試し読み

 たぷん、ざざ、さらさら、と波音は続いている。夜陰に隆々とそびえるプラントもいまだ強烈な光を放ち続けている。金色、赤色、青色、白色の光の束。目をとじたくなるぐらい眩しい輝きの塊。
 隣を見やると、少年がひっそりと微笑んでいる。夜を満たす極彩色の光たちはすべて彼を輝かせるために息づいているかのようだった。



 少年がうちへきてから二週間が経った。
「──ハナ君は元気?」
 ばあちゃんは二週間前に俺が罵った少年のことをなぜかきちんと憶えていて、先週も今日も話題にした。「うん……」と低くこたえる。
「ばあちゃんは他人がハナの名前を騙ってて腹が立たないの?」
 ばあちゃんの前にくると自分は口調も態度も小学生に退行するなと思う。
「ハナは家族でしょう?」
 微笑みを崩さずにばあちゃんが言う。
「あの子どもみたいな少年を、ばあちゃんはハナだと思うんだ?」
 手のなかにあるすり林檎をスプーンで掻きまわしながら応戦した。
「一人を慕ってくれるならハナだよ」
 ぐっと返答に詰まってたじろぐ。……そのこたえは狡いだろう。
 敗北を認めてため息をこぼし、すり林檎を労りつつ整えてスプーンで掬った。ばあちゃんの口へ運んで食べさせてあげる。
 この二週間で、少年とドライブをして過ごす夜が日々に定着してしまった。仕事を終えて帰宅し、夕飯をすませてもまだ体力が残っていたり、心が開放的に外界へむいて高揚していたりする日に、『いこうか』と車のキーを鳴らして誘う。
 少年は『はい!』と必ず嬉しそうにこたえる。そして助手席に座ってにこにこエンジンのかかる音を聴き、きちんと隣にいて、行き先は訊いてこない。
 どうしてだろう。なぜかそうせずにはいられなかった。
 認めざるを得ないのは、新月の漆黒の海だろうと、寝静まって閑散とした観光地の商店街だろうと、深夜まで営業している店へのちょっとした買い物だろうと、ネタ切れでくり返し訪れるおなじ景色の場所だろうと、隣にいる彼のきらめく瞳を眺めていると心が満たされてしまうことだった。
「……あの子が本当にハナだったら、どうすればいいんだろう」
 甘えが意思の隙を突いて、本音を吐露させていた。
「大丈夫。一人だもの、大丈夫だよ」
 ばあちゃんが、うん、うん、と深くうなずきながら微笑みかけてくれる。
 他人だったら体のいいごまかしだとしか感じられないであろう〝大丈夫〟の言葉と笑顔が、ばあちゃん相手だとこんなにもすんなり胸に沁み入ってしまう。
 ばあちゃん、俺ハナが死んだこと去年教えたよね、それ憶えてる……? ──心に浮かんだ疑問を底にとどめて微笑み返した。
「……ありがとう」
 俺にとってはばあちゃんの傍も理想郷だ。

 介護士さんたちに帰りの挨拶をすませて施設をでた。外は寒く、灰色の雨雲が上空を覆っている。今夜は雨が降るかもしれない。さっさと駐車場へ移動し、車に乗ってエンジンをかける。
 駐車場から車道へでて施設の前にある大きな橋を渡ると、赤信号に捕まってとまった。正面を往き交う車と、信号をゆっくり渡る入居者さんと付き添いの介護士さんと思われるふたり組。その笑顔。
 あの子はいまごろ家でなにをしているだろう。昼食は食べただろうか。たしか冷蔵庫には買い足した冷凍ピラフとチャーハンが残っていた。カップラーメンもまだあったはず。
 なにを食べたのか……、とそこまで思考して、はっと我に返った。信号も青に変わっていて慌てて発進する。
 今朝、彼はパン、俺はみかんひとつという朝食をすませたあと、ひとりで服を着替えてランチバッグに昨夜冷凍しておいたすり林檎をしまい、外出の準備をした。その間、おたがいのあいだに奇妙ないたたまれなさがじっとり浮遊していたのを思い出す。
 おいていくうしろめたさと、誘ってもらえないもの淋しさ──ハナが生きていたころも、でかけるときはいつも似たような空気がただよった。とくにハナは終始俺についてまわっていたから余計だ。
『なーん、なーん……』とうしろで心細げに鳴きながら俺を見あげ、俺が思わず立ちどまると脚に頭をこすりつけて一緒にいたいと訴えてくる。
 あの子も似たところがある。ばあちゃんに会いにいくのだと察してはいただろうが、どこにいくのとも、連れていってとも、帰宅は何時なのとも訊かず、『気をつけていってらっしゃい』と見送った。にっこりと、淋しさを耐えているとわかる笑顔で。
 ばあちゃんのところにいく、夕方には帰る、と、俺もそんなたったひとことですむ報告を声にできないまま家をでた。彼との会話にばあちゃんの名前をだすのはどうしても抵抗があった。
 ──……あの子が本当にハナだったら、どうすればいいんだろう。
 どうしたら、じゃなく、どうすれば、と口を衝いてでた。これまで彼を信じずに厳しく突き放した態度を〝どうしたら〟と後悔したのではない。〝これからどうすればいい〟と、俺は彼と築いていく未来について迷いを洩らしてしまったのだ。無意識に。
 この世に不可思議な出来事があるとはいえ、猫が人間になるなんて奇跡が本当に起きるのだろうか。起きたとして、そして彼が現実にハナだとして、俺は……いや、ハナではないまったくの他人だったと確定しても、どうすればいい。俺のこの気持ちはどうすれば──。
「やめろ」
 声にだして自分をとめた。それも無意識だった。頭を打ちふって車を川沿いの路肩にとめ、サイドブレーキをひいてシートベルトをはずし外へでる。
 ちょうど川辺へおりられるゆるい坂のある場所だったので、数歩くだってごつい石をよけ、川へ近づいた。澄んだ川が音を立ててながれ続けている。そよぐススキ、川に透ける小石、草木と水の香り。
 ひさびさにひとりだ。隣にも足もとにも誰もいない。
 息を吐くと白かった。風が耳を千切っていきそうなほど寒い。孤独の感触が心と肌に戻ってくる。空が薄暗いと世界は暗澹とくすんで沈んでいく。深呼吸をくり返して不要な感情を心の箱におさめ、この孤独になじもうと試みる。
 母さんの腹越しに感じた弟の鼓動、生命の手触り、母さんのひきつった顔と甲高い悲鳴。忘れるな、俺の人生は償いのためだけにある。

 ドアノブに手をかけてとめた。目をとじて息を吐き、いま、と意を決して勢いよくあける。
「おかえりなさいかずと」
 靴を脱いでいると少年の気配が、とん、とん、と足音を鳴らしてゆっくり近づいてきた。雲がよけて太陽が現れるときのように〝ハナのようななにか〟は絶大なぬくもりとして迫ってくる。……や、違う、これはただの暖房の暖かさだ、そうに違いない。
「ああ」
 しかし顔をあげると、彼はいつかみたいにかたい表情をしていた。
「……どうしたの。昼ご飯はあったでしょう」
 訊ねたが苦く微笑んで声もなくうなずくだけで、俺が靴を脱いで家へ入ると、決して触れはしないぎりぎりの傍に身を寄せてきた。
「なに」
 帰宅するとすぐさま駆け寄ってくるハナを、片腕で抱いて部屋へむかっていた日々が脳裏を過る。けれど甘えているというのとも違う気がする。
 黙っている彼を訝りながら廊下をすすんでダイニングへ入ると、日めくりカレンダーの下の棚にある電話の留守録ランプが点滅していることに気がついた。ああ……。
「母さんからか」
 右うしろにくっついている彼をふりむいたら、綺麗な瞳でただじっと俺を見あげていた。
 自宅の電話番号を教えている相手のなかで、自分にかけてくるのは母さんぐらいしかいない。
 またばあちゃんのことや、父さんの兄弟に対する愚痴だろうと予想しながら再生ボタンを押した。少年が俺の背中にかすかな隙間をつくって寄り添った。
『──……一人? 母さんよ。あなた土曜日もいないの? そこにいるならでてくれない?』
 険のある物言いだった。しばらく間ができてため息がこぼれ、声が続く。
『……わかった。黙っておこうと思ってたけどいい機会だからあなたにも教えておくわ。あなたのお祖父ちゃんが亡くなってお祖母ちゃんも施設へいって……お父さんたちが家を整理しにいったでしょう? 兄弟三人とも実家に帰る気はなかったし、お祖母ちゃんももう帰ることはないだろうって』
 頭のなかにじいちゃんとばあちゃんが縁側で笑いあっていた、夏の日の光景が蘇ってきた。庭の花壇にはひまわりが背比べをするみたいに並んで太陽を見あげ、ふたりが飲んでいた麦茶のグラスが陽光に照って輝いていた。ハナは器用にそのグラスをよけてじいちゃんとばあちゃんのあいだを往復しながらはしゃぎ、なあなあ鳴いていた。蒸し暑さも心地よかった。光ばかりが満ちていた。
 ──一人もおいで。
 そしてばあちゃんが俺に気づいて手招きをしてくれたあの日々。あの七年間。あの家。
『あのおうちのね……ふたりの寝室の棚から、お祖母ちゃんが積み立ててた通帳がでてきたの。四人分あって、息子たちとあなた名義の。で、あなたの金額がいちばん多かったのよ。実の息子よりね』
 真っ白になった。
『誰もお見舞いにいかない理由はそれ。兄弟ふたりとも父さんに「母さんが可愛いのはおまえの息子だろ、孫ならこっちにもいるのに、母さんたちに面倒を見させてろくに子育てもしなかったおまえが遺産もふんだくっていくのか、だったらおまえの息子に母さんの世話をさせるのが道理だろ」って激怒して、父さんもずっと苛々して……』
 背中のコートに違和感を覚えた。少年が掴んだらしかった。
『……わかってると思うけど、わたしは子育てを放棄したわけじゃないのよ。あなたの成長を傍で見守りたかった。あなたも弟が亡くなって辛かったでしょうけど、わたしだって当然おなじだったの。おまけにあなたまで失ってどれだけ苦しかったか……でも弟の死を哀しんでくれているのは嬉しかった。お兄ちゃんとして傷ついてくれたんでしょう? あなたは弟が生まれなくてもお兄ちゃんになっていたのよね。あとはあなたが結婚して、立派な父親になってくれたら充分。だから育ててくれたお義母さんたちにも感謝はしてる。してるのよ。とはいえね……わたしたちも限界だから、いろいろ落ちついたらあなたに相談したいこともあるのよ。母さんの気持ちも酌んでちょうだい』
 じゃあまた連絡するから、と録音は切れた。
 身を翻して玄関へむかった。
「かずとっ」
 じいちゃんとばあちゃんはなにも奪っていない、ふたりとも悪くない、俺が自分で逃げたんだ。
「かずと、施設の面会時間は過ぎてるよ!」
 ばあちゃん金なんかいらない、自分の息子のためにつかってくれ、渡してくれ、ありがとう、ばあちゃんの気持ちは嬉しい、でもそんなことしなくても俺はばあちゃんのところへ会いにいくし面倒だって見る、ばあちゃんがいないと生きていけないからだよ、ばあちゃんは味方になってくれた、俺の忌まわしい力を信じて半分背負って赦してくれた、それで人生すべて救われた、もう充分なんだ。
「俺のせいでっ……!」
 施設へいくってばあちゃんが決めた日、俺一緒に暮らそうって言ったよね。ふたりにこれ以上迷惑をかけられないと考えてひとり暮らしを始めたけど、じいちゃんもばあちゃんもハナも、あの家も、俺は恋しいままだったんだよ。寂しさを知ってしまった。教えてくれたばあちゃんが、ハナとともにまた一緒に暮らしてくれるなら願ってもないことだった。
 でもばあちゃんは苦笑いして、『嫌だよ、迷惑かけたくないもの』って何年も前から予約していた施設へひとりでいってしまったでしょう。
 俺だけじゃない。ばあちゃんがあんな片田舎の介護施設を選択したのは、父さんたち兄弟が容易く見舞いへこられない場所にしようっていう意図もあったんじゃないの?
 下手に近場だったら無駄な義務感や罪悪感を抱かせてしまうから、遠さを言いわけに、息子たちがうまく逃げられるところにいこう、と。だけど違う。
 みんながばあちゃんに会おうとしないのは俺のせいだったんだよ。俺が、俺ひとりがいなければ、ばあちゃんはひとりぼっちにならずにすんだんだ。兄弟仲まで壊した、俺が。俺が。
「やっぱりいらなかったっ……」
 いつだったか一緒に積み木をしたの憶えてるかな。ばあちゃんが手伝ってくれて綺麗な家ができたのに、俺はひとつ残ったいびつな三角をどうしても仲間に入れたいとごねてすべて壊してしまった。俺、あのときのままずっと成長してないよ、ごめんね。
 息子たちはじいちゃんとばあちゃんの大恋愛結婚の果てに生まれた、愛の結晶の三人だったよね。幸福な、愛に満ちた家族になるはずのなにもかもを、異端な俺が闖入して壊したんだ。
「……かずと」
 父さんと母さんも嫌いなわけじゃなかった。愛していたし、愛されたかった。だからふたりの前から逃げだしたんだ。でもばあちゃんが施設へ入ったあとは汚い面ばかり見せてくる打算だらけの大人、っていう怪物に変貌して見えた。それがとにかく不愉快だったからさけた。どんどん亀裂ができていった。でもそれもなにもかも俺が原因だったよ。
「父さん、母さん……っ」
 ばあちゃんのところへいかなくちゃ。謝らなくちゃ。
 なのに脚が動かない、なぜか床に座りこんで蹲って頭を抱えている。痛むこめかみを右手で叩いた。痛みはおさまるどころか強まる一方で、さらに拳で殴ってみる。
「かずと」
 袖を掴んでとめられた。意識が朦朧とする。俺は泣いているのか。
 目をひらくと玄関と自分の両脚と、左脚のつま先にだけひっかかっている靴が見えた。視界が水ににじんでおぼろげだ。このままこうしていれば死ねるだろうか。俺が死ねばばあちゃんの金はきちんと息子たちに分配されるだろう。みんなもとみに記憶力が悪くなったばあちゃんのもとへ、足繁く通うようになるかもしれない。それがいいじゃないか。そうすれば万事解決じゃないか。
 そうだ、俺がいなければよかった。俺がいなければ弟もちゃんと生まれていた。俺みたいな無能以下の、他人を殺す力を備えて生きている悪魔じゃなく、他人を幸福にする才能を持った天使のような存在だったかもしれない弟。
「かずと、いいから。もういいから」
 背中に心地いい背もたれがある。妙にあったかいな。

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