試し読み

 最後ににかりと笑って俺の肩を叩き、ドアをあけて去っていった。

 じいちゃんとばあちゃんは〝大恋愛結婚〟だったのだそうだ。ひそやかでこぢんまりとしたじいちゃんの葬式を終えたあと、ばあちゃんがそう教えてくれた。
 ふたりが生まれたのは田舎の山間部にある小さな村で、住民全員が家族のように個々の生活を把握している閉鎖的なところだった。無論、家の鍵などしめない。近所の人間は自由にそれぞれの家へ入りこめたし、愛車の軽トラまで知っていて、見知らぬセダンが村に入ってくればすぐ噂になった。
 山の上の家の娘の結婚も、川沿いの家の上京した息子の非行も、谷の家の新妻の不倫も、有名人のスクープより住民の心を躍らせ、またたく間にひろまって村を沸かせる。そんなふうに私生活、あるいは人生を人質にとられているのだから、学校や会社よりもたちの悪い狭い世界だ。
 ひとを好きになるのも一苦労だった、とばあちゃんは笑った。
 ばあちゃんよりよっつ歳上のじいちゃんは、村にひとつしかない学校でお兄さん的な存在で、子どもたちがみんな頼りにしていた憧れのひとだったという。
 なんせ思春期で、初恋で、村の外に逃げることもできない子どもだった。告白などしてふられようものなら村の大人たちにも子どもたちにも囃され、ときに同情され、辱められて生きていけなくなる。なによりじいちゃんまで巻きこんで、自分の一方的な想いのせいで迷惑をかけてしまう。
 この村にいる以上、口にはできない。しない、とかたく誓って、ばあちゃんは切ない恋心を秘めた。しかしあるときじいちゃんが好きだという本を貸してくれることになり、放課後に家へ招かれてむかった先で、優しく頭を撫でながら言われた。
 ──知っていたよ。
 と。
 ──悩んで苦しんでくれてありがとう。でもこれからは、ぼくも一緒に苦しませてくれないかな。
 じいちゃんがさしだした本は川端康成の『伊豆の踊子』だった。
 恋人である事実を隠し通すのは困難を極めた。それでもふたりは細心の注意を払いつつ、ひっそりとつきあいを続けた。
 集団での帰り道は視線だけで会話をかわし、勉強を教わっているという名目で夕暮れのひとときに河原で本を読むふりをしながらおたがいのことを教えあい、家のおつかいがてら偶然を装って町の青果店や駄菓子屋で逢瀬を楽しんだ。
 初めてのキスはじいちゃんが小中一貫の村の学校を卒業して、高校へ進学するとき。
 じいちゃんは電車で隣県の高校へ通うことになった。一応おなじ村に住み続けてはいたが、ともに過ごす時間が減るのは目に見えていたうえ、ふたりの歳の差では、今後ばあちゃんがどんなに追いかけようと努力しても、おなじ高校、大学へは通えない。村をでてきらびやかな新しい世界へいけば、当然自分より魅力的な女性もたくさんいるだろう。じいちゃんが心変わりしたときどうしたらいい。どうすればいい。ありがとう、と言ってこの恋をおしまいになどできるだろうか。
 心はまさに『伊豆の踊子』で、若いばあちゃんにとってそれは別離も同然の絶望的な転機だった。狭苦しい小さな世界に自分だけとり残されていくような孤独が恐ろしくて淋しくてたまらなかった。
 ──大丈夫、ぼくは変わらないよ。
 ふたりきりでいるのすら危険な村で、そのときじいちゃんは猛烈に緊張した面持ちでばあちゃんの手を握りしめ、神社の石段をのぼっていった。じいちゃんの手が冷えていたことも、それなのに汗ばんで小さく震えていたことも、忘れたことはない、とばあちゃんは少女の表情で言っていた。
 神社の裏の、木々が屋根のように垂れこめた薄暗い場所で、木漏れ日が足もとで揺らめく夕暮れに、ぎこちなくむかいあって、おたがいの心臓の音を感じながらキスをした。
 最初はぶつかるみたいにぱちんと唇同士があたって痛かった。照れて笑いあって、二回目はきちんとゆっくり唇の強張りもといて、口をあわせた。
 ──いまのひとからしたら嗤っちゃうね。口を〝んー〟ってあてるだけのだから。でも世界が自分の心臓と一緒に壊れるかと思った。あの小さな村も、家もひとも、みんな全部。このひととなら壊してもいいと想ったの。壊れてもいいと想ったんだよ。
 恋を語るときはいくつになろうとみんな詩人だ。ばあちゃんの赤らんだ頬と目尻のしわと、照れくさそうな若々しい笑顔と、目もとの涙に、心が揺さぶられた。
 ばあちゃんは教師になりたいという夢を抱いていた。じいちゃんが大学進学を機に上京したあともふたりの関係は続いていたが、ばあちゃんは家が貧しかったことで中学卒業後にじいちゃんを追いかけ、東京で就職をして故郷の両親を支えた。教師にはなれなかった。そうして結婚をした。
 ──夢を叶えてあげられなくてごめんね。ぼくも苦しいよ。……とても苦しい。
 決してじいちゃんのせいではなかったのに、じいちゃんは時折そう言ってばあちゃんを抱きしめたそうだ。
 ──苦しませない、とは言わなかった。苦しいときは自分も一緒だ、って言ってくれたの。だからこのひとといるとなにも怖くなかった。……共犯者みたいなものね。犯した苦しみも、成せなかった哀しみも全部ふたりのもの。どちらかのせいじゃない。そうやってふたりで生きてこられたのよね。
 告別式を翌日にひかえ、目の前の棺にはまだじいちゃんが眠っていた。ばあちゃんは俺ではなくじいちゃんへむけて想いを語っているのだと悟った。大きな蝋燭が揺れ続けていた。ずっとおとなしくしていたハナも、涙をこぼして微笑むばあちゃんを俺の膝の上で見つめて、なあ、と鳴いた。
 かつて狂おしいほど遠くにあった掌、唇、肌。やがて愛おしんで触れられるようになったすべてが、いまはまだここにあるのに明日には灰になって、今度は二度と触れられない彼方へ逝ってしまう──あのときばあちゃんはどんな気持ちだったのだろう。
 ばあちゃんに認知症の症状が出始めたのは、それから数ヶ月後のことだ。

 駅に着いて改札口を通ると、横にある構内のコンビニ前で小さく右手をふる少年を見つけた。
「おかえり、かずと」
 嬉しそうに微笑んでいるが頬をわずかにひきつらせていて、いたたまれなさげに見える。紺のダッフルコートの下には白いトレーナーを着ていた。
「ああ、いこう」
「はい」
 彼は毎日俺に〝おかえり〟と言う。家から離れた駅構内でも、いまそう言った。
 おはよう、おかえり、おやすみ──あたりまえのようにくり返される挨拶は日々の営みを形成して寄り添う言葉で、俺はくすぐったさに抵抗感を覚える。今日も素っ気ない反応をしたな、と自分で思った。
 隣にある駅ビルに入ってエスカレーターへ乗る。少年は隣をついて歩くだけで、目があうと照れくさそうに微笑むが、行き先を訊いてはこない。
 五階で俺がおりると、まっすぐすすもうとした俺に、右へいこうとした少年がぶつかってきた。
「あ、ごめん、ちゃんとついていこうと思っただけだよ」
 言いわけめいた謝罪は、俺を怒らせまいと必死にとり繕っているのがあからさまで途方に暮れた。
「……こっちだよ」
 さっさと歩いて雑貨屋へ入り、中央の棚へ誘導する。
「ほら、好きなの選びな」
「え……」
「ないと困るでしょう」
 正面の棚は三段になっており、食事に必要な食器類やカトラリーなどが並んでいる。楚々とした陶器の器もあれば、ガラスの美しい茶碗もある。箸もキャラクターものの安物から、素材にこだわった高価なものまでさまざまだ。
 少年はまんまるい目でそれらを眺めてから、俺を見あげた。
「今日の買い物ってこれ……?」
「ああ」
「選べってことは、俺の……?」
「客がきたときどうせ必要だからだよ」
 視線をはずしてこたえた。来客の予定など一切ないが、彼の驚く瞳があまりに純粋に澄んでいて、頬が熱くなってつい見栄をはった。
「ありがとう……どうしよう、嬉しい」
 まだ茫然としているものの喜ぶようすも邪気なく素直で、余計に感情が狼狽する。
「適当に、はやくね」
「かずととおなじのでいいよ」
「え? いや、いいから好きなの選びな」
「ううん。おそろいで増やしたほうが誰でもつかえて便利だと思うし」
 誰でも。
「や……でも、俺がつかってるのは、この店で買ったものじゃないから」
 いまたしかに、彼に突き放されたような感覚が胸を貫いた。
「そうか……ならせめて似たようなのにしたい。ええと……これとかどうかな」
 陶器のシンプルな白い茶碗をとって、少年が微笑んでいる。
「……きみがそれでいいなら」
「もちろん、嬉しいよ」
 はにかんで笑う少年が花のように無垢であるほど、孤独感を覚えた。
 俺は自分の部屋に、彼が生活するために必要な、彼専用の食器を増やしたかったのだと自覚した。

 そういえば、ハナがつかっていた餌皿はキッチンの棚にしまってある。ハナがつかうことは二度とないとわかっていても、ハナのものとしてそこにあり、俺が死んでどこかの他人が捨てるまでずっとそのままだろう。
 ハナがいなくなって辛かったが再び猫を飼おうとは思わなかった。ハナが消えた空虚はハナだけが埋められるもので、ほかのなにも、誰もかわりにはなれないからだ。
 いまでもハナが恋しい。〝猫〟ではなく、ハナが恋しい。
「……かずと、今日ありがとう」
 食事も風呂も終え、ベッドへ入ると、少年は背後で小さく礼を言った。
 ふと背中にかすかな違和感がついて、彼の指だとわかった。す、と横へずれて離れ、今度はうなじのあたりからゆっくり下へ。
 なにか書いている、と気づいて神経を研ぎ澄まし、指文字を追いかけた。
 文字はよっつ。そこで終わった。
「……おやすみね」
 一日を締める挨拶……彼との日々の営みがまた積み重なった。
 やがて彼の寝息とともに、夜の静寂がおりてきた。
 ──だ、い、す、き
 ちぐはぐな言動に対する憎しみが腹の底にじとりとひろがっていく。子どもじみて卑しく無防備なその感情は、大人の自制心やO型のおおらかさをもってしても抑えきれず、眠りに落ちるまでだいぶ時間を要した。布団から晴れた太陽の匂いがする。


「おはようかずと」
 うまく眠れなかったせいか頭痛がする。「ああ」とこたえた声が不機嫌に響いた。
 少年はにっこりと爽やかな笑顔をひろげて朝陽に照らされ、カレンダーを千切っている。昨日の尾をひいているのか、彼の純白すぎる清らかさが胸のあたりにも不快な疼きをもたらした。
「パンすぐに焼くね」
「……ああ、いらない」
「え。……わかった。ジュースは飲む?」
「いや。紅茶にする」
「なら、お湯準備するよ」
 少年の表情が物憂げに曇っても、黙って洗面所へ移動した。
 いま溝ができた。朝食を抜きたいのは胃腸の弱さゆえだと、今日は寒いから紅茶にしたいだけだと、そう説明すれば彼はまた安心しててらいなく笑うだろう。俺の身体も心配してくれるかもしれない。しかし正しいと感じるその言葉たちを口からだせないどころか溜飲のさがる思いすらした。
 顔を洗って歯を磨き、ダイニングへ戻ると、少年がパンを囓る音のみが室内にさくり、さくり、と鳴った。紅茶を前に黙している俺は、まるで彼の食事を急かしているような態度になる。
 沈黙は空気を気まずく濁らせて、俺たちのまわりをどろりと蠢きだし、遠くからスズメの声が届く一瞬だけ、その澱が沈んで和らぐ。
「……かずと、本当に紅茶だけで大丈夫?」
「ああ」

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