ハナ、寂しいよ。苦しいよ。……おまえに会いたい。
──一人、おもちゃで遊んだらちゃんとしまいなさい。部屋は綺麗にして、もうすぐお兄ちゃんになるのよ!
わかってるよ母さん。いまもちゃんと言いつけを守ってる。
キッチンは水垢で白く曇らせないように料理をしたあと必ず洗うし、風呂も一週間に一度カビとりをして、部屋も家具を少なく埃がたまらないよう清潔に整えながら洗濯もしっかりこなしてる。
お兄ちゃんにはなれなかったから。弟を父さんと母さんから奪ってしまったから。せめてふたりが望む自分に近づこうとしてるよ。
──頑張ったねえ……辛かったねえ。
違うんだばあちゃん、俺はなにも頑張ってない、辛いと吐いて嘆く権利もない。
頑張っていたのは弟だ。母さんの腹のなかですくすく成長して、一生懸命に生きようとしていた。俺は妬んで憎んだだけだ。
テストの点が悪すぎる、なんでこんなこともできないんだ、賢く強くなれ、男の子なんだから、お兄ちゃんになるんだから、って父さんと母さんに毎日叩いて叱られて苦しかった。
おまえの生きかたが弟のお手本になるんだからしっかりしろ、言うことを聞け、って朝から怒鳴られて、なんで弟だけ大事にされてるんだ、と恨んだだけだったんだ。
──前の席になっちゃった。よろしくね。
好きだったな……蒼麻のこと。
笑顔が可愛かった。初めて笑いかけられた瞬間それだけで恋に落ちた。思春期だったからキスやセックスをしてみたくて妄想もしたよ。背中を叩いてふりむかせて手を握りしめて抱きしめて、キスをしたかった。おまえのなかに挿入れて達してみたかった。でも俺から好きだなんて言われても鬱陶しくて気持ち悪いだけだよな。
中学時代の彼女とどうなったかはわからないけど、一瞬でもおまえに好きだと想われて、触るのを許された女性に嫉妬した。消してやれたらと過った。弟を消したときと変わってなかった、最低だな。
──あと三年して須賀ちゃんが三十になっても恋人ひとりいなかったら、俺と結婚しよっか。
最近はゲイを受け容れるひとも増えているらしいよ。LGBTQを理解しよう、差別はやめよう、って普通のひとたちが特別扱いを始めている。
喜んでいるひともいるだろうけど、迷惑がるひとも当然いるだろう。俺も迷惑だ。幸せになってもいいんじゃないかと勘違いして母さんたちをまた裏切って傷つけて地獄へ突き落としそうになる。
孫をつくらなくちゃ。父さんと母さんに弟のかわりになる幸せを与えなくちゃ。俺にはその責任があるんだから。
そのうちちゃんと結婚相談所にいくよ。頭ではわかっているのに愛せないひととデートを重ねるのも億劫だし、相手の両親の前で愛しているふりをするのも滅入るし、そもそもセックスをできる気がしないから、女性の大事な人生に傷をつけたら申しわけないって偽善者ぶって自分をごまかして逃げている。斉城さんのこと厄介がりながら結局赦されてのうのうと生きているのが心地いいんだ、俺。
──苦しませない、とは言わなかった。苦しいときは自分も一緒だ、って言ってくれたの。だからこのひとといるとなにも怖くなかった。
……じいちゃん、ハナ、死ぬってどんな感じかな。
幸い俺はばあちゃんをふたりのもとへ送ったらほかになにも思い残すことはない。
いきたいな、いますぐにでもいきたい。
楽だよ、死ぬって選択は。全部終わらせられるからね。生きるほうがよっぽど苦しい。
どうせ俺が死んだところで明日もテレビではどこかの芸能人の不倫スクープやくだらない揉めごとをくり返す政治のニュースが垂れながされて、SNSでは見栄えのいいスイーツがバズり、俺の席が減ろうとも会社は順調にまわっていって、みんな自分だけを愛して時間は無情に過ぎていく。
そんなもんだろう。死にたい奴は他人に迷惑さえかけなければ勝手に死ねばいいんだ。だけどやっぱり怖い。死んだら楽だと思うけど、死ぬのは楽じゃないよ。嗤える、俺はなんの勇気も覚悟もない、八方塞がりだ。
──かずと。
誰だおまえは。
──……俺、ハナです。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんとかずとが飼ってくれていた、ハナ。
なんなんだよおまえは。いきなり現れてひとの生活掻きまわしてへらへら笑って俺を幸せにして。
──去年までここにいて、黒猫で、十八年生きてた。……恩返しにきたんだよ。
ハナでいてくれよ。頼むからハナでいてくれ。でもきっと違うよな。
だってハナは……、ハナは。
「──……ハナ、」
はたと、自分の声で目が覚めた。視界が揺らいで徐々に鮮明になり、橙色に染まる薄暗い、見慣れない部屋がひろがっていく。
「かずと、起きた? 具合はどう? 目眩とか吐き気とか感じる?」
具合。……あ、なんか頭痛がする。
「頭……いたい」
「うん、わかってる。ここ病院だよ。かずとが怪我しちゃったから救急車呼んで検査してもらったの。一応異常なかったし、怪我も治療してもらった。一晩だけ入院して明日は帰れるだろうって」
左横から少年が俺を覗きこんで、ひどくゆっくりした口調で説明をした。頭、怪我、一晩入院……そうか、ばあちゃんのところへはいけなかったのか。
「……死んでない」
しずかな部屋に夕焼けみたいなライトだけが煌々と照っている。個室で、ここはまだ現実らしい。消毒液が染みついたような病院の嫌な匂いがする。
「死にたかったの?」
大きな瞳が純然として綺麗で、死をしごく他愛ない単純なもののようにうつしていた。
「……ばあちゃんに会いたい」
少年が笑った。
「じゃあ元気になったら会いにいこっか」
一緒に、とも、ひとりでいっておいで、ともとれる声音に、かすかな苛立ちが過る。
「ねえ、」
なんで救急車の呼びかたを知っているんだ。じいちゃんが病気になったときも俺がばあちゃんに〝具合が悪そうなの〟と連絡をもらって、愛車に乗せて病院へ連れていった。ばあちゃんも突然体調を崩したことはない。だからハナは人間が救急車を呼ぶ姿すら見たことがないはずだ。
医者にはどう説明した。俺の名前や仕事や、保険証は? 検査結果の内容はなんで理解できた? 俺とどういう関係だって教えたんだ。
「──なに?」
俺に身を寄せて微笑んで、細い肩を尖らせて竦める。黄色いパーカーだ。ひまわりのようだった。太陽にも似ている。光をひき寄せる奇妙で綺麗な生きもの。綺麗な……〝ハナのようななにか〟。
混濁した意識の狭間で、どういうわけかただ、突然に心臓が熱く痛んだ。やわらかそうな黒髪が、夏の夕暮れみたいな色に光っている。ハナなら触れられる。彼がハナなら愛しても赦される。白い頬を、この世界のすべての幸福を集めてかたちづくったような笑顔を、抱きしめても罪にはならない。
「……ありがとうな、あの日」
自分の声がみっともなく濡れて震えていた。
「おまえが吐いて、俺焦って……ずっと部屋にこもって鬱いでたのに、外へ連れだしてくれただろ」
ハナとおなじ大きな瞳が光をとりこんで輝いている。
「じいちゃんとばあちゃんにも、どう接すればいいのかわからなくて……どうしようもなかったのに、おまえ強引で……くるなって言っても部屋に入ってくるし、触るなって言っても膝に乗ってくるし……けど、それがありがたかったよ。救われた。救われたって、思ってしまってる」
最期、俺がキッチンの掃除をしていたときハナは背後でことりと音を立てて寝床の外で力尽きた。余力をふり絞って俺のところへきてくれようとしたのだと悟り、慌てて駆け寄って抱きしめて、息が絶えるのを看取った。
「ハナっ……、」
パーカーの帽子を被った少年が俺の胸の、かけ布団の上へ左のこめかみを寄せて微笑した。
「……俺も感謝してるよ。かずとが辛いこと耐えて、頑張って生きていてくれたから、俺また会えたんだもん。でももう無理しなくていい。死んじゃいけないって常識はなにも助けてくれないじゃん。だから俺たちふたりだけのルールをつくろうよ。そのひとつ──逝くなら俺も連れてって」
俺の心臓の上に細い指を置いて、彼は甚く幸せそうに微笑んでいる。
「……ばかだね」
ハナに心中しようと誘われて、俺が許すわけがない。もっとうまく嘘をつけよ。
「ふふ。……俺はかずとが大事なんだ。かずとだけが」
左手を持ちあげて、黄色いパーカーの袖の端の部分に指先を乗せた。自分のパーカーのはずなのにひどく優しくて温かい、初めて知る感触がする。
「……グロいな」
帰宅すると玄関横の壁に拳サイズの血の跡が頭と膝あたりの位置にふたつ残っていた。
「あはは」
少年は隣で笑っている。
保険証は後日でもかまわないと言われたが、財布に常備していたから無駄なく精算できた。しかし医者にも笑顔を繕って、受付で治療費と入院費を支払うと、なにをしてるんだ、と冷静さが戻った。
留守録を聞いたあと玄関へ走りだした俺を少年はひきとめてくれたが、自ら壁に頭を打ちつけて、ひっくり返っても手で殴ったりまた壁に叩きつけたりと、狂って暴れて大変だったそうだ。
泣き疲れて自業自得で意識を失ったのち、彼が急いで『転んで頭を打ってしまった』と嘘をついて救急車を呼んでくれ、CT検査までした結果、ひとまず異常なしで一泊の入院後いまにいたる。
「かずと、今日はお風呂我慢って言われたし、身体拭く?」
ちなみに彼は俺との関係を訊かれて『パートナーです』とこたえたらしい。
──下手に詮索されても困るし、それがいちばん納得できるかなって思って。
誰が?
「俺、あったかいタオルつくってくるよ。──ね、かずと?」
「ああ……うん」
まだ頭が痛む。自室へ入って着替えを始めた。昨日帰宅してすぐ発狂して入院したから、なんだかこうしてコートを脱いでいると、ばあちゃんの見舞いにいったまま一日分の長い旅をしてようやく帰宅したような変な感覚だった。
パジャマを身につけて、頭痛と疲労を落ちつかせるべくベッドへ腰かける。
自分の掌を見おろした。死のうとしたわりに、いまここにある穏やかな日常の空気のながれが当然のように身体になじむのはなぜだろう。体調も回復して明日から会社と家の往復の日々が戻り、さらに感情が冴えたら、また絶望も生々しくぶり返ってきて自死願望がふくらんでゆくのだろうか。
「かずと~タオルつくってきたよ、はい服脱いで」
左隣に寄り添って座った少年が、俺の身体に触らないよう注意を払いつつ上着のボタンをはずしていく。肘で遮った。
「……自分でやれる」
指をかけてボタンをはずした。すべて終えて、左腕を袖からだそうとし……動きをとめる。少年が真横でじっと俺の胸もとと、顔を見ている。
「……喉渇いた。水お願いしていい」
「あ、はい!」
焦って部屋をでていく少年を見送ると、〝や~い童貞君〟とおどけて嗤う斉城さんの声が聞こえてきて額を押さえた。
キッチンのほうからグラスをとる音と、冷蔵庫のしまる音が聞こえてくる。はっ、と立ちあがってドア横へいき、昨日施設へ持っていったランチバッグを目で探すと、少年がいるキッチンのシンクにすり林檎を入れていた透明容器が乾かしてあり、ランチバッグも棚の所定の位置に片づけられていた。
「……ねえ、それいつ洗ってくれたの」
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