声をかけたら、少年もふりむいた。
「あ、昨日救急車呼んだあと。……なんか俺も、かずとが頭がんがんぶつけてるの見て怖くなっちゃって、助けがくるまで落ちつこうって思って。よく考えたら意味不明な行動だよね」
へへ、と眉をさげて苦笑している。
「……ありがとう。あと、すまない、とち狂って」
意味不明どころか、泣きながら躊躇いなく壁に頭を打ちつける奴を見たら俺だって絶句する。
「はは、狂ったっていいよべつに。かずとが死んじゃったら、って想像して怖くなっただけだから」
少年が笑いながらグラスにスポーツドリンクをそそぎ、ペットボトルを冷蔵庫にしまう。
「死ぬのなんて他愛ないって思ってるんじゃないのか」
唇にだけ微笑を浮かべてグラスを持ち、こちらへ戻ってきた。
「かずとの命以外は他愛ないよ」
背筋が冷えるほど残酷で愛らしい笑顔をしている。
「……なんできみは俺を神聖視してるんだ」
グラスをさしだしてくる彼を見つめた。猫のように濁りのない、なにもかもを見通しているようなまっすぐな瞳。それが突然、にっこりとつくり笑顔に変化した。
「ご飯をくれるご主人さまだからだにゃん」
顔の横で猫手をつくって小首を傾げ、ぶりっこをする。右手にはグラス、左手にはタオルが。
「ふざけるな」
グラスとタオルを奪って自室へ戻った。「風呂の掃除しといて、洗濯も」と頼んでドアをしめる。可愛さでごまかしやがって。
翌日出勤すると、頭に包帯を巻いた俺を見てほとんどの社員がぎょっと退くなか、斉城さんだけ「わははは、どうした、自殺に失敗したか?」と大笑いした。B型はデリカシーもない。まあ、おそらく本人は笑い飛ばして社内の陰気な雰囲気を変えようとしてくれたのだろうが、俺が「はい」とこたえて場が凍りついただけで終わった。
とはいえ朝から一日中会議という緊張感を要する日だったのが幸いした。社員も仕事へ没頭して俺の怪我を視界からうまく排除し、見なかったことにしてくれたし、俺自身仕事以外の懊悩に蝕まれずにすんだからだ。無駄に余裕があったらまたばあちゃんのいる施設へ駆けだしていたかもしれない。
ただ、何度目かの短い休憩に入った午後三時、異変があった。デスクに貼られた三枚の付箋。
「あ、須賀さんすみません、お母さまから何度も電話があったんです」
「……はあ」
「会議だって伝えたんですけど、ちょっと困ってるようすでしたよ」
困っている。……それは俺もだ。
「わかりました、ありがとうございます」
帰宅してから考えよう、と思考に蓋をする。母さんたちにどう相対すればいいのか、父さんの兄弟にどう謝罪をすればいいのか、ばあちゃんの金をどこに、誰に託せばいいのか、なにが最善で正しいのか、俺もまだなにも判断できない。
自宅までのひとけのない夜道を歩きながら、頭の傷が痛むから今夜はドライブにでかけられないな、とふと、呼吸するのと同等の軽率さでぽつりと落胆してしまった。疲れすぎて油断していた。
──もう無理しなくていい。死んじゃいけないって常識はなにも助けてくれないじゃん。だから俺たちふたりだけのルールをつくろうよ。そのひとつ──逝くなら俺も連れてって。
──かずとの命以外は他愛ないよ。
見あげるとアパートの自分の部屋に灯りが点いている。最近料理を憶え始めた少年は、簡単な炒めものやサラダや味噌汁を作って待っていてくれる。
先日作ってくれた豚汁の薄い味が舌の上に蘇ってきてすこし笑えた。味見してないのか、と訊ねたら視線を泳がせて『薄味のほうが健康にいいんだよ、かずとが心配だからわざとしたんだ、愛情メシなの』と苦し紛れの反論をした。
俺は本当に死にたかったのだろうか。死んで、よかったのだろうか。すべて遺して逝ったあとに、後悔はなかった、と本心からの思いで断言できただろうか。
「おかえりかずと! 体調大丈夫だった……?」
ドアをひらくと満面の笑顔をひろげたエプロン姿の少年が迎えてくれた。だがすぐに息を呑んだ。
「その顔どうした」
彼の左頬が赤く腫れて、口端にも血がにじんでいる。
「ちょっとね。あとでちゃんと話すよ」
明るく笑って濁され、苛立ちが迫りあがってきた。
「いま話してほしい。なにがあった? なんで傷つけられた、なにをした?」
触らないかわりに少年の瞳を真正面から見据えて逃がすまいと捕まえた。また散歩でもしてトラブルに巻きこまれたのか? ガラの悪い奴らに囲まれてひどい目に遭わされた? だったら俺はそいつらを──。
「これ。とり戻してきたよ」
エプロンのポケットから彼が通帳をだした。俺の名前が印字された、よれて古ぼけた数冊の通帳。
「……まさか、」
──須賀さんすみません、お母さまから何度も電話があったんです。
──会議だって伝えたんですけど、ちょっと困ってるようすでしたよ。
「母さんのところへいったのか? なんでっ?」
「これはかずとのものだから」
怒気を含んだ冷静沈着な眼差しで彼が言い放つ。
「違う、俺のじゃない!」
「違くない」
「なんでこんなことをした、なんで!?」
母さんに会いにいかれたのも、通帳を持ってこられたのも迷惑だ、介入してこないでほしかった、あの家へきみに近づいてほしくなかった、知られたくなかった、憎しみの塊でしかない通帳がここにあるのも怖気が走る。
「かずと、」
「余計なことするなよ!」
そうだ、この家も、この子のいる場所も、理想郷になっていた。現実の隣にある、辛いことも苦しいこともなにもないと錯覚していられる夢の世界。
反して、彼がいったと知ると実家は暗黒の地獄のように感じられて、綺麗な彼をおぞましい場所へ導いてしまった、見なくていい汚れたものを見せてしまった、教えたくなかった、と、心臓がひき裂かれるような猛烈な罪悪感と嫌悪感に痛いほど苛まれた。
「かずと、落ちついて」
しかし彼の瞳は美しいナイフみたいな鋭利さで一切の動揺もなく俺を見つめている。
「──俺、あの留守録を聞いてるとき反吐がでそうだった」
「え……?」
「〝いい機会だから言っておく〟ってなに。かずとを傷つけてやれるのがいまのタイミングだ、って狙ってざまあみろって思いながら言ったんだよね。そもそもかずとも関係してるお金のことを黙ってたっていう意味がわからない。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがかずとのために積み立ててきたお金も、自分たちのものにしようとしてた魂胆が見え見えじゃん」
「なに言っ、」
「今日も〝遺産が、遺産が〟ってずっと言ってたよ。お祖母ちゃんはまだ生きてるのにあのひとたちは亡くなったあとお祖母ちゃんのお金をどう分けるかってことで頭がいっぱいで、介護なんかまっぴらごめん、さっさと金だけ遺して逝ってくれって願ってるんだよ。あのひとたちにとってかずとはむしろ都合のいい存在なんだろうね。毎週末せこせこ通って面倒見てくれるうえに、自分たちが見舞いにいかなくていい理由までつくってくれた。激昂してるふりして、しめしめと思ってるに違いない」
冷淡な言葉を続ける唇の端で、血が赤く小さな泡になっている。
「お祖母ちゃんはわかってたんだ。かずと以外に自分を本気で心配して、施設まで会いにきてくれるひとはいないって。お祖母ちゃんが田舎の施設にいったのは、お祖母ちゃん自身が〝本当にきてくれなかった〟って思い知って、哀しくなるのをさけるためだったんじゃないかな」
少年の左手が俺の右手を躊躇いなくとって、通帳をのせた。
「このお金はかずとがちゃんと自分で管理してお祖母ちゃんのためにつかって。毎週お見舞いにいく高速代だってばかにならないでしょう。お祖母ちゃんを天国へ送ったあとだってお金は必要だよ。〝お金〟って存在に惑わされないで。卑しいものだって考えて排除しちゃ駄目。お金は大事で、必要なひとのところへきちんと届いて正しくつかわれなくちゃいけないんだよ。かずとが護らなきゃいけないんだよ」
何冊もあってぶ厚くて、きちんと掴んでいなければ落ちてしまう。ばあちゃんは何年銀行へ通って貯め続けたのだろう。いちばん上の古い一枚をめくってみると、とたんに息が詰まった。
「これ……俺が、初任給で仕送りしたときの、」
就職した年の四月。給料を確認した夜ふたりの家へ寄り、三万円渡した。翌日の日づけでぴったり三万入金されている。その次の月も、その次の月も。
「一円もつかわなかったってことか……? 俺に渡すために?」
じいちゃんとばあちゃんはあのとき『ありがとうね』とすんなり受けとってくれた。いらないよと拒まれるだろうと予想していたから意外に感じたが、好都合だったから素直に安堵した。そして毎月仕送りを口実にふたりの家へ通えるのを楽しみに、仕事を頑張ろうと奮起した。
見知らぬ金額はじいちゃんとばあちゃんが用意してくれたものだとわかる。二千、三万五千、五千、七万、と金額はまちまちで、年金などから余裕がでた都度積み立ててくれていたのだろうか。
「じいちゃん……ばあちゃん……」
一行一行、入金の印字とともにふたりの想いが刻まれている。ぱた、と涙がこぼれて掠れたインクを浮かせた。ばあちゃんに会いたかった。一昨日とはまるで違う理由でいますぐに会いたかった。
「そういうことか」と少年が肩を竦めて呆れ声になる。
「かずとのおばさん、その通帳を俺によこすとき『こんな厭味ったらしいもの』って投げつけてきたんだよ。かずと、実家にもおなじ金額を仕送りしてたんじゃない?」
「……。してたよ」
「やっぱり。おばさんも金額と日づけで気づいたんだね。でも自分たちは積み立ててなんかいなかったから〝親より親みたいな真似して厭味ったらしい〟とか、そんな感じで苛ついたのかもよ」
母さんの怒りの形相は幼いころよく見ていたから容易に想像できた。右手をふりあげて彼を殴るようすも、毅然と立ちむかったのであろう彼のまっすぐな瞳も。
「このお金はかずとしか正しくつかえない。だからお祖母ちゃんが権利を与えたんだよ、放棄しちゃ駄目」
涙にぼやけてはいるが、彼が俺を叱りつけるような真剣な表情をしているのはわかった。
「自覚してほしいんだけど、かずとはこの世界の誰より愛情深くて誠実で正しいんだよ。傷つく必要も、死ぬ必要もない。死にたいなら俺も一緒に逝くよ。でもお祖母ちゃんが天国へいくまでは生きて護ろうよ。あのひとたちにまかせたらものすごく雑にお墓へ放りこまれるかもしれないよ」
目をとじて、自分のことも納得させるよう小刻みに、深くうなずいてこたえた。
「……ああ。ばあちゃんが生きているうちは死ねない」
少年もにぃと微笑む。
「うん、死なせない」
バッグと通帳を左手に大事に持ちかえた。彼は嬉しそうに「ふふ」ところころ微笑んでいる。
右手を持ちあげてとめ、彼の左頬の赤く腫れた部分へ、そっと、空気も揺らさない速度で慎重に、ゆっくり近づけた。あと一センチ……数ミリ、と掌のふくらみが触れそうになったところで、痛みを考慮してとどめた。呼吸もとめていた。
「……すまない」
俺の実家はどうやって調べたんだ。母さんには自分の存在をどう説明した。まさかまたパートナーだと言ったんじゃないだろうな──……訊ねたい事柄はたくさんあふれてくるというのに喉がかたい石になって声がでない。
彼が自分のために無謀でむこうみずで、しかし勇敢な行動を起こしてくれた。そして彼なりの正義と俺への想いを貫いて殴られながら立ちむかい、帰ってきてくれた。地獄へいっても汚されることなく綺麗なままいてくれた。その事実と現実のほうが心を焼くほど支配していた。
「かずと、もうひとつ教えてあげる」
少年はまた躊躇いなく、猫のように俺の掌に頬をすり寄せて肩と左手で挟み、慈しんだ。
「かずとの親がしていたのは児童虐待だよ。かずとの人格を否定して叩いて殴って傷つけた。それは虐待なの。かずとはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのところへ逃げて正しかったの」
ジドウ、ギャクタイ……?
「いや、違う。俺は弟ができるのに怠けて、掃除も勉強もろくにできなくて、駄目な子どもで、」
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