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うちの両親とは違う。憎しみあって嫌いあって、一緒にいるのも不快で最善策だとばかりに別離を選んだ両親とは全然違う。先生は別れた相手にも、ありがとうって想っている。いまも。
「……先生のそういうとこほんと好き」
無意識に口からこぼれていて、はっとして真っ赤になった。何度目だ顔熱くなるのっ……。
「世にもモテちゃったな」
ふふ、と先生はまた笑っている。
「じゃあ先生が大人のキスを教えてあげようか」
「え」
「口と口で。実践したほうが理解しやすいでしょ?」
「えっ」
目の前で、先生はわりと本気の、冗談とは思えない目をして薄く微笑んでいる。
せ、んせい、と、キス……と、頭の奥でくり返しながら、目線が自然と先生の唇を捕らえた。大人っぽくゆがむ遠い唇が、急に熱っぽく感じられてどぎまぎする。
「そ、……んな、」
言いかけたら突然委員会室の扉がひらいて、身体ががちんと硬直して飛びあがってしまった。
俺と先生の真横に椅子を引き寄せて、ま……真人が、ゆっくり腰かける。
「――どうぞ続けてください」
右肩に学校鞄をかけたまま落ちついたようすで佇み、真人が俺たちを睨み据えた。
「するなら俺の前でしてほしい」
真剣な顔と声で言う。
「するわけないだろっ」
がた、と椅子を鳴らして立ちあがった。自分も鞄を引っ掴んで肩にかけ、真人の腕をとる。
「先生、じゃあ帰ります。お疲れさまでした」
挨拶して真人の腕を引っぱるのに、真人は椅子にどっしり体重をかけて微動だにせず先生を睨み続けている。
先生は「ははは」と笑いだした。
「キスの練習はいいの?」
先生が俺に視線を向けて訊ねてきた。
「そ、それはまことします。……まこがいいから」
「だってさ、マコ君。はやく世と一緒に帰りなさい。お楽しみの夜が短くなっちゃうよ」
真人が先生を目線の槍で突き刺しながらゆるゆる立ちあがり、フンと鼻を鳴らして身を翻した。でも俺が腕を引いて廊下へ連れだすまで、先生を睨むのをやめなかった。
「……冗談だから、あんなの」
階段をおりて、委員会室からだいぶ離れたところで弁解した。
「キスしようとしてたこと? それとも先生に告白したこと?」
「こっ、告白って、」
真人の放つ空気が刺々しくて、横を歩いているだけで痛い。
「……違うよ。ごめんまこ。俺、先生のことそんなふうに想ったことないから」
「俺は誰に好かれても揺らがない。世ちゃん以外に〝好き〟なんて言葉も絶対につかわない」
「まこ、」
呼びかけて言葉を続けようとしたら、素早く抱きしめられて階段の踊り場の隅へ追い詰められた。背中と腰を力いっぱい抱き竦められて、右頬を噛まれる。
「いたっ……」
「世ちゃんの〝好き〟って言葉も全部欲しい、俺だけのものにしたいっ……」
耳たぶも甘噛みしてしゃぶられ、ぞくりと感じた。
「生徒に手をだそうとする既婚教師のどこがいいの、なんで好きだなんて言うの」
真人の憤りが鼓膜に直に響いて胸まで伝わり、甘い痺れが腕の表面にひろがっていく。激しく暴れる心を落ちつかせながら深呼吸をして、真人の背中に両手をまわした。
「……違うよまこ。柳瀬先生は一年一緒にいて〝このひとが父親だったら〟って憧れたんだ。家族も生徒も、昔つきあった相手だって、感謝するようなひとなんだよ。そういう想いやりを持ったひとづきあいができるひとだから羨ましかった。……それだけ」
俺の父親が柳瀬先生みたいなひとだったら、たとえ離婚しても、心臓がねじ切れるような傷に家族全員が引き裂かれることはなかっただろう。
一度結んだ絆は温かいままみんなの胸の奥に刻まれて、離れて生きていこうともそれぞれが抱く情で想いあえている――そんな関係でいられた気がする。そのもしもの人生を妄想するたび焦がれずにはいられなかった。そういう身勝手な理想を押しつけた〝好き〟を、向け続けていただけだ。
「……。あのひとに、父親になってほしかったの」
真人がすこし身体を離して、俺を見おろしながら心配そうな眼差しで訊いてきた。
「……現実的に望んだわけじゃないよ」
至近距離で目の奥まで覗かれて、やがてさっき噛まれた右頬を優しく舐められる。
「……恋人じゃなくて父親?」
「……うん」
「恋愛じゃなくて憧れ……?」
「そう。……恋愛で、恋人になってほしいのはまこだけ」
真人の大きくて細長い掌と指で両頬を覆われた。額をつけながら顎を軽くあげられて、あ、と息を呑んだときにはやんわり唇を吸われていた。
下唇だけゆっくり舐められてから、甘やかに食まれる。口を真人の口に銜えられている、と思うだけで顔が燃えた。意識も眩んで、熱さでぼうっとしてくる。けどやわやわと真人の唇に下唇を揉まれて、時折吸われて、こんな間近で真人の匂いと呼吸と口先のしぐさを感じられるのが嬉しい。真人と、キスしてる……幸せで幸せでおかしくなりそう。
「……まこ、」
気づいたときには自分も真人の上唇に齧りついていた。欲しくて欲しくて堪らなくて、好きでどうしようもなくて、力の加減もできずに強く吸いあげてしまう。
でも俺がブレーキを壊して真人の唇のやわらかさをがむしゃらに味わっていると、真人も大きく口をひらいて俺の唇を覆い、吸い返してくれた。
……これがキス。ずっと好きだった真人の唇の味。感触。熱さ。すごくやわらかくてこすれあうと濡れて、懸命で、情熱的で、……真人の想いみたいなものが、噛まれる痛みや吸われる強さで心に沁み入ってくる。すごい、こんなの……幸せすぎて頭狂う。
「世ちゃ、……続きは、帰ってからしよう」
「……ン、ぇ」
真人がすこし強引に唇を放したら、ちく、とおたがいの唇から音が洩れた。知らないあいだに呼吸も乱れていて、声を抑えて息を継ぐ。だけど真人の唇からまだ離れたくない。
背伸びして真人の背中を引き寄せ、いま一度下唇にかぷと噛みついて、今度は俺も真人の唇の全部を口で覆って、舐めて、吸い寄せた。こういうことしたかった。ずっと、真人ともっと触りあえる関係になりたかった。真人のこと欲しいって叫びたかった。
真人もまた俺の唇を吸い返してくれて、そして舌で上顎をなぞってきた。わ、と驚いてひらいた口の奥に、舌をさし入れて俺の舌まで吸いあげる。
「んっ……」
そっか、これが舌を使う大人のキス……? なんとなく知識はあってもやりかたがいまいち、全然わからないんだけど……。
「……世、」
舌先から裏のほうまで真人の舌に舐られて、吸われて、唇の端から唾液がこぼれていく。
こんな奥のところ誰にも教えたことない。自分の細部まで真人のものになって染まっていく至福感が、背筋をぞくぞく震わせる。
もっともっと、俺も真人の奥まで欲しい、触りたい、と舌をのばしたら、真人が俺の上唇をちゅと吸いながら唇を放した。
「……頼むから落ちついて。ここ、学校だから」
もうキスができないように、真人に頭を抱えられて抱き竦められた。
「……止まれないよ」
真人の腰をめいっぱい抱き返したら、また右耳を噛まれて制される。
「いた」
「世ちゃんのその、箍がはずれたら欲望にとことん忠実なのなんなの」
呆れられている。
「だって……まこと別れるの怖いだけで、好きなのは好きだもん……子どものときから」
ぎちぎちぎち、と骨が軋むぐらい抱き潰された。
「……学校だって言ってるだろ、煽るなよっ」
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