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「……髪、濡れてるよ」
「あ、うん……さっき顔洗った」
「泣いてたんでしょう」
真人の前では子どものころから何度も泣いているから、ばれていたみたいだ。
「……ごめん」
いたたまれなさもあってうつむいて謝った。子どものころからなにも変わっていないなと、いまさら自分が情けなくなる。
「……俺もごめん世ちゃん」
真人の弱った声音がこぼれてきて、顔をあげたら真人も落ちこんだようにうな垂れていた。
「まこは謝らなくていいよ」
柳瀬先生や戸川が諭してくれたように、好意を寄せ続けてくれる真人に答えをしめさなければいけないのは俺だ。俺が結婚を拒絶しながらも真人を求めて、真人の恋愛感情に甘えてきたのが悪いんだから。
結婚も絶縁も嫌がって、曖昧にして真人をふりまわすのは、もう終わりにしなくちゃ。
「……結婚しないのにまこと一緒にいたがるのは、不誠実だよね」
うつむくと自分の左手が視界を掠めた。もっとずっと子どもだったころ、この手を握りしめて真人が一緒に眠ってくれた。ふたりして小さな手だった。なのに真人の手はあったかくて、痛いぐらい力強くて、俺が泣き疲れて眠るまで、その痛みは消えなかった。
「まこと、別れるのは、無理で、……耐えられないけど、でも……離婚は、もっと辛いから、だから……、」
だからまこと、今日で本当に友だちやめる。
明日も明後日も、その次も、夕飯のとき真人がいなくても我慢する。
いま幸せだから、嫌われて離婚するぐらいなら大好きだと想いながらおしまいにしたいから。真人が死んじゃって世界から消えるのを見るのも耐えられないから。だから。
真人が好きだから、好きなうちにさよならする。
「うぅ、う……まこ、と俺……、」
言わなきゃいけない言葉が口からでていかない。
おにぎりをもらったっていうのに、口のなかは棒スナックの味がする。あの日真人と一緒に食べたチーズ味とやさいサラダ味と、コンポタ味とサラミ味。
家に帰るのが嫌な日、駄菓子屋さんや神社や公園に誘って遊んでくれたのは真人だった。
夏休みに真人の家族に連れられてプールや海にだって行った。
家が離れても毎日料理を作りに来てくれた。真人がいるから俺は寂しくならないでいられた。
笑っていられた。嬉しさや喜びを感じられた。真人が見せてくれる夕暮れや海や料理はきらきら輝いていて、世界が綺麗に色づいているのも知られた。温かな感情の全部をくれたのが、両親でも友だちでもなく真人だった。真人だけだった。
「まこ、と……うぅう、っ……おしま、に、」
「世ちゃん」
ばらばら涙をこぼす十六歳のみっともない俺を、真人がそっと両腕で抱き包んでくれた。
「……俺、世ちゃんのこと待つよ。世ちゃんが俺と結婚してもいいって思えるようになるまで待つ。そのあいだも嫌いにならない。世ちゃんのことずっと好きだよ」
「まご、っ……」
「でも俺もわかった。待ってるだけじゃ世ちゃんは変わらないから、夫夫ごっこしよう」
ひぐひぐしゃくりあげながら、泣いて意識が眩む頭で、夫夫ごっこ……? と疑問に思った。
「このあいだ俺、世ちゃんと食事するの夫夫みたいで嬉しいって言ったでしょ。世ちゃんにも幼なじみじゃなくて、夫の俺と料理と食事とキスをするんだって思って生活してみてほしい」
「キ、……なんか、変なの混じってた」
「変じゃないよ、夫夫だから。セックスもするよ」
「せっ、……セッ⁉」
涙がぴたっと止まって、心臓がばんばん弾けだした。
真人は冷静な面持ちで平然としている。
「世ちゃんは結婚したくないって言うけど、俺が世ちゃん以外のひととキスしたりセックスしたりする未来は想像したことあるの」
「え……」
「別れるって、おたがいの恋愛と人生に関われなくなることなんだよ。それわかってる?」
羞恥で震える唇を噛みしめて、怒り始めている真人にどうにか言葉を発しようと努力する。
「あ、……あの、」
「なに」
「あ……ぁ、……あ、る……よ、か、……考えたこと」
「え、あるの?」
真人がべつのひとに心うつりしたり、誰かといやらしいことする姿は、ちゃんと、想像したことがある。
「男でも女でも、好きでも好きじゃなくても……まこが、そういうふうに誰か触るのは嫌で、……自分がそのひとに、なりたい、って……思う」
話しているあいだに真人の腕の力が強くなっていって、息が詰まるぐらい抱き竦められた。
「……うん。じゃあ夫夫ごっこしようね」
抱きしめられると真人の腕が細いのに意外と逞しいのを知る。微妙な力の加減で想いの熱量まで感じられるのに、右耳も軽く噛まれて、びくっと竦んでしまった。
「……俺、いまさら世ちゃんとつきあうとかつきあわないとか、そんな話するつもりないよ。だって世ちゃんが俺のこと好きなの知ってるから」
「し、知ってるって……恋愛ってことも?」
「うん」
「な、んで」
「なんで? それ訊くほうがおかしいでしょ」
左手を引き寄せて涙を払い、ぼやけた視界を整えて真人を見あげた。真人はキスとかセックスとかエロい話をしても全然動揺しないで、表情にも大人びた余裕をただよわせている。
「……昨日の酷い捨て台詞、傷つけてなかった?」
「うん」
「俺が、まこ好きとか、キスもセックスもしたいとか、考えてんの……ダダ漏れだったの」
く、と真人が目を細めて右の奥歯を噛んだ。
「……うん。どこまで生々しく想像してくれてるのかは知らないけど、俺も世ちゃんもべつの誰かとするってことは考えても望んでもいないって思ってた」
真人の息が鼻先にかかる。こんな話をしているときに、口と口がすごく近い。
「俺が……いま、考えてることも、ダダ漏れてる……?」
訊ねたら、真人が今度は左右の奥歯をぐっと噛んだ。
「……別れるって言おうとしてた口で、急に誘惑してくるのなんなの」
軽蔑されてる。けど、真人が我慢していることは俺にもダダ漏れている。
「誘惑してないよ。まこ、してくるのかなって考えてるだけだよ」
「……。いまするのは、違う気がする」
真人がそっぽを向いて右手で俺の後頭部を覆い、ぐいと真人の胸に押しつけてきた。苦しいけど真人の胸の厚さと温かさと匂いに包まれて、真人が近すぎて、意識が溶ける。
「……世ちゃん。世ちゃんの気持ち知ってたのに、昨日変な嫉妬してごめんね」
自分からも真人の胸に顔を押しつけて頭をふった。
「……ううん。俺が悪かったんだよ。まこの気持ちに甘えてばっかでごめんね」
ふたりで謝って、想いを確認しあって、演技だとしても夫夫になったんだと思ったら、なぜだかさっきまでの寂寥感や孤独感や空虚感がまたたく間に霧散していった。
真人が自分のもので、自分も真人のもので、おたがいに独占する権利もある。それはいままで以上にひとりじゃなくなった証拠に思えた。
孤独に不安定にかろうじて立って、ふらついていた身体が、真人と夫夫になったことで支柱を得た。俺の半分は真人で、真人の半分も自分だ。
「……じゃあ俺、帰るね」
「本当に帰っちゃうの?」
真人が恨めしげな表情をしつつ俺から手を放す。
「もう日づけも変わってるし、世ちゃんも腹減ってるでしょ」
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