試し読み

 再び静寂が戻ってきた夜のアスファルトに虫の音がひろがっていく。自分の両腕のなかには少年の小さな身体があった。夜風にまぎれてただよう彼の髪の香りが鼻先を掠める。
 茫然として、世界が霞がかって見える。しかしまばたきをくり返していると、舞台の幕がはずれて落下したかのように突如現実が戻ってきた。
 消してしまった。……また。十六年前とおなじように。
 ふいに家の玄関の灯りがともって、「キング?」と女性の声がした。
「かずと立って、いこうっ」
 少年が勢いよく立ちあがり、俺の腕をひきあげようとする。
「いや……でも、……謝らないと、だって俺は、」
「いまはしかたないからっ」
「だけど、」
「はやく!!」
 ガチャ、と玄関の鍵がひらく音がしてぞっと冷や汗がにじんだ刹那、彼の強い力にひき起こされて反射的に走りだし、その場から逃げていた。
 現場からだいぶ離れて彼にひかれるまま歩いていく夜道は、絶望の暗い洞窟に感じられた。うまく動かない脚を前にだして彼にひかれていく自分は、死刑台へむかう囚人にも似ている。
 手を見おろした。闇夜に隠れてぼんやりと視界に揺れる掌。
「……どうしよう、また、俺は、」
 この手は、触れるものを消し去る力があるらしい。消えてくれと願って消えなかったものはない。
 己の私欲で弟を消したあと、そんなばかなと、鉛筆や消しゴムやクモをおなじように触って〝消えろ〟と願ってみた。そうしたらあっさりと消えた。この世から物も生命も、簡単に消えてしまった。
 弟を消したのは自分なのだと自覚して恐ろしくなって両親と弟への申しわけなさと罪悪感に耐えきれず実家をでてじいちゃんとばあちゃんを頼った。ずっと死にたかった。死ぬべき、消えるべき命は自分自身だと常に考えて生きてきた。
 ただそれができなかっただけの、脆弱な精神が生みだした惰性の時間がいまも続いているだけだ。弟を犠牲にして、俺はまだ、のうのうと生きている。
「──……かずと」
 アパートへたどり着いて彼が俺のコートのポケットから玄関の鍵をとり、ひらいてなかへ入った。そのとたん、俺は立っている気力も失って蹲り、頭を抱えて崩れ落ちた。
「二度と、こんなこと……したくなかったのにっ……」
 視界が悪い、涙がこぼれているらしい。見ているのが苦しくなって両目をかたく瞑り、現実を拒絶した。
 死のう。
 いますぐ死のう。
 なんの因果でこの力を得たのかはわからない。わからないが、呪われているのだけはわかっている。じゃなければこんな不要で無用な力などこの世に存在するはずがない。
「……普通に生まれたかった。普通に、生きたかった。なんで……どうして俺が、こんな、」
 神ならば生む力があるんじゃないのか。消す力なんて悪でしかないだろう。
「死ぬべきだったんだ……じいちゃんとばあちゃんとハナに赦されるべきじゃなかったっ……死ねばよかった、俺なんかっ……」
 おとぎ話の世界でも悪い力を持つ奴は死ぬじゃないか。俺がこの力を望むとき、それはいつだってどす黒い私欲に染まりきって自身を制御できなくなった瞬間だった。誰がどう見ても、どう考えても悪魔でしかない。
「……ここにいてほしい。最期にこんなことを望むのも、俺には赦されないだろうけど……死ぬ瞬間はきみを見ていたい」
 重たい上半身を起こして、正面に一緒にしゃがんでくれている彼を見つめながら自分の首に両手をかけた。
「……ありがとう。最期まできみの正体を訊けなかった。知ればなにか力になれたかもしれないのに、俺はやっぱり自分の欲だけを優先して、真実から逃げたよ」
「……かずと、」
「ハナでいてくれてありがとう。ハナだと、思わせてくれてありがとう。……本当にハナだとしたら、また会えたのも嬉しかった。返さないといけない恩があるのは俺のほうだ。ろくなことをしてやれなかったうえに、結局また逃げておいて逝ってしまうのも……申しわけない。本当にごめん」
 とめどなくあふれる涙が彼の顔を隠してしまう。まばたきをしていま一度見つめると、どうしたってやはり愛しいだけだった。
「恋や、愛を……味わわせてくれたのもありがとう。弟の人生を奪っておいて、こんな幸せを知って……俺は最低な人間だった。孤独なままひとりで死ぬべきだった。そう思うよ。地獄でいつまでも弟に詫びるつもりだ」
 さよなら。
「……ありがとう。すまない。きみに会えてよかった」
 目はとじなかった。涙が邪魔で彼の姿をおぼろにしたが、消えろ、と願いながらも見つめ続けた。
「──……待ってっ」
 ひっ掻くようにして両腕を掴み剥がされたときには、唇にやわらかい熱と涙の味があった。
「……待って、約束したでしょ、逝くなら連れてってってっ……!」
 ハナ、と重なりあう唇の隙間から呼びかけたら、「ハナじゃない!!」と怒鳴られた。
「言わないつもりだった、ずっと。なんで自分がここにいるのかもよくわからなかったからっ……」
 彼も涙をこぼして、噛みつくようなキスをくり返しながら叫び続ける。
「でも無理だよっ……ねえどうして? どうして俺を助けようとしてくれたかずとの想いが悪いものなの? 俺は嬉しかったのにっ! 悪いのは俺だよっ、俺があんなことしなければわおんもかずともこんなこともなにも、起きなかったでしょっ!?」
 呼吸をするように唇をあわせて、がむしゃらに舌を吸いあげて愛しさを訴えてくる。涙の味は自分のではなく彼のものだと悟った。
「ここで終わらせないっ……こんなのは俺たちが望んだ幸せじゃない!!」
 小さな嗚咽を洩らしながら彼が俺の首に両腕をまわし、強く抱きしめてから……そっと、ゆっくり上半身を離しておたがいを見つめあえるささやかな距離をつくった。
 目と、目で、自分たちを確認しあう。
「……安心していいよ。わおんはどこかで生きてるかもしれないから」
「え……どうして、」
 彼の瞳はしずかで、そして強い意志を持って光り輝いていた。
「俺がね……俺が、かずとに消してもらって、いまも生きている人間だからだよ」
 眩しいほど真剣な瞳に大粒の涙が揺らいで、ほろと落ちていく。
「消した……俺が、」
「うん」と、彼が頭をもたげて重くうなずく。
「ふたりで決めた。だけどどういうわけか消えなかった。消えるんじゃなくて戻ってきちゃったんだ。……過去に」
 彼の大きな左の瞳から、また涙がこぼれてきらきら落ちた。
「──俺の本当の名前ははないあお。花に井戸の井、それで歩いて和ますって書いて歩和だよ」
 激しい、落雷に似た衝撃が頭に走って意識が一瞬真っ白になった。
「あお……──花井、歩和……」
 洪水のように記憶がながれこんでくる。液晶画面にうつる映像を脳天から浴びている感覚だった。
 あお。

 俺の歩和……──。






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