野菜サラダとオレンジジュースのパックもかごに入れ、目についたお菓子もいくつか放ると、レジへ移動して会計した。
「重たい~……いっぱい買ってもらっちゃったね、ごめんね、ありがとうかずと」
袋を抱えて少年が苦しそうに、嬉しそうに礼を言う。夜の外灯の下で、瞳と笑顔をきらめかせて。
「細いくせにわざわざこっち持つからだろ」
少年の手から大きな袋をとりあげて、かわりにスナック菓子しか入っていない軽く小さな袋を渡した。「ああ、ごめん……ありがとう」とおなじ礼をくり返す。
突然ぐわおん! と犬が吠えて、少年が「うわあ」と飛びあがった。横の民家の厳重な犬小屋のなかで黒くて巨大な犬がぐるぐる唸っていて〝猛犬注意〟のプレートもある。
少年はよろけて俺の肩にぶつかり、俺はつい「ははっ」と吹いてしまった。怯えた顔の危機迫ったようすが大げさで、猫耳が垂れている姿まで想像できておかしかった。
「怖がりすぎ」
「怖いよっ」
「猫の天敵か」
眼鏡のずれをなおして笑いながら歩いた。……笑ったのなんていつぶりだろう。思い出せないほど遥か昔ぶりだ。コンビニで温もったのに、外はまた氷のような風が吹きすさんでいて肌も凍えていく。しかし普段は上も下も右も左も、四方を闇に覆われて閉塞感すら覚える夜道がなぜか心地よかった。冷たい空気を肺の底まで吸いこんでゆっくりと吐きだす。両腕も足腰も軽くてのびやかで、自由で、このまままだどこかへいきたいもの足りなさも胸で燻っている。
思えば、仕事を終えて帰宅したあと外出することなどほとんどなかった。動く気になれなかったし、朝がくればまた現実が始まる、と考えると寝るだけで精いっぱいだった。それに夜も嫌いだ。
なのに今夜は息がしやすかった。雲の上をスキップしているみたいに気分が大胆で高揚していた。昼間、ばあちゃんのことなど度外視で自分たちの都合ばかり優先した母さんの身勝手な文句も、斉城さんの気の利きすぎる慰めも、全部が遠くてここにはない。
「オリオン座」
少年がまた夜空を指さして、ふふ、と笑いかけてくる。髪がいくつか細い束になって、頭の上と、耳横で、さらさらながれている。夜だろうとこの子の顔はやけに白く眩しい。
彼の指先をたどって俺も夜空を見あげた。俺たちがどんなに自由にのびのびと世界を闊歩しているつもりでも、星はほとんどおなじ位置から悠然とこちらを見おろしている。
「星にとっては、俺らはありんこの大旅行だね」
「え?」
「どこまで遠くへいっても〝ちょっとしかすすんでないぞ〟って笑って見てる」
「ああ……そう思うと憎たらしいね」
機嫌よく笑っていた少年が、「ありんこも一生懸命なんだぞ」と星を睨んで唇をへの字にまげた。顎にまるくしわができて愛らしい。
「猫になったりありんこになったり、大忙しだな」
耳の先が冷たくなってきた。少年は水色のパーカーの上にダッフルコートを羽織っている。長く愛用しているみたいに、トグル部分の紐が黒ずんで汚れている。
「帽子に帽子だぞ」
「ん?」
右手でパーカーとコートの帽子をまとめてひっぱって被せてやったら、「あ」と目をまるめてからまた「あははっ」と無邪気に笑った。黒い髪も艶めいて輝いている。笑う少年に光が集まってくる。猫は寒がりだから、マフラーも買ってやるべきだったかもしれない。
また新しい朝がくる。
「──ねえかずと、これめくってもいい?」
顔を洗って前髪を濡らして戻ってきた少年が、ダイニングの壁に飾っている日めくりカレンダーの前でふりむく。下には合鍵を収納している棚があり、電話台にもなっている。
「いいけど届く?」
「うん」と背伸びをして、彼は自分の目線よりだいぶ高い位置にあるカレンダーへ手をのばし千切る。もう一週間ほどめくっていなかったそれを、ちりりちりりと続けて千切って今日の日づけにした。
「できあがり。じゃあ朝ご飯にしよう、俺パン焼くね」
にっこり笑う少年の頬に、窓から入る朝陽がおりて白く照っていた。
日めくりカレンダーはじいちゃんとばあちゃんが毎年必ず買って飾っていたのを真似して、ひとり暮らしを始めたとき自分の家にも用意した。でもハナがいなくなってからめくるのを億劫に感じて、放置しがちになっていた。何日経過しても数週間前の日づけのまま。
「俺カレンダー係になってもいい? あれ千切るの好き」
食事を始めると、パンを頬張りながら少年が無邪気に笑った。
「いいよ」
フォークでサラダのレタスを刺して口に入れる。「ありがとう」と少年もフォークをとってサラダのプチトマトを食べる。
子どものころは俺も好きだった。薄いトレーシングペーパーみたいな紙を綺麗に千切っていく感触。中央に印字された大きな日づけがまたひとつすすむ瞬間。じいちゃんとばあちゃんとハナの三人で暮らしていたあの家でいつしか俺の役目になっていた仕事。〝今日〟に恐れるものなどなにもない、と錯覚していられたひととき。
「フォークなら楽そうだな」
「ん?」
箸と違ってしっかり握り、自在に操っている。その右手を視線だけでしめすと、「ああ」と気づいてから情けなげに、へへ、と苦笑した。
サラダの入っているガラスの器にフォークがぶつかって、ひかえめな音でかちんかちんと鳴る。焼いたパンもさくりと小気味よく少年の口に咀嚼されていく。オレンジジュースが入ったふたつのグラスはさっきから朝陽に晒されて縁が輝き、影をのばしていた。朝はこんなに優雅だっただろうか。
朝食を食べなくなったのもハナがいなくなってからだ。うるさいアラームを消して、なんとかベッドを這いでて、努力して着替えて、重たい身体を玄関へ運んでどうにかでかける。そうやって一日を無理やり始めるのだけで限界だった。
「今夜、六時半に駅においで」
「え、なんで、」
少年の表情に不安の影がさした。
「鍵の位置はわかってるよね。あけっぱなしでこないように、いいね」
困惑しつつも「……わかった」とうなずく。
「べつに警察や保健所に突きだそうってわけじゃないよ。買い物にいこう」
怯えさせたかったわけではないので罪悪感が芽生える。
「へ……」
目をまるく見ひらいた彼が晴れた表情に戻ったのを確認し、内心ほっとした。
「六時半だよ」
念を押してオレンジジュースを飲む。「はい!」と笑った彼も、おなじようにグラスをとってオレンジジュースをぐっと飲んだ。
……ひさびさに健康的な朝を過ごした反動か、身体がついていかず胃腸がもたれた。仕事にならないので医務室へいって胃薬をもらい、休憩室で水を買って飲む。ソファに腰かけて気分の悪さが落ちつくのを待った。
「──そうそう、謎だよね、なんで親が会社に電話してくるんだって」
「入社当時かららしいよ、親にスマホの番号教えてないんじゃない? 仲悪そうだし」
ふいに隣の給湯室から女性たちの話し声が聞こえてきて、ああ、自分のことだな、と察知した。
「社員とも親しくしないよね。仕事では気が利くし優しいんだけど、心ひらいてないのあからさま」
「ね~、孤立気味っていうか。会社で上辺のつきあいするのもわかるけどさ、須賀さんって同期とも距離おいてるでしょ。同期呑みに誘うのやめたって加藤さん言ってたよ」
「つら」
入社後の研修期間中、斉城さんに『給湯室には近づくなよ』と忠告されたことがあった。『隣の休憩室にも長居するな』と。どうしてですか、と訊き返すと、口角をあげてやたらとハンサムに微笑み、『そのうちわかるよ』と締めくくった。
いまでは当然その理由も理解していたが、ここ以外に逃げ場がない。しかたない、オフィスに戻るか……、と上体をもたげて前髪を掻きあげた瞬間、ぽんと背中を叩かれた。斉城さんだ。
「でも須賀さん悪いひとじゃないよ、猫の看病のために一週間有休とるひとだよ? 可愛くない?」
「去年のあれね」
「そう、有休なんてあまりとらないのにいきなり〝しばらく休みたい、期間もはっきり言えない〟って言いだしてね」
「あのとき斉城部長もさ、最初〝理由を言え〟って不機嫌だったのに、須賀さんが〝猫が病気だ〟ってこたえたら『なら好きにしな』って甘やかしたよね、ウケた~」
「部長、須賀さん好きすぎるでしょ」
「憐れんでるんだよ、友だちいないから」
「しょっちゅうふたりでお昼ご飯食べにいくしね」
「あれは抱かれてるよ」
ぎゃははは、と甲高い嗤い声が響いて、斉城さんも吹きだすのを堪えて口を押さえた。腕を強引にひっぱられて連れだされる。
「……いや~、怖いね給湯室の噂話は」
屋上まで続く外の非常階段へくると、斉城さんは胸ポケットから煙草をだして口に銜え、火を点けた。そうか、ここがあったな、秘密の逃げ場所。
「抱かれてるって、俺と須賀のどっちがタチネコで想像されてたんだろうな?」
「……。さあ、どっちでも変わらないんじゃないですか」
「変わるだろ、おまえ童貞っぽいし。俺が抱かれたらきっと尻が傷つく」
斉城さんの薄い唇から白い煙がふうとまっすぐ吐きだされて空へのぼっていく。
今日も晴天で空は青々と晴れ渡っている。だが雲がないから見あげていると青一面の天井に追い詰められていくような圧迫感を覚えた。まだ胃もむかつく。
持っていたペットボトルの水を飲んだ。眼下に見える大通りから車のクラクションが響く。幼い子どもがはしゃいで走る笑い声と、待ちなさいと叱る母親の声。キーと街を劈く自転車のブレーキ音。
異世界かと見紛うほど、オフィスとここでは時間のながれが違う。のどかすぎる街を眺めて斉城さんがふうと煙を吹く静謐なリズムを、二度ほど聴いた。
「須賀。俺は憐れんで他人を抱いたりしないよ。抱くときは現実から逃れたいから抱く。仕事のことも人間関係も、煩わしいこと全部すっ飛んで正気を失うだろ、あれがいいんだよ」
「童貞にはわかりかねますね」
「拗ねるな拗ねるな」
笑いながら階下を見おろして、斉城さんは「ぽろぽろ」と子どもがいたずらをするみたいに平和な下界の街へ灰を落とす。それも風にながされて細かな粒になって消えていく。
「ていうかおまえさ、隠したいならもっとうまくやれよ。そんな態度じゃ簡単にばれるぞ」
「それは未経験なことですか、性指向のことですか」
す、と唇から煙草をとって、斉城さんが俺の口を掌で覆うようにしながらそれをつけてきた。茫然と見返すと、眼鏡越しの瞼を細めて長い睫毛を揺らし、微苦笑している彼がいた。
「どっちもだろ」
吸うでもなくただ煙草を銜えて黙していたら、「はは」と笑った彼が自分の唇に戻した。吸いこむ瞬間だけ先端の火がオレンジ色に輝く。そしてまた彼の口から煙になって空にまぎれていく。
「……奥さんを抱いていても現実から逃れたくなるんですか」
訊ねると、彼は薄く笑んで視線を空へ転じた。
「もう長いこと抱いてないんだよなあ……」
唇の内側付近に煙草の余韻が残って苦い。
携帯灰皿をだして、斉城さんが煙草を消した。「そろそろ戻るぞ」と上司の声色で言う。
「間接キスしちゃったな」
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