一人とハナ
アパートの階段をあがって二階奥の自宅前を見やると、ドア横に見知らぬ少年が座りこんでいた。
一日仕事をして疲れた身体に、さらなる疲労がのしかかってきてため息が洩れる。
「……おい、どいてくれないか」
近づいて軽く押すようにして蹴ると、膝を抱えて眠りこけている少年の上半身と、頭のてっぺんではねている髪が小さく揺れた。
紺色のダッフルコートを着てジーンズを穿き、裸足にぼろのスニーカー。それとリュックひとつ。酔っ払いの学生っぽいが、そうだとしてもわざわざ二階で潰れるのはおかしくないだろうか。
彼が顔をあげた。
「──……かずと、」
大きな瞳が光をとりこんできらめく。
深夜でもどこかでこぼれるわずかな残光をひき寄せる、彼はそういう不思議な少年だった。
1
ばあちゃんがいる介護施設は都心から車で二時間半ほど走った中伊豆にある。
山の中腹に建っていて、すぐそばには透きとおった碧くて美しい川もながれており、春は桜や藤、夏は虫の音、秋は紅葉、冬は富士山の雪化粧、と四季を存分に堪能できる自然豊かなところだ。
駐車場に車をとめて外へでると風の香の違いを知る。木々や山水の、生気を内包した透徹した匂い。体内の汚れが浄化していく愉悦感を覚える。
受付に挨拶してすれ違う介護士さんとも「こんにちは」と言葉をかわし、ばあちゃんの部屋へいく。ベッドに腰かけて介護士さんと談笑していたばあちゃんは、俺に気づくと嬉しそうに微笑んだ。介護施設ではばあちゃんたちを〝患者〟ではなく〝入居者さん〟と呼ぶことも、俺はここで知った。
「──でさ、そいつ自分はハナだって言うんだよ。恩返しにきたって」
「へえ……ふふ、面白いねえ」
「面白かないよ、こんなふざけた話。酔っ払いかと思ったら意識もはっきりしてるし、真顔で真剣に、本気で言ってるんだ。所持品もリュックひとつでろくなものが入ってない、どうかしてるでしょ? だから検証することにしたよ。本当にハナならかまわない、でも嘘だったら許さない」
「ふふふ」
「ばあちゃん、笑ってないでさ……どうだろう、俺は正しいと思う?」
すり林檎をスプーンで掬ってばあちゃんに食べさせてあげながら、何度目かのため息をついた。
ハナはじいちゃんとばあちゃんが飼っていた猫だ。じいちゃんが亡くなり、ばあちゃんも認知症の症状が出始めて施設へ入ると決まった日、俺がひきとった。黒い甘えん坊の猫で、去年天国へ旅立ってすぐばあちゃんにも伝えたが、ハナの不在をいまのばあちゃんが理解しているかどうかはあやしい。昨夜突然現れた少年は、自分がそのハナだ、と名乗った。
「ハナは一人の名前を知っていたんでしょう?」
「そうなんだよ、俺のこと『かずと』って呼び捨ててくる。でもそれだって昔ばあちゃんちのそばに住んでた子どもって可能性ないかな。俺とハナを知ってるひとは近所にもいたでしょう」
「んー……」
ばあちゃんは考えているのか困っているのか判然としない苦笑いを浮かべた。
「いいじゃない、仲よくしてあげれば」
鷹揚で博愛的なばあちゃんらしい結論が返ってくる。
小学生のころ俺が家出をしたときも、ばあちゃんはこんなふうに微笑んで迎え入れてくれた。
「……俺はばあちゃんほど優しくない」
拗ねた子どものような口調になった、と自分でわかった。
「ふふふ。優しいよ、一人は」
まったく成長していない俺に、ばあちゃんは笑顔をむけ続けてくれている。優しいなんて言葉は、俺にもっとも不似合いだ。
視線をさげた先に、真っ白くふくらかな布団の上で横たわるばあちゃんのしわがれた左手がある。あの日十一歳だった俺の目の前にもあった手。当時はもっと艶めいて瑞々しく、生命力に満ちていた。
家にいられない、と喉から絞りだしてなんとか吐きだせた懊悩。それ以上なにも訊かず、この手で俺をひき寄せてなかへ入れてくれたばあちゃん。
──頑張ったねえ……辛かったねえ。
後頭部と背中にばあちゃんの掌が食いこんできて、髪とシャツが乱れるほど強引に撫でまわされた。この手はなにかを愛し、包むためにある手なのだと、幼い心で理解した。
「……ねえばあちゃん」
「ん?」
四人部屋の右奥がばあちゃんのベッドで、横の窓のむこうには山の稜線と木々がひろがっている。
いよいよひとり暮らしが難しくなったらこの施設で余生を過ごす、と自分の意志で毅然と計画して実行したばあちゃんは、頭のいい、淋しいひとだった。
「俺がいないとき誰かきた?」
ばあちゃんは父さんの母親で、父さんは三人兄弟の次男だ。
「毎日えりちゃんがきてくれるよ。えりちゃんはね──」
ばあちゃんが介護士の山田さんに散歩へ連れていってもらったのがどんなに楽しいひとときだったのかを語り始める。竹林の散歩道を歩き、橋から川を見おろしたこと、埋もれた石の全体が見えるほどの川の透明度に驚いたこと、あまりの寒さに笑ってしまったこと──。
息子たちと親戚の名前や気配は一切でてこない。現実にはびこっているどす黒く薄汚い物事のなにもかもを薙ぎ払い、無欲と純粋のみをまとっている屈託のない笑顔。その幸福そうなまばゆさ。
「……よかったねばあちゃん。あとで俺も山田さんにお礼を言っておくよ」
ばあちゃんは世界でたったひとりの俺の味方で、俺もばあちゃんのただひとりの味方だ。
ハナはじいちゃんとばあちゃんの家に突然現れた野良猫で、家族になったあと十八年間生きていた。俺は小学六年生から高校卒業までの約七年間をふたりの家で過ごしていたので、ハナをひきとったのちの数年も含めると彼の人生の半分以上は一緒に暮らしたことになる。
庭つきの木造平屋という昔ながらの老夫婦の家にはふたりが植えたたくさんの植物が咲きほこり、小さな黒猫はその花壇に現れたことでハナと名づけられた。隣で揺れていたのは白いオオアマナ。
「おかえりなさい」
いつものように無言で家へ入って靴を脱いでいると、昨夜拾った少年がやってきた。帰宅すると、ハナはいつも鍵がひらくより先に足音で俺を察知して、玄関までこうして駆け寄って迎えてくれた。
黙っている俺を見あげて、少年は大きな瞳をまたたいて当惑する。
「……ごめんなさい。ほかにいくあてがなくて、その……まだ、いました」
唇の端を居心地悪そうにゆがませて、苦々しい笑みをつくる。ハナも人間に怯えてこんな苦笑いをしていたことがあったのだろうか。
「おうちのひとが心配してるんじゃないの」
「ないんだよ家、本当に」
「きみが未成年なら俺は誘拐犯になる。ハナのことも、ちゃんと迷惑を考えて嘘をついてね」
「嘘……」と嘆息を洩らし、少年がうな垂れる。身長は百五十センチもなさそうな低さで手脚は細い。昨夜『二十歳です』ときっぱり言い放っていたが、実際は高校生か、それより若いのかもしれない。昨日もダッフルコートの下に着ていた白い長袖ヘンリーネックシャツが薄汚れてよれている。
短い廊下をすすんでリビングを横切り、隣の自室でコートを脱いでいると彼もやってきた。叱られて廊下に立たされている子どもみたいに、部屋のドア横でうつむいている。
「恩返しがしたいっていうなら夕飯の支度ぐらいできてるんだよね。掃除と洗濯は?」
ぱっと顔をあげた少年の表情が華やいだ。
「今日は時間がなくてできなかったけど、してもいいなら明日からするよ。でも料理は苦手で……」
「時間がないってなに、日がな一日ごろごろしてたんじゃないの」
「いや、えと……すこしでかけてました」
横目で睨みつけると、また右の口端をひきつらせてへらりと苦笑した。
俺は自分の部屋を他人に無秩序に荒らされるのが嫌いだ。それに、じいちゃんとばあちゃんの家にいたころハナはひとりで散歩へいくこともあったし、餌は家族にねだるばかりだった。
頭を打ちふって、衣装ケースから黄色いパーカーをだして放った。え、と驚いた表情をした少年が反射的に受けとり、俺を見返してくる。
「汚い格好で部屋をうろつかないでほしい」
「……あり、がとう」
猫は風邪をひいて重症化するとよくないとばあちゃんから聞いたことがある。……はあ、と自分に呆れてため息を吐き捨て、キッチンへ移動して料理を始めた。
ハナはおよそ猫のイメージとはかけ離れた子だったと思う。
素っ気ないとか気まぐれとか、そんな淡泊な性格ではなく、暑い夏でも俺たちの傍にいたがった。餌が欲しくなったら媚びを売るとか、遊んでほしいときだけ甘えてくるとかいう自己中心的な下心も感じさせない。
じいちゃんが野菜の苗に水やりをしている横で一緒にはしゃいだり、編みものをするばあちゃんの膝で眠ったり、泣いている俺をじっと見つめてなあなあ叫びながら慰めてくれたりした。
じいちゃんがいなくなってばあちゃんも施設へいき、住み慣れた家をでて俺のうちへやってくると、甘えん坊に淋しがりも加わり、俺についてまわるようになった。
トイレや風呂へいくたび、ドアの外で鳴いている。出勤前は玄関までついてきて脚にまとわりつき離れない。
猫は家につくという。『祖母がいなくなったうえに引っ越しもしたせいで心が弱ってしまったんでしょうか』と医者に相談したら『それもあるでしょうがもともとの性格なんでしょうね』と愛しさと切なさのまざった笑みでハナの頭を撫でてくれた。じいちゃんとばあちゃんが暮らしていたあの家は、いまはもうない。
だからハナの死期が近づいているとわかったとき、俺は有休をつかって家で過ごし、一週間ずっとハナの傍にいた。そうして最期を看取ってじいちゃんのもとへ送り届けた。
「きみ、魚と肉どっちが好き」
「どっちも。強いていうなら鶏肉」
キッチンに立つ俺の斜めうしろに寄り添って、少年はハナとして百点満点の返答をする。
猫は魚も肉も食べるが肉食で、ハナはササミ入りのウエットフードをもっとも好んで食べた。俺とふたり暮らしを始めて、初めて食べさせてやったおやつ系のドライフードは魚も肉も〝こんな美味しいもの知らない!〟という勢いでむさぼり食べていたけれど。
俺に料理を教えてくれたのはばあちゃんだ。家出をして世話になっていた引け目もあり、じいちゃんとばあちゃんの手伝いを率先してやったおかげで身についたことのひとつ。たいした腕があるわけじゃないが、家庭料理程度ならひとりで作れる。
塩だれの鶏肉野菜炒めと、トマトとチーズのオムレツ、それにほうれん草の味噌汁が完成すると、テーブルに並べて少年とふたりで席についた。
「いただきます! わ~……美味しそう、ありがとうかずと」
喜んで割り箸を持ち、味噌汁をすすって「はあ」と感嘆の声をあげてから炒めものへ手をのばす。小学生か、あるいは幼稚園児かというぐらい不器用で独特な箸の持ちかたをしている。
「わざと?」
「え」
顎で右手をしめすと、彼ははっとした。
「あ、いや……これがいちばん持ちやすくて」
どうしたって食事しづらそうな格好で言う。
「こうだよ」と俺は自分の右手を突きだしてなおすよううながした。目をまるめた彼は俺の手を見本にして懸命に指同士をこすりあわせ、割り箸を落としそうにしつつなんとかきちんと握る。
「あ、りがとう……」
正しいのに明らかに料理がとりにくくなり、箸と闘いながらぎこちなく食事をすすめていく。そのしぐさにも嘘は感じられなかった。
俺も味噌汁をひとくち飲んでから野菜炒めに箸を入れる。
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