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くちびるに蝶の骨~バタフライ・ルージュ~著:崎谷はるひ

 気まずそうに煙草をしまいながら、春重は千晶の顔を見ずに言った。
「柳島さあ、俺にここまでぶっちゃけるってことは、ほんとにもう、終わりにする気だろ」
 苦い声で問われて、千晶は答えなかった。そもそも、終わるようななにかがあるとさえ、思えなくなって久しい。視線を落とし、薄く嗤うだけの千晶に、春重は痛ましいと言いたげな目を向けた。
「言い訳にもならんけどさ、『バタフライ・キス』ではイロコイと枕は禁止にしてる。あいつ自身が、あんまりそういうの好きじゃなかったからだっていうふうには、思ってやれない?」
「最初にそのこと言いだしたのは、先輩のほうだって俺が知らないとでも? ついでに言うと、それ、一路のためでしょう」
 今度こそ言葉がなくなったようで、春重は「お見通しかよ」と力なく笑った。
 ホストクラブのマネージャーなどをやっていても、春重自身はホストとして店に立ったことはなく、どんなに勧められてもあくまで裏方に徹していた。
 華やかな世界にいて、身を持ち崩さないでいるのは相当の自制心が必要だ。そして春重は、この業界において数すくない、しっかりと自分を律することができるタイプだ。
 だからこそ千晶は、彼を信用していた。将嗣の親友でありながら、あの強烈な男に心酔もせず、影響を受けるでもなく、淡々と仕事のパートナーでありつづけることは容易ではない。
「でもさあ、王将が現役ホストだったの、もう何年まえの話なのよ。あいつ大学出ると同時に店のオーナーになったんだから、ええっと――」
 彼は指折り数えて、「十年か」とひとり納得したようにうなずいた。
「十年もまえのこと、いまだに根に持ってるなら、なんでつきあってんの?」
「惰性でしょうね」
 きっぱり言いきると、さすがに春重はのけぞった。そしてまじまじと、千晶の顔を眺める。
「なんですか」
「なんか柳島、きつくなった? 俺の知ってる後輩ちゃんじゃないみたい」
「三十にもなりゃ、強くもなります」
 笑いながら告げると、春重はため息をついた。
「んで、なに? もしかしてその、移転の話、俺には黙っててくれとか言う?」
「いえ、いいですよ、言っても」
「……いいの?」
 意外だというふうに、春重は目をみはった。うなずいて、自暴自棄の表情を隠さず、千晶は言った。
「そうでなくても、薄々勘づいてると思います。この間、別れ話切りだしたら、店でしこたまやられたんで」
 吐き捨てるような千晶の声に、春重は「……え?」と固まった。
「たぶん、誰か店の子にも見られたと思いますけどね、おかまいなしですよ。目隠しされたまま、こっちの腰が立たなくなるまでお仕置きされました」
「は!?」
 春重があわてたように腰を浮かせ、長い脚がテーブルに当たった。がちゃんとコーヒーカップが音を立て、その音に我に返ったように彼はふたたび腰をおろした。
「い、いつの話、それ……」
「つい最近。先輩、新店の話のせいで、あんまり『バタフライ・キス』にいなかったでしょ」
 うわあ、と春重は頭を抱える。うんざりとした表情に、こういうところはさすがに常識人だなと、まるで他人事のように千晶は考えた。
 春重は両親を早くになくし、施設入りも検討された年の離れた弟、一路を育てるため、高校生のころからモデル業を勤め、将来に対してのノウハウを身につけながら奨学金で大学に通ったと聞いている。
 そこそこ遊んではいたようだが、恋愛についてもごく一般的な常識や感性を失ってはいない。それはおそらく、弟を育てる責任感も作用していたのだろう。
「キッツイ話聞かせちゃって、すみません」
「いやまあ、うん。知っちゃいたけど、……またかよ」
「え? またって」
 妙な含みを感じて問えば、「いや、なんでもない」と春重はかぶりを振った。
「しみじみあいつもあほだね、と思っただけ。ほんとに、なんだかなあ」
 気を取り直そうというのか、顔をしかめた春重は眉間を長い指で揉んだ。あほ、という言葉に苦笑してうなずこうとした千晶に、春重は長い息をついてかぶりを振る。
「そんだけ逃がしたくないのに、なんでいじめるかな。俺にはわからんけど」
「さあ……もう、王将については考えることはやめましたから」
 つぶやいた千晶の声は冷めきっていた。ふと春重は視線をあげる。なんですか、と首をかしげると、彼は小さくうなった。
「うん、いや、柳島が冷めすぎてるせいもあるのかなあ、とかちょっと思った。もともと冷静だったけどさ、なんか投げやり?」
 答えず、千晶はまた薄く嗤った。愚問だったかと、またため息をついた春重は、しばしの沈黙のあとぽつりと言った。
「あのね、あいつは頭と心が複雑骨折してんだよ」
「屈折じゃなくて?」
「ううん。骨折。つながってないの。わりとなんでも、ソツなくやりこなせちゃうもんで、余裕こいてると思われてるんだけどね。ほんとは案外、単純なことしか考えてないよ」
 どんな、と問いかけるよりさきに、春重は言葉を続けた。
「金持ってなかったんで、金が欲しい。店はせっかくならでかくしたい。野心家っちゃあそうだし、俺もそこんとこは同じだけどね。てめえが表に出るより、補佐やるほうが向いてるんで、お互い需要と供給が噛みあってるけど――って、こりゃ、いまは関係ないか」
 自分語りしてどうする、と苦笑した春重は、すぐに真顔になった。
「いまね、王将、仕事すっげえ広げてんのね。飲み屋のチェーン展開と、雑誌も別冊立ちあげるし、それに伴ってデザイン会社も作った。ほかにも、新宿に花屋と、夜半受けいれOKの歯医者とかさ」
 思っていた以上に手広い事業展開に、千晶は「そうなんですか?」と目をまるくした。
「うん。ぜんぶ夜の商売に関わってくる仕事だろ。業者とあれこれやりとりするより、まとめてぜんぶ牛耳っちまったほうが話早いだろって、そういう発想だけど」
 雑誌はインフォメーションとイメージアップに、花屋はむろん、客へのプレゼントやその他に欠かせない。歯医者は、ルックスを気にする夜の世界の人間にとって、こまめなホワイトニングケアをするためにも必要だ。
「どれも『バタフライ・キス』を中心にしたプロジェクトだけど……正直、女落とせばいいだろう的な、前時代的なホストやってたって、さきはそう明るくない。もっとエンターテインメントな産業にして、クリーンなイメージ打ち出さないと厳しいわけ」
「だから、飲み屋?」
 あくまでフードとドリンク主体、ルックスのいい店員を揃えて女性客を楽しませる。けれど接客はあくまで店員と客の距離を崩さない。そういう健全な店を増やしていきたいのだと春重は語った。
「もちろんそれは、仕事上の戦略も勝算もあっての話だ。でも、根本のところで、あの生まれつきのホストみたいな男がさあ、ホストじゃない仕事を手がけようとしてる理由を、ちょっとだけ考えてみてくんない?」
「……まさか俺がいやがるからとか、そういうベタなこと言うんじゃないでしょうね」
 千晶は鼻で笑った。だが春重は、彼らしく穏やかな、なおかつ内心の読み取れない微笑みで、こう言った。
「だから言ってるでしょ、話は案外単純だよって」


 どこがどう単純な話だったのかさっぱりわからないまま、春重との打ち合わせは終わった。けっきょく彼が、異動の件を将嗣に話すのか、黙っていてくれるのか、はっきりとはしないままだった。
(まあ、たぶん、話すんだろう)
 春重と別れたあとに夕方近くまで街をぶらついてみたが、渋谷は居心地が悪かった。どうもあの街は若人のためのものとしか思えず、三十男がひとりで時間をつぶすにはむずかしい。
 学生時代はそれなりに遊びにきていた気もするが、十年もまえのことだ。数カ月でビルに入っているテナントはおろか、建物自体が変わってしまうような場所では、どこになにがあるのかすらよくわからない。
 109ビルの大型スクリーンでは、流行りらしいJ―POPのPVが流れているけれど、千晶は誰も知らなかった。雑音といっしょに流れていくだけの音楽は、数年後誰の記憶にもろくに残っていないだろう。
 けっきょく、書店と大型電気店のパソコンショップをぶらついた。気に入っているミステリ作家の新作を数冊と仕事の専門書を購入し、新型のモバイルをチェックして帰途につくころには、なにもいま買わなくてもよかったと後悔するほど、ハードカバーが疲れた身体には重たかった。
 どさりとリビングのソファに腰をおろす。買ってきた本はテーブルのうえに放置したあと、そういえば以前も時間を持てあまして本を買ったものの、けっきょく読まずに終わったことを思いだした。
 しんと静まりかえったリビングは広い。何畳あるのか訊いたこともないが、おそらく十八畳くらいはあるのだろう。革のソファやテーブル類は、たしかイタリアのものだ。それも家主である将嗣から聞いたのではなく、似たようなものをたまたまインターネットで見かけたから、推察したにすぎない。
 インテリアコーディネーターにすべて揃えさせた、新宿のキング『王将』の城。そして千晶は、もはやちぎれかけの足かせに気づいているのに、出ていきそびれている囚人だ。
 十二年は長い。別れようと思ったことは一度や二度ではなく、どころかすすんで身を投げ出した形のつきあいでもなんでもないのだ。
 何度も逃げ出そうとした。大学卒業、就職した会社の最初の移転、そんな大きなできごとはなくとも、ことあるごとに見せつけられた自分以外の人間との情事。
 ――それがいやならホストとなんかつきあえない。
 春重に冷笑を向けて放った言葉は、ただの嫌味だ。誰が好きこのんで、年がら年中ほかの誰かを抱いている相手とつきあいたいものか。
 ――十年もまえのこと、いまだに根に持ってるなら、なんでつきあってんの?
 問いかけに、彼がホストをやめたあとも、女出入りが引きもきらなかったとは言えなかった。おそらく、店をでかくするため、スポンサーたちとそれなりの『交渉』をしていたことも予測はついている。
 やきもきせずにいられるようになったのはむしろここ数年だろう。オーナー業のほうが忙しくなったあの男から、ようやく濃厚かつ不特定多数な女の影は消えた。だが、もはやそのころには、千晶の神経のほうがすり切れてしまっていた。
「仕事でセックスするって、そりゃ売春だろ」
 くっと喉奥で嗤うけれど、いまさら傷ついた気分にはならなかった。そもそも、それこそことの起こりから、将嗣が千晶ひとりでいたことはなかった。
 出会ったとき、すでに彼は『王将』という名前を持つ、新宿の顔ともいえるホストだった。
 そして覚悟もなにもなく、千晶は激流に巻きこまれ、めちゃくちゃにされてしまった。
「こんな性格じゃ、なかったんだけどな」
 乾いた嗤いを漏らしたあと、千晶は両手で顔を覆った。閉じた瞼は熱いけれど、生理的な現象以外で涙ぐむことがなくなって久しい。
 かつて千晶の黒目勝ちの目は胸の奥と同じく、潤い、揺れていた。それが干あがり、涸れきったのは、いったいいつのことだっただろうか。
 痛くてつらくて、別れてくれと告げては拒まれ、逃げては追いかけられる、その繰り返しだ。
 そのたびに捕まえられ、プレイじみたひどいセックスで屈服させられる。
(いや、それは、最初からだ)
 出会うはずもなかったふたりが出会ってしまった。ならば早く終わりにしたいのに、それすら許してもらえない。
 すり切れた感情をうつろな目に乗せて、千晶は十二年まえのあの日のことを思いだしていた。

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