「……昼間どこにいってたの」
今日は土曜日だった。仕事も休みの土曜は、俺はばあちゃんのところへいくと決めている。だから眠っていた彼を放ってひとりででかけた。
「うん……ちょっと、こう……自分がどうしてここにいるのか調べてみようと思って、いろいろ」
「いろいろ? 調べるってどうやって」
「思いつくかぎりの、ええと……場所? とかいってみたり」
「祖父母の家にいってきたとでも言いたいのかな。どうせなにもなかっただろうけど」
「うん……なかった。消えてた」
消えてた、と少年は単語をひとつずつ噛みしめるようにもう一度くり返した。重量のある、深刻な響きをしていた。
「俺、かずと以外なにもない」
視線をあげて俺を見つめ、今度はひどく勇ましく断言する。悲嘆に暮れるのではない、むしろ清々しさすらある声音だった。
「なに言ってるの」
ハナが縋れるのは当然俺しかいない、と納得しそうになって我に返り突っぱねた。……ノせられてどうする。
「ていうか家の鍵はどうしたの、あけっぱなしででかけた? 空き巣も大喜びだね」
「そこの棚のいちばん上に合鍵しまってるでしょう。ちゃんと借りていったよ」
ダイニングのテーブル横にある棚を指さして、少年がにぃと笑顔をつくる。
「家のなかを漁ったのか」
「違うったら、知ってるんだよ」
昨日彼の前で合鍵をいじる素ぶりは見せなかった。彼の瞳には、以前同居していたころ知った、と当然のこととして言っている鋭さと真実の色がある。
「……〝ちゃんと借りた〟ってなに。ただの泥棒猫だろう」
「泥棒じゃないよ〝借り猫〟?」
喉で、ふふ、と小さく笑う。
「うるさい」
眼鏡のずれをなおして睨みつけた。
食事が終わると、彼はキッチンで食器洗いをする俺の横におずおず近づいてきた。
「かずと、風呂も借りていいかな。匂いとかやっぱ……気になっちゃって」
へへ、と情けなさそうに苦笑する。
まるい頭のかたちをかたどるようにカットされた繊細でしなやかな黒髪、暖房で火照った赤い頬、白すぎる首と細い指、折れそうに華奢な脚、目に痛いぐらい明るくて素っ頓狂な黄色のパーカー。
「俺のあとでね」
こたえて、手もとへ視線を戻した。
と、と、と、とハナが鳴らす、軽やかな足音が好きだった。
音だけで身体の小ささと、足先のまるく愛らしいかたちが鮮明に見えた。
「……かずと」
忍び足の人間の足音が部屋に入ってくる。
「……隣で寝てもいい」
訊ねるときは語尾をあげて発音するというのを知らないみたいに、消えかけの蝋燭めいた頼りない訊きかたをした。ハナはこういう寒い夜、人間が寝ている布団へ入りたがった。
目をとじたまま、ベッドの上で身体を端にずらす。
「ありがとう」
少年の笑顔が声色だけで見えた。ハナの喜怒哀楽が明晰だったならこんなふうだったのだろうか。
かけ布団が持ちあがって、背中越しに冷気と他人の入る気配がある。身体と身体のあいだに隙間ができて冷たい空気が細く入り続けている。肩を竦めるとそれを察したのか、ベッドが軋んで彼が寄り添ってきた。
「……また会えると思わなかった」
布団のなかでくぐもった声が聞こえた。背中の中心に額のような感触がつく。
「……もう一度、愛させてください」
濡れた声の懇願が、背骨を伝ってこちらの心臓まで響き渡る。
ハナは病気に冒されてどんなに痛い目に遭おうとも、決して涙をこぼしたりはしなかった。
日曜日は一週間ぶんの洗濯と掃除をする。
俺が洗濯ものをベランダで干していると、少年もやってきてにこりと微笑み、手伝い始めた。
「俺はきみの人生に干渉しない。他人と関わりたくないんだ、なにも知りたくないし助けもしない」
「うん」
俺の靴下をとった少年は涼しい表情をして背伸びし、ピンチハンガーにつるしていく。
「だけどハナだというなら検証させてもらう。そのあいだここにいるのも許可する。違うとわかったらすぐに警察へ突きだすから覚悟しておくように」
「わかってる、大丈夫」
まるで俺をなだめるような頼もしい口調で断言する。
「かずとが本気で俺を邪魔だと思うまで俺は一緒にいたい」
腕をぴんとのばして青いハンカチをつるしながら言う小さな彼の横顔は、やけに頑なで凜々しい。
ガラス戸付近はふたりで並んで立っていると窮屈だ。草履を履いて外へでた。明日から二月に入る冬の晴天の空は、寒風に撫でられて雲を薄くのばし、どこまでも青く澄んでいる。
左手の中指で眼鏡のずれをなおしてかごから白いTシャツをとった。湿ったTシャツが冷たい風に煽られて、せっかく干しているのに凍っていくんじゃないかと思う。
「……きみを追いださないのは、俺の恩返しみたいなものだ」
真冬でもじいちゃんと俺と自分の服を干していた、ばあちゃんの細くて温かい掌が脳裏を過った。
「うん」
手をとめてじっと俺を見つめ、彼がすべてを理解しているというような面持ちでうなずく。なにも知らないはずなのに妙に逞しいオーラを放って微笑むから、こっちが面食らう。
「あとやっておいて」
少年の横をすり抜けて部屋へ戻った。掃除機を持って、掃除を始める。
家出をした十一歳のときから十六年経った。
小学六年生のころの記憶を、普通の二十七歳はどれぐらい憶えているものなんだろう。
俺は自分の荷物をリュックに詰めて電車に乗り、隣町にある祖父母の家までいった日のことを鮮明に憶えている。衝動的ではなく、しっかり意志を持って両親から逃げた。絶対に帰らない、と決めていた。自分はあの家にいてはいけない、と信念とも言える理解を胸に抱いていた。
ばあちゃんの手に赦されて迎え入れてもらったあと、与えられた和室でしばらくずっと無気力に過ごした。ばあちゃんが部屋の外に運んできてくれる料理も、散々叱られたあと一日一食だけ食べたりしていた。誰にも触れないよう注意深く生活した。身をひそめて、誰にも自分を触らせないよう警戒もした。怖くて申しわけなくて、自分の存在が、現実が、息苦しくていっそ死にたかった。
両親が迎えにきてくれたのもドア越しに洩れる声で知った。あの子の弟を流産したばかりで辛い、一人に帰ってきてほしい、一人はどうしてここにいるんだ、なにか知らないのか、と、父さんはじいちゃんとばあちゃんを責めた。母さんは泣くばかりだった。父さんの荒々しい怒鳴り声も、母さんのむせび泣く声も、全部が自分への口撃に聞こえた。耳を塞いで呻いて嗚咽した。
大人たちを失望させ、絶望させ、なにも誰も寄せつけずにひきこもっていた俺を、外へ連れだしてくれたのはハナだった。
ハナは耳がいいせいか、俺が声を殺して泣いていてもドアの外でなあなあ呼んで慰め続けてくれた。食事のお盆をとったりトイレへいったりするときのドアがひらく一瞬の隙にささっと進入してきて、慌てて追いだす瞬間、抱きあげたハナの身体の艶やかな毛並みと、体温と、心臓の鼓動が、掌に触れて焦った。でも焦りながらだんだんと、命に触れることに慣れていった。
と、と、と、と堂々と部屋に入ってくるとハナは俺の膝上に乗っかって偉そうにどしりと座った。俺が怖くないのか、と訊いても、聞こえていないのか、聞く気がないのか、目をとじてじっと眠る。まだ幼かったあのころのハナは真綿のようだった。生きているのが不思議なほど小さくて〝重み〟がない。頭を撫でてみた。やめろ、とは言わなかった。それどころかひっくり返ってお腹をだし、もっとしろ、と喉を鳴らす。暴力的ともいえる屈託のなさが、俺をひさびさに笑わせた。
かたくとじていたドアをハナのためにほんのわずかひらくようになってきたころ、ハナが突然俺の膝からおりて、腹から喉のほうへ身体を波立たせるようにぐわんぐわん揺らし、うげ、と吐いた。
動転した俺は部屋を飛びだして『ばあちゃん!』と叫んだ。ハナまで失うのは耐えがたかった。
──ばあちゃん、ハナが! ハナがおかしい!
一緒に部屋へきてくれたばあちゃんは慌てる素ぶりもなく微笑んだ。
──猫は身体のなかにたまった毛を吐きだすんだよ。だから必ずしも体調が悪いわけじゃないの。
家出をしてひきこもるようになってから初めてばあちゃんと会話をかわしたのがそのときだった。
ひとしきり吐いたハナは涼しい顔をして俺の脚にすり寄り、どこか誇らしげに、なあ、と鳴いた。
「いいよかずと、そんな必要ない」
「必要ないってことないだろ」
午後、夕飯の買い物へでかけた先で少年を洋服屋へひっぱっていった。毎日おなじ服を着ているわけにもいかないと思ったからだ。
「だけど俺、金が、」
「ずっと俺の服を着てるっていうのか? 下着は?」
叱るように詰問すると、首をすぼめてぐっと口ごもる。
「……このパーカーと下着、毎日洗うよ」
「水道代を払うのは俺だ。きみが臭くて困るのも俺。迷惑かけないって約束したよね」
返答に詰まった少年は視線を横にながして頬を赤らめ、「……だけど、それ俺が得してる」とぼそぼそ洩らした。
「選ばないなら俺が適当に買うよ」
正面に並んでいるMサイズのボクサーパンツを端からみっつとった。ダサい花柄と奇抜な水玉模様と派手なキャラクターもの。
「ありがとう」
少年は嫌な顔ひとつせず、嬉しそうに笑って小首を傾げる。
移動してトップスも眺めた。セーターかニットか、外出しないならトレーナーでもいいか……?
「Mでも大きそうだな」
セーターをひろげて上半身にあわせてみたら容易く服に覆われた。肩幅が狭いせいか、手脚が細いせいなのか……考えるまでもなく全体的に小さすぎる。
「かずとのサイズで選んでよ。いつかかずとがかわりに着られるように」
視線をさげて、泣くのをごまかすみたいにへらりと苦笑する。
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