あのあとばあちゃんのところへいって通帳を見せ、『これ受けとったよ』と伝えると、ばあちゃんは『ああ、一人のね』と微笑んだ。しかし自分が貯め続けてくれていたことや、息子たちの通帳についてはまったく憶えていなかった。微笑んではいたが、俺の話を理解していないようすで右から左に受けながしているのがはっきりとうかがえた。
──お祖母ちゃんはいま、お祖母ちゃんのなかで幸せの世界をつくってそこで生きてるんだよ。
少年はそう言って、目をとじながら重くしずかにうなずいた。ばあちゃんのなかにある幸せの世界。ばあちゃんの理想郷は、ばあちゃんの脳と心で育まれている。
──……そうか。
いつか俺も忘れられてしまうかもしれない、今日いったら〝お世話になっています〟と、介護士と勘違いされてしまうかもしれない、次こそ祖母と孫として会話するのは不可能かもしれない──と、恐怖心は常にあった。ばあちゃんの世界から俺は消されたくなかった。
だが彼が言ったように、ばあちゃんが辛さや哀しみを捨てて心ごと理想郷に変えていく作業をしているだけだと認識すれば、それは悪くないと感じた。
ばあちゃんのことだから、俺をひとりでおいて逝くのは心配だとか、頑張って生きていけるだろうかとか、温かな心労をずっと抱えてくれている気がする。だとしたらそんな不安感は消してほしい。じいちゃんとハナだけ想って、煩わしいことの渦巻く現実の隣で、幸福でいてほしい。
「俺も愛してるよ……かずと」
父さんと母さんが俺を虐待していた、ということについては正直まだ納得していない部分もある。
──虐待されていた子は自覚がない場合も多いんだよ。大人が全部正しくて両親が世界のすべてって感覚でいた時期だと余計に。
彼が諭してくれた幼少期の精神状態は、昔なにげなく眺めていたテレビでも見聞きした。気の毒だな、そんなひどい親や可哀想な子どもがいるんだな、と終始他人事として受けとめて、自分で作った夕飯の豚丼を頬張っていた。
実際、両親は俺に手をあげたし人格も否定したが、それは俺がふたりの要望に応えられない無能さを発揮したときだけだった。片づけをできない、勉強ができない、いいお兄ちゃんにはなれない……両親の言い分は教育の範疇だと思うから、どこが虐待なのか、と疑問を抱いてしまう。
──いまじゃなくてもいいからゆっくり思い出してみて。怖いものたちはもう、ここにはいないから。かずとを責めるひとはいないから。いたら俺が退治するから。
でも彼の言葉を反芻していて思い出したことがある。子どものころ自分の腕や腹や脚には紫の痣と血のにじむ赤い傷が絶えずあって、膿んできた部分をとると痛くて、風呂へ入ると染みて辛かった。家出をしたあと徐々になくなったものの、あの手脚の記憶は脳裏にへばりついており、大人になったいまだに、ああ綺麗になったな、昔と違うな、と時折感慨に耽ること。弟を消そう、と殺意を抱いたのも、父さんに叩かれて鼻血をながして倒れこんだ瞬間だったこと。
限界だった。弟がいなければ俺はお兄ちゃんにならずにすむ、これ以上体罰を受けることもなくなる、弟のせいで全部が狂った、と憎んで恨んで、痛苦から逃れるために必死だった。
「かずとは寒くない?」
しかしたとえ虐待の事実があったところで、俺が弟を消していい理由にはならない。
「……もちろん、こうしていれば平気だよ」
あたりまえでしょ、という気分でこたえると、彼が俺の胸に顔をすり寄せて「へへ……」と卑しく笑った。甘い言葉を言ってしまったのかもしれない、と気がつく。
「そろそろちゃんとコートも着な」
うしろでわだかまっている彼のダッフルコートをひっぱろうとした。
「いらない、俺もあったかいから」
おそらくこの子は俺が残忍な力を持つ人間だと知っている。それでもここにいるのが温かいと言う。この手に抱かれるのが温かい、と。
「──おい、須賀。昼メシいくぞ」
斉城さんに不機嫌そうに誘われて「嫌です」とこたえた。
「は? 嫌ってなんだよ、それが上司に対する態度か」
「すみません、いきたくありません」
「丁寧に言いなおしたつもりなの? それで? 怒ろうかな?」
ため息を噛み殺してキーボードを打つ手をとめた。どんな断りかたをしようとも、このB型の上司は言いだしたら聞かない性格なのだ。
「……わかりました、いきます」
ロッカーにしまっているランチバッグに包まれた弁当を想った。食べたかった。
考えすぎると斉城さんを憎んで暴走してしまいそうなので、弁当への愛しさと斉城さんへの怒りを心の箱におさめて腹の底へしまいこみ、席を立つ。
斉城さんの話の内容はだいたい予想がついていた。
「頭の傷は治ったな。おまえ、自殺って本気だったのか」
すぐにでも問い詰めてやりたいと、斉城さんが視線で俺に訴えかけていたのはずっと感じていた。年度末が迫って仕事も忙しく、その機会がなかなかつくれないことに苛立ってくれていたのも。
「すみません、心配おかけして」
「本気だったのかって訊いてるんだよ」
手もとにあるうな重にまるで手をつけず斉城さんがいきりたつ。このひとはいつも会話を優先して、食事は最後に胃へ掻っこむようにして食べる。多少強引でも、やはり根は優しいひとだ。
「本気じゃなかったのかもしれません」
あれから俺も考えていた。自害する気があったなら、検査も異常なし傷を縫う必要もなしの一泊入院で帰宅できたのはおかしいのではないかと。あの日ばあちゃんに会って謝罪して満足していたら、あるいは本気で死のうとしたかもしれないが、それは少年がとめてくれた。俺の大事な〝ハナ〟が。
「……そうか」と斉城さんは俺を睨めつけつつも、安堵したようすで相づちをくれた。
「ならどうしてそこまで追い詰められた? 仕事か、プライベートか?」
カウンセリングのようだな、とすこしおかしくなる。
「完全にプライベートです。斉城さんに落ち度はありません」
「ばか、俺を安心させてほしいって言ってるわけじゃない、見くびるな。単純に心配してるんだろ」
「すみません、嬉しいです」
「喜べるならいいけどな」
うな重を頬張りながら、軽く頭をさげた。俺のはすでに半分ほどなくなり、斉城さんのはまだ五分の一程度しか減っていない。「どうぞ食べてください」とうながすと、「おまえが言うな」と怒りをかった。
「プライベートって、俺がつっこんでもいいことか?」
「かまいませんけど、複雑で説明が難しいです」
「友情? 恋愛? 家族?」
咄嗟にこういう項目がでてくるところも、人生経験値の高さなんだろうな。
「家族と金と、あと恋愛……ですかね」
「なるほどな」
おおむね理解もはやい。
「おまえがゲイだって親は知ってるのか」
「いえ、言ってません。……言えません」
「そうか」
うな重ではなく、斉城さんはお茶を飲んだ。
「なあ須賀、おまえは辛いとき俺に縋ってくれるか」
「え」
「俺はおまえになんでも話すだろ?」
頼んではいないが……〝信頼〟について斉城さんが語りたがっているのはわかる。
「……どうでしょう。あなたはあくまで上司なので、プライベートの相談を持ちかけるのは正直気がひけます」
「俺が〝頼れ〟って言っても?」
斉城さんの目は真剣で、茶化した素ぶりはまるでない。
「俺は個人的に身勝手に、おまえに死んでほしくない。手放しで信頼できるのもおまえだけなんだよ。小学生とおなじぐらい裏表がなくて純粋で信用できる。大人なのにおまえみたいに打算も忖度もなくついてきてくれる奴はほかにいない。俺もおなじようにおまえを支えたい」
プロポーズかと思わず咳きこんだ。
「すみません、いえ……ほんとに嬉しいです」
「笑ってもいいよ。笑えるぐらい元気なら安心だ」
……安心などしなくとも、俺も勝手にあなたの存在に安堵をもらっている。有能なくせに色を好んで最低で、でも魅力的で、皆に好かれるあなたに性指向ごと許されて、俺は愚かにも幸福を授受している。
「充分なんです。……本当に、もう充分」
斉城さんは「フン」と瞼を細めて右手で口もとをさすった。
「俺は必要ないか。上司に介入されたくない、と」
拒絶に聞こえたらしい。
「あ、いや……違います。斉城さんにこれ以上お世話になるのは忍びないですが、またなにかあれば相談させてください」
「絶対だぞ」
あなたも小学生みたいですよ、というつっこみは我慢する。
「はい」
斉城さんもようやくまたひとくちぶんのうな重をとって口に入れた。
「で、相手はどんな奴なんだよ」
「え?」
「彼氏」
斉城さんが左手で眼鏡のずれをなおしながら頬を動かすのをまじまじ見返してしまった。
「なんだよその顔。できたんだろ? ていうかいたんだろ?」
「いませんよ」
「恋愛で悩んでるって言っただろうがよ。最近おまえが手作り弁当食ってるのも知ってるからな」
知っていて昼食に誘ったのか。
「うちで面倒を見ている子がいるだけです。そういう意味で求める気はない」
「フ~ン?」
一緒に住んでいてそりゃないだろ、とおどけた表情で訴えてくる。
「俺はどこかの部長と違って大人の理性があるので」
「〝大人の理性〟で自制してる理由はなんだよ。どんな相手を好きになったんだ?」
墓穴を掘った気がする。
「……猫だからです。彼は猫だから」
「おまえもネコだったの?」
左手でこめかみを押さえた。
「とにかく、いいんです。傍にいてくれるだけでいい」
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