試し読み

 ばあちゃんは必ずそう訊いた。
 ──……チョコもらってないって言うと、ばあちゃんが心配すると思った。
 ──友だち欲しくない。つくるの怖い。……俺のせいでばあちゃんたち困らせたくない。
 その都度、俺は奥歯を噛みながら本心をうち明けた。
 ──……一人は正直で優しいいい子だね。
 ばあちゃんも毎回俺を抱きしめて頭を撫でてくれた。
 進路に関する三者面談があった際、担任に『親は仕事でこられない』と嘯いて実家に連絡されてしまい、駆けつけた母さんに『変な嘘で母さんに恥をかかせないで!』と叱られた。それから『大学まで通わせます』と母さんは担任ににこやかに宣言し、担任も『それはよかった』と安堵を見せた。
 面談後、母さんは一緒にきてばあちゃんを『三者面談のことを知らなかったんですか』と責めた。俺が『言わなかったのは俺だよ』となだめてなんとか帰ってくれたあと、消えてなくなりたくなった。
 ──お父さんとお母さんを大事にしたくて嘘をついたんでしょう。
 ばあちゃんは母さんに叩かれた俺をまた撫でようとした。俺はその手から逃げてなぜか泣いていた。
 ──……違う。高校にも大学にもいきたくない。父さんと母さんに会うのも辛い。……俺、逃げたくて、嘘ついた。
 泣く資格はないと思ったが唇を噛みしめてもどうしてか涙だけが意思を持ってばらばら落ち続けた。ばあちゃんの手に赦されたくなかった。しかし涙で視界が悪くなっていた隙に、ばあちゃんは俺を掻き抱いて頭を撫でた。
 ──……自分を大事にできたんだねえ。
「かずと、こっからあと一時間ぐらい?」
 サイドウインドウをしめて、少年が俺に笑顔をむけてきた。
「ああ。そうだね」
 初めて連れてきたのに、彼は高速道路のサービスエリアにある限定のフライドポテトもおみやげも、以前買って味わった経験があるかのように話した。ばあちゃんがいる施設も、彼が言ったとおり渋滞にはまらなければあと一時間ほどで到着する。
 土曜日の一号線はどうしたって混む。先が詰まってハンドルから手を離し、息をついてペットボトルの紅茶を飲むと、彼は隣で「ふふふ」と肩を竦め、なにやら含みありげに笑った。
「運転してて、ちょっと疲れたときのかずと格好よくて好き」

 一時間と二十分ほどかけてようやく施設へ着き、駐車場に車をとめた。
「俺がバッグ持つよ」
 少年は素ばやく車をおりて、後部座席に置いていた小さなランチバッグをとる。なかにはばあちゃんにあげる冷凍のすり林檎が入っている。
「あー……ほんと、都会と違って気持ちいいねー……」
 眼前にひろがる冬のもの悲しい木々と山の稜線にむかいあい、彼がうーんと腕をのばして空気を吸いこむ。俺も小さく深呼吸した。冷たい空気が鼻腔を通って、枯れ葉や山水の香りとともに身体の底まで沁み入っていく。……今日ばあちゃんは俺の名前を呼んでくれるだろうか。なんとなく、背後にある施設の建物をふりむけない。
「大丈夫だよかずと」
 俺を見あげてにぃと微笑んだ彼が、俺の右手を一瞬握りしめて離した。え、と俺が目をまたたくと、「いこう」と強かな声音で続け、施設の出入り口へ歩いていく。
 なかへ入って受付で挨拶し、まるで少年に誘導されるようにしてばあちゃんの部屋までむかった。迷いなくばあちゃんのところへ一直線にすすんでいく少年の足もとと横顔を困惑しながら見つめていると、彼がまた幸福そうな笑顔になった。
「お祖母ちゃん、ひさしぶり!」
 ぎょっとして息を呑んだが、彼の笑顔は美しい。本当に、本心から〝再会〟を喜んでいる嬉しそうな瞳、唇。
「あらあ、あなたハナ君? 一人ときてくれたんだねえ」
 ばあちゃんも俺たちに気づいて微笑んだ。
 少年はばあちゃんがいるベッドへ近づいて横のパイプ椅子へ腰かけ、躊躇いなくばあちゃんの左手を両手で握りしめる。
「また会えて嬉しいよお祖母ちゃん。今日は体調どう?」
 心配そうにばあちゃんの顔を覗きこむ少年の表情から、嘘の気配を探した。
「ふふ、ありがとうハナ君。食欲もあるしとっても元気だよ」
 ばあちゃんは不審がるでもなく〝ハナ〟を名乗る彼を受け容れている。
「そう? じゃあちょうどおやつの時間だしすり林檎食べる? 今日もかずとが作ってくれたんだ」
「うん、いただこうかな」
 ふたりが和やかに話しているむかいのベッドには、入居者さんがひとりだけいて眠っていた。ほかのふたりはどこかへいっているらしい。俺も少年の横で、彼がすり林檎の透明容器をだして用意するのを手伝った。
「お祖母ちゃん、はい、あーん」
 少年はちょうどよく融けてシャーベット状になっているすり林檎をスプーンで掬い、ばあちゃんの口もとへ運んで食べさせてあげる。他人の祖母に、はたしてここまでの演技ができるだろうか。
 ばあちゃんも唇をひらいて「あーん」と笑いながら食べる。
「……ありがとうハナ君、一人」
 少年と俺に、それぞれ視線をあわせて幸せそうにばあちゃんが礼を言った。
 少年の存在は明らかな違和感で、ありえないことだった。それでもこの瞬間俺は、このままでいいのだ、と本能的に納得をした。ばあちゃんが幸福を感じているのならばそれでいい。これが現実だ。これを、現実にしよう。
「ハナ君は一人にちゃんとご飯食べさせてもらってるの?」
「もちろん。仕事で日中家にいないのに、かずと俺のためにお昼ご飯も買ってくれるよ。朝もいつもよりはやく起きて俺の朝ご飯につきあってくれるんだ。かずとね、朝は食べると胃がもたれて辛いんだって。だからコーヒーとか紅茶とかみかんだけ一緒に食べてくれる」
「あら、昔は朝ご飯も食べられたのにどうしたの一人?」
 自分に話をふられて、はっとした。
「ああ、うん……ごめん。病気とかじゃないよ、ちょっとずつ食べられるようにする」
 ハナが亡くなってしまってから食欲も失って、そのまま怠惰に身をまかせて過ごしていたら内臓も弱っていった──と、いま言うのは憚られた。
「ふふふ、困った子ねえ」とばあちゃんと少年が顔を見あわせて笑いあう。
「お祖母ちゃんは? 今日ご飯なに食べたの?」
 彼がまたばあちゃんにすり林檎を食べさせてあげながら訊ね返した。するとばあちゃんはとたんに表情を曇らせて哀しげに眉をさげ、ため息をついた。
「……こんなことはあまり言いたくなかったんだけど、ここのひとたちはあまり食事をくれないの」
 ずきりと心臓に衝撃が走って介護士さんたちに怒りがこみあげたが、すぐにこれはばあちゃんの記憶違いではと思い至った。テレビニュースでは介護士のいじめや施設の劣悪な環境による事件がたびたび報道されるけれどここはいいひとばかりだからそんなことありえない。……きっと。たぶん。
「ふうん」と相づちを打った少年をうかがうと、ばあちゃんを真剣な瞳で見つめてうなずいている。
「それで、お祖母ちゃんはいまお腹空いてる?」
「お腹は……ううん、大丈夫よ」
「ふふ、なんだよかった。介護士さんたちはプロなんだよ。お祖母ちゃんがいつご飯を食べたいか、ちゃ~んとわかってるの。意地悪してるんじゃなくて、お祖母ちゃんの身体が栄養を欲してるときにきちんとご飯をくれるから、安心して待っててね」
「そうなの?」
「うん。いま俺とかずとがすり林檎あげちゃったから、晩ご飯もちょっと遅くなるかもな~」
「そっかあ……よかった、ほっとしたよ……」
 少年とばあちゃんが、また頬をふっくり揺らして温かそうに微笑みあっている。俺が疑念に囚われて動揺している間に、彼は介護士さんに対する誤解も、ばあちゃんの哀しみも、解決してしまった。じつに鮮やかに、たった数秒の応酬で。
「一人のすり林檎はいつも美味しいわ~……」
 すり林檎をゆっくり咀嚼するばあちゃんのペースにあわせて少年が食べさせてあげつつ、「ここはすごく空気がいいね」「窓から見える景色も綺麗でいいなあ」などとばあちゃんに話しかけ、ふたりで他愛ない話をする。
「おうちで育ててたような野菜とかお花はないけど、ほんと環境はいいのよ」
「うん。山と空がいっぱいにひろがってていいね」
「ハナ君は外が好きだったね。ときどきふらっとひとりで散歩にでかけていって」
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんとかずとの傍にいるのがいちばん好きだったよ」
「そうね、甘えんぼうでもあったけど」
 ふたりの会話は不思議なほど自然とながれていく。
「お祖母ちゃんの花壇は四季折々の彩りがすごく綺麗だったね。お祖父ちゃんも夏になると野菜をいっぱい育ててて」
「憶えてる? ひまわりも紫陽花も綺麗だったね……お祖父ちゃんは柿と桃と栗の木をとくに大事にしてて、夏はトマトにキュウリにナスにゴーヤにって、実が生るとみんなで食べてねえ」
「うん……俺、みんなが教えてくれた花の名前を憶えてるよ。オオアマナ」
「ふふふ、それはお祖母ちゃんも忘れたことないよ」
 やがてすり林檎がなくなると、少年が「器洗ってくるよ」と席をはずした。ばあちゃんは満足そうに笑っており、俺は口もとをティッシュで拭いてあげながら「水飲む?」と気づかった。
「ううん、大丈夫。……ハナ君優しいねえ」
「ああ……うん」
「どうしたの? 今日の一人はおとなしいじゃない」
 ふふ、と苦笑されてはたと気づく。そういえば、たしかに違う。
「なに? かずと変なの?」
 パーカーの袖を捲って濡れた透明容器を片手に少年も戻ってきた。
「ん~? 一人はね、いつももっと子どもみたいなのよ」
「ばあちゃん」と制したが遅かった。
「はは、かずともお祖母ちゃんには甘えるんだね」
「そうよ、くると必ず〝ばあちゃん、ばあちゃん〟って小学生のころとおんなじ調子でねえ」
 彼も「ふふ」と笑って肩を竦め、俺は観念してからかわれる覚悟をしたが、そうはならなかった。
「じゃあお祖母ちゃんにはかずとのためにもまだまだ長生きしてもらわなきゃ」
 透明容器をランチバッグにしまい、少年はまた椅子に腰かけてばあちゃんに微笑みかける。
「いま一人はハナ君に甘えてるんじゃないの?」
「ん~、どうだろ。俺のほうがかずとに甘えさせてもらっちゃってるから」
 彼は謙遜して「へへ」と苦笑いする。その彼の右手を、ばあちゃんがそっと上から覆った。
「ハナ君はどうして一人のところへ戻ってきてくれたの」
 その返答は、聞くのが怖かった。しかし目だけはじっと彼を見つめていた。一秒と逃さずに彼を凝視して、彼がわずかに目を見ひらいた瞬間も、やや視線をさげて思考したあいだも、桃色の唇をこすりあわせて照れくさそうに苦笑したようすも、すぐ毅然と真摯な光を瞳に宿したのも見ていた。
「またかずとと幸せになりたかったから。……俺、かずとだけなんだ。かずとが俺のすべて」

 夕方になって介護士さんがばあちゃんの食事を持ってきてくれると、食堂へ移動して食べ終わるまでつき添い、その後帰ることにした。
「帰り際、お祖母ちゃん淋しそうだったね」

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