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……なんか泣きそう。この世に元気と幸福をくれる手料理があるなんて知らなかったな。
「はあ……午後も頑張ろう」
戸川は眉間にしわを寄せてそばをすすり、「偉いな、城島さんは……」とため息をついた。
外まわりより一日会議をするほうが疲れるのはどうしてだろうか。予想どおり疲弊して帰宅の途へついた。でも鞄のなかに入っている空っぽのお弁当箱がなぜか心を軽くする。
電車に揺られて最寄り駅へ到着し、冷たい風を浴びながら妙に清々しい気分で夜道を歩いた。そしてようやくアパートの自分の部屋の前まで来たら、ふと隣室の扉がひらいた。
「――じゃあね。遅くまでありがとう、また明日」
「ああ、ナツミも気をつけて帰って」
……真人と、彼女さんだ。ドアノブに手をかけた真人も俺をちらりと捉えた。
「か弱い女子なんだから駅まで送ってくれてもいいんだよ」
「またそのうち」
「ったく……〝そのうち〟が二度とこなかったらあんたのせいだからね?」
軽口を叩いてじゃれあうふたりを尻目に、自分の部屋の鍵をあけてなかへ入った。再び施錠して靴を脱ぎ、足早に寝室へ移動する。
鞄を置いて、コートを脱いでネクタイをほどきながら、謎のいたたまれなさを自覚した。
なんで逃げるような態度をとってしまったんだ。こんばんは、の挨拶ぐらいできただろう。不自然にそそくさと部屋へ引っ込んだりして、真人にも変に思われたかもしれない。
スーツを脱いで、フリースの身軽な部屋着に着替えても腹のもやもやが晴れない。
「……呑もう」
うん、とりあえず呑もう。酒に酔えば心の靄を消せる気がする。
解決策を得たぞ、と安堵してダイニングへ行くと、玄関扉の鍵がかちゃと傾いてひらいた。
「――世さん、お邪魔します」
真人だ。
「え……彼女、駅まで送るんじゃないの」
「あなたと食べる夕飯を作りますよ」
真人は手に買い物袋を持っていて、部屋にあがるとそのままキッチンの前に立つ。
「そう、……なのか」
「ナツミを見送りに行っていたほうがよかったですか」
背中をむけている真人の表情は見えない。声にも感情はない。
「……それはおまえが決めることだろうがよ」
自分の恋人のことを俺に委ねるのは解せないし不実だ。
「ですね。だから来ました。俺の意思で」
……フン、と鼻を鳴らして冷蔵庫をあけた。真人がふりむいて、「なにしてるんですか」と横に来る。
「酒呑むんだよ」
「空きっ腹でしょうが、悪酔いしますよ」
「いいよ、もう寝るだけだし」
「風呂は」
「我慢して朝入る」
ビールの缶をとったら、横から真人に奪われた。
「駄目です。せめて夕飯を食べながら呑んでください」
怖い顔で見おろしてくる。
「大丈夫だよ、ちびちび呑んで待ってるから」
「悪酔いしたら失うものはあっても得るものはないですよ」
「俺ははなからなにも持ってねえよ」
まだ酔う前だというのに、思いがけず声が荒れた。
母親に買ってもらった弁当箱もない。父親の愛情も知らない。柳瀬さんも結婚した。
もとからすっからかんの俺がなにを失うって言うんだ。これ以上なにを失えばいい。
酒を呑んで得るのは解放だけだ。この手にある些末で厄介ななけなしの〝なにか〟まで失うなら、それはそれでさらに身軽になっていいかもしれないよな。彼女っていう生きがいがある真人にはわからないだろうよ。
「……世さん、はい」
「え」
ビールを戻して冷蔵庫をとじた真人が、俺にむかいあって右手をだしてきた。
「……なんだよ」
首を傾げて睨みあげても、真人は無言で右手をさらに突きだしてくる。
よくわからないまま、なんとなく本能的にその大きな右掌を見おろして人さし指を軽く握り返したら、容赦なく真人の手にしっかりと掌を握りしめられた。
「〝これ〟はあなたのものです」
「なっ、……は?」
「あなたが掴んで得た、あなたのものですよ」
真人が……?
「ちがう。違うだろばかっ」
「違いません。失うものはちゃんとあるから自棄にならないでください。わかったら椅子に座って夕飯ができるのを待っているように」
手を握ったまま横のダイニングテーブルへ誘導されて、椅子に座らされた。
真人はキッチンに戻って、ものの数分でアボカドのおかか和えと、トマトとモッツァレラチーズのサラダを作って並べてくれた。それで度数の低いレモンサワーを選んでグラスに注ぎ、それも横に置いてくれる。
「先に料理を食べてからですよ、呑むのは」
念を押して叱られ……自分の前に揃った料理と酒をいま一度見つめた。
……なんでだろう。また泣きそうだ。
箸をとってアボカドの和えものを口に入れたら、美味しくて、アボカドに絡んだおかかと醤油の味が胸にまで沁みて痛くて、寂しくて、余計に泣きたくなった。
「美味しいですか」
「……うん。美味しい。……ありがとう」
寂しいけどありがとう。……真人の料理って魔法みたいだ。食べて噛みしめるだけでいろんな感情を味わう。嬉しさや幸福ならまだしも寂しさまで覚えるよ。なんでなんだろうな。
「お弁当はどうでしたか。会社でばかにされませんでしたか」
洟をすすって頭をふった。
「なに、ばかにするって」
「大の大人がクマの弁当箱なんて使ってたらからかわれるでしょう」
「大人はそんなことで嗤わないよ。……それより俺、可愛いですね、って後輩に褒められて、つい〝母親が選んでくれたんだ〟って嘘ついてた。〝真人の〟っていう主語を省いちゃったんだよ。キモくてごめんね」
情けなく苦笑いして目もとをこすったら、真人が俺を見返した。
「それは嘘じゃないでしょう。説明不足だっただけであなたは悪くありませんよ」
「いや、でも真人の母親の厚意を奪うようなことしてさ……ごめん、本当に」
「世さん、」
トマトとチーズを箸で挟んで口に入れると、瑞々しい甘みと酸味がじんわり心を熱くした。
「……うちの母親は目に見える愛情をくれるひとじゃないんだよ。夜に仕事して一生懸命家計支えて俺を大学までいかせてくれて苦労かけた。愛されてることはちゃんとわかってる。でも運動会も遠足もコンビニ弁当だったし、風邪ひいたりしてもひとりで寝て治して……」
真人が横に来て、俺の背中に手をおいてくれた。優しくされたら泣く、と危機感を覚えて、明るく笑ったら頬がいびつにゆがんだ。
「なんでかなあ、母親に迷惑かけるのが怖くてしかたなかったんだよね。愛してもらったのにいまだにぎこちないっていうか、距離があるっていうか。……だから真人の母子関係に憧れる。母親のことちゃんと大事にしてる真人のことも素敵だなって思うんだよ。けどそれ真人に押しつけることじゃないからさ、ごめんね」
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