試し読み

「はあ……須賀、おまえはもっと世界をひろげろ」
 やれやれ、と斉城さんが長いため息をついて肩を落とす。
「恋愛でも趣味でもいい。いろんな人間と接して、嫌な思いもいい思いもたくさんしろ」
「世界ですか」
「おまえはどうもとじこもりがちだ。うつむいてないで、顔をあげてまわりを見ろ。友だちも恋人もどんどんつくれ、必要なら俺も協力するから。わかったな?」
 叱りつけて、斉城さんがうな重を投げやりに口へ入れ始めた。
 世界をひろげる、と俺はその言葉を心のなかで復唱して咀嚼する。

 オフィスへ戻ると「あ、須賀さんちょうどよかった、三番にお母さまからお電話です」と事務の女子社員に声をかけられた。待ちかまえていたようなタイミングだ。「はい」とこたえて受話器をとり、応答する。
『──一人? お昼休みにどこいってたの?』
「食事だよ」
『本当に? 母さんの電話さけてるんじゃないの? 家の電話にも全然でてくれないじゃない』
 それは、近ごろコールが鳴って留守電に切りかわり、相手が母さんだとわかると、少年が俺を睨んで目で〝無視したほうがいい、でるなら傍にいる〟と憤怒の念をただよわせ始めるからだ。
 母さんが冷静なときならいいが、こういうヒステリックな声をだされるととたんに心臓が居竦んでしまうのも彼にはばれている。
「ごめん母さん、仕事に戻らないといけないから手短にお願いできる」
 ほんとに……、とうんざりしたような呟きとため息が聞こえた。
『ねえ、だから一人の家にいかせて、っていうの。お願い。小学生のころから離ればなれなのよ? ひさびさに母子水入らずでいいじゃない、ね?』
 今度は急に猫撫で声になる。受話器のむこうにいる者が、なにか〝母〟ではないべつの怪物のように思えてぞくりとする。
「ごめん、それは……どうしてもできない」
『なによ。あなたにいいひとがいるわけでもないんでしょ? ──……ん? あら。えっ、もしかしてそうなの? 〝部屋が足りない〟ってそういうことっ? 同棲でもしてるの!?』
 怪物ではない。このひとは母親だ。母親だ。
「……ひとつ訊いてもいい」
『なあに?』
「母さんはまだ孫って欲しい?」
 離婚する両親に対して、親孝行とはなにかがわからなくなっていた。
 小学六年生から別々に暮らしてきて、ほとんど他人ともいえる距離感だった両親が、さらに他人になってしまう。どちらが親権を得るのかは不明だが、どうあれ今後ますます、それぞれが個々の人生へむかって生きてゆくのだろう。ならば果たして孫が必要なのかどうか。
『欲しいわよ、当然でしょ? 予定があるのっ? もうできたとか!? だとしたらそれこそ同居しましょうよ、二世帯でもいいわ、あなたたちだけじゃ心配だから、わたしがずっと傍で面倒を見てあげる! 楽しみだわ~……今度こそ大人になるまでちゃんとお世話してあげるの。お勉強もスポーツもなんでもやらせて、好きなことを見つけてあげましょう、でもまかせておいて、いい子に育つようにしっかり厳しく教育しちゃうから、うふふっ』
 血の気がひいて腕に鳥肌が立った。
 どうこたえていいのかわからず、混乱も激しくて、「ごめん、仕事に戻らないと」とだけ言って、掴んでいた虫を放すような嫌悪感とともに受話器を投げ置いた。
 母さんは俺に子どもができたら、自分の子も同然の扱いかたをしようとしている。そのゆがんだ感情を芽生えさせたのはほかでもない俺自身なのかもしれないが、当然のように息子夫婦のあいだに分け入ろうとしているのが恐ろしかった。それに子どもができたとしてもまた虐待めいた教育を施されるのなら、孫は、親孝行どころか母さんのおもちゃにしかなれない。

「かずとおかえりー! お仕事お疲れさま」
 家へ一歩入って少年の笑顔と朗らかな労いの言葉を聞くと、疲労感がどっと肩にのしかかってきた。屈んで彼の左肩へ倒れこむように頭を乗せ、薄い腰をひき寄せる。
「……かずと?」
 自分は疲れたんだ、と知った。仕事だけではない。母さんと話した日は心身にダメージを受けて激しく消耗する。
 これまで俺には親を非難的な目で見て排除していいという価値観はなかった。ばあちゃんの施設入所をきっかけに多少の嫌悪感なら抱くようになっていたが、親は絶対の存在だったのだ。この子が俺を変えた。俺は母さんと接しているとき精神を蝕まれていたんだと、理解して、認めてしまった。
「……ごめん。今日、弁当を食べられなかった」
 彼は今夜、先日買い物へいったとき購入したピンク色のパーカーを着ていた。すぅと吸うと、まだ新品の生地の香りに混ざって彼の匂いがした。
「お弁当? 具合悪かったの? 忙しかっただけ?」
「上司に誘われて、外で食べないといけなくなったんだ」
「なんだ、よかった。体調崩したんじゃなければ全然いいよ。美味しいもの食べられた?」
「……うなぎ」
「すごい! よかったね」
 よくはない。斉城さんの思いやりには感謝しているが、うなぎより少年の手作り弁当のほうが当然大事だった。
「かずとに美味しいもの食べさせてくれるひとがいて嬉しいな~」
 顔をあげて彼を見返すと、にぃと屈託のない笑顔をひろげている。
「きみも俺の世界がひろがればいいと思うのか」
「世界? ……その上司さんに言われたの?」
 うなずくと、視線を横にながして「うーん」と考えた。
「それってひとづきあいのこと? それともお勉強のこと?」
「……たぶん、ひとづきあいかな」
「だったら自分が生きやすい世界の規模を知るのはいいと思う。ひとそれぞれキャパがあって、ひとづきあいで大事にできる人数ってみんな違うだろうから。〝いろんな知識を増やせ〟っていうお勉強の話なら、ひとりでもできちゃうのかなって思うけど」
 いま一度彼の腰をひき寄せて首もとの帽子のあたりに鼻を埋めた。胸のなかにひき寄せすぎて、彼の身体が浮いて左足が玄関の三和土へ落ちてしまい「わ」と驚き、すぐに、あはは、と笑う。
「友人も恋人もたくさんつくれ、って言われたんだ」
 笑い声がとまった。
「……そっか」
 彼の左手が俺の背中にまわって、やんわりとさする。
「かずとを幸せにしてくれるひとが増えるのは、俺も嬉しいな……」
 声色は温かくて慈愛に満ちていた。
 抱きしめて、撫でられて、おたがいの手でおたがいを包みあっているのに顔も確認できないぐらい途方もない遠くへ佇んでいる気分になるのはなぜだろう。
 彼はいつも俺を俯瞰で眺めている。一歩離れた場所からにこにこ笑って、自分はそっちへいく気はない、としめしながら愛情を口にする。
「うわ」
 やや強引に身体を離して、「これ」と弁当箱の入っているランチバッグを突きだした。
「あ、うん」
 靴を脱いで部屋へあがる。弁当を食べられなかった罪悪感が消えて、ひどく残酷に、彼が傷つけばいいとすら思っていた。

 その後、彼が俺の機嫌をうかがいつつ、今夜はどこかへいくのかどうか……、と気にかけているのも感じながら、無視をして食事と風呂を終えた。こんな態度はやめろ、と自分を愚かしく思うのに、苛立ちをいつものように心の箱におさめて忘れ、優しく笑いかけることがどうしてもできない。
 三月になったので、彼が風呂へ入っているあいだにノートパソコンから自分の銀行口座へアクセスし、母さんの口座へ仕送りをした。両親が離婚したら仕送りはどうなるのだろうか。……いろいろ考えなければいけないことも山積していて頭を抱える。
 はあ、とうな垂れて前髪を掻きまわし、眼鏡のずれをなおすと、口座の取引履歴が視界を掠めた。家賃のほかに水道光熱費がひき落とされていて、明らかに先月までと金額が違い、増えている。彼がこの家で暮らし始めたからだ。
 俺が着られるサイズの洋服、客用の茶碗と箸、生活費──彼の痕跡は吹けば消える心許ないかたちでしか残らない。あの子は常に去る準備をしている。
「お風呂ありがとうございました~、あったかかった!」
 ふぅ、と不自然なほど明るく笑って彼が戻ってきた。布団へ入って横になり「ふふ」と幸せそうに微笑んでいる。風呂あがりで火照る彼の頬は赤く幼げで、乾いたばかりの髪もふわふわとやわらかく乱れており、苛立ちが削がれた。かわりに寂しさがさざ波のように訪れて胸を浸していく。
 パソコンをとじて眼鏡をはずし、灯りを消して自分もベッドへ入った。いつもは背中をむけて眠るが、まだ彼の笑顔を見ていたくてむかいあう格好で横になる。
「……かずと」
 ハナは水を嫌ったのになんできみは風呂を楽しむ。
 本を読めたのは、俺の背中に告白を書けたのはどうしてだ、なぜ文字を知っている。
 湯豆腐に昆布を入れるなんて誰から教わった。
 最初に着ていたダッフルコートとヘンリーネックシャツはなぜ年季の入った汚れかたをしている。
 俺の力はどこで、どうやって知った。
 ハナは涙をこぼして泣いたりはしなかった、なのにきみはどうして泣く。
 なんで。……どうして。
「ハナ」
 身を寄せて胸のなかへ抱き包んだ。腰をひいて自分の胸と脚にしっかりと絡みあわせてしまいこむ。この温かい生きものの正体を知るのが怖い。訊けば一瞬で逃げていきそうで声にすることもできない。彼が消えた未来を生きていける自信が、いまはもうない。
「……カレンダーだけはめくっていてくれ、頼むから」
 嫌ならなにも残さなくていい。ただここにいて、俺に〝明日〟を与え続けていてほしい。それ以上のことまで無理に望みはしないから。


 繁忙期に突入して一日中気の休まる暇もなく毎日が慌ただしい。
 自分の通常業務に加え、斉城さんとともに取引先へ出向いたり会議室にこもったりとサポート業務も増え、思うようにすすまない。
 午後三時過ぎ、社内会議を終えると疲労感に襲われ、席に資料を置いてそのまま休憩室へむかった。両肩が重たくて目も痛い。腹も空いているのかいないのかもはやわからない。自販機でストレートティを買って奥のソファへいくと、しかしそこに先客がいた。
「……あ、須賀さん。お疲れさまです」
 入社一年目の有麻さんだ。耳下までのおかっぱ髪をしたおとなしいタイプの女子社員で、特別接点はないものの蒼麻と似た字面の名字の子だったから記憶していた。
「お疲れさまです」とこたえると、眉をさげて苦々しく微笑みながら軽く会釈をくれた。ふたりきりになるのは気まずい、と感じているのだろうと察したが、ここで身を翻せばおたがいに体面が悪い。
 しかたなくすこし距離をおいて腰をおろし、ストレートティのペットボトルをあけた。
「……会議、やっと終わったんですね」
 有麻さんが小さな声でひかえめに話しかけてくれた。
「はい、やっと」
 彼女と会話をしたのは去年の新人歓迎会の夜以来だった。斉城さんが『ビール呑めない奴は言えよ』と乾杯の注文を募り、俺は彼にあわせて生ビールでいいと委ねていた。するとその後、挨拶まわりと称して席を移動させられた彼女が隣にきたとき『須賀さんはビールが平気なんですね』と笑いかけてくれた。それ以降は仕事上の事務的な会話のみ。
「須賀さんは斉城部長のお仕事を手伝っているから、いつも大変そうですよね」
 気づかってくれる彼女は手もとに飲みものやスマホがあるでもなく、なぜここにいたのか判然としない。

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