か、と続けようとした声も彼の唇に覆われてうち消された。
戦慄して意識が眩むほど、彼の唇はやわらかかった。これまで生きて食べてきたどんなものよりもやわらかく、なにとも比較することができない。そして小さく温かく、可愛らしく、愛おしかった。
感触と存在に対する衝撃を受けとめるのでやっとで、されるがままに彼の動きに翻弄されていた。ふわりとした上唇と下唇に自分の口先を挟まれて、何度も優しく吸い寄せられる。突然、舌でも舐められて全身が強張った。しかし撫でるようなしぐさで口端まで丁寧に舐められているうちに、徐々に慣れてきて鼻でゆっくり呼吸ができるようになった。
ところが次は歯で下唇を甘噛みされて再び戦いた。かたい凶器に噛み砕かれるのでは、と怯える。だがやはり彼の口はどこまでも甘やかで、唇と舌と歯で、俺のかたくとじた唇を愛撫し続ける。
「……近くにいるって感じる?」
吐息を洩らして彼が囁きつつ、俺の唇を食む。
「かずとのものだってわかる……?」
俺の。
「猫だから舐めてるんだよ。……これはキスじゃない」
角度を変えていま一度彼の唇が深く重なってきた刹那、身体の奥で恋しさが凶暴な勢いであふれ返って彼の背中を掻き抱いていた。抑えきれない。脳まで燃えて自我が蒸発したようだった。
この小さな存在が──簡単に腕のなかにおさまるか弱くて稚いぬくもりの塊が、自分のものだと、抱きしめて愛でていいものだと聞いて驚愕し、愛したくてたまらなくて細胞が猛り狂っている。
「かずと、」
口をひらいて彼の唇を覆い返した。舌をだして自分がされたように彼の上唇と下唇を舐めて吸う。
腰もひき寄せて力をこめて自分の胸に抱きこんだ。礼儀も気づかいも失い、不躾に我が儘に、自分のものだからという勝手な勘違いだけで、口内でぶつかりあった舌も舐めて吸い寄せてねぶった。
猫だからと彼は言ったが、ハナが舐めてくるときのしぐさとはまるで違ったし、俺もハナにキスをしているとは思っていなかった。彼にくちづけたかった。彼の唇が欲しかった。
欲しい。彼が誰にも触らせないところも自由に掻き乱すのを許されて、自分たちは他人など介入できないほど唯一ひとつなのだと、確信を得たい。
そうして愛したかった。なにより大事にして慈しんで無惨な現実から護って温かく包みたかった。幸せにしたかった。同時に、その笑顔に満ちる幸福をすこしでいい、分けてほしかった。
ふ、と息をこぼして彼も俺の首に強くしがみついてくる。それもどうしようもなく可愛らしい。
唾液がおたがいの口の隙間から伝うのもかまわず、彼の上唇を舌でなぞって、下唇をしゃぶって、舌先同士を撫であわせて、身体同士を縛りあった。
「かず……、」
彼がしゃべろうとするのも憎くて、下唇を吸い続ける。
「……かずと、……しごと、」
離したくない、まだ。
「しご……ちこく、」
はたと目をあけると現実があった。吸い寄せていた彼の下唇がすこしのびている。離すと、ふると震えながら戻った。
「……遅刻するよ」
壁かけ時計を見るととっくに出勤時間になっている。紅茶をすすっている暇もなくなっていた。
「ああ……」
我に返ったが、彼の両腕はいまも自分の首にあり、自分の腕は彼の身体に絡みついている。心臓もおさまるどころか激しく鼓動し続けていて、彼の羞恥に染まる愛らしい笑顔も依然として恋しい。
「……いくよ」
そう言ってもう一度唇をあわせた。足りないぶんを補給すれば落ちつくかと思ったが再び求めても彼が抵抗せずに自然と自分の唇を受け容れてくれたことがまた衝撃で、とめられなくなった。これが自分からした二度目のキス。
「……遅刻していいの」
俺の首にまわしていた腕をほどきながら彼が言う。
「駄目だよ」
駄目に決まっている、と主張しつつ、自分から離れようとする彼の腰をさらに強く抱いた。三度目のキスもした。
「じゃあ用意、しないと」
「うん、する」
いつか彼がここを去ってしまうとしても、こうして唇をあわせているあいだは捕まえていられる。口先で存在を感じて、抱きしめて自分の身体に縫いつけておける。想いあえていると、束の間信じることもできる。それが途方もなくどうしようもなく、幸福だった。
外へでると太陽が近くていつも以上に眩しく、世界が陽気に踊って輝いているように見えた。
身体も軽やかで力が底からごうごうと湧き続け、すべての人間や動物や植物や生きとし生けるもの、それ以外の電柱や看板やゴミ捨て場に積まれたゴミ袋までも、周囲に存在しているなにもかもが愛しく美しい幸福に彩られているように感じた。
俺は勇猛果敢な戦士だった。なんでもできる気がした。精力が漲って、まるで抑えきれなかった。目にうつるもの全部が愛しくて、慈愛で包みたくなった。おはよう、と言ってまわりたい。雑草にも、元気かいと訊ねたい。
自分の胸の中心に彼がいる。熱い愛が息づいて俺を生かしてくれている。自分はひとりではない、ここに彼がいる。ふたりで生きている。ふたつぶんの命がここで鼓動してひとつでいる。
「須賀、今日なんか調子いいな」
斉城さんの目聡さもチャーミングだった。
「さすが、部長はいつも部下をちゃんと見ていますね」
右目だけひそめて、奇妙な顔をされた。
「変だぞ。オトコになったか?」
「ふふ。またすぐそういうことを……」
上半身も退いて、異様なものを観察するような不躾さで凝視された。
「おまえのビジネススマイル以外の笑顔を初めて見たかもしれん」
「そうですか?」
「わかりやすいな、中坊は……ちょっと詳しく聞かせろよ。ちょうどいいから昼メシいくぞ」
「べつに話せることなんてありませんよ」
「あるだろ、でれでれしやがって」
「ありませんって」
「なあ猪上、こいつ今日変だよな?」
斉城さんが俺の正面の席にいる後輩まで巻きこんで囃してきた。猪上君は「機嫌いいですよね」と当たり障りない返答で苦笑し、斉城さんにあわせる。
「ほら、みんなにばれてるぞ」
「やめてくださいってば」
その後斉城さんと昼食へでかけて会話していると、ああ、たしかに自分は普段より機嫌よく笑っているかもしれない、と自覚した。心がスキップして終始弾んでいる。しかし無論、今朝の彼との交歓についてはうち明けなかった。
至福が光の海になって広大なまでに世界を支配し、押し寄せて弾け続けたあの素晴らしいひとときを、自分のような乏しい人間にはとてもじゃないが言葉で表現し尽くせない。拙い語彙力で汚してしまいそうで、語ろうとするのもおこがましくて耐えきれない。
無力な自分はあの記憶と感動をただ心のなかで大事に包んで慈しむしかなかった。孵ったばかりの雛を抱くように、優しく撫でて見つめることしか許されない。
「……まあ、死ぬとかほざいて青ざめた顔してるの見てるよりはいいか」
優しい斉城さんに、感謝を返せるよう自分も心からの思いで微笑み返した。
「うわ~……殴りてえなー……目ぇ覚ましてやろうか、このお花畑野郎」
はは、とまた笑ってしまう。
「人生バラ色ってか」
「〝バラ色〟って何色ですか?」
「は? そりゃ情熱的な赤ってことじゃない?」
「赤か……いえ、それならちょっと違いますね。幸福は太陽に似た黄金色です。もしくは花壇みたいな極彩色」
斉城さんが目を瞠った。
「……ウザいな初恋パワー」
一時間半ほど残業をして退社しても心身ともにまったく疲弊していなかった。
帰宅して、彼が笑顔で迎えてくれる見慣れた姿を想い描いた。俺が靴を脱ぐより先に玄関まで駆け寄ってきて〝おかえりかずと〟と笑いかけてくれるだろう。今夜はいつもよりすこし照れて、今朝の出来事を意識した微笑みを見せてくれるかもしれない。
キッチンでひどく名残惜しみながら口と身体を離したあのあと、自室へ戻ってスーツに着替えた。パンは余熱ですっかり焦げており、俺の紅茶は冷めきっていた。
『じゃあいってくる』と声をかけると、ダイニングで黒いパンと冷たい紅茶を食べる準備をしていた彼も玄関へきてくれて『気をつけていってらっしゃい』と肩を竦めて小首を傾げて笑ってくれた。
どうしても足りなくて四度目のキスをした。俺の衝動が子どもじみて感じられたのか彼は『ふふっ』と吹きだして口を離し、心を鎮めてから俺の口の位置を確認しつつ、再び唇をあわせてくれた。
ゆっくり丁寧に俺の唇に自分の唇をつけて食んで吸ってくれたしぐさも愛らしかったが、愛しいひとに自分の口を受けとめてもらい、触れあうことを許される、その事実が、とても現実とは思えない、なによりも信じられない打撃だった。
結局キスは七度目まで続いた。『だめだよ』と彼は言った。
──駄目、って……俺が、言えてるうちにとめて。俺本当は、かずとがしてくれること……全部、拒絶できないから。
そこで六度目のキス。
俺が『どうして拒絶しないの』と訊ねて、彼が、
──……嬉しいってことしか考えられない、ばかになるから。
そうこたえた瞬間に七度目のキスをした。
はやく会いたい。はやく傍にいきたい。そしてじいちゃんとばあちゃんとハナと同様に、この世界に存在するもののなかでもっとも大事に触れて愛したい。この手で。
「おかえりなさいかずと」
せめて表情だけは凜々しくしようと意を決して玄関のドアをひらくと、すでに少年が仁王立ちして待っていてくれた。……なんだか顔が怒っている?
ただいま、と今夜こそ言おうとして口をひらいた拍子に右腕を掴まれ、「きて」とひっぱられる。
「訊きたいことがある」
え、と頭に疑問符が浮かび、困惑しつつも靴を脱いでひかれるまま自室へ移動した。自分の腕を掴む小さな手も可愛い。
「これ。なに?」
部屋へ入ると彼が右手をのばしてデスクのほうを指さし、俺を睨みあげてきた。指の先を視線でたどると、折れてよれた紙片がある。有麻さんがくれた電話番号のメモだ。
「『またお話できたら嬉しいです』って。掃除してたらぱらって落ちてつい読んじゃった。勝手に読んだのはごめんだけど、かずとだって外でなんかしてるんじゃん」
そういえば、朝コートのポケットに手を入れて思い出し、ゴミ箱に捨て去るのもデスクの引きだしに丁寧にしまうのも違うと感じて、適当に上へ置いたのだった。
「急に冷たくなったり優しくなったり、かずとたまに情緒不安定で俺すごく怖いのに、昨日はかずとに怒る権利なかったんじゃないの? ひどいよ」
下唇を突きだしてうつむき加減に視線をさげ、泣きそうにふくれっ面をしている。
「俺がかずとだけって言っても無視するしさ……自分はこそこそ、こんな、しててさ」
灯りを点け忘れた部屋には、リビングのほうから入る光だけがさしている。薄暗いのに彼の横顔の大きな瞳はやはり綺麗に輝いていて、唇まで若干光っていた。
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