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「……真人って本当に愚痴とかないの?」
「とくにないですね。実験の失敗は愚痴ることでもないし、人間関係もべつに困ってませんから」
「ふうん……」
夕飯を食べていなかったという真人と向かいあってダイニングテーブルを囲み、俺も軽くおかずをつまみながらレモン水で酔いを醒ます。
真人の長細いイカゲソ指が、スプーンでそぼろネギ丼を掬って口に入れている。この器用で艶やかな二十二歳の指が、料理とおなじように心の不調もさらっと捌けてしまうと説得されれば容易く信じてしまいそうになるけれど。
「真人が俺に格好つけて、愚痴るの我慢していなければいいなって思うよ」
ふっ、と右手の甲で口もとを押さえて、そぼろが落ちないように注意しながら真人が笑う。
「……たしかに格好よく見られたい欲はありますね。でも世さんとはなんでも話そうって約束したし、わだかまりを残すような秘密はつくってませんよ」
私欲をうち明けてしまえるのは、度量が広い証でしかない。
「おまえそれ以上格好よくなってどうするんだ」
俺も箸でネギと蒸し鶏のサラダをとって食べつつ、けっ、と睨んだ。
「さっき、別れた彼女がいまは幸せそうって言ってたよな。他人嫌いなのに、ひとづきあいも本当にそつなくこなしてるんじゃないか」
嫉妬している口調にならないよう冷静に大人らしく感想を述べたつもりだったが、どことなく拗ねた口調になったかもしれない。
真人がしずかな笑みを唇に残して、こちらを見返してくる。
「大学の後輩だったから縁が簡単に切れなかっただけです。あと、俺は彼女と別れた日に本物の恋愛を知ってしまったんで、罪悪感もあったんですよ。たまに校内で会って立ち話になると、新しい彼氏のことも聞くようにしていました。俺も隣人の綺麗な会社員に惚れたって伝えて、おたがい近況報告してたんで、なんていうか、俗に言う女子会的なやつですかね」
「え、俺のことまで?」
「俺、片想いの相手がいるって三年前から公言してますよ。去年アパートの前で俺の腕にくっついてた女子はアオキっていうんですけど、あのときその相手が世さんだってばれて、謝ってくれましたし」
「えっ」
「そういうわけで恋愛事に巻きこまれることもなく平和なもんです」
真人もスプーンから箸に持ちかえてサラダをとり、頬張って咀嚼した。すんと涼しい表情をしている真人が恋しくて、またもう一度恋に落ちる感覚を味わわされて、愛しくも恨めしい。
「……真人、それも秘密のエピソードだからな」
「え? ああ、公言してたってこと? 不愉快だったらすみません」
「違うよ。不愉快じゃなくて……うまく言えない」
「は」
「その三年間って、俺のために、俺と恋愛することを望まないで世話してくれてた期間だろ。でもまわりには片想いしてるって暴露してバリア張ってたって……そんなの真人になんの得もないじゃないか」
「世さんを好きになれたのが充分すぎる幸せでしょ」
「そういうとこだよ」
ほんとなんなんだ。格好いいっていう言葉の範囲を超えて真人は愛情深すぎる。最強に一途でひたむきで、情熱的だ。
「はーあ……俺も真人が好きで、顔も背ぇでっかい身体もスタイルも想い出すだけでメロメロになるのに、真人の溺愛と包容力ってすごすぎて全然敵わなくって困るよ……」
上半身を倒してテーブルに突っ伏し、情けなさを上塗りするぼやきを洩らしたら、ふふ、と小さな笑い声が降ってきた。
「競うことでもないでしょ。そのまま俺に愛されていてください」
「やだ。返したい。こういうこと仕事以外で想うのも真人が初めてだなー……俺」
両親や、性指向をひた隠しにしてつきあっていた友人に、愛情や恩を返したくて焦燥感に駆られた経験などない。そこまで深い心の交歓をしてこなかったからだ。
「真人は他人嫌いって言うけど、俺も結構壁つくって生きてきたのかもなあ」
社交性を保ちつつもその実、心を許している相手など片手で足りるほどしかいなかった。
他人のためになにかをしたい、大事にしたい、できないのが苦しい、と身悶える辛さと幸福を教えてくれたのも真人だった。
「俺たちは世界のはみだしっ子同士で出会ったんですね」
真人がそぼろネギ丼で頬をふくらませて、くぐもった口調で言いながら味噌汁をすすった。
「はみだしっ子……?」
「それで愛しあえた世さんがこんなに好みの大天使だったっていうのも、贅沢な話ですけど」
心を許してありのままの自分で接せられる相手を見いだせず、孤独だったはみだしっ子同士。大事な柳瀬さんと戸川にも、たしかに俺は、素を晒せてはいなかった。
「そうなのかな……そう、なのかもな」
顔を右側に傾けて、目の前にあるレモン水のグラスを見つめた。真人が作って常に置いていてくれるレモン水はほんのり濁って揺れている。
右手で掴んで角度を変え、グラスが光を白く弾いているさまを眺める。真人が器のご飯を掻き集める音がかつかつ響いている。しんとしずかな夜に、真人の気配だけがある。
「……来週末の真人の誕生日楽しみだなー……めいっぱい祝ってやるんだ……」
二月十七日が俺の大事な恋人が生まれてくれた日だ。当日の金曜日から十九日の日曜日まで、ふたりで熱海旅行にいく予定でいる。まず直近で俺が真人にできる恩返しと愛情返しと言ったらこの日に違いない。
「ありがとうございます、俺も楽しみです。世さんと旅行、って思うだけで興奮する」
「ふふ、真人も意外と浮かれるタイプだよね」
「相手が世さんだからですよ」
またこいつは……。
「真人、手」
「え?」
グラスから右手を離してテーブルの上に伏せ、指先でこつこつと叩いた。
しばらくすると真人の左手が伸びてきて、指と指を絡めあわせるようにしながら繋いでくれたから、俺も満足して握りあわせる。
「……ちょっと食事しづらいですね」
「我慢して」
「しますよ」
顔だけあげて見返したら、真人は左手で俺と手を繋いだまま、右手でそぼろ丼を食べていた。不自由なしぐさでご飯を掬って咀嚼しながら、無表情で〝どうしました〟と問うてくる。
真人は六つも歳上の恋人の、ガキっぽい我が儘に従って、どんなことも許して、愛して包み続けてくれる。邪魔そうに指をゆるめたりしない。放したい、という不快感も伝えてこない。食事しづらくても自分も手を繋いでいたい、というふうな意思を、握りあう五本の指の強さから教えてくれる。
「……俺、真人としか恋愛できなかったと思う」
「どうしたんですか」
またテーブルに右向きにうつ伏せて真人の左手をひき寄せ、親指に唇をつけた。
「……俺も世さんだけですよ」
真人はまたさらっと告白を口にする。
「俺もそーいう甘いの簡単に言えるようになりたい」
「謎の拗ねかたしないでくださいよ」
「拗ねてるんじゃなくて己の力不足を悔いてるんだよ」
「はは」と真人が笑う。
「……相変わらず酔っ払うと面白いな」
真人には内緒にしているけれど二月はバレンタインデーなる企業の戦略イベントもある。
物に頼るのも情けないが、当日は予約している有名シェフのチョコレートケーキを贈って誕生日にむけて幸せイベント目白押しっていうらぶらぶ計画も進行中だ。
にやけながら真人の親指を舐めると、ひく、と反応した。
「……さすがにしゃぶられると食事どころじゃなくなるんですが」
「なにどころになるの」
顎をテーブルにつけて視線だけで見あげたら、恨めしげに睨まれた。
「……世さんも充分俺を翻弄してるってわかってますよね?」
「翻弄したいんじゃなくて蕩かせたいんだよ」
「ほとんど変わらないから」
左手を繋いだまま乱暴にひっぱられて、手の甲にキスをされた。しっとりやわらかな唇の感触が皮膚からじんと伝わってくる。
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