ダリアカフェ

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くちびるに蝶の骨~バタフライ・ルージュ~著:崎谷はるひ

 十年前の入社時、インターネットの普及でIT産業は真っ盛りだった。この会社もWEB通販にいち早く手をつけたおかげで、平成不況をよそに業績は好調だった。
 だが、一億総ブロードバンドと呼ばれる時代となり、状況は一変した。
 かつては委託が多かった通販もいまでは各小売りや個人が、それぞれWEBサイトを開き、直販するのがあたりまえの状態へと変化した。競合他社には海外の大手がどんどん飛びこんできて、市場は激戦。
 あげく近年訪れた百年に一度と言われる不況のあおりをまんまとくらい、規模縮小と経費削減を余儀なくされ、倉庫代やオフィスの家賃が安い地方へと引っ越す羽目になっていた。
「この会社もほんとに引っ越し多くて、まいるね。不況でね、このビルの家賃も厳しくなったみたいでね」
 ぼやくような課長の言葉のとおり、現在のオフィスは埼玉県の蕨市にあるが、数年前、東京の北区から移転した。さらに遡り、設立当時は三田に会社があったらしいけれど、その時期のことを千晶は知らない。わかっているのは、会社の業績が悪くなるたび、オフィスがじわじわと田舎へ引っこんでいくということだけだ。
 気の弱い上司は、ちらちらと無言の部下の顔色をうかがいながら問いかけてくる。
「移転したら、それに伴う人事異動できみが係長になるし、悪い条件じゃないと思うんだけど」
 おずおずと彼がつけくわえるのは、管理職につけば微々たる手当の代わりに残業代は出なくなり、結果として手取りの給料が下がることがわかっていたからだ。
「う、請けてくれるよね……?」
 今回の移転に伴い、かなりの人数の社員が辞職や転職を願い出た。一応、引っ越したさきには社員寮などもあるし、どうしてもいまの住居から通いたいものには、特例で定期代も出る。しかし、山梨県でも東京とは反対側の県境、長野に近い場所とあっては、東京暮らしからどんどん離れていくのに耐えられない、という人間もやはりいたからだ。
 でも、いまの俺には好都合だ。千晶は、片頬でそっと笑った。
「まえにもお話しましたけど、断るつもりはないですよ」
「そ、そうか。まあ、幸いほら、柳島くん独身だし。とくにしがらみもないよね」
 念を押す上司にうなずいてみせると、肥満ぎみの顔に安堵の笑みが浮かぶ。典型的な中間管理職である彼は、今回の移転でかなりの人間に突きあげをくらい、早く結論を出せという上層部との板挟みに、胃を痛めているという話を耳にした。
「大丈夫です。問題はありません。ただ、寮に入る際の引っ越し代とかはどうなります?」
「一応は補助金が出るから。心配しないで。あ、でも、いま住んでるところに較べると、かなり不便になってしまうけど……学生時代のお友達のマンション、シェアしてるんだったね?」
 千晶が新宿の一等地に住んでいることは、当然上司も知っている。現在の会社の給料ではとうてい払えるはずのない家賃については、彼が口にしたとおりの言い訳を通していた。
 じっさいには、もっと複雑で歪んだものが潜んでいる私生活のことなど、誰も知らなくていい話だ。千晶はきっぱりと言ってのけた。
「私はほとんど寝に帰ってるだけですから、ふつうの生活環境があればかまいません」
「う、うん。寮の近辺には商店街もあるし、そこまでド田舎ってわけじゃないしね」
 その返事にほっとした上司がまた汗を拭き、千晶はうなずいてみせる。
 もういよいよ、潮時だ――そんな言葉が頭をよぎった。同時に、華やかで苛烈な新宿の街に根を下ろした男のことを考えた。
 千晶の十二年を縛り続けてきた彼は、この辞令のことなど露ほども知らない。
「ご心配なく。問題はなにも、ありませんから。会社にはご迷惑をおかけしません」
 細面で色白の顔に暗い影がさす。けれど、目のまえの上司はそれに気づいた様子はなく、ほっとしたように口早に言った。
「ありがとう、柳島くん。頼りにしてるよ。なに、きっと、山梨も悪いところじゃないよ」
 やっと気弱な笑みを見せた上司に、千晶は無言でまたうなずいてみせた。
(どこだって、きっとかまわない)
 いまの生活から逃げられるならそれでいい。どろどろした感情をもう、長いこと千晶は腹に抱えていて、そんな自分に疲れきっている。
「そうですね、新しい生活にも、希望はあります」
 穏やかに答えながらきつく握った拳の力は、爪が食いこむほど強かった。

   * * *

 蕨駅から新宿駅までは、電車で約四十分。通勤快速にうまく乗れれば二十五分だ。
 東京に暮らす人間の通勤時間としては、かなりマシなものだろう。行きは下り、帰りは上りの路線となるため、混雑具合も比較的楽だ。とはいえ千晶の仕事柄、帰宅時間は早朝だったり昼間だったりと、ラッシュにあまり関係はない。
 ただ、精神的な疲労は計り知れないものがある。
「疲れた」
 この日も朝から帰宅する羽目になった千晶は、うつろな目で朝日を浴びる新宿歌舞伎町を眺めた。生ゴミをあさるカラスに顔をしかめながら、およそ人間が住むには適していると思えない、都会の道を歩く。
 午前中の歌舞伎町は、まるで死んだような街だ。夜のネオンのなかではあれほど華やいでいる店の並びも、しらけた朝日を浴びると、薄汚れた面ばかりが目につく。
 夏が終わったおかげで、午前中のこの時間はさほど気温も高くない。腐臭や刺激臭に鼻を直撃されなくなっただけマシだが、ぼんやりと歩き続けるうちに、陽射しを浴びた背中と腋下がじわりと汗ばんだ。暑いという感覚はないのだが、通勤電車のなかは、まだ残暑対策の冷房が過剰に効いていたから、そのせいもあるのだろう。
 都会にいると季節感もなにもかもさっぱりわけがわからなくなる。千晶が季節を感じるのは、デパートやショップのディスプレイが変わったときくらいだ。亜熱帯に近づく日本の四季は壊れはじめている。そして千晶の体感するすべては、もうとうに壊れて久しい。
 靴底に感じるのは、汚れたアスファルトやコンクリートの感触。大学進学を機に中部地方から上京した千晶は、はじめのころ、このこつこつという感覚が不思議だった。
 むろん、地元でも道路は舗装されていたけれど、市街地からほんの十分車を走らせるだけですぐ郡部に入るような地方都市だ。通った高校は僻地に存在したため、通学路に土と草の生えた場所はいくらでもあったし、緑も多く、雨の日には泥はねが悩みの種だった。
 十八で上京した千晶も、三十二になった。ゴム裏のついたスニーカーで泥道を歩いてから、もう十四年が経つ。
 地元にも同じ年数戻っていない。いまでは土を踏む感触など忘れかけている。
(ほかに、俺は、なにを忘れたかな)
 虫の声や木々のざわめきの代わりに、ネオンに囲まれてアスファルトを歩く。都会の街では道を歩いていても電子機器の音から逃れられない。
 実家には、もうずっと帰っていない。というよりおそらく、今後も帰ることはできないだろう。男と暮らす自分を知られるのが怖くて避け続けた結果、完全に機会を逸してしまった。とくに仲良し家族というわけでもなかったが、家族にしろ友人にしろ、縁の薄い自分というものを、ときどき強く意識する。
 そんなことを考えること自体、疲れている証拠だと思う。
 重い脚を引きずって歩くうち、見えてきたのは三十階建てのタワーマンション。エントランスにコンシェルジュこそいないものの、ホテルのロビーかと見まがうような豪華な内装に、千晶はさらなる疲労を覚えた。
 正確な家賃など訊いたことはないけれど、似たようなマンションの相場を調べた際、千晶の月収よりもはるかに高かった。おまけにそれが分譲ではなく賃貸だと知ってさらにぞっとした。
(買ったほうが安いだろ、このレベルになると。だいたい、マンションのくせに風呂場とトイレふたつあるって、どんだけだよ)
 男ふたりで暮らすのに、なぜメゾネットタイプである必要があったのか。年収五百万を切るような中小企業の会社員には、あまりに不相応な住まいだと、ため息が出る。
 十二年も住まわされながら、ごく一般的な中流家庭で生活してきた千晶はいまだにこの部屋になじめない。ロケーションに対する自分に違和感がありすぎたのだ。
 あるいは、いつか出ていく日がくると思い続け、身構えたままの時間が長すぎて、なじみきれなかったのかもしれないが。
(けっきょくは、俺が貧乏性なんだ)
 山梨県のなかでもすこし奥まった田舎にあるという寮に、心惹かれている。正直なところ、山梨での社員寮となる1Kのアパートのほうが、いまの環境よりよほど落ちつくのはわかっていた。近くに小さな商店街のある、住宅街のアパート。さわやかな土と緑のにおいがする場所とまではいかずとも、不夜城新宿よりは確実に千晶に向いているはずだ。
(静かな街だろうな。そして、……あいつはいない)
 その想像は千晶の胸を奇妙にくすぐり、同時に落ちこませた。
 不相応でなじめない環境から逃げることができる安堵と、それほどに違和感を覚えながらも、長く居続けた場所への愛着と寂しさ。
 どちらもを取ることはできない。どちらかを選ぶしかなかった。そして千晶は今度こそ選んだ、それだけのはずだ。
 それだけだ。強く自分に言い聞かせながら、専用エレベーターで住居スペースまでのぼると、フロアには絨毯のような防音効果の高いマットが敷かれている。足音ひとつ立てずに部屋のまえまでたどり着き、カードキーでロックを解除する。これらのシステムもまた、千晶がこのマンションを住処と思いづらい理由のひとつだ。
「ただいま」
「――おかえり」
 ただの習慣で、ほとんどひとりごとでしかない帰宅の挨拶に返事があったことにはっと息を呑む。
「帰ってたのか」
 驚く千晶のまえに現れたのは、この部屋の借り主本人だった。
「俺が俺の家に帰ってちゃ、なにかまずいのか?」
 強ばった千晶の表情に、彼は長い睫毛をそよがせ、すうっと目を細めた。あまり機嫌のいい反応ではない。千晶は反射的に怯えながら、愛想笑いを浮かべた。
「そんなこと誰も言ってないだろ」
「じゃ、なんなんだよ、その顔は」
 シャワーでも浴びたのか、彼のくせの強い髪は湿り、無造作に乱れていた。ふだんはうしろへ撫でつけている前髪をかきあげる長い指。
 所作は気だるげで、いっそ優雅にもうつるけれど、長身の男がかもしだす独特の威圧感と淫靡な気配は、十数年のつきあいがある千晶ですらいまだに慣れることがない。
 目のまえの男が、ただそこに立っているだけで醸しだす、ぐらりとするほど強烈な色香から目を逸らし、千晶は口早に言った。
「めずらしいと思っただけだ。ほとんど帰ってこないし」
 言いながら靴を脱いだ千晶は、玄関からもっとも近い位置にある自分の部屋に逃げこもうと、足早に歩いた。だが自室のドアを開くより早く、壁につかれた長い腕が行く手を遮る。
「なんだよ、王将」
「なんだよって、なにがだ」
 困ったように笑ってみせながら、千晶は彼の源氏名を呼んだ。いまではすっかり、こちらの名前のほうが彼になじんでしまっていて、本名を口にすると違和感があるくらいだ。
 ホストクラブ『バタフライ・キス』のオーナー、柴主将嗣。彼はかつて『王将』という源氏名でホストをしていた。ひと晩に一千万稼いだという伝説すらある、新宿の顔とも言える男だ。
 長身に逞しい体つき。目鼻のくっきりした、派手な造り。南米やイタリア系の外国の血が混じっているのではないかと噂されるラテン系ハンサムだ。じつのところは純日本人で、出身は北国のほうだというのはあまり知られていない。
 彼について語られるのは、オーナーとしての経営手段の辣腕ぶり、圧倒的なカリスマと強烈な存在感――そして滴るような色香で手に入れた、財と地位。
 常に余裕の笑みをたたえ、その源氏名のとおり誰かのうえに君臨するのが似合う、不敵な男。
 そしてただひとりの、千晶の男。
「おまえ、なに焦ってるんだ? なんで逃げようとする」
 色気のある厚い唇を笑いの形に歪めた将嗣に、千晶は言い訳がましく口を開いた。
「暑くて汗かいたんだよ。風呂に入って、着替えたいんだ」
 嘘ではない。この年の残暑は長く、秋に入ってからも真夏日が続いていた。スーツを纏った身体は汗じみて、自分でも肌のべたつきが気になる。
 目のまえにいる男は、風呂あがりだろうにあまい香水のにおいをさせていた。誰かの移り香ではなく、彼自身が好んでつけるそれは、かつてのパトロネスのひとりが、わざわざフランスで調香させたオリジナルのフレグランスだ。いまでは同じ香りを将嗣本人が注文しているらしく、ひと瓶いくらか知らないが、おそらく千晶の月給くらい軽く飛んでいくのだろう。
(すごい違いだ)
 地味な仕事をこなし、汗じみた身体を安いスーツで包んだ自分と、あまやかな香りを纏い、朝からセックスをする余力のある男と。
 いったいどうしたらこの差は埋まるのだろう。べつにお互いの稼ぎの違いが悔しいのではない。彼とはあまりに人種が違いすぎるのだ。そして、近くにいるだけむなしくなる。
 物思いに沈んでいると、くすぐったい感触を覚えた。顎を撫でるのは、将嗣の長い指だ。
「……なに?」
「だから、なに、じゃねえだろ。いまさらとぼけんな」
 あえぐように息をしながら、千晶は背の高い彼を見あげた。身長差はおそらく十センチというところだけれど、身体の大きさが違いすぎる。壁に追いつめられたまま、覆い被さってくる男からできるだけ顔を逸らし、薄く嗤った。
「疲れてんだよ。すこし寝てからじゃ、だめか」
「だったらよく眠れるように、もっと疲れさせてやるよ」

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