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とのこと
世界のはみだしっ子との恋
「――今夜は男だけなんでちょっと言わせてもらっていいですか? じつはうちの姉が旦那に不倫されたって騒いで実家に帰ってきてて、先週からずっと修羅場なんですよ。マジでまいっちゃって、こうやって仕事のあと呑んで遅く帰れるの、めっちゃ助かります」
泥酔した営業一課の同僚が肩を落として、はああー……、と大きなため息をつきながらうなだれる。二十四歳の後輩で、実家暮らしの高橋だ。特別優秀ではないが、頼まれた仕事はきちんとこなす凡庸タイプ。
「どう修羅場なの?」
俺の正面の席にいる柳瀬さんが、上司らしい鷹揚な口調で訊ねる。
「旦那が〝帰ってきてくれ〟ってガンガン連絡してきて実家にも突撃してくるのを姉貴が完全拒否って感じです。〝離婚する〟の一点張りで。子どももいるから家のなかが落ちつかなくて、ほんと最悪ですよ……俺、これを機に実家でようかなあ。ていうか、離婚問題って厄介ですね、姉貴たちどうなっちゃうんだろう……」
離婚問題か……、と俺もビールを呷った。
「厄介って、どんなふうに?」
俺もつい訊ねてしまった。斜向かいにいる戸川の視線をこめかみに感じる。
「そりゃ夫婦ですから姉貴と旦那も当然言い争ってるけど両家の親兄弟も翻弄されるんですよ。うちの母親も腹を立てたり孫を心配したりで、俺が仕事中でも相談の電話してきたりするし」
「あー……なるほどな」
離婚、とひとくちに言っても、一度結んだ家同士の縁を切るっていう行為はやはり様々な人間の感情に関わる大変なものなんだな。うちの両親も自分たちの不仲を親族や友人たちにまで晒しながら途方のない心労を抱えてもなお離縁を選択したわけか。
「で、素朴な疑問なんですけど、みなさん不倫ってしたいです?」
高橋の質問がいきなり本題から斜めに逸れた。
「なんだそれ」「興味あるのそこか」「おまえも結婚したら不倫したいって話?」と長テーブルのあちこちからヤジが飛んで高橋が笑う。
「いやー……俺はぶっちゃけ姪っ子が幸せなら姉貴たちは好きにしてって感じなんですよね。姉貴が怒るのもわかるんですよ、不倫はよくないっていうのも重々承知してますし。けど結婚してずっとひとりの人間だけ好きでいるって無理じゃないですか? 女だって、旦那に飽きるでしょ? いや、女のほうが飽きるのはやくないっすか? 男は所詮種搾りとられて子どもができたら金稼いでくるだけの馬車馬ですよ。ちょっと浮気するぐらいよくないですかね?」
またあちこちから「おまえ最悪」という批難や、「わかるわ~、こっちもストレス溜まるっつーの」という同意がぽんぽん飛びかう。
うわあ、この空気嫌だなー……、と嫌悪感を抱きつつ、俺は顔面に苦笑いを浮かべてひたすらビールを呑み、刺身を食べる。
「柳瀬さんはどうですか? 不倫って憧れません?」
俺とおなじように、顔に笑顔をはりつけてハイボールを呑んでいた柳瀬さんが標的にされた。
「そうだねえ……憧れないとは言えないかな。でも妻と娘を捨てる覚悟で愛せる相手となると、申しわけないけどもはやこの世にいるかどうか怪しいよね」
高橋の荒んだ心と鬱憤も、愛妻家の上司という立場も守る完璧な返答……さすがだ。
「でた、柳瀬さんはこれだわ」「課長はしかたねえな~」と周囲も納得して笑いながら称える。
ハイボールのグラスを置いた柳瀬さんの視線が一瞬こちらに流れて、甘い苦笑いを浮かべた。……その意味深な合図はいらんぞパパ。
「城島さんはいいですよね、そもそも結婚ってのがないんで」
あ、まずい。俺もターゲットにされてしまった。
「男同士って楽そうじゃないですか? 女は恋だの愛だの感情論がうるさいけど、男同士なら感情とべつに性欲があるってわかってるから、浮気だなんだって騒いだりしないでしょ?」
「城島さんそれ本当? だったら羨ましいなあ。〝髪切ったの気づかない男はクソ〟〝外食の金だしてくれない男は死ね〟って女の勝手さほんとウザいんで、俺もホモになりた~い」
俺がこたえあぐねている間に「ホモいいな」「自由恋愛最高~」と嗤いの輪ができ始めて、こっちは相変わらずへらへら笑顔を繕ったまま酒を呑むしかなくなる。
偏見ではあるけれど性指向を受け容れてもらっているのはたしかなので、こういうとき怒りは湧かずともただただ居心地が悪い。
うちの彼氏は完璧なんで浮気も不倫もしようと思わねえんだわ、ととりあえず心のなかだけでのろけて、大人しく笑っておく。
「同性愛者でもいまはパートナー宣誓っていう結婚に相当する制度がありますよ」
ふいに、戸川がかたい声で発言した。
「パートナー関係を解消した際には証明書を返還する必要があるので、それが離婚とも言えますね。ゲイだってただセックスしてるだけじゃなくて、一生添い遂げる相手を求めたり失ったりしてるんですよ。下半身じゃなくてここで生きてるんですから」
言いながら、戸川は左拳で自分の心臓のあたりを叩く。
「うひゃ~……戸川、いま女子いねえのに格好つけるなよ」「おまえほんとむかつくぐらいイケメンだな」と戸川にも呆れまじりの称賛がむけられる。
戸川はまっすぐ俺を見つめて、目で深くうなずいた。
神さま、真人さま、すみません……俺は相変わらず会社でも、顔と性格のいい非の打ちどころのない男たちに守られて、恵まれながら生きています。
二月に入って冬も深まり、世界は冷たく澄んで透き通っている。酔い心地の浮ついた意識で空を見あげると満月がいた。帰り道を進みながらスマホをだして写真を撮り、真人に送る。
『まころん、今夜は地球からもっとも遠い満月らしいよ』
昼間ニュースサイトで得た知識と月のぼやけた画像が送信され、すぐに既読になったのを確認して、ふふん、と得意になる。
『小さなスノームーンですね』
返事がきた。
『スノームーン?』
『二月の満月をそう呼ぶみたいです』
真人も妙に美しい言葉を教えてくれて、胸がぎゅと縮む。
『綺麗だね。こんなの知ってるまころんはやっぱり完璧彼氏だな』
浮気したいと思う隙をまったく与えちゃくれないよ。
『朝からSNSでも騒いでましたよ。この程度で完璧だって言われると心配になるな。世さん、簡単にほかの男に落とされそう』
うっ……なんだこの可愛くない返事は。
『ツンツンツンキングのばか。ロマンチックな気分だったのに』
『あなたを失うのが怖いだけです』
『こっちは大好き~って蕩けてた気分が台無しだ、浮気する』
『その蕩けた〝大好き〟っていうの、声で聴かせて』
フン、と鼻を鳴らして顔をあげたら、道の先のアパート前でパジャマにロングコートを羽織った眼鏡の真人が立っていた。
「――おかえり世」
小さな月の光に照らされて、サンダルの足もとまではっきり見えるほど存在感のある真人に茫然と見入ってしまった。
「どれだけ遠くにいても月は綺麗ですね」
コートのせいでパジャマの右襟がよれて、胸もとがすこしだらしなくはだけている。童話の王子さまなら眼鏡だってしていないはずで、メッセージで俺の気持ちを疑ってきたツンツンツンキングでしかないのに、こんなに色っぽく格好よくきらきら輝いているのは狡いだろ。
「……なんでいるんだよ」
「月の写真にうつってた建物が近所のものだったんで、待っていれば会えると思ったんです」
「家にいてよかったのに」
「はやく会いたかったって、言わないとわからないんですか」
「わ、かんない、よ」
「会いたかったです。俺、あなたに満月の話をされると弱い」
弱い、の真人の言葉で、俺はきっと真人以上にダメージを食らって蕩けて溶けている。
「……そんなにあの夜のこと大事にするなよ」
歩きながら脱力して真人のところへたどり着くと、額を真人の胸につけて腰にしがみついた。
「大事にしますよ。挨拶以外で初めて会話した想い出だから」
真人も俺の背中を抱いて受けとめてくれる。
「俺はべろべろに酔っ払ってたから綺麗な想い出じゃない」
「世さんにとっては俺との想い出っていうより、柳瀬さんと別れて辛かった時期の記憶でしかないわけですか」
「いや……そうじゃないけどさ」
「俺もあの日、恋人と別れた帰りだったんですよ。でも世さんと話せたのが嬉しくてときめいてました」
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