くちびるに蝶の骨~バタフライ・ルージュ~著:崎谷はるひ
「とりあえず、飲み屋のインフォメーションサイト作ってよ。ロゴとか写真とかは、デザイン部門からデータ渡すんで、サイトの構築だけしてくれれば、更新管理は社内でやる」
差しだされたのは、すでにプレオープンに向けて稼働しはじめている店の企画書だ。「わかりました」とうなずいて書類を確認していると、春重が「あのさ」と問いかけてきた。
「あと、ページ単価は毎度のでいいわけ? もうちっとあげてもいいんだけど」
「友人の手伝いって名目なんで、いつもの値段でいいですよ。確定申告面倒くさいし」
千晶の返事に、春重は「欲がないなあ」と呆れたように言った。そのあと、企画書の概要を確認する千晶に、のんびりとした声で言ってのける。
「あいつは、WEB部門に関しては、柳島がうんって言えば、すぐにでも作る気らしいけど?」
ちらりと含みのある視線を向けられ、千晶はうつむいた。すでに何度も提案された事項を、無言のまま受け流した後輩に、春重はため息をついて腕を組む。
「柳島さあ、通販会社のシス担なんかやってたって、さきは見えてるだろ。会社に隠れて内職するんじゃなくて、専任になってくれると助かるんだけどなあ」
「それでも、あっちが俺の本業です。『バタフライ・キス』の仕事はあくまでアルバイトってことで、不定期にお引き受けしてるだけだって、まえにも言ったじゃないですか」
かたくなな表情で言い張ると、春重はため息をついた。
「柳島はプログラムも書けるしWEBデザインだってできるんだから、その気になればもっといろいろできるでしょ。フリーになったっていいんだし、うちなら、おまえのいいように会社作れるよ?」
今後、飲み屋のチェーン展開も考えてるから、仕事はいくらだってあるし。説得しようとする先輩をまえに、千晶は目を伏せ、かぶりを振ってみせた。
「そういう話じゃないんです」
「じゃ、なにが不満なわけよ」
「愛人に仕事世話する発想そのものがいやなんですよ」
ずばり吐き捨てるように告げると、春重はやれやれとため息をついた。
「あのさあ、おまえ――」
なにかを言おうとしたらしく、身を乗り出した彼は、しかし店員がコーヒーを運んできたことで黙らざるを得なかったようだ。
どこにでもある喫茶店の、うまくもまずくもないコーヒーをひとくちすすり、店員が遠ざかったのを見計らって春重は口を開いた。
「愛人てさあ、あいつ奥さんいつの間にこさえたの。十二年も彼氏やってて、同棲までしてんの、柳島だろ」
「そういう意味じゃないのはわかってるくせに」
「頑固だね、おまえも」
千晶がかすかに微笑むと、ひどく冷たい印象になった。心まで冷えきっているとわかる、疲れの滲む表情に、春重はやれやれとため息をつく。
「……ま、それはともかく。飲み屋のほうについては書類に概要があるけど、ちょっと見てくれるかな」
不毛な会話と知ったとたん、春重は頭を切り換えたらしく、ビジネスライクな口調で段取りと企画書の補足をいくつか説明しはじめた。
「トップはフラッシュ使って。素材の写真は渡すから、いつもどおり、そっちで加工してくれると助かる。イメージカラーなんかも書類にあるとおりだけど、なんか質問ある?」
何度か請け負っていた話と大差はなく、サイトデザインと構成を考えれば問題はないと判断する。千晶が「とくには」とかぶりを振ると、彼はスケジュール帳を取りだした。
「んーと……じゃ、来月までに下案くれると助かる。プレオープンまでにサイトの稼働間に合わせたいのね。柳島仕事早いから、毎度の突貫工事で悪いんだけど、〆切とかこれで平気?」
提示された期日は、ぎりぎり辞令の日程まえだ。大丈夫だろうと判断し、千晶はうなずいてみせる。
「平気もなにも、やるしかないんでしょう。先輩の突発の依頼にはもう慣れてますから。写真とかの素材、早めにもらえれば問題ないです」
「悪いね、毎度。頼りにしてるし。ほかにも企画あるんで、次の依頼についてはまた今度」
笑いながら拝んでくる春重が、なにげなく口にした『次』という言葉に一瞬千晶は惑った。そしてしばしの逡巡ののち、口を開いた。
「次って、いつごろでしょうか」
「え? まだ確定はしてないけど、たぶん数カ月後にイベントがあるから、インフォメーションサイトをと思って――」
春重は途中で言葉を切った。形のいい眉を軽くひそめ、小首をかしげてみせる。
「なんかあんの?」
身を乗り出すようにして問いかけてくる彼に、一瞬ごまかそうかと思った。けれど聡い春重相手に通用するほど千晶は口がうまくなかったし、へたな嘘をついても意味はない。
「WEB関係の依頼は、受けられるとは思います。でも、いままでみたいに、こうして打ちあわせたりとかがむずかしくなるかもしれない。会社、忙しくなるんで」
「うん、だからさ。なんで忙しくなるの?」
春重は、あえて穏やかに粘ってきた。通り一遍の返事ではやはり無理なようだ。千晶はすこし視線をずらし、事実だけを述べた。
「いま勤めてる会社、再来月に移転するんです。引っ越し作業があるし、それに伴った異動もあって、昇進になるんです」
淡々とした声で話す千晶の『昇進』という話に、春重は祝いの言葉を口にはしなかった。ただ、いつも笑っているような顔を引き締め、唇を強ばらせる。
「どこに引っ越すの」
「……山梨県ですね。倉庫とオフィスの家賃っつか、経費がもう、まかなえなくなってきてるそうで。山梨には、昔、会社の倉庫用に買った土地で放ってあったのがあるらしいんですよ」
千晶が口にした笑い話に、春重はにこりともしなかった。ふだん、穏和な表情をしていることの多い彼だが、そういう顔をするともとの造りのよさが際だつ。そのぶんだけ、剣呑な迫力も増した。
「知ってます? 最近は、都内の会社の電話サポートとかも、沖縄とか遠方で受けることも多いんですよ。おかげで、土地鑑のないサポート嬢がとんちんかんな返事するトラブルもあるらしいですけど――」
「で、おまえはそれ、あいつに言ってないわけだ?」
話を断ち切った春重に千晶は口を閉ざし、すでに冷めきったコーヒーをすすった。
「いつ決まった?」
鋭い声に、「辞令が下りたのは、先週の話です」と淡々と答える。
「誰が書類の話しろっつったよ。移転の話自体はいつ決まったかくらい、知ってんだろ」
「まあ……俺ら平社員の耳に届いたのは、半年近くまえ、ですか」
春重はいらだったようにスーツのポケットから煙草を取りだしかけ、店内禁煙の文字を見つけて舌打ちをした。
「くそ。どこもかしこも禁煙って、やりづれえな」
「この機会に禁煙されたらいかがです?」
さらりと言うと「できりゃ苦労しないよ」と春重は肩で息をした。
「んで? おまえら、その半年間なに話してたの」
「会話なんか、ろくにありませんから。だいたい、あいつが家に戻るのなんか週に一回あるかないかだし、俺もこのところ、会社の仮眠室に寝泊まりすることが多かったんで」
顔をあわせるのは月に一度あるかないかだと答えると、春重は眉間に皺を寄せた。
「おまえらさあ、その状態っていつぐらいから?」
「さあ……もう、覚えてません」
そもそも、社会人になってからというもの、まともに会話をしたことなどあっただろうか。店を立ちあげたころも、それ以前からも将嗣は多忙を極め、ひどいときには数カ月、自宅に戻らないこともあった。
学生時代には、店の開店資金を稼ぐために、大学そっちのけでホストの仕事に精を出し、けっきょく二年も留年する羽目になっていた。
そして、そのせいで本来ならば二学年下の千晶と出会ってしまった。
ずきりと、過去の痛みが胸を焼く。いつまで経っても苦く重苦しいこの感情を振り払うように、千晶は軽く息を吐いて笑ってみせた。
「王将が忙しいのは、桧山先輩がいちばん知ってるでしょう」
「まあ、そりゃそうだけどさ。あいつ店にいても、年がら年中電話か打ち合わせだし。でも出張関係は、かなり俺に任されてんだけどなあ」
そんなに自宅に戻っていないとは思わなかった。つぶやくように言った春重に、口にするまいとしていた言葉がこぼれていく。
「あいつが外泊するなんて、めずらしい話じゃないですし。あのマンション以外にも、部屋、いくつか持ってるでしょう」
「あ? まあそりゃ、あるけど――」
なにげなく答えようとした春重は「あ」と目をまるくした。
「なるほど。それで愛人。ほかの部屋に誰かいるんじゃ、とか考えてるわけだ?」
千晶が薄く嗤うと、春重は呆れたように目をしばたたかせた。
「ちょっと柳島、それ被害妄想きわまってない? いまのあいつ、そこまで暇じゃねえし。そもそも部屋があるのは、ぜんぶホスト連中とか店員の寮で、たまに仮眠に使ってるわけでさ」
「……知ってますよ」
千晶の浮かべた笑みの意味には気づかないのか、春重はなおも説明しようとする。
「本店のルーク(ナンバー2)の勇気だって、まだ寮にいるくらいだし、将嗣の動向なんか調べりゃすぐに」
「ええ、だから、知ってるんですよ」
千晶は苦笑した。そして、歌謡曲や演歌に出てくる嫉妬深い女のように、むやみに不安になっているわけではないとかぶりを振る。
「あのですね、王将が――将嗣じゃなくて『王将』が、どうやってあの短期間に、太客掴んで金貯めたのか、その客をどうやって虜にしたのか、俺、ぜんぶ知ってるんですってば」
「知ってるって、だからそれは」
彼がどうにかフォローをいれられないかと頭を巡らせるまえに、千晶はさばさばと言った。
「いまさらだけど、ぶっちゃけますね。あいつが女とやってるとこ、直に見たの一回や二回じゃないんですよ。堂々、いっしょに暮らしてる部屋に連れこんでましたから」
うっと春重がつまった。ぐうの音も出ない話に、彼は顔をしかめている。
「それは……あのころは、仕事だったからで」
「そうですね。それがいやならホストとなんかつきあえない」
わかっているとうなずくと、春重はなんとも言えない顔をした。千晶よりよほど饒舌な彼が言葉を探す羽目になっているのが、こんな状況だというのに、おかしかった。
「でもね、それこそ日本人的な押しつけ方法なんですよ。こっちが強く言えないのをわかってて、開き直って『いやならそう言え』って言われたら、ふつうの日本人は文句言えません。まあそれ以前に、あいつ相手に言っても無駄だってあきらめましたけど」
さきほどの軽口を逆手に取られ、春重は黙るしかなかったらしい。
「だいたい、俺がなんか文句言うでしょう。で、不満があるならかわいがってやるって、なにすると思います?」
「聞きたくないけど一応、なに?」
「こっちがぶっ倒れるまでやりまくりですよ。ほんと、あの体力にだけは感心しますけど」
春重は、さすがにいやな顔を隠せなかったようだ。
別れ話を切りだしたあとのセックスは、ほとんど拷問じみている。あげくぼろぼろになった千晶が泣きながら「そばにいる」と口にするや、仕事だと言い放って女のところに機嫌を取る電話をかけるのだと補足すると、彼はますます顔を歪めた。
「先輩だって、まったく知らなかったわけじゃないでしょう。大学のころ、俺、何度か体調不良で学校行けなかったし」
指摘すると、春重は気まずそうな顔をした。
「あー、その。あのころは若気の至りかと思ってたけど、まさか……」
「あのころから変わってないです。逃げたらセックスで屈服させられる、同じパターンの繰り返し。俺はそれ、二十歳からずーっと耐えてきましたけど、まだ我慢しないとだめですかね」
「いや……」
あけすけな告白に、春重はかなり動揺しているようだった。さきほど喫煙できないとぶつくさ言ったばかりなのに、また煙草のケースを取り出そうとしては舌打ちしている。
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