千坪以上ある大きな日本家屋など、京都で重要文化財になっているものか、もしくはヤクザの大親分の屋敷くらいでしかお目にかかれないだろう。
山まで続く庭を入れたら、もうどれくらい敷地の広さがあるかわからない。柊杞と出会った滝までを庭としても、おそらく東京ドーム二つ分以上は余裕であると思われる。
実際、この観之島全体が柊杞の私有地なのだ。
本州側から船で約一時間で来られることから、真珠の加工工場などで働く者は通いの者が多い。だが柊杞のこの屋敷には、中年から老人の十数人の男女が住み込みで働いているようだった。
屋敷は築百年以上のようでかなり古いが、掃除などは完璧にされ、その美しい趣はまさに日本の美といった風情が感じられる。
本邸から渡り廊下で繋がっている離れが、客人用に建てられたものらしい。
高級和風旅館のような和室は、木材に高級な桧を使い、美しい襖絵や掛け軸で飾られていた。そこで望月は海の幸をふんだんに使った和食を御馳走になる。
この離島で、屋敷といい庭といい、贅を尽くしたこれだけのものを維持するとなると当然かなりの経費がかかると思われる。
だが彼らは真珠の養殖や漁業でしっかり生計を立てているので、金策には苦労せず、収入も安定しているのだろう。
信者の献金で収入を得ようとする宗教団体だと、どうしてもマルチ商法のようになってきて、叩かなくても黒い噂が出てくるものだ。
この島に来る前に漁協などで話を聞いてみたところ、真珠の養殖事業も柊杞を会長兼社長にし、ちゃんと有限会社として経営している。実にしっかりとした島民たちだ。
(現人神ってーのさえなけりゃ、ぜんぜん普通なんだけどな)
自然に囲まれた美しい島。そこで育った天然真珠のように美しい白い肌の、現人神。
確かに神話の世界のようだ。
しかし、もちろんジャーナリストであり超現実主義者の望月は、鼻で笑いたくなる。
柊杞の性別を越えて人を惹きつける、あの麗しさだけは――認めてもいいが。
ともかく、自分の使命は彼らを陥れる記事を書き、この島で滞りなく津村建設の工事が始まるようにすることだけだ。
食事が終わった頃を見計らったのか、佐吉が望月を呼びに来た。
「柊杞様が、お前と話をしたいそうだ」
「それって取材OKってことですよね?」
ことが順調に運び微笑む望月を、佐吉は不満げにジロリと睨む。
「もし柊杞様に失礼なことをしでかしたら、直ちに追い出すぞ」
「そんなことはしませんって」
取材の真の目的が目的なので、適当な質問をしてそれなりの格好を保てばいいだけだ。望月に気負いはまったくない。
佐吉の後に続き、渡り廊下を通る。赤、白、紫や橙のツツジが見事に咲き誇る美しい庭を見つつ、いよいよ本殿に入る。
木目に顔が映りそうなほど磨き上げられた艶やかな廊下といい見事な彫刻の施された欄間といい、離れ以上に立派な造りだ。ここに現人神が代々住んできたのだろう。
美しい花鳥風月の描かれた襖を佐吉が跪いて開き、これまでで一番豪華な和室へと通された。
奥には御簾が下りており、そこに柊杞が来るらしい。
入り口の所から佐吉が「正座し、頭を下げて待っていろ」と伝えてくる。
(はいはい。わかりましたよ)
思ったより面倒な取材に内心でため息をついた望月は、言われたように正座で座わり、頭を下げた。
すると、こちらとの間を仕切っていた御簾がゆっくりと上がる気配がする。まるで時代劇で将軍様に家臣が拝謁するようなシチュエーションだ。
御簾が上がると、聞き覚えのあるよく通る声で「顔を上げろ」と声がかかる。
言われるまま顔を上げると、高座には柊杞が座っていた。
滝で会った時は湯帷子だったが、神様なのだから、いったい普段はどんな格好をしているのかと興味があった。
しかし柊杞は、白いシャツにスラックスというあまりにも面白みのない清楚な服装だ。
おそらく、柊杞に仕える年配のご婦人が選んでいるのだろう。
(皇室ファッションと通じるものがあるな)
でもそれが美しい顔立ちと姿勢の正しさと相まって、柊杞の溢れる気品をさらに際立たせていた。
初めてここに通される島民や信者は、柊杞から充分に神聖なカリスマを感じるだろう。
不謹慎と自覚している望月は、ひたすら呆気に取られるだけだが。
しかし、嘲るような態度は許されない。入り口すぐの下座には、佐吉が控えていた。薙刀もすぐに手の届く場所にある。
正式に招かれているとはいえ、ここで『自分が神様だなんて、本気で思ってるのか?』などといった発言をすれば、今度こそ串刺しにされて海に投げ込まれるだろう。
柊杞が声をかけてくる。
「望月、お前は記者だそうだな?」
澄んだ瞳でこちらを真っすぐに見つめ、興味津々といった感じだ。これではどちらが取材対象かわからない。
「まぁ、一応」
望月が苦笑を交えて答えると、柊杞は少し声を強くして問い返してきた。
「一応というのはどういうことだ? 完全な記者ではないということか?」
神様は、どうやらはっきりしない物言いや曖昧な言葉は嫌いらしい。
真っすぐにこちらを見つめて問いただしてくるのは、正直さからかもしれないが。
機嫌を損ねられても困るので、すぐに望月は言い直した。
「雑誌『YAMATO』第一編集部の記者です。これが名刺です」
名刺をスッと畳に置くと、佐吉がそれを拾い柊杞に差し出す。それを一瞬チラリと見やっただけで、すぐに柊杞は佐吉に名刺を返してしまった。
「そうか。最初から素直にそう言えばいい」
(ったく、偉そうに)
完全にこちらを見下した態度や物言いには、やはりカチンとくる。報酬のいい仕事でなかったら、バカバカしくてやっていられないところだ。
望月の内心も知らず、納得したらしい柊杞が続ける。
「今朝は気分がすぐれなかったが、もうだいぶよくなった。答えられることなら答えてやろう」
ドタキャンしようとしたことに対しては、当然のように詫びの言葉はない。まぁ、不法侵入したこちらもこちらではあるが。
「では、さっそく。柊杞様が現人神になった経緯を教えてください」
「わかった」
望月は持ってきたレコーダーは取り出さず、筆記用具のみで取材を始めた。どうせ適当に書くのだから、メモと頭で覚えられるだけで充分に思えてきたのだ。
柊杞の話によると、彼の年齢は二十一歳。
この島の現人神の歴史は古く、なんと室町時代から五百年近く続いているらしい。
現人神は男性だけで、先代の神は柊杞の曾祖父にあたり、『槐珠』という名であったそうだ。
神の名は、樹木の名から一字と音を取るという。
柊杞は、過去に遡り延々と神の名をつらつらと語っていたが、望月には過去の神の詳しい名などどうでもよかったので、メモを取るふりだけして聞き流していた。
男が受け継いできた観之島の現人神の座だが、御子に男児が生まれにくいという血統らしく、槐珠もついに男児には恵まれなかったそうだ。
その後、二世代を経てようやく生まれた直系の男児が柊杞だという。
柊杞が生まれた時に、すでに槐珠は亡くなっていたので、柊杞は生まれたと同時にこの島の神になったと誇らしげに語った。
だいたいのあらましはわかったので、望月は続けて質問する。
「では、柊杞様のご両親は、今はどうしているのですか?」
すると、柊杞はきっぱりと強い口調で返してきた。
「私はこの島を守る神として生まれた。ゆえに人間のように、両親などは存在しない。女の腹を借りて天下りしてきたのだ」
「そう…ですか」
(人間、狼に育てられれば狼になっちまうからな)
生まれてすぐここで神様として育てられた柊杞は、すっかり身も心も神様になってしまったのだろう。
これは人格形成において問題だ。誇大妄想というか自己認識の錯誤というか、誠に気の毒な状況である。
(ある意味天然? でもこんなの、なんか昔にコントや映画であったなぁ)
自分を神様だと思っている男。そんなのは、滑稽でギャグでしかありえない。
しかし、柊杞本人は心の底から本気で真剣に、自分を神様だと思っているのだ。
神様コントを思い出し、つい笑いが込み上げそうになったのを望月は堪える。顎髭を撫でるように口元を押さえて柊杞に言った。
「すみません。足、崩していいですか?」
慣れない正座をするのも、そろそろ辛くなってきた。しかし何よりも、この取材がバカバカしく思えてきたので、とてもきちんと正座で聞いてなどいられないのだ。
だが、途端に佐吉が大声で怒りだし、薙刀を手に詰め寄ってきた。
「柊杞様に何を言うっ、この無礼者がっ!」
だが、柊杞はそれをやんわりと制する。
「かまわない。東京の者は正座に慣れていないのだろう」
「しかし、柊杞様の御前で足を崩すなど」
「よいではないか」
柊杞は望月に破格の待遇をするつもりらしい。それを感じた望月は、佐吉に不敵に笑ってみせる。
「男の胡座は、それほど大きく作法から外れてないと思いますが?」
「……」
望月に苦々しい顔を見せて佐吉は黙り、再び下座へと戻っていく。すべての決定権は柊杞にあるのだ。
望月は柊杞の一日の行動を聞いたりして、取材を進める。
この島には照明以外、ほとんど電気製品がない。基本的には日の出とともに起きて、日没後しばらくして眠るという、夜遊び好きの望月にとってはゾッとするような生活を送っているらしい。
一番重んじているのは、先祖である神々へ祈りを捧げることだ。