弱みばかりを知りすぎていた。
 溝口は何よりも永見の天才的な才能を愛していた。永見といれば、一人では絶対に味わえないであろうデカイことができる。その才能を潰したくなかった。でも自分では永見が今嵌っている沼から救えないことも理解していた。
 これまでにも何度か危険な状況はあった。だが今、一番危ない状況にあると思う。細い糸のように、繊細な心のバランスが、今にも崩れてしまいそうなのが見ていてわかる。
 社内でも一目置かれる存在になった。それこそ社長でさえ、永見を腫れもののように扱う。彼の神経を逆撫でしないように、一挙一動を見張っている。仕事も今では課長という立場上、先頭きって動くことも許されない。
 欲求不満はつのる一方だった。
 そろそろキレル、と思っていた矢先、天の采配のように杉山電機の仕事が飛び込んできた。
 まさに、絶妙のタイミングだった。


「わかりました」
 永見は声のトーンを変えずに、いつもの口調で館野に答えた。
「当社で責任を持って取りかからせていただきます。ただひとつ確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
 館野は明らかにほっとした様子で応じる。
 永見の名を挙げたのは館野だが、絶対に依頼を受けてもらえるという自信はなかった。
 当然のことながら、ここで断られたら面目はまる潰れになる。責任を取って辞職するどころでは済まない話だ。
「『マルチメディア』という言葉の概念ですが、新しい、今までにない、限りない未来への可能性を秘めたもの。この考え方で誤りはないでしょうか?」
 冷静な永見の言葉に、館野は大きく頷いた。
「少なくとも私はそう思っています。また、厳格な意味とは異なっていても構わないというのが当社の意向です」
「かしこまりました。それでは、実際のスケジュールの話に入りましょう」
 永見はやっと自分の持っていたアタッシェケースの蓋を開けて、中から様々なスケジュールでぎっしり埋まった手帳を取り出した。
 館野との交渉をしたその日のうちに、永見は会議を開き杉山電機のCMに関する打ち合わせをした。様々な提案をしたが一切異論は出なかった。
 結果、一人のイメージキャラクターを設定してすべてのCMに起用し、商品はほとんど表に出さず、その人間を『マルチメディア』そのものとして売り出すことが決まった。
 既成のタレントでは意味がない。限りない未来への可能性を秘めた、誰も知らないが万人に興味を持たせる人間でなければならない。そんな人間がいるのか。非常に難しいが、絶対に探し出さねばならなかった。

 早速CMのイメージキャラクターのためのオーディションを独自に計画した永見は、ありとあらゆる他のオーディションにも顔を出した。めぼしいTV番組も録画してその日のうちに視聴し、同時に発売される雑誌もジャンルを問わず殆どに目を通した。
 一方で、具体的なCMのコンテを作り、コピーの選定、ポスター撮りの予定も決めなければならない。永見はできるところはどんどん話を進めた。
 信用するスタイリスト、メイクアップアーティストのスケジュールをある程度押さえ、キャラクターが決まり次第すぐにでも取りかかれるように準備した。
 CMソングについては比較的あっさり決まった。
 こちらに関しては電報堂の子会社である電報堂エージェンシーにいる、永見の信頼する吉田昭久という部下にある程度を任せることができたためだ。
 吉田には、現在生きている人間が作詞作曲した音楽の中で、ジャンルを問わず二〇曲程度を選ばせ、それを企画会議にかけ一〇曲に絞り、中から永見が一曲を選び、その曲を作った人に依頼することにしていた。
 凄まじいプレッシャーとなったが、その卓越した着眼点とセンスにより永見の期待を裏切ることなく、吉田は実に絶妙な曲を選んできた。
 そうして最終的に永見が選んだのは、生楽器とシンセサイザーをうまく溶け合わせたクラシックを基礎としながら、あらゆる音楽をミックスさせたルナテイクという五人組のグループだ。
 依頼する前段階で、永見自ら彼らに会った。まだ世間の荒波をよく知らない若者ではあったが、無鉄砲さが気に入った。永見は自分の実力を理解し、それを隠すことのない人間が好きだった。さらに彼らには、自負するだけの明確な実力がある。
 事実彼らはそれぞれ音大出身であり、各分野で上位の成績を残していた。
 だが、肝心要のキャラクターが決まらない以上、どれだけ他が上手くいっていてもどうにもならない。つまり、選考は難航を極めたのである。
 妥協という言葉を知らない永見は、この仕事に入ってから布団の中で熟睡したことがなかった。土日関係なく毎日会社に詰め、僅かでも空いている時間があると、できるかぎり様々な人の集まる場所に足を運んだ。
 永見のイメージする人間が絶対どこかにいるはずだ。だが数えきれないほどのオーディションを開催しても、永見の思う人間は現れない。
 だが、確実にタイムリミットは迫っている。
 永見は、生まれて初めて弱音を吐きたい気分になっていた。今までその存在を信じていなかった神にすら、初めて祈りたくなった。

 溝口はまるで死人のような顔色をした永見を見て、さすがにマズイと思った。何しろ本人は真っ直ぐ歩いているつもりかもしれないが、足元がふらついているのだ。
 外出先から戻ってきたばかりにもかかわらず自分の椅子に座る間もなく、またどこかに行こうとする永見の手を捕らえる。そして比較的使用する人の少ない、会議室フロアにあるトイレの個室に永見を連れ込んだ。
「なんのつもりだ」
 力のままに壁に身体を押しつけられた永見は、ただでさえきつい眼鏡の奥の目をさらに吊り上がらせ、自分よりふた回りは大きいであろう男を睨みつけてくる。
「すぐ会議だ。貴様と遊んでいる時間はない」
 そこをどいてくれ。
 怒鳴ろうとした永見の口が、続く言葉を発するよりも前に髭を蓄えた口に覆われる。そして、ずり落ちそうになった眼鏡が奪われる。
 閉じる間もなく開いたままの唇の間をぬって舌が割り込んできて、歯ぐきの裏に触れ上顎を刺激する。腰に手を回され、顎を痛いぐらいに掴まれる。抗おうとして振り上げた手はやすやすと溝口の腕に捕らわれる。
「ん……っ」
 息苦しさに永見が顔を背けようとしても、溝口は許さなかった。
 絡み合わされた舌が痺れてくる。次第に頭の中が白濁してくる。他のことなど考えられずに、溝口の舌のある場所だけに神経が集中してくる。
 永見の腰から下の力が抜けて膝ががくりと曲がりそうになるのを、溝口は片手で楽々と支える。
 だらりと下がった永見の手が肩に伸びる頃になって、ようやく溝口は唇を解放した。
 そして欲望に濡れ始めながらも生気の漲る永見の顔を見て、溝口は意地悪い笑みを浮かべる。
「今日は、このまま俺につき合え」
「だから会議があると……」
「なんなら、会議に出られなくなるぐらい、この場で犯ってやろうか?」
 苦笑しつつも、溝口の目は笑っていなかった。
 永見は表情を崩すことなく、はあと諦めの息を吐き出した。
「冗談でも、そんなことを言うな」
 永見は肩を竦めた。
 溝口という男は、やると言ったことは絶対にやる。アメリカにいた頃に何度か肌を重ねたことがある。互いに恋愛感情はまるでなく、成り行きというよりは必要に迫られての行為だった。
 永見はともかく、溝口は本来男も女も気持ち良ければOKという男だったが、日本で再会してからは、一度もセックスしていない。
 溝口の愛撫はきつくない上に上手い。だから余計にタチが悪い。以前、夜をともにしたあと数日は、まるで身体が使いものにならなくなった。それを考えれば、会議をひとつ欠席するほうがまだマシだ。
「それでどこにつき合えばいいんだ?」
 永見は溝口の胸ポケットから眼鏡を取り戻し、かけ直す。
「新宿五番街」
「……? どこだ、それは」
「行けばわかる」
 溝口は訝しげな表情を浮かべた永見の頬に小さなキスを落とした。

 連れて行かれた場所は、銀座の中央通りを外堀通り側に少し入ったところに位置する、小劇場だ。
「演劇を観る趣味なんてあったのか」
 永見は少し驚いた。
「実はな」
 溝口は髭に手をやって照れ笑いをしながら、当日券を二枚買った。階段を下りて地下に入る。入り口でコピーで作られた小冊子を渡され、扉を開けて驚いた。天井が近く狭い観客席は人で溢れ、酸素が足りないような感じがした。
 溝口は慣れた様子で中に入り、最後部に位置する場所に立つ。
「人気があるんだな」
 永見は微かな明りを頼りに溝口の隣に立つと、冊子を捲りながら呟いた。
「俺がこの間観にきたときはそれなりに混んではいたけど、ここまで人は入ってなかった」
「なんだ、二回目なのか」
 一生懸命に演じる姿というのが好きで、溝口はよくこうした二流ともいえないような劇団の公演に足を運んでいる。『新宿五番街』の舞台を観るのは今回の公演が初めてなのだが、一度目に観にきたときはまだ二日目だったせいか、役者も裏方も慣れていないといった印象を受けた。ただオリジナルの演目自体は面白く、時間があればもう一度慣れた頃に観にこようと思っていて、結局今日になってしまったのだ。
 楽日が明日のため、これだけ混んでいるのだろうと思いながら、溝口も冊子を開いた。
「あれ?」
「どうした」
 驚きの声を上げる溝口に永見が顔を上げる。
「配役が変わっている」
「前回観たときとか?」
「ああ。それも主役だ。伊関なんて役者、この間はチョイ役でも出ていなかったのに」
「イセキって、伊関拓朗か?」
「知っているのか?」
 溝口は意外そうな声を出す。
「知っているというわけじゃないが……」
 永見は呟きながら自分も配役のページを確認する。確かに主役のところに『伊関拓朗』の名前と、コピーのせいではっきりしないが顔写真が載っていた。
 永見が目を通していた雑誌の中には演劇関係のものも混ざっていた。その中の小さなコラムで、『伊関拓朗』の名前を目にしていた。
『名前もないような端役を演じながら、注目に値する。今後を見守りたい』
 写真もなかったが妙にこの言葉が心に残り、伊関のプロフィールも見ている。高田馬場にある某有名私立大学を中退したという記事を記憶していた。
「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが」

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