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くちびるに蝶の骨~バタフライ・ルージュ~著:崎谷はるひ

 逃げた唇を将嗣は追わない。ただ読めない表情でうっそりと笑い、過敏な耳たぶを指でもてあそぶ。ゆるめた襟首にも指を這わせ、浮きあがった首筋のおうとつをなぞるのが卑猥だ。
 いやなのに、反応してしまう。千晶の唯一知るセックスは将嗣の施すもので、つまり十数年かけて、この身体は目のまえの男に開発されてきた。
 拒みたい。けれど、肉欲に弱い自分も知っている。むしろ焦らされれば、屈辱を覚えつつも泣いてせがむのは千晶のほうだ。
「今日は時間がある。千晶も明日は休みだろ。ひさびさにおまえとするセックスだ、覚悟はいいだろうな?」
 声は穏やかなのに、恫喝されているような気分になった。同時に『おまえとする』という言葉にひっかかる自分を知って、千晶は胸が苦しくなった。
「ほかの誰かとは、どうなんだろうな」
 自嘲と嘲りの混じったつぶやきは、当然聞きとがめられた。顎を撫でていた指がすべり、千晶の目立たない喉仏のうえに親指が触れる。ぐっとこめられた圧に、冷や汗が背を伝った。
「なにか言ったか?」
「っ……なにも」
 ふだんの彼は、どちらかといえば鷹揚で快活なタイプだ。店の若い連中には、畏怖と尊敬をもって慕われ、ひとを食ったような笑みを浮かべていることが多い。
 だが千晶に相対するときだけ、その表情は翳る。眼窩の陰が濃くなり、目の奥には読めない闇のようなものが漂う。
 怒りや嘲りにも似た強い感情。その意味を読みとろうとする努力はとうにやめた。執着はされているのだろうけれども、愛情と勘違いするには、ふたりの仲はややこしくなりすぎている。
 なにより、言葉ひとつ、視線ひとつで自分を意のままにする男のことを、焦がれるように求めているのは千晶のほうだ。
「わかったから。シャワーだけ、使わせてくれ」
 あきらめの息をつくと、頬を撫でた将嗣がようやく腕を引き、身体を解放してくれる。ほっとしたのか寂しいのかわからないまま、千晶は顔を背け、浴室へと足を進めようとした。だが背後から腰を抱かれ、顎には強引な指がかかる。
「そう、急ぐことねえだろ」
 あ、と声をあげる間もなく唇が重なり、すぐに舌が押しこまれた。
 煙草の味のするキス。苦い唾液は飲みこむほかになく、絡んだ舌を口腔でもてあそばれると、すぐに腰がひくついた。気づいた将嗣が含み笑い、スラックスのまえを手で軽くはたく。
「んう!」
 びくっと肩が跳ねる。喉奥で転がされた笑いが振動となって唇に伝わり、悔しくなる。身じろいで逃れようとするけれどかなわず、しっかりと握られた股間が大きな手のなかで育てられていく。
「ふん。抜いてなかったみたいだな」
 ひとしきり口のなかを犯しつくしたあと、将嗣は唇を歪めて笑った。千晶は目を逸らし「そんな、暇、ないよ」ともつれた舌でたどたどしく答える。
「暇があっても、すんなっつってただろうが」
「だから、しないっ……し、てない、って」
 やわらかく揉みこまれて、完全に勃起した。将嗣はそれをおもしろそうに眺め、ぎゅっと強く握ったあと、強ばったそれを手のひらから解放する。
 性感を高ぶらされたのはペニスだ。なのに、じりじりと炙られたような感覚が去らないのは腰のずっと奥のほう。性器への愛撫は、このさき訪れる挿入と蹂躙に直結している。
「……王将」
 名を呼ぶと、なにか気に入らないことでもあるかのように、彼は片方の眉をあげた。そして千晶の小さな尻をきつく掴み、一度だけ縫い目の奥へと指を食いこませ、また放り出した。
「風呂、さっさといってこい」
 無情な言いつけに、従順にうなずく。見おろしてくる将嗣の目を見ることは、とてもできなかった。この程度の悪戯で興奮する千晶をあざ笑うような、冷たくあいまいな笑みを浮かべているだけだからだ。
 意地悪く高められた身体を引きずり浴室へ向かう。快楽の期待に火照った身体がよろめきそうになるのをこらえ、必死に歩いた。
(最低だ)
 服を脱ぐだけで、肌が痺れた。高ぶらせて放り出すのは、シャワーの水流が肌を叩くことすら、過敏な身体には前戯となると知ったうえでの将嗣の意地悪だ。じりじりとした気分を味わうことで、もう将嗣とのセックスははじまっているのだと、思い知らされる。
 シャワーに打たれながら、千晶は自分の肩を自分で抱いた。ムードもへったくれもない、どころか愛情すら感じられない戯れにさえ、あっけなく疼き悶える身体が情けない。
 けれど、彼が目のまえにいるだけで、千晶はもう、たまらなくなる。将嗣は千晶にとって、セックスそのものだ。どうしてそんなふうに過敏に反応してしまうのか、わからない。彼とは、身体の関係以外になにひとつ結んでこなかったからかもしれない。
 いっそ心はかけらも伴わない、性の奴隷であることに溺れきってしまえれば、楽だったのだろうに。
「千晶、早くしろ」
「……わかってる」
 磨りガラス越し、待っていると告げる男の居丈高な声。腹立たしく、忌々しい。屈辱も感じるし惨めだと思うのに、命じる声に抗えない。
 低くあまい、あの声を、いとおしいと感じてしまう自分が、本当にばかすぎて、笑えた。


 裸のまま寝室に入ると、ものも言わずに腕を掴まれ、ベッドに押し倒された。
 覆い被さってくる男の、整髪料と煙草の入り混じったにおいが鼻腔をくすぐる。そこにあまったるい香水のにおいが混じらないことに、すこしだけ安堵している自分が哀しかった。
 会話は、なにもない。ただ口づけをうけ、肌を、敏感な突起を、剥きだしになった粘膜をいじられ、脚を開かされる。
「ぼうっとすんなよ」
「……っ」
 濡れた指が尻の奥を探り、二本の指で無造作にそこを開く。先端が細くなったジェルボトルのさきを押しこまれた。
「い、や……っ」
 ぬめった音を立て、ジェルが流しこまれてくる。室温と変わらないほどにはぬるいけれど、体内にはやはり冷たく感じるこの瞬間が、千晶は苦手だ。
(気持ち、悪い)
 ぶるりと震えると、摩擦であたためようとするかのように乱暴に指が押しこまれた。
 おざなりといってもいい、愛撫にもならないそれでも、千晶の身体はもどかしく震える。
「こんなんでも感じるのか、おまえは」
 誰がこんな身体にした、という言葉は呑みこみ、喉奥であえぎを噛み殺した。
 目は開けない。ただくちゃくちゃと体内をかきまわす指の動きに集中していれば、すくなくとも快楽は得られる。
(今日は、いれるの早いな)
 ということは、さして機嫌が悪くないらしい。
 将嗣はなにか不愉快なことがあると、セックスがしつこくなる。おまけに延々と続くので、千晶はときどき、本気でヤリ殺されるのではないかと考えることすらある。
 怯えると同時に、それなら、それもいいかと、どこかであきらめていた。もともと彼のオモチャとしてしか必要とされていない身体だ。使い捨てられるのも道理だと、投げやりに納得する自分がいた。
 セックス以外の時間にも、そうして自分を捨ててしまえば、楽なのだろうけれど。
「千晶」
 呼ばれたのは、目を開けろという命令だ。瞼をゆるやかに開くと、きつくつぶっていたせいで潤んだ視界に、男の顔が映る。
 目尻がほんのすこし下がった、くっきりとした二重の瞼。いつも笑っているような顔をしている男は、千晶のまえでだけはあまり笑うことがない。
 冷たく睨むように見据えられ、無表情に見つめ返す。近づく距離にも、目を伏せはしない。将嗣が見ていろと言うのなら、それに従うだけだ。
「……んんっ!」
 口づけを受けたと同時に、いきなり太いモノが押しこまれた。一瞬の衝撃に呻くけれど、慣らされた身体は熱の楔をやすやすと呑みこみ、嬉しげに収縮をはじめてしまう。
「相変わらず、よく食いつく」
 下唇を噛んだ将嗣は、シャツすら脱いでいない。ボトムのファスナーを開き、必要な部分だけを取りだして、全裸の千晶を静かに犯す。
 即物的で情緒もなにもない、一方的なセックス。それでも千晶の全身は燃えるように熱くなり、突きこまれる欲情を嬉しがっている。
「ん、んふ、ううう、うっ」
 ぎしぎし、ぐちゅぐちゅという音のほかには、ひとりぶんの押し殺したあえぎと、ベッドのスプリングが軋む音しか聞こえない。ぬかるんだ肉をかきわけ、開き、ずるずると行き来する逞しいそれのことしか、考えられなくなっていく。
「……風呂の間、勃ちっぱなしだったのか」
「いたっ!」
 はしたなく強ばった性器を、長い指がぴんと弾いた。将嗣の身体の動きにあわせ、ゆらりと揺れる細身のそれは、粘ついた体液を滲ませながらひくついている。
「千晶、こすってほしいなら、そう言え」
「こ、こすって……っ、あ、うああ、や!」
 ねだらせておいて、将嗣はこするどころか、握りつぶすような勢いで手のなかにそれを捕らえた。圧迫感に、射精欲求を煽られていたペニスが痛み、そのくせ指の端からあぶれた先端には、とろとろと透明な雫が滲んでいく。
「い、痛い、いたいってっ」
「ああ、悪いな。ひさびさなんで、加減を忘れた」
 喉奥で笑い、ふっと手の力を緩められる。どっと流れた血流に痺れが走り、さらに敏感になったそれを、今度は羽がかすめるような力でもどかしく刺激された。
 千晶は呻きながら腰を振る。小さな尻は震えながら浮きあがり、すでに将嗣の楔が打ちこまれた場所を起点にして、ぐねぐねと淫らに蠢いている。
「もっと腰、突き出せよ。手が届かねえ」
「ひっ……ひ、あっ」
 いたぶる言葉をかけられながら、緩く輪になった手のひらのなかへと自分の性器を届かせるため、必死になって腰を振る、そのみっともない様を、男はおもしろそうに睥睨した。
 将嗣が千晶をなぶるやりかたは、いつもこうだ。子どもが蝶の羽をおもしろがってむしるように、残酷な喜悦を滲ませた目で、隅々までを観察する。
「もっとだよ。しごいて欲しけりゃ、ちゃんとケツ振れ」
「や、やって、る……っ」
 わざと焦らすやり口に、惨めさを覚える。同時に妙な興奮も襲ってきて、そんな自分が疎ましいと千晶は唇を噛み、卑猥にもほどがある角度に腰を突き出した。
「いい格好だ。そのまま、脚踏ん張ってろ」
「え、あ……っ、あ、あああ、あああ!」
 腰を浮かせた状態のまま、いきなり激しく突きあげられた。もどかしく焦れていた身体に訪れた、強烈すぎる刺激に悲鳴をあげて悶える身体を、強く押さえつけられる。自分の荒れた息がうるさい。おかげで、相手が興奮しているのかどうかなど、まったくわからない。
「い、やだっ、やっあ、ああ!」
「なんで逃げる。してほしかったんだろうが」
 笑いを含んだ声が、ぬろりとした感触とともに耳に吹きこまれる。ぞくぞくと震え、無言でかぶりを振ると、手にしたものをさらに複雑にもてあそばれた。
「ひう、うう、うう」
「声噛むなよ」
 うなずいてみせるけれど、声は出せなかった。反抗しているわけではなく、深く入りこんだ将嗣のそれがすごすぎて、喉が痙攣しているせいだ。
 目があって、ぞくりと千晶は震えた。冷徹な視線が、打ちこまれた楔よりなお深くを暴き出す。身体の芯まで見通すような目に怯え、とっさに顔を逸らすけれど、将嗣は笑うばかりだ。
「いやそうな顔するくせに、濡れ濡れだな」

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